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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(30)

2015-08-01 | 〆リベラリストとの対話

28:本源的福祉社会について①

リベラリスト:今回からは、医療も含めた広い意味での福祉の問題を取り上げてみたいと思います。あなたによると、共産主義社会は年金も生活保護も必要としない安心社会だとのことですね。

コミュニスト:はい。私はそれを「本源的福祉社会」とも呼んでおります。すなわち、共産主義社会は特段の福祉政策も必要としない、本来的な福祉社会だということです。

リベラリスト:その秘訣が貨幣経済の廃止にあるというわけですが、たしかに貨幣経済を前提としないのだから、ある意味全員平等に無一文でも十分暮らしていけると。

コミュニスト:アメリカ人は、国家が国民の福利厚生に手厚く支出する福祉国家の理念に強いアレルギー反応を示しますね。ならば、本源的福祉社会の共産主義はまさに福祉国家の対極にある究極の福祉社会としてアメリカ人にも受け入れられるのでは?というのが、私の考えなのですが。

リベラリスト:アメリカ人は全員無一文の平等を求めているのではなく、個人の努力の結晶である稼得に応じた暮らしができるこそ平等だと考えたがるのです。その意味では、貨幣経済の廃止ということがすでに受け入れ難い前提なのです。

コミュニスト:稼得というものがすべて個人の「努力」の結晶だという幻想が相当病的なレベルにまで社会に浸透しているようですね。だから、貧困者=怠惰というネガティブな見方が根強いのでしょう。しかし、そうした観念から脱却することは不可能なのですか。

リベラリスト:オバマ政権の中途半端な“民間皆保険政策”でさえ激しい巻き返しにあっています。一度染み込んだ社会通念は容易に抜けないようです。むしろ、本源的福祉社会は日本の風土のほうが適合しやすいのではありませんか。

コミュニスト:たしかに、日本はアメリカよりは適合しやすいかもしれませんが、一概には言えません。日本でも、稼得=努力の結晶という観念は結構根強いものがあり、とりわけ生活保護制度の運用においてそうした観念が前面化し、受給者叩きのような社会現象がある種のキャンペーンのように行なわれています。

リベラリスト:あなたは国家を前提としない共産主義的福祉社会は、アメリカ的な自助と共助の社会には適合するのでは?とも言われていますが、これはいささか不相応な高評価のようです。アメリカではたしかに慈善活動のような民間の福祉活動は盛んなのですが、それ自体がある種のビジネスや企業・富豪の宣伝活動になっている面もあります。

コミュニスト:それは資本主義的な歪みですが、根底に流れる共助の精神は認められてよいと思います。

リベラリスト:共助をいうなら、私自身は、いわゆるベーシック・インカムのような形で制度化したほうがよいと思っています。自助努力主義を放棄しない限度で、このような税の社会還元制度を創設することは可能ではないでしょうか。あなたはこの制度にネガティブなようですが。

コミュニスト:国が税を引き当てに個人所得を給付するベーシック・インカムはまさにアメリカ人的な稼得=努力結晶論に反するでしょう。自助努力主義の放棄そのものです。それをおいても、ベーシック・インカムの財源捻出は事実上不可能です。

リベラリスト:頭数に応じて課税した旧人頭税とは真逆に、頭数に応じて所得の一部補填をすることは、税の社会還元作用としてあってよいことだと思いますし、財源捻出も可能ではないでしょうか。

コミュニスト:私は『共産論』の第一章で、資本主義の内科的治療と外科的治療という医療モデルになぞらえた視座を提示しましたが、ベーシック・インカムとは福祉国家モデル以上に副作用の強い薬物治療のようなものです。

リベラリスト:どうしても本源的福祉社会にこだわりますか。私の考えでは、そのほうがよほどハイリスクな大手術のように思えるのですがね。

コミュニスト:たしかにリスクはありますから、すでに対論したように慎重な革命的プロセスを踏む必要があるわけですが、根本的な変革をためらってはなりません。

リベラリスト:神の手を持つ外科医のような革命家集団の出現に期待しなくてはならないですね。救世主の思想にどこか接近していきそうです。

コミュニスト:救世主の出現を空しく待つのではなく、すべての人が金の心配をしなくても暮らしていける本源的福祉社会の実現に向けたプロセスを民衆が開始することこそ、まさしく革命なのです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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