郡保家の一日

極く有りふれた家庭です。その生活の一端を記録していきたいと思います。

お土産を買いに

2012年04月30日 | 日記
 暖かいので青、赤、黄、白、藤色フリージャーも咲いている。白はあどけなさ、黄は無邪気、赤は純潔、紫はあこがれ、淡紫は 感受性が花言葉らしい。 コテマリも。そしてダイコンの花も。咲きました。花が咲くと何か得をしたような気分で、気持ちが晴れ晴れとして明るくなります。だから、人は枯らしても枯らしても、花を植えるのだと思います。

 今日の夕食は、








 ◆筍入りつくね・ポテトサラダ添え
 ◆春菊の胡麻和え
 ◆きゃらぶき
 ◆若竹汁
 ◆ご飯

久しぶりの野菜販売朝市

2012年04月29日 | 日記

 何か月ぶりなのでしょうか、地元の農家のおじさんがやってきます。この時期、朝掘りの新鮮な筍を持ってきてくれるので即売場に早めに行ってきました。連休とあってお客さんは少なく、好きなだけ買えるのですが、明後日から家を留守にするので沢山は買えません。珍しい山ウドを買ってきて早速夕食をうど御膳としました。
今日の夕食は、














 ◆山うどと豚肉炒め ◆うどの葉天ぷら ◆ポテトサラダ ◆水菜の煮浸し ◆うどと蟹の酢物 ◆ご飯


連休始まり

2012年04月28日 | 日記

 

 

 

 

我が家の小さな庭にも彩とりどりの花が咲き誇っています。今日は初夏を思わすような好い天気でしたが家にこもって出前講座とキッズ関係資料の下調べをしました。
今日の夕食は、

 

 

 


 

 

 

 

◆トビウオのさつま揚げ ◆きゅうりと茗荷の酢の物 ◆炊き合わせ ◆ほうれん草のカッテージチーズ ◆ご飯
   ~トビウオが店先に出回るようになりました。食べ物から初夏を感じます~

   悟れない
 悟りを開眼することはスーパー人間にしか出来ない。現在の僧侶にだってこの世とつながりを持っている以上不可能です。この世は自分第一、自分のもの、俺、俺、俺の貪りと我欲の巣窟で、迷わされて、我が出てきます。我欲を出すなと言われると余計に出てきますし、抑えようとしても抑えきれないし、それが出来ない自分に対しも腹立たしく、そこにまた我欲が芽ばえてくる。だから、そんな自分を認め、自覚することが出発点となる。自分とは何か。どんな人間か。人間とは何か。知恵をつけ、人間とはそういうもんだと認識する。冷静に自分をも観察する。負けたから、怒りが込上げたから、嘆いたから、、、、心の様々な変化はただ自分の心の中だけのことと思い至れば心を安定させることが出来る。こだわりを捨てる。それが何だって言うのと、出てくる思いを次々と笹舟に乗せて流していく。それがどうした?。それがどうした?。こだわらない!。こだわらない!。と、呪文を唱える。<釈尊との対話⇒自分の理解>

日本いけばな展

2012年04月27日 | 日記

 芸術展に友達の作品が出ているので大阪高島屋へ見に行った。この間の京都の華道展と比べるまでもなく、第一会場、第二会場まであって規模が大きい。出展者も池坊専永を始め名立たる方がいる。いけばなによって美を追求・表現しようとする人間の活動だけあって独特のモチーフが見られ、大胆かつ繊細である。いけばなであっていけばなでないような作品もあったが、それも一つの絵になっているから不思議である。いけばなを見ると言うよりは、研ぎ澄まされた人達の知(⇒血⇒情熱)を見るような展覧会であった。

   人に与えられる回数・量
 昨日このブログで一人の人生の中で思い通りの回数はその内容のレベルに係わらず、その回数は決まっているように思うと書きました。それは東京工大の本川達雄先生の「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)で、どんな動物もだいたい生涯で15億回の心拍数ということが経験則であり、また、酵素のことを調べていると、
体内で作られる、消化酵素や代謝酵素を「滞在酵素」と呼んでいますが、実は一生のうちで作られる滞在酵素の量は限られていると書かれていました。そんなところからの発想で動物も人も皆、意外に平等に割当てられるのではないか。だから、今まで悪くてもきっと好いことが起きると自棄にならぬことだと思った。神か、誰か知らないけれど知らない所で見守ってくれている


自我に耐える

2012年04月26日 | 日記

『釈尊との対話』を読んでいます。3日前から亀岡を目指して飛ぶヘリコプターの音が何度も聞こえる。無免許の18歳の男が居眠り運転で登校小学生の列に突っ込む事故の取材のためである。痛ましく、悲しく、苦しい、不安な気持ちにさせる。どうしてか、加害者であるこの男の両親になった気持ちになる。子をうまく育てられなかった親の弱さを切々と感じるのです。子の欠点を怒り、叱り、嘆き、訴え、完全を求め、自由を奪ってきた。ある時は自分の感情の高ぶりでそれをしてしまったように思う。自我を抑え、耐えることをしていれば、この子も変わっていたかも知れないと思うと自責の念に苛まれます。許してくださいと後悔のことばを何回呟いても、過去は存在し、今のところ消し去ることが出来ない。自分が強かったら輪廻解脱できた。その思いを強く感じるのです。

   ~『釈尊との対話』を読む中で思うこと~
 思い通りに行くことなんて人生の中で何回あるだろうか。一人の人生の中で思い通りのレベルに係わらず、その回数は決まっているように思う。たまたま、大きなレベルの思い通りに当たることもあるだろうが、しょうもないレベルの思い通りに当たることの方が多い。しかし、それでも感謝していればこころの中は豊かになるだろうし、逆に大きなレベルの方がこころの不安や不幸を背負い込むことになるケースもあるだろう。だから、ほどほど(≒中庸)が好い。身の丈に合ったことなら耐えることが出来る。自分が思い通りに行かなかった人ほど、家族に期待し、普通以上のことを求めるケースが多い。それはそれで間違いとは言えないものの、家族の個々にもそれぞれ個人の尊厳があり、口出しせずに一段上から見守る程度で好いように思う。見守ることは難しい。家族だから余計に親切心が働く。そこをグッと堪え耐える。それが人間力だ!人間の器の大きさだ!。人間力が出来ていないので、これからの残された人生の中で少しでも備えていきたい。家族は親のことばでなく、親の姿を見て育つものだ。でも、放任することではない。人それぞれと言う多様性を認め、長い目でみたアドバイス(not=怒る、叱る)はことばを選んで丁寧に話していきたい。