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戦後ファシズム史(連載第7回)

2015-11-26 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

6:ポルトガルの場合
 ポルトガルの戦前ファシズムは、経済学者出身という異色の経歴を持つアントニオ・サラザールによって打ち立てられたカトリックを精神的基盤とする「新国家体制」として、1933年以降、制度化されたが、第二次世界大戦ではスペインとともに、しかしスペイン以上に明確な中立を保ったことで、戦後も生き延びることに成功した。
 サラザールは他の戦前ファシズムの指導者のように「総統」のような超越的指導者とはならず、1968年に転落による頭部外傷が原因で退任するまで、一貫して首相にとどまるという形で議会制の体裁のまま独裁支配を続けたことが特徴である。
 とはいえ、全議席が与党的政治団体「国民同盟」によって独占される体制であったので、議会制は完全に形骸化していたのではあるが、議会制の形を残してのファシズムという点に着目すれば、ポルトガルのファシズムは現代的な「議会制ファシズム」の不完全な先駆けという見方もできなくない。
 そうした外見の穏健さに加え、サラザール政権は大戦末期に戦況を見越して価値観を異にする連合国側に基地提供するなど、連合国寄りの立場を示したことが好感され、戦後はマーシャルプランの受益やNATO加盟も認められるなど、孤立していた隣国スペインのファシズム体制とは異なる厚遇を受けた。
 こうして、ポルトガルの戦前ファシズムは戦後に国際的体制保証を得たため、敗戦国となったドイツ、イタリア、あるいは日本の戦時擬似ファシズムのように強制的に解体されることはもちろん、スペインのファシズムような「暫定性」の内在的論理によって自主的に解消される可能性もなかった。
 そうした磐石の体制下で、サラザール政権は、国内的には共産党をはじめとする左派勢力を秘密警察により抑圧するとともに、対外的にはアフリカ大陸を中心とする植民地の維持に固執し、戦後の民族自決の波に抗して独立運動を軍事的に鎮圧する植民地戦争を展開した。
 68年のサラザール退任、70年の死去後も後継者によって延命されたポルトガルの戦前ファシズムの清算は、内部からの決起を待つしかなかった。それは軍部青年将校によって行なわれた。軍部内では植民地戦争に動員される将校の間で体制に対する疑問が広がり、左傾化した青年将校のグループが形成されていた。
 このグループ「国軍運動」が中心となって決起した1974年の革命―カーネーション革命―で、ようやくポルトガルの戦前ファシズムは、その植民地もろとも解体されることとなった。
 革命直後には急進的な軍事政権が成立したが、75年にその行き過ぎを是正する穏健派のクーデターが成功し、76年の大統領選挙で前年クーデターを主導したアントニオ・エアネスが当選、以後、80年の再選を経て86年まで大統領の座にあったエアネスの下で民主化プロセスが進められた。
 こうして、ポルトガルでもスペイン同様、76年以降、しかしスペインとは異なるプロセスでファシズムの解体が行われた。現在、ポルトガルには西欧諸国の標準モデルの多党制に基づく議会制民主主義が定着している。
 旧ファシズムの流れを汲む政党は現時点で確認されないが、2000年に結党された新党として、ナショナリズムを標榜する国民維新党が存在する。同党は現時点で中央・地方とも議席を持たないが、02年以降、国政選挙に参加し、回を追うごとにじわじわと得票数を増やしており、今後が注視される。
 2010年代初頭のポルトガルは財政破綻に直面したが、サラザールも1920年代末、当時の軍事政権から財政再建のため財務大臣に抜擢され、緊縮政策で成果を上げたことが自らの権力掌握へのステップとなった歴史が想起される。
 しかし、11年以降、緊縮政策を主導したのは、カーネーション革命によって誕生した中道保守系政党「社会民主党」―名称にもかかわらず、社民主義ではない―であった。緊縮政策の是非はともあれ、ポルトガルで財政危機を契機にファシズムが出現する可能性はもはや乏しいと見てよいだろう。

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