ザ・コミュニスト

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(21)

2015-05-17 | 〆リベラリストとの対話

19:非武装平和革命について②

リベラリスト:コミュニストさんが提唱される「民衆会議」を通じた非武装革命論は、どこかインドのガンジーの非暴力抵抗論を思わせる―ガンジーが所属した「国民会議」の党名も含め―のですが、影響関係はあるのですか。

コミュニスト:そう思われるのも無理はありませんが、私が『共産論』をまとめた時、ガンジーのことはまったく念頭にありませんでした。ガンジーの名と業績は知っていますし、尊敬に値する歴史上の人物であると思いますが、彼は基本的に独立運動家であって、革命家ではありませんでした。もちろんコミュニストでもありませんでした。

リベラリスト:たしかに、非武装というのは、革命ではなく、抵抗の手法ではないかと思うのです。あなたが革命の手法として提起する集団的不投票についても、それは例えば不正選挙に対するボイコット手段としては効果的でしょうが、合法的に行われる選挙に対しては、ご自身不安視されているように、技術的に困難かと思われます。

コミュニスト:すると、やはり革命の「伝統」に従って、武装蜂起したほうがよろしいと?

リベラリスト:そうではありません。私は革命家ではありませんから、社会の変革は投票箱を通じてしか現実的には無理であろうと考えるものです。ただし、アメリカ独立宣言にあるように、暴虐な政府に対しては武器を取って革命を起こさざるを得ない場合はあるだろうと―そうならないことを切望しつつ―思います。

コミュニスト:私も二つの革命の方法を例示する中で、状況によっては武装蜂起型の革命が有効な場合はあるだろうと指摘していますが、そういうケースは乏しく、基本的には平和革命のほうが「現実的」であり、これからの革命の常道になろうと考えています。

リベラリスト:そこがどうしても納得いかないのです。投票ボイコットで合法的に無政府状態に追い込み、交渉でもって政権移譲、革命政権樹立に結びつけるというのは、机上の空論と言って失礼なら、理論倒れではないかと。小説や映画の世界ならわかりますが。

コミュニスト:それは、これまでそういう形の革命が起きたことがないから、経験的に理解できないだけです。徹底した経験論に立つなら、そのような革命は想定できないとなるでしょうが、革命論は経験論に終始するものではありません。理屈として立てられたものを可能にする方法を考えることも、革命論の使命です。

リベラリスト:では、どのようにして可能になりますか。私には思いつかないのですが。

コミュニスト:『共産論』にも書いたように、民衆会議運動です。民衆会議は革命後には公式の民衆代表機関となりますが、革命前には革命組織であるという連続的・発展的な運動体です。

リベラリスト:それは共産党のような政党組織抜きの革命運動論として、ポスト近代的な興味深いお考えと受け取りますが、どれだけの人々がそういう運動体の意義を理解し、参加してくるかどうか、私は懐疑的です。

コミュニスト:歴史ある共産党だって入党しようとする人は限られているでしょう。コミュニズムを正しく理解してもらうための困難さは運動形態を問わず、共通のものです。民衆のいわゆる動員解除状態は日本では極めて高度ですから、民衆会議の組織化も困難を極めるだろうことは承知しています。

リベラリスト:すると、積極的にそのような運動を自ら組織しようとはなさらないのですね。孤高のコミュニストさんですか。

コミュニスト:それは、自分自身の組織力のなさを自覚しているからでもありますし、『共産論』もまだ完全版とは言えないからでもあります。

リベラリスト:そういうまるで仏陀のような謙虚さは、レーニンその他、過去の傲慢な革命家には見られなかった新しい革命家像のように思われます。とはいえ、あなたが過渡期の革命体制として提示する部分は、どうもレーニン的なプロレタリア独裁論を思わせるものがあって、少し不穏さも感じますので、これについては次回対論してみたいと思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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