竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

キナバル山と花ー5

2009-08-12 03:20:09 | 旅行


ドウスン族のキアウ村

今日はボルネオ滞在の最終日、体調は悪くないものの、食欲の無いのが気がかり。ガイドさんが朝食の時間を1時間早く教えたので、レストランはまだ閉まっており、1時間ほどロッジの周辺を散歩。

私は一人でどんどん歩いて、花や珍しい植物を探した。草むらにトクサを見つけた。ほかの草に混じって10数本生えている。オーストラリアとニュージーランド以外の全世界に分布するというから、ボルネオにあってもおかしくない。タンポポの種の穂もはえていた。ラパンラタ小屋の周りにもキク科の花が咲いていたから、その仲間かも。野イチゴの実も見つけた。味わってみたが、味が無くてまずい。

椰子のような生え方で、中心の軸からぜんまいのような大きな芽を伸ばしている2メートル以上にもなる植物がある。椰子と羊歯のあいのこのような。日本に帰って調べたら、ヘゴ という羊歯の仲間だった。八丈島にもあり、ランを生やす土台として、ヘゴ板やヘゴ棒という名でホームセンターで売られているらしい。

朝食後車で先ずポーリン温泉に向かう。マシラウリゾートから温泉まで低山が続いている。熱帯雨林ではなく野原や潅木林が途切れ途切れに続いている。山地民は焼畑をやっていたから、その名残りの山だろう。マットさんによると焼畑ではイモ類や陸稲を植えていたようだ。低地に来ると田圃もあった。

ポーリン温泉は旧日本軍が開いたといわれる温泉で、小さく区切られたプールのようなもので水着が必要。この地には裸で入る公衆浴場といったものは無いようだ。日本以外のどこかの国に裸ではいる共同浴場があるのだろうか。

一人が水着を忘れたと言うので、家族風呂を借りることにする。これは密閉された部屋で、裸で入れる。でも浴槽は大人が二人入れば一杯になってしまう。

私はすぐ外のプール浴場に入る。そばの店でココナツを売っていたので、それに鉈で穴を開けてもらって、風呂に入りながらストローで飲む。

温泉に隣接して、ジャングルの上をつり橋でつたって歩くキャノピーウォークがある。私は高所恐怖の気味があり、観覧車のような静かな乗り物でも、上に上がっていくときには恐怖を感じる。それでいて高いところに上がりたがるのは、恐いもの見たさなのだろう。



キャノピーウォークはよく揺れるので、歩いて回りの風景を楽しむというより、先を急いで終点にたどり着きたいという気持ちが強かった。つり橋を支えているのは日本の木だったら100年は経っていそうな太くて堅い40mもある巨木だが、熱帯の木の成長が早くて、数十年ということらしい。

そばに太いバンブーの群生があった。日本の真竹の太さで、マットさんによるとこの辺で一番太い竹で、竹細工にも使うらしい。



昼食はキナバル山方面に戻って、ガイドのドウスン族のキアウ村で食べることになる。キアウ村の小学校あたりで舗装道路からそれて、未舗装の道をどんどん登ってゆく。12時を過ぎていたので、学校から家に帰る小学生グループに会う。車に向かって手を振っている。学校までの遠い道を歩く静岡の山村の子供たちを思わせる姿だ。

昼食を食べる家は、夫婦ともガイドをしていて留守で、おばあさんと孫たちがいた。食事は椰子の実を二つに割ったものにおかずをいれ、御飯は何かの葉で包んである。漬物もあった。私は半分ほどしか食べられなかった。

家にはテレビ、冷蔵庫、ガスコンロなどがあり、日本の山村の暮らしとあまり変らない。携帯電話の普及によって、昔からの生活がどんどん変わっていってしまう。ジスコ・ボルネオ旅行社には、この村にホームステイをするプランもあるそうだ。

こちらに来る前に、ドウスン族に近いルングス族の村で生活した民族誌「ルングス族の四季」を読んだ。今から3,40年前の、このあたりの山岳民族の暮らしが描かれている。そこには昔からの焼畑農耕民の暮らしがあった。今ではこの辺ではよほど奥に行かなければ焼畑はないらしい。

ボルネオ全体が大きく変ってしまった。でもサラワク州の奥には今でも採集狩猟生活をおくるプナン族がいるという。ホームを持たない人々だから、そこにホームステイもないだろ。でもそんな人々に会って見たい気がする。

山を降りてコタキナバルへ。そこのデパートの地下のスーパーでお土産を買って飛行場へ。飛行機はクアラルンプールで成田行きに乗り換え、翌朝成田に着く。ほんの短い登山の旅だった。今印象に残っているのはキアウ村のこと。そのうち日本と同様山村には子供がいなくなる時代が来るだろうか。