郡保家の一日

極く有りふれた家庭です。その生活の一端を記録していきたいと思います。

なにゆえ

2021年10月28日 | 日記

 令和も、いつの間にかと言うよりもコロナ禍で右往左往している間に4年を迎えようとしている。2ヶ月を過ぎれば新年となる。時のありかは掴もうとしても掴めない。空気も水も人の心も同じで大切なものほど掴めない。コロナ禍という世の中の流れもこれからどう流れていくのかも重要であるが掴めない。掴めないからその中を泳いだり、沈んだり、浮かんだりしながら流されたりしながら、あてどのない所へたどり着くのであろうか。そう、まだ泳げるときはよい。自分で自分の目標を曲がりなりに作ってそこに泳げる体力がある。邪魔なものは押しのけたり、避けたりしながら目標へと近づこうする。目標をそれほど意識しなくても一日いちにちを満足に、あるいは不満足に生きようとする。けれど、年老いて生きていると目標もあやふやとなり、意識ももうろうとなり、満足も不満足も感ぜずにただ浮いている。感情が希薄になり、どうでも良くなる。生きていることに意味を求めてさまよう。この地球は自転しながら公転している。人も何かの力で自転してきたけれど、力が衰え自転をゆっくりとした回転に変わってももっと大きな力で公転させられている。そこに意味があるのであろうか。バラは花を咲かせている。人に見せるために咲いているのではない。そして来年も咲くであろう。木が病に冒され朽ち果てるまで雨や土から栄養を摂って咲き続ける。なにゆえ、バラは花を咲かせ生きようとしているのか。種の保存という公転に似た力がそこに働いて、生かされているにすぎない。人の生もただ生かされている。そこに意味はない。「1日、何も無く過ごせた」と言う自己満足しかない。

 今日の夕食は、


 ◆チーズタッカルビ ◆生ハムサラダ ◆ナムル ◆スープ ◆ご飯
   ~  ~


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