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戦後ファシズム史(連載第5回)

2015-11-12 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

4:日本の場合
 日本の戦前ファシズムはしばしば「天皇制ファシズム」と呼ばれることもあるが、この場合、昭和天皇がファシズム体制の統領に見立てられる。けれども、ファシズムは基本的に大衆運動を基盤として成立するもので、本質上政党政治の枠内にある。
 その点、日本におけるファシズムは北一輝らが主唱する政治思想・運動として、青年将校らの間に浸透した時期もあるが、彼が2・26クーデター未遂事件に連座する形で処刑された後は退潮し、イタリアやドイツのように、ファシズムが政党として組織化されるようなことはなかった。
 もっとも、戦争期に三度にわたって首相を務めた近衛文麿が主導した新体制運動はナチ党のような独裁政党の樹立構想を含むものであったが、不磨の大典とされた明治憲法の枠内では大政翼賛会のような中途半端な官製選挙マシンの設立に終わり、本格的なファシスト政党樹立には至らなかった。
 結局のところ、「天皇制ファシズム」と呼ばれるものは、当時の天皇・日本軍部とその追随勢力が主導した戦時動員体制であり、天皇中心の国家絶対主義的な側面を外見的にとらえれば、ファシズム様の特徴も認められた限りでは「擬似ファシズム」と呼ぶべき政策的な暫定性の強い体制であった。
 そうした「暫定性」という点では、スペインのフランコ体制との類似性がなくはなかったが、日本の軍国体制にフランコに相当するような統領的軍人指導者は存在せず、集団指導型の体制であった。また天皇も、明治憲法では神聖不可侵な超越的存在者とされ、独裁的指導者ではなかった。 
 そのため、戦後の占領下でも、連合国はドイツにおける「非ナチ化」のような体制そのものの解体措置ではなく、軍国主義勢力の排除、特にその中心にあった軍部の解体に最大の力点を置いたため、新憲法にも非武装平和条項が現われることになった。
 戦争に主体的に協力した文民・民間人に対する公職追放もなされたが、微温的であり、間もなく開始された冷戦の中で、今度は共産党員の公職追放が当面する課題となったことから、追放解除が相次ぎ、軍国主義の排除は不徹底に終わる。憲法上の非武装中立も解釈によって緩和され、事実上の再武装化である自衛隊が出現する。
 占領終了後も、ドイツのようにファシズムの再興を阻止する反ファッショ政策が採用されることはなく、かといってファシスト政党が新たに出現することもなく、ただ憲法の平和条項が反軍国主義の旗印として辛うじて維持されるにとどまった。
 このように、日本では清算の対象となるべき戦前ファシズムが擬似的なものでしかなかったことが、戦後日本における「歴史認識」にも特有の困難さをもたらしている。日本国民はドイツ国民のように選挙を通じてファシズムを選択したのではなく、選択の自由がないまま、軍部主導での戦争に強制動員されていったため、時間の経過とともに、歴史に対する「反省」の念が希薄となりがちなことは否めない。
 言い換えれば、日本国民にはファシズムの免疫が存在しない。このことは、今後新たに本格的なファシズムが出現してきた時、その免疫がないため、今度は選挙でファシズムを選択してしまう危険もあることを意味しているであろう。


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