聖徳太子研究の最前線

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御物の「唐本御影」は秘蔵されていなかった : 伊藤純「唐本御影の伝来過程をめぐって」

2010年09月15日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、日本人は「憲法十七条」が説く「和」の心をずっと重んじてきたといった言説は戦後生まれのものであることに触れましたので、同様に、古くからの伝統と思われることが実は違う例を扱った論文を紹介しておきます。

伊藤純「唐本御影の伝来過程をめぐって--背負わされた法隆寺での役割--」(武田佐知子編『太子信仰と天神信仰』、思文閣出版、2010年5月)

です。この本からは、松本真輔論文と下鶴隆論文を既にとりあげておりながら、こちらはまだでした。このブログでは、原則として中世や近世の太子信仰などは扱わないことにしていますが、聖徳太子に関する現在の常識について考えるうえで重要な研究については、どの時代のものでも紹介していきます。

 さて、この伊藤論文は、お札でおなじみの聖徳太子像、「唐本御影」が法隆寺においてどのような役割を果たしてきたかを検証したものです。この絵は、明治11年(1878)に法隆寺から皇室に献上され、「御物」となった寺宝のうちに含まれていました。それらの寺宝は、第二次大戦後は国有化され、東京国立博物館で保管・展示されるようになったものの、「唐本御影」と『法華義疏』だけは皇室に残されています。

 伊藤氏は、そうした事情のためか、現代の研究者は、この絵については、法隆寺の奥深くに秘蔵されてきたため人目に触れることが少なく、影響を与えることもまれであった、と考えがちであることを指摘します。そして、鎌倉初期に『古今目録抄』を著し、聖徳太子や法隆寺の秘伝を集成・創作した法隆寺の顕真が、法隆寺こそ由緒正しい聖徳太子の寺であるとする宣伝活動を展開するなかで、「唐本御影」の意義が強調されて以来、この「御影」がどのように利用されてきたかを示しています。

 それによれば、播磨国の法隆寺の莊園をめぐる訴訟にあたっては、幕府にアピールするため、正中2年(1325)に「唐本御影」が他の品とともに関東まで持ち出されたそうです。元禄7年(1694)には江戸での出開帳にも出品されているほか、寛政4年(1792)に法隆寺で「宝物拝見」した際、この肖像を見たという屋代弘賢の記述も残されており、江戸期には模写もしばしばなされていた由。江戸末期には、画の最も「古きもの」としての評価も加わり、「宇宙第一の宝絵」と称して重視した人物が、「唐本御影」の模写本を購入したという記事も見られるとか。つまり、そうした写しが出回っていたのです。

 そこで、伊藤氏は、「唐本御影」秘蔵説は、法隆寺の寺宝が明治初期に皇室に献上されてから生まれたものであり、戦後になって強まった可能性もあるとします。「明治時代以前には聖徳太子の姿『唐本御影』は人々の目の届くところにあったのである」(168頁)というのが、氏の結論です。意外ですね。
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