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戦後ファシズム史(連載第6回)

2015-11-13 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

5:タイの場合
 アジアで戦前、日本と同型の擬似ファシズムが成立した国として、タイがある。タイの擬似ファシズムの成立経緯はいささかねじれている。まず、タイでは1932年、立憲革命が発生し、それまでの絶対君主制に終止符が打たれる。
 この革命を主導したのは、少壮軍人や文民官僚から成る人民団という政治結社であった。革命当初は民主的な志向性を持つ集団であり、革命後最初の政権は文民政権であった。しかし、翌33年に軍人が首相に就くと、人民団の武官派が主導権を握った。この延長線上に、戦中戦後にかけてのタイにおける擬似ファシズムの指導者となるプレーク・ピブーンソンクラーム(以下、通称的略称に従い、ピブーンと表記)が登場する。
 イタリアのファシズムに親近感を持っていた職業軍人のピブーンは、38年に首相に就任すると、プロパガンダ宣伝、個人崇拝といったファッショ的政治手法を駆使しつつ、国粋主義・タイ人優越主義の見地から、華人への迫害・差別政策を強力に推し進めた。
 太平洋戦争が勃発すると、国民総動員体制を採るとともに、当初は中立を標榜するも、間もなく日本との同盟に転じ、枢軸国側に立って米英に宣戦布告した。しかし、その過程で日本軍のタイ領内通過を認めるという形で日本軍による準占領状態に陥ったことへの国民の反発が高まり、ピブーンは44年、いったん辞職に追い込まれた。
 戦後処理において、連合国はタイを日本並みに敵国扱いはせず、戦後直後のタイでは、戦時中の日本の準占領状態へのレジスタンス運動を組織した自由タイ運動が政権を掌握するが、短命に終わった。以後しばらくは人民団と人民団文官派が結成した中道リベラル系の民主党の間で政権抗争が続き、民主化のプロセスは進まなかった。
 そうした隙を突いて、48年、ピブーンが軍部内の支持勢力を動かしてクーデターに成功、首相に返り咲きを果たしたのだった。戦後の彼はかつて敵対したアメリカとは協調姿勢を取り、経済協定、軍事協定を締結して、アメリカを後ろ盾とすることに成功した。
 そのため、戦後のピブーンは民主主義の外形を取り繕う傾向が強くなり、55年には自身の与党となる新党を結成したが、君主制は維持されていたうえ、ピブーンの権力基盤はあくまでも軍部支持勢力にあり、結局のところ、彼の体制は擬似ファシズムのままにとどまった。
 しかし、純粋の軍事政権とも異なり、軍部内を掌握し切れず、最終的に57年の軍事クーデターで政権を追われるまで、たびたびクーデター未遂や反乱に見舞われ、独裁体制を固めることはできなかった。
 ただ、ピブーンは度重なる混乱を収拾する権力維持の術には長けており、一時は「永久宰相」とも呼ばれたが、首相留任を決めた57年の選挙で不正が疑われたことを契機に反政府デモが発生、騒乱が続く中、元は側近だったサリット将軍のクーデターによりピブーン政権は崩壊した。ピブーンは最終的に日本に亡命、客死する。
 こうして戦前、戦後に通算で15年にわたり首相を務めたピブーンの擬似ファシズム体制は終焉するが、それは民主的な変革によって清算されたものではなく、ピブーンの失墜はむしろこの後、軍部が前面に出ておおむね70年代末まで、同じく擬似ファシズムの性質を持つ反共体制を断続的に維持するきっかけとなるのである。


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