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晩期資本論(連載第43回)

2015-05-06 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(2)

資本家が商品を生産するのは、その商品そのもののためでもなければ、その商品の使用価値またはこの使用価値の個人的な消費のためでもない。資本家にとって実際に問題になる生産物は、手でつかめる生産物そのものではなく、生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本を越える超過分である。

 消費者向けの様々なキャッチフレーズにもかかわらず、資本主義的生産の目的が「生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本を越える超過分」、すなわち利潤の獲得にあるという資本主義的真実を赤裸々・簡明に語っている。

資本家はただ不変資本を前貸しすることによってのみ労働を搾取することができるのだから、また彼はただ可変資本を前貸しすることによってのみ不変資本を増殖することができるのだから、彼にとってこれらのことは観念のなかではみな同じことになってしまうのであり、しかも、彼の利得の現実の度合いは可変資本に対する割合によってではなく総資本にたいする割合によって、剰余価値率によってではなく利潤率によって規定されており、この利潤率はあとで見るようにそれ自身は同じままでもいろいろに違った剰余価値率を表わすことができるのだから、ますますそうなるのである。

 剰余価値の可変資本に対する割合を示す剰余価値率は労働の搾取度を表わす指標として、第一巻ですでに登場した。この指標は労働者が自身の搾取されている割合を知るうえでは有益であるが、専ら利得に関心を持つ資本家にとっては重要な指標ではない。かれらにとって重要なのは、ここで示された剰余価値の総資本に対する割合、すなわち利潤率である。記号で表わせば、剰余価値率は剰余価値mを可変資本vで割った商であるが、利潤率はmを不変資本cと可変資本vの総和たる総資本Cで割った商である(従って、当然にも利潤率は剰余価値率より小さい数値で表わされる)。

剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点となるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである。

 剰余価値率は言わば経済原論的な一つの理論的指標であるが、利潤率のほうは経営学的な実際的指標と言える。歴史的にも、資本主義は利潤率の向上を目指す資本家の「経営努力」の歴史であったし、現在でもそうである。

・・・・利潤率は剰余価値率とは数的に違っており、他方剰余価値と利潤とは事実上同じであり数的にも等しいのであるが、それにもかかわらず、利潤は剰余価値の転化形態なのであって、この形態では剰余価値の源泉もその存在の秘密もおおい隠され消し去られているのである。じっさい、利潤は剰余価値の現象形態であって、剰余価値は分析によってはじめて利潤からむきだされなければならないのである。剰余価値にあっては、資本と労働の関係はむきだしになっている。

 さしあたり原理上剰余価値mと利潤pは等価的なものと措定されていたが、剰余価値を資本家の視点から利潤と把握し直すことによって、搾取的な剰余労働の存在が隠蔽されることが指摘されている。剰余価値とは利潤の「正体」であり、そこでは資本と労働の対立関係が明るみに出される。そのことから、剰余価値はある種政治学的な概念となるのである。

・・・・・・・利潤率の上昇が剰余価値率の低下または上昇に対応し、利潤率の低下が剰余価値率の上昇または低下に対応し、利潤率の不変が剰余価値率の上昇または低下に対応することがありうるのである。同様に利潤率の上昇や低下や不変が剰余価値率の不変に対応することもありうる・・・・・・・。

 上述のとおり、数的には別ものである利潤率と剰余価値率の関係性について、マルクスは数式例をあげて縷々検討しているが、そうした数学的操作はここでは割愛する。とにかく、利潤率の上下変動と剰余価値率の上下変動とは対応関係にあるわけでなく、様々な組み合わせがあり得るということである。 結局のところ、「利潤率は二つの主要要因、剰余価値率と資本の価値構成とによって規定される」。ここで資本の価値構成とは、併せて費用価格を構成するところの不変資本と可変資本の構成比のことである。

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