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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(27)

2015-07-05 | 〆リベラリストとの対話

25:共産主義的教育について③

リベラリスト:あなたの教育論でもう一つ気になる点は、「子どもたちは社会が育てる」という標語です。私はこの標語の具体的な意味が今ひとつ飲み込めていないのですが、これは共同保育のような制度を想定しているのでしょうか。

コミュニスト:このテーゼは、主語が「子どもたち」と複数形になっていることからわかるように、個々の子どもではなく、集合としての子どもたちは社会が責任をもって育成するといった趣意です。言い換えれば、日々の育児は親権者が担いますが、それは個々の子どもの言わば製造元として、社会から委託されての任務なのです。

リベラリスト:となると、そのことは資本主義社会でも幼児教育や義務教育の制度を通じて実現されているのではないでしょうか。

コミュニスト:とは限りません。たしかに、大半の資本主義国で教育は制度化されていますが、子どもの教育は基本的に親任せにするのが資本主義です。ですから、子どもの将来はほぼ出自した経済階層によって決まってしまいます。共産主義社会には経済階層は存在しないとはいえ、親の育児能力の格差までは是正し切れないので、そうしたばらつきを均すためにも、子どもたちの育成は社会が第一次的に責めを負うのです。

リベラリスト:それならば、やはり共同保育や寄宿制のような制度があってしかるべきですが、『共産論』ではそうした具体的な提案がありませんね。

コミュニスト:実は、執筆に際して、義務教育に相当する13年一貫制の基礎教育課程を寄宿制とすべきかどうか迷ったのですが、全面寄宿制の設備的限界や濃密過ぎる人間関係がもたらす弊害などを考慮し、提案しなかったのです。

リベラリスト:そうなると、「子どもたちは社会が育てる」という標語は、かなり内容希薄になりますね。

コミュニスト:そうでもありません。例えば、義務保育制とか地域少年団などの提案は資本主義社会では見られない独自のものです。

リベラリスト:そうした子どもの政策的集団化は、旧ソ連におけるピオネールのような全体主義的制度を想起させます。

コミュニスト:決してそうではありません。真の共産主義社会は全体主義とは無縁です。義務保育制や地域少年団は、子どもの社会性を涵養することを目的とした中立的集団教育の手法であり、政治的な底意を隠した選抜的集団教育ではありませんので、ご安心ください。

リベラリスト:個々の子どもがそうした制度に参加しない自由は留保されるのでしょうか。

コミュニスト:疾病その他の正当な理由に基づき参加しない自由は留保されますし、参加できない原因を除去するための努力もなされます。

リベラリスト:それにしても、日々の養育は親権者が行なうことに変わりないなら、やはり虐待や養育放棄などの問題は完全には克服できないでしょうね。

コミュニスト:先ほど述べたように、親による日々の養育は、社会からの委託に基づくものですから、親の養育態度に対する社会的な監督はより厳正になります。といっても、警察的監視の強化ではなく、むしろ保健所や児童福祉機関を通じた育児の手引きや援助などを通じたサポーティブな監督が強化されるでしょう。

リベラリスト:とはいえ、共産主義的教育はやはり統制的な印象を否めず、自由度に欠ける印象を受けますね。

コミュニスト:「自由」の名のもとに、児童虐待や教育格差が放置される社会よりも、社会に産み落とされたすべての子どもたちの養育の責任を社会が最後まで負う社会のほうが、子どもたちにとっては得るところがずっと大きいはずです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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