ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「南極の氷は増量」発表

2015-11-08 | 時評

アメリカのNASA(国家航空宇宙局)が、温暖化の影響で減量しているとされてきた南極の氷が実は増量しているという研究成果を発表したとの報道が一斉になされた。この研究成果の真偽を判定する力量は筆者にないので、ここでは、こうした発表の持つ意味を考えてみたい。

まずこの時期に、しかもアメリカ政府機関によって発表されたのは、今月30日から始まる国連・気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)に対するアメリカ政府の牽制という政治的な見方も成り立つ。

もっとも、現在のオバマ政権は環境を旗印にし、発足当初には「グリーン・ニューディール」なる標語も掲げていたが、そのわりにはブッシュ政権時代に脱退した京都議定書への復帰も果たさずじまいで、グリーンも同政権特有の「口舌政治」にとどまっており、世界最大級の二酸化炭素排出国の本心かどうか疑わしい。

一方、日本での報道のほとんどは「増量」という部分だけを強調しており、NASA発表でも南極西部では氷の減少が見られ、「西部での減少ペースが今のまま続くと、全体でも20〜30年後には減少に転じる」との予測も付言していることは、なぜか落としている。この点を報じているのは、筆者の知る限り、毎日新聞くらいである。

このような重要な指摘の省略は、単なる失念や縮約では説明できず、意図的なものも疑わせる。保守系及び一部の自称急進系論者にはかねてより「温暖化懐疑論者」が少なくなく、今回のNASA発表は自説の補強に使える有力情報となるので、このような報道の仕方はかれらを欣喜雀躍させるであろう。

しかし、地理雑誌であるナショナル・ジオグラフィックの記事が丁寧にフォローしているように、今回の発表には、その衛星による調査手法を含め、反論もあり、今後はこれをめぐって学術的な論争がなされることになる。発表=真理でないことは当然である。

「地球温暖化」はポスト冷戦期における新たなイデオロギー闘争の種となった観もあるが、本来は気象学という自然科学の主題である。自然科学では従来説が新研究により根底から覆る「コペルニクス的転換」は常にあり得る。「温暖化」もその例外ではないので、政治でなく、科学として扱うことが求められる。

コメント

晩期資本論(連載第73回)

2015-11-03 | 〆晩期資本論

十五ノ2 土地の商品化

 マルクスは地代に関する分析に関連づけて、地代とは独立して形成され得る土地価格(地価)の問題にも言及している。そこにおいて、彼は三つの大きな法則を立てる。

Ⅰ 土地の価格は、地代が上がらなくても上がることがありうる。すなわち、
1 単なる利子率の低下によって。そのために地代はより高く売られるようになり、したがってまた、資本還元された地代、土地価格は上がるのである。
2 土地に合体された資本の利子が増大するので。

 原理上、地価=資本還元された地代と定式化すれば地価は年間地代を年利子率で割った商で表わされるから、利子率の低下は地価上昇を促進することになる。1980年代末の日本で、85年プラザ合意を契機とする低利子がその後、地価高騰によるバブル経済を惹起したのも、一つにはこの法則による。

Ⅱ 土地価格は、地代が増大するために上がることがある。

 これは比較的オーソドックスな地価上昇局面であるが、土地生産物の価格変動に対応していくつかの場合がある。

地代は、土地生産物の価格が上がるために増大することがありうる。この場合には、最劣等耕作地での地代が大きくても小さくても、または全然存在しなくても、つねに差額地代の率は高くなる。

 差額地代率とは、「土地生産物を生産する前貸資本にたいする、剰余価値のうちから地代に転化する部分の割合」をいい、「差額地代を生む土地種類では生産物中のますます大きくなる一部分が余分な超過生産物に転化するということのうちに、この率が含まれている」。

土地生産物の価格が変わらなければ、地代は・・・・・・ただ次の二つの理由のどちらかによってのみ増大することができる。すなわち、一つには、旧来の地所での投下資本量は不変で、より良質な新たな地所が耕作されるという理由によってである。

 要するに、新地開墾の場合である。「この場合に旧来の地所の価格は上がらないが、新たに着手される土地の価格は旧来の地価よりも高くなる」。

あるいはまた、相対的な豊度も市場価格も変わらないが、土地を利用する資本の量が増大するという理由によって、地代は増大する。

 これはつまり、現地所で逐次的投資がなされる場合であるが、差額地代率が同じでも投下資本量が倍増すれば、地代も押し上げられる。この場合、「(土地生産物の)価格の低下は起きていないのだから、第二の投資も第一の投資と同じに超過利潤をあげ、これは借地期間の経過後にはやはり地代に転化する」。

・・・土地の価格は、土地生産物の価格が下がる場合でも、上がることがある。
この場合には、差額の増大によって優等地の差額地代が増大し、したがってまたその土地の価格が増大したということもありうる。または、そうでない場合には、労働の生産性が上がって土地生産物の価格は下がったが、生産の増加がこれを補って余りあるということでもありうる。

 前者は土地改良により優等地の地代が上昇した場合、後者は労働生産性が上昇し、最劣等地でも生産物量が増大する場合である。

Ⅲ ・・・以上に述べたことから次のように結論される。すなわち、地価の上昇から無条件に地代の上昇を推論することはできないし、また、地代の上昇はつねに地価の上昇を招くとはいえ、地代の上昇から無条件に土地生産物の増加を推論することはできないということになる。

 ここまでの法則定立に関して、マルクスはいつものように原論的な方法論をとり、「競争上の変動や土地投機はすべて無視することにする。あるいは、・・・・・・・・小さな土地所有も問題にしないことにする。」と断っているが、小土地所有の例外則については、後の箇所で検討している。

すでに見たように、地代が与えられていれば地価は利子率によって規制されている。利子率が低ければ地価は高く、逆ならば逆である。だから、正常な場合には高い地価と低い利子率とが連れ立って行くはずであって、もし利子率が低いために農民が土地に高く支払うとすれば、同じ低利子率はまた彼にも有利な条件で経営資本を信用で提供するはずであろう。現実には、分割地所有が優勢であれば事態はそうではなくなってくる。

 先に見た法則Ⅰは分割地所有による自営農には妥当しない。自営農にとっては土地所有は生活条件でもあるが、「このような場合には、土地所有にたいする需要が供給を越えることによって、地価は利子率とは無関係に、またしばしば利子率に反比例して、引き上げられる」。

それだからこそ、このような、生産そのものには無関係な地価という要素が、・・・・・生産を不可能にしてしまうまで上がることがありうるのである。・・・・
地価がこのような役割を演ずるということ、土地の売買、商品としての土地の流通がこの程度まで発展するということは、実際には資本主義的生産様式の発展の結果である。

 すなわち土地の商品化である。マルクスは原理上、労働生産物だけを商品と呼ぶが、ここではより広い意味で土地を商品をみなしている。マルクスはこのような土地の商品化が、「まさに農業がもはや、またはまだ、資本主義的生産様式のもとに置かれておらず、すでに没落した社会形態から伝来した生産様式のもとに置かれている」ような、農業資本主義の未発達な段階で起こるとみている。

・・・・この場合には、生産者が自分の生産物の貨幣価格に依存するという資本主義的生産様式の不利が、資本主義的生産様式の不完全な発展から生ずる不利といっしょになる。農民は、自分の生産物を商品として生産することができるような条件なしに、商人となり産業家となるのである。

 このような自営小農経営の矛盾は、農業の資本化が未発達なまま、農産物の市場開放による国際競争にさらされようとしている現代日本の農業状況においては、明瞭に顕在化しつつあると言える。

コメント

晩期資本論(連載第72回)

2015-11-02 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(5)

 前回まで検討されてきたのは、農業分野にも資本主義的経営が及んだ段階における借地農業資本という形態を前提としているが、本章冒頭でも記したように、このような資本主義的農業はまだ世界的に普及しているとは言えず、発達した資本主義国を含め、小土地を所有する農民による自営農が広く行なわれている。マルクスは資本主義的地代の歴史を考察する中で、このような「分割地所有」に関しても分析を加えている。

農民はこの場合には同時に彼の土地の自由な所有者であって、彼の土地は彼の主要な生産用具として現われ、彼の労働と資本にとって不可欠な従業場面として現われる。この形態では借地料は支払われない。したがって、地代は剰余価値の区分された形態としては現われない。といっても、それは、他の点では資本主義的生産様式が発展している諸国では、他の生産部門と比べての超過利潤として、しかしおよそ農民の労働の全収益がそうなるのと同様に農民のものとなる超過利潤として、現われるのではあるが。

 このように超過利潤を生産者自らが取得する自己労働は、労働者を雇わない自営的生産活動全般に見られる現象である。「当然のこととして、この場合には農村生産物のより大きい部分がその生産者である農民自身によって直接的生活手段として消費されなければならず、ただそれを超える超過分だけが商品として都市との商業にはいるのでなければならない」。
 マルクスはこのような場合にも差額地代は成立するとみなし、その差額地代は超過余剰生産物に表象されると観念するが、あくまでも観念上のことである。

この形態では農民にとって土地の価格が一つの要素として事実上の生産費にはいるのであり、・・・・・・つまり、資本還元された地代にほかならない土地価格がこの形態では一つの前提された要素なのであり、したがってまた地代は土地の豊度や位置のどんな差異にもかかわりなしに存在するように見えるのであるが、まさにこのような形態の場合にこそ、平均的には、絶対地代は存在しないものと、つまり最劣等地は地代を支払わないものとみなしてよいのである。

 土地持ち自営農民にとっては土地は生産用具であり、同時に生活手段でもあるので、地代ではなく地価が主要な要素となる。それゆえ、土地そのものが生みだすとされた絶対地代は成立しないのである。しかし農民が農業を廃業して、所有土地を資本に貸し出す借地農業資本へ移行すると、絶対地代を生じることになる。

自営農民の自由な所有は、明らかに、小経営のための土地所有の最も正常な形態である。すなわち、この小経営という生産様式にあっては、土地の占有は労働者が自分自身の労働の生産物の所有者であるための一つの条件なのであり、また、耕作者は、自由な所有者であろうと隷属民であろうと、つねに自分の生活手段を自分自身で、独立に、孤立した労働者として、自分の家族といっしょに生産しなければならないのである。

 言い換えれば、「土地所有は、この場合には個人的独立の発展のための基礎をなしている。それは農業そのものの発展にとって一つの必然的な通過点である」。なお、文中「隷属民」に言及されているのは、一定の権利が保障された封建的な農奴形態を示唆している。

分割地所有は、その性質上、労働の社会的生産力の発展、労働の社会的な諸形態、資本の社会的な集積、大規模な牧畜、科学の累進的な応用を排除する。
高利と租税制度とはどこでも分割地所有を貧困化せざるをえない。資本を土地価格に投ずることは、この資本を耕作から引きあげることになる。生産手段の無限の分散化、そして生産者そのものの無限の孤立化、人力の莫大な浪費。生産条件がますます悪くなり生産手段が高くなっていくということは、分割地所有の必然的な法則である。この生産様式にとっての豊作の不幸。

 こうした小農経営の非効率さと後継者不足はしだいに大規模集約農業への移行を準備する。とはいえ、「大きな土地所有は、農業人口をますます低下していく最小限度まで減らし、これにたいして、大都市に密集する工業人口を絶えず大きくしていく。こうして大きな土地所有によって生みだされる諸条件は、生命の自然法則によって命ぜられた社会的な物質代謝の関連のうちに回復できない裂け目を生じさせるのであって、そのために地力は乱費され、またこの乱費は商業をつうじて自国の境界を越えてはるか遠く運びだされるのである」。

大工業と、工業的に経営される大農業とは、いっしょに作用する。元来この二つのものを分け隔てているものは、前者はより多く労働力を、したがってまた人間の自然力を荒廃させ破滅させるが、後者はより多く直接に土地の自然力を荒廃させ破滅させるということだとすれば、その後の進展の途上では両者は互いに手を握り合うのである。なぜならば、農村でも工業的体制が労働者を無力にすると同時に、工業や商業はまた農業に土地を疲弊させる手段を供給するからである。

 これは農業資本主義が全面化した段階に関する素描である。もっとも、工場栽培が発達すれば、「工業的に経営される大農業」からさらに農業と工業とが融合した「農工業」の段階に進む可能性もある。この場合は、もはや土地を利用しない農業となるので、土地の荒廃という問題も生じない。むろん『資本論』ではこのような段階までは見通されていない。その代わり、マルクスは土地所有制度そのものから解放された未来社会について言及している。

より高度な経済的社会的構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有のように、ばかげたものとして現われるであろう。一つの社会全体でさえも、一つの国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである。

 「より高度な経済的社会的構成体」とは、第一巻で「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」として対照されていた未来社会を指すであろう。ここでは明示されていないものの、土地が私的にはもちろん、公的にさえ所有されない―言わば無主物となる―共産主義的な土地管理のことが抽象的な暗示として述べられているのである。

☆小括☆
以上、十五では第三巻第六篇「超過利潤の地代への転化」全体を参照しながら、農業資本の構造について、検討した。ただし、建築地地代や鉱山地代のような非農業地代と土地価格を取り出して分析した第四十六章については除外し、地価の問題に関して改めて続く十五ノ2で検討する。

コメント