竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

パーキンソンの友人の退院。

2009-08-30 03:41:23 | 田舎暮らし
 
昨日、いつもこちらに来る度に遊びに行っている友人S氏が、
病院から一時帰宅するという電話があった。
私はこちらに居ながら、S氏が入院したことさえ知らなかった。
体調がよくないことは、2週間前遊びに行ったときに言っていた。
一週間前救急車で入院したのだという。
 
夕方退院する頃を見計らって行って見ると、
退院したばかりで、ベッドに横になっていた。
熱中症と脱水症状から入院ということになったらしいが、
かなり回復したので、戻って来たという。
 
東京にいる息子夫婦も来ていて、
ベッドから一人で立ち上がれないで、もどかしがっている彼を、
私も一緒になってあれこれ過ごしやすいように手伝った。
 
近所の親しい人も来ていろいろ話しかける。
S氏はもう八十近いが、近所の人たちは私と同年輩、
なにかと彼の世話になった人たちだ。
彼は、私がこの地に住むことになったときの区長で、
山林地主の彼は長い間この地のリーダー的存在だった。
 
30年前石見銀山に住んでいた私は
地方新聞に載っていた記事を頼りに、
生涯学習をうたい、過疎地に詳しいという掛川市長に、手紙を出した。
竹細工をやっいる、母親が住む東京とあまりに遠いので、
静岡に引っ越したい、どこか過疎地を知らないか、そんな内容だった。
 
市長からすぐ返事が来た。一度来てみないかと。
私はオンボロ車で島根から掛川まで出かけた。
市役所に行く前に、過疎の進んでいそうな市の北部を少し回ってみた。
 
市長に会いに行くと、ちょうど市役所で区長会が行われており、
そこに来ていた市長の友人で、北部地区の区長をしていたS氏を紹介された。
早速S氏と一緒に彼の家に行き、一晩泊めてもらった。
翌日案内された家は、前日この地を走って、
あ、こんな家もあるなと思った家だった。
 
その家を借りることにして、島根に帰った。
それからまもなく、家内と二人の子供を連れて引っ越してきた。
 
家を見て家内は愕然としたようだ。
建具も無い、畳もろくにない、こんな家に住めるのか、と。
 
だが翌日近所の人たちが手伝いに来てくれた。
市内で区画整理をやって、いらなくなった建具や畳が運ばれた。
すぐさま何とか住める家になった。
 
風呂は鉄鍋式の五右衛門風呂、
水は山から引いた水道、電気は来ている。
テレビは?家内が嫌いだから無し。
ちなみに今の家の居間にあるテレビはDVD用だ。
 
以来30年、私は島根の3年間で覚えた竹細工、
家内も島根で始めた紙塑人形をやり、
三人目と四人目の子供が生まれた。
 
 
引っ越してから8年後、衰えてきた母親を見るために、
家族は小平市に戻り、私一人で毎月二週間ずつ行き来している。
 
S氏とはそれ以来の付き合いだ。
お互いよき話し相手でもあり、
一緒に町の水彩画サークルに参加したりして、遊び相手でもある。
 
彼はこの10年ほど、パーキンソンを患っている。
でも持ち前の積極性から、水彩画を続けたり、
製材業も始めたりして、病気の進行はゆっくりだった。
最近も木工教室を開いて、温泉に来る客を呼ぼうとしていた。
私が掛川の図書館のギャラリーで、展示会をやろうと思ったのも、
生徒が集まらない彼の木工教室の、生徒集めもかねてのことだった。
 
前の家の仕事場から見た風景
 
その彼がいよいよ衰えてきた。
今度の私の家は彼の家のすぐ近く、木工轆轤の人のすぐ下だ。
私は五年間介護の仕事をやってきたので、
なにかと彼を手伝うことが出来そうだ。