ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後ファシズム史(連載第3回)

2015-10-30 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

2:イタリアの場合
 ファシズム本家のイタリアでは1943年、ムッソリーニを排除したファシスト政権がドイツより先に連合国側に降伏したことを受け、共産党を含む保革の反ファシスト政党が参加する挙国一致の臨時政府として国民解放委員会が設立された。
 しかし、ドイツ軍がムッソリーニを奪還し、イタリア北部にナチスの傀儡国家であるイタリア社会共和国を樹立したため、同共和国が45年4月に降伏するまでは、反ファシスト政権とファシスト政権が南北に対峙する状況であった。そのため、イタリアでは、終戦後の46年6月に実施された共和制移行の是非を問う国民投票が戦前/戦後の転機となる。
 イタリアのファシスト政権は、1861年のイタリア統一以来のサヴォイア王家による王制の枠内で成立・維持されていたため、王制もファシスト政権と同罪とみなされ、存続の是非が問われたのである。投票結果は、共和制移行支持が過半数となり、ここにイタリア王国は廃止、新生イタリア共和国が成立することとなった。
 しかし、旧ファシスト政権がナチスほどの組織的な反人道犯罪に手を染めていなかった新生イタリアでは、ファシズムの清算は徹底せず、旧ファシスト勢力は戦後直ちに「イタリア社会運動」(MSI)の名で再結集し、戦後初となる48年の総選挙では上下両院合わせて7議席を獲得するなど、早速小政党として議会参加している。
 MSIの初代指導者ジョルジョ・アルミランテはジャーナリストを経験した点ではムッソリーニと似た経歴の持ち主であったが、戦前の国家ファシスト党内では目立たない人物にすぎなかった。しかし、そのような地味な人物像は戦後再結成されたファシスト政党を率いるにはかえって好都合であった。
 しかし、MSIは間もなく、ムッソリーニ崇拝とファシスト政権の復活を掲げるアルミランテらの純化派と右派保守主義者への浸透も図る修正派の党内抗争に見舞われ、アルミランテ派は一時敗退する。しかし修正派が主導権を握った50年代から60年代にかけ、党勢は伸び悩み、69年にはアルミランテがトップに返り咲いた。
 第二次アルミランテ指導部は、従来の純化路線を軌道修正し、党の穏健化をアピールする姿勢を取った。このことが功を奏し、72年の総選挙では上下両院合わせて82議席という結党以来最大規模の躍進を見せたのである。
 だが、このような修正主義一般の帰結として、党の原点からは遠ざかることとなり、非ファッショ的な右派政党との区別はつかなくなる。72年を頂点として、70年代後半以降のMSIは長期低落傾向を見せていくのである。
 87年、高齢のアルミランテの後を継いだジャンフランコ・フィーニは、MSIの幕引き役となった。94年、戦後最大規模の疑獄事件を契機に大規模な政界再編が起きると、フィーニ指導部は当時保守系の新星として実業界から転進してきたシルヴィオ・ベルルスコーニの連立政権に参加した。
 その結果として、95年の党大会で公式にファシズムを放棄、「国民同盟」への党名変更を決定した。これにより、戦前のファシズム体制を継承する政党としてのMSIは終焉したことになる。MSIは最終的に、ベルルスコーニが創設した新保守系政党「頑張れイタリア」へ合流・吸収された。
 一方、これに反発する残党グループは、2012年に至って、新たに「イタリアの兄弟」を結党した。同党は旧MSI・国民同盟のイデオロギーを継承した後継政党の性格を持ち、13年の総選挙では下院で9議席を獲得した。
 同党はイタリア国粋主義と欧州連合懐疑論を掲げるとともに、経済面では伝統的なファシズムとは異なり新自由主義に傾斜し、ネオ・ファシズムの傾向も示している。現時点ではミニ政党にすぎないが、一般政党への幻滅感から支持を増やす可能性はあり、動向が注目される。

[追記]
2018年3月の総選挙で、「イタリアの兄弟」は下院議席を約三倍増し、上院にも議席を獲得した。同党は6月発足の反移民・反EU連立政権を承認・参加しなかったが、棄権であり、閣外協力の可能性は残る。


コメント    この記事についてブログを書く
« 戦後ファシズム史(連載第2回) | トップ | 戦後ファシズム史(連載補遺) »

コメントを投稿