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戦後ファシズム史(連載第8回)

2015-11-27 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

7:ブラジルの場合
 戦前ファシズムは圧倒的に欧州を本場としており、非欧州地域には―その多くが欧州列強の植民地だったこともあり―、広がっていなかったが、独立国としての歴史があり、欧州系移民も多い中南米諸国には、ファシズムの潮流が及んでいた。中でも、かなり明瞭な形でファシズムが現われたのが、南米ブラジルである。
 ブラジルのファシズムは、地主階級中心の寡頭政治―第一共和政―が限界をさらけ出していた時期に、ジェトゥリオ・ヴァルガスによってもたらされた。法律家出身のヴァルガスは専門知識人に出自した点では、旧宗主国ポルトガルのファシズム指導者サラザールとも共通の要素があり、彼が樹立したファッショ体制もサラザールのそれと同様に「新国家体制」と呼ばれた。
 ただ、両者には相違点もある。ヴァルガスは1930年の大統領選挙に出馬して敗れた直後、支持者や一部軍人の支援を受けてクーデターに成功し、臨時軍事政権から権力を委譲される形で大統領に就任した。この暫定政権の時期にはまだファシズムの傾向は希薄だったが、32年の立憲派による反政府蜂起を武力鎮圧すると、ヴァルガスは34年にイタリア・ファシズムの影響を受けた新憲法を制定したうえ、37年には予定されていた大統領選挙を強権発動により中止させ、独裁体制を強化した。
 ヴァルガスのファシズムは、国粋主義と反共主義の一方で、労働者の権利保護も重視する一部左派色を帯びたもので、「貧者の父」という異名すら取る両義的な側面があった。この点では、次の第二部で取り上げるアルゼンチンのペロン政権との類似性が認められる。
 ただし、ヴァルガスは政党を結成することはなく、思想的には近かったファシスト政党を禁圧すらしているため、彼の体制は擬似ファシズムとみる余地もあるが、ヴァルガス自身は党派政治家の出身であり、ポピュリストとして大衆動員的な政治手法を追求した点からすると、ファシスト党を介さない不真正ファシズムの特徴を持つと言える。
 第二次大戦中のヴァルガス政権は、当初ナチスドイツとの協調姿勢を示したが、大戦後半期になると、ブラジルに善隣政策で接近してきたアメリカと協調するようになり、事実上連合国側に寝返った。
 こうしてポルトガルのサラザール政権同様、連合国側に受け入れられたヴァルガス体制は戦後も延命されるはずであったが、そうはならなかった。大戦終結直後の45年10月、軍事クーデターによりヴァルガスは辞任を強いられ、ブラジル・ファシズムは終焉した。
 このようなあっけない幕切れとなった直接の理由として、ヴァルガスが軍部を掌握し切れていなかったことがあろう。その点、ポルトガルのサラザールの場合、自身は首相にとどまりつつ、軍の有力者を名目的な大統領にすえて軍部を懐柔していたが、ブラジルには首相制度がなく、ヴァルガス自身が任期を越えて大統領に居座っていたのだった。
 またヴァルガスの国家主導による経済成長政策の果実を得た中産階級の間から、民主化を求める声が高まり、ヴァルガス自身も政権末期には一定の民主化を進めていたことも、自らの体制の命脈を縮める結果となった。
 こうして46年以降、ブラジルは第二共和制下で民主化のプロセスを開始するが、その過程で、ヴァルガスは中道左派の労働党候補として出馬した51年の大統領選挙に勝利し、今度は民主的な手段で返り咲きを果たした。戦前ファシズムの指導者が戦後に民選大統領として復帰するのは極めて例外的である。
 ブラジル有権者はヴァルガス自身にヴァルガス体制の清算を委ねたとも言える結果だったが、そのような芸当はやはり困難だったと見え、54年に起きたヴァルガスの政敵に対する暗殺未遂事件を契機に軍部から辞任要求を突きつけられ、再びクーデターの危機が迫る中、ヴァルガスは拳銃自殺を遂げる。
 こうして、またしてもヴァルガス政権は不正常な形で突如幕切れしたのだが、ヴァルガスの影響は死後も続いた。以後は、ヴァルガスの「新国家体制」の両義性を反映して、中道保守の社会民主党と中道左派の労働党が第二共和制下のヴァルガス派有力政党として立ち現われるのである。

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