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英国労働党史(連載第10回)

2014-10-13 | 〆英国労働党史

第5章 「第三の道」と復活

1:苦節18年
 1979年総選挙でサッチャー保守党に敗れた労働党は、その後、総選挙では三連敗と野党生活が続くが、97年総選挙でようやく政権を奪還するまでの苦節18年は、党史上「荒野の時代」と呼ばれている。
 この間、またもや左右両派の党内抗争が勃発した。しかし党内では依然左派が優勢であり、一部右派は81年に離党して新党・社会民主党を結成した。これは労働党史上初の明確な分裂であった。
 この新党は名称こそ社会民主党を名乗るが、マルクス主義政党に沿革を持つドイツや北欧諸国の同名左派政党とは異なり、リベラル保守の自由党とも相当程度重なる中道政党であった。事実、両党は83年総選挙では共同マニフェストの下に選挙戦を展開し、88年に至り合併した(89年以降、自由民主党として現在に至る)。
 一方、労働党では80年に党首に就任した左派マイケル・フットの下、83年総選挙では銀行国有化や福祉増税、一方的核廃絶など左派色の濃厚なマニフェストを提示して原点回帰戦略を取ったが、結果は世論調査などで予見されていたとおりの惨敗であり、サッチャー保守(反)革命を持続させただけであった。
 この敗北を受けて辞任したフットの後任には、ニール・キノックが就いた。キノックも左派の出身であったが、より現実主義的であった彼は左派色を薄める方向に出た。しかしキノック指導下でも党勢回復は進まず、87年、92年と総選挙では連敗し、結果的に9年間に及んだキノックの野党党首在任は英国史上最長記録となった。
 このようにキノック時代は冴えない印象であるが、キノック時代に労働党の左派色が漸次薄められていったという点では、彼こそ90年代末以降の「第三の道」を準備したとも言える。

2:ブレアの登場
 キノック党首の下では最後の総選挙となった92年総選挙は、保守党側も11年にわたって首相を務めたサッチャーが90年に退任し、ジョン・メイジャー首相に交代して初めての選挙であった。メイジャーは「鉄の女」サッチャーとは異なり、いささか陰の薄い首相であり、労働党にとっては巻き返しのチャンスであったが、この時も労働党は議席をある程度取り戻したものの、政権奪回には届かなかった。
 より大胆な党再生戦略が必要とされていた時に現れたのが、トニー・ブレアであった。ブレアは保守党員で弁護士の父を持ち、自身も弁護士であった。彼はフット党首の時代に労働党国会議員となり、早くから将来のリーダー候補として注目されていたところ、キノックの後継になったジョン・スミス党首急死を受けた94年の党首選で当選し、初の戦後生まれの労働党リーダーとなった。
 ブレアの党再生戦略は、それまでの労働党主流とは一線を画し、党の支持基盤を保守党支持の中産階級にも食い込ませるというものであった。そのために、彼は1918年以来の歴史を持つ党規約第4条の削除を主導した。同条は生産・分配・交換手段の共有化をテーゼとする社会主義的な条項であり、従来の労働党の半社会主義政策の根拠ともなる党のバックボーンであった。党内右派はこの条項の削除を悲願としていたが、左派が優勢な時代には実現できなかった。
 しかし、野党暮らしの長期化という党の危機に直面して、もはや第4条削除に強硬に反対する勢力はなかった。ブレアはこの条項を「社会民主主義」に置き換えた。これによって、英国労働党は独自の社会主義政党から大陸型の社民主義政党に転換したとも言える。またブレア指導部は党の伝統的な最大支持基盤である労組の党大会における投票権を制約し、個人の一般党員の投票権を拡大することで、党の労組依存構造の転換も図った。
 こうした労働党の中道政党化を目指すブレアの党改革は―言わば労働党の旧自由党化―「第三の道」と称されるようになるが、伝統的な図式で言えば、明らかに右派的な傾向を持つ反動化路線でもあった。
 ブレアは従来であれば党内左派の妨害によって実現不能であった党是に触れる「改革」を大きな抵抗にも直面せず3年ほどでやってのけたが、このことは当時の労働党がそれほどに危機的状態にあったことの証しでもある。

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