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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(25)

2015-06-14 | 〆リベラリストとの対話

23:共産主義的教育について①

コミュニスト:今回から、個別政策をめぐる各論的な対論に入りますが、まず教育政策から始めたいというご要望でした。これは、いったいなぜですか。

リベラリスト:あなたの『共産論』における政策論で一番論争的なのは、教育の部分だと考えるからです。リベラリストから見て、承服しかねるところが多々あります。なかでも「(共産主義的教育においては)構想力と独創性が重視される」という言辞ですね。これは、まさに私どもが主唱する自由主義的教育の理念を横取りされたようなものです。

コミュニスト:つまり、共産主義的教育は統制的であり、構想力や独創性をむしろ奪うものだと理解されているわけですね。そうした誤解、と言って悪ければ先入見は世界中に行き渡っています。おそらく、旧ソ連や旧ソ連圏で行われていたような教育―十分検証されているとは言えませんが―を想定してのことでしょう。しかし、私が提唱する共産主義的教育はそれとは全く異なるものであることは、『共産論』に書きました。

リベラリスト:「知識資本制から知識共産制へ」というドグマティックな図式も提出されていますが、「知識共産制」という用語からは、構想力や独創性などはなかなかイメージできませんね。

コミュニスト:知識共産制というのは、簡単に言えば知識を独り占めしないという意味です。すなわち、知的財産権というような観念の対極にあるものです。一人一人が各自の構想力と独創性をもって産出した知的生産物を持ち寄って社会で共有し合うというような知のあり方であって、何らかの公式的な知識体系を画一的に教授するというようなものではないのです。

リベラリスト:「何らかの公式的な知識体系を画一的に教授する」ような教育法には、私も反対です。ただ、知的財産権は決して知の独占権ではなく、特定の知的生産物の創案者に優先権を与えつつ、それを社会で共用し合うというすぐれて実際的な観念ではないでしょうか。

コミュニスト:なぜ、創案者に優先権が与えられなければならないのでしょう。そもそも特定の知的生産物の創案者が誰なのか、明確に特定できるものでしょうか。その特定をめぐり、しばしば泥沼の法廷合戦が生じますが、大きな社会的ロスです。それはともかく、知識共産制は知的統制とは無縁のものだということは、何度でも強調します。

リベラリスト:まだよく腑に落ちないのですが、仮にそうだとして、あなたの言われる「知識資本制」はそれほど統制的でしょうか。

コミュニスト:統制という言い方はよくないかもしれませんが、知識資本制下の教育は、既成知識体系、それも資本にとって「役に立つ」知識の伝授に偏っていることは事実です。ありていに言えば、金儲けに関係する知識だけが仕込まれるわけで、その本質は資本主義・市場主義のイデオロギー統制教育なのです。

リベラリスト:その点、私も資本や市場を絶対視するような教育法の蔓延には懸念を持ちます。しかし、構想力や独創性は決して「知識共産制」のそれこそ特許ではなく、むしろ本来は自由主義的教育論のオリジナルだということは、言わせてもらいます。

コミュニスト:知的財産権の侵害というわけですか・・・。あなたの言われる自由主義的教育とは、おそらく伝統的なリベラルアーツ教育を念頭に置いているのでしょうが、私が言う意味での構想力や独創性は、そういう古典的な西洋エリート教育の理念とも異なります。

リベラリスト:どう異なりますか。

コミュニスト:それは『共産論』にも書いた「この(共産主義)社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるであろう。知識人・専門家任せでは動いていかないのが共産主義社会である。」という箇所を引用して、回答としましょう。

リベラリスト:その箇所は、ある種の「名言」だと思いますが、その前提には「資本主義社会=知識階級制」というあなたなりの先入見があるようですので、次回、これについて討論してみましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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