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晩期資本論(連載第7回)

2014-10-21 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(1)

 マルクスは資本主義において貨幣の果たす役割を重視しており、『資本論』第一巻のかなりの頁数を専ら貨幣論に充てているが、これはまだマネタリスト的知見が確立されていなかった当時としては斬新な経済理論であった。彼は、貨幣の持つ機能を価値尺度・流通手段・蓄積の三つに大別しつつ、それらを持論の労働価値説で統一的に説明しようとする。

簡単にするために、本書ではどこまでも金を貨幣商品として前提する。

 その具体的意味は、「貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の各商品の量で表現される。」ということである。例えば、ガム一個=100円という定式は、100円硬貨の鋳造に必要な労働時間とガム一個の生産に必要な労働時間が等しいことを示していることになる。そのような等値の奇妙さは明らかであろう。これは優秀な理論家の犯しやすい理論倒れというものである。
 晩期資本主義における貨幣は投資商品としての重要性を高め、通貨自体を売買するFXのような投資行為も盛んであるが、そのような意味において貨幣を象徴する金を「貨幣商品」と呼ぶことならできなくはない。

価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。

 上述の定式から導かれる貨幣の尺度機能論である。より詳しく言えば、「すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自の一商品で計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自の一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである」。
 マルクスは持論の労働価値説を貨幣交換にまで及ぼすことで、結果的にマネタリスト的な特質を示すが、この定式は労働生産物とは言えない物品や無形的なサービス商品が増大した現代資本主義下の貨幣交換の仕組みを説明し切れない。
 ただ、貨幣が価値尺度として機能していることはたしかであり、その機能は貨幣経済が高度化した晩期資本主義ではよりいっそう強くなり、絵画が典型的であるように、芸術作品のような文化的創造物までが貨幣価値で評価される。

価格と価値量との不一致の可能性、または価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性のやみくもに作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。

 例えば、絵画の商品価値は画家が製作に費やした労働時間で決定されるのではないから、「画伯」を冠される一流画家の作品なら、短時間で製作された小品でも、高額な商品価値を持つというように、絵画は価格と価値量の不一致の好例である。
 用心深いマルクスは、ここで前に持ち出した価格形態という概念を使用し、現実の商品価格が労働価値量とは合致しないことの補足説明を試みている。その理由を、マルクスは資本主義市場経済のアナーキーな性質に求めようとしている。そこから、「ある物は、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。」として、労働生産物ではない―マルクスによれば商品ではない―未開墾地のようなモノも価格をもって売買され得ることを説明する。
 おそらく、この説明のほうが実際の市場経済におけるランダムな価格決定の仕組みを上手く説明しているであろう。だが、このように価値形態とは別に価格形態を持ち出して原則的な説明をすりかえてしまうのは、労働価値説の実質的な放棄と言わざるを得ない。
 実際のところ、商品の価格形態は、まさに貨幣交換を一つの原則として確立した資本主義生産様式の文化的な記号のようなものである。この点、マルクスも「価格表現は、数学上のある種の量のように、想像的なものになる。」と述べているとおりである。おそらく、こうした経済人類学的な説明のほうが貨幣の尺度機能を適切に説明できるであろうし、実際、貨幣経済が廃止された未来社会の経済人類学者たちならそのように分析するに違いない。


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