ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(22)

2015-05-23 | 〆リベラリストとの対話

20:非暴力平和革命について③

コミュニスト:前回、私の提唱する過渡期の体制―移行期集中制―がレーニン流プロレタリアート独裁に類似しているとのご指摘を受けました。これについては「プロレタリアート独裁との違い」という小見出しのもとに、説明をしたつもりなのですが。

リベラリスト:読みました。「より厳格に移行期に限定しての短期的な政令統治」とまとめられていますね。ですが、期間を厳格に区切るといっても明確に何年と示さないならば、「移行期集中制」が遷延して一党独裁的な体制が出現する可能性はあります。

コミュニスト:事の性質上、何年という確定数値を示すことはできませんが、5年以内という目安は示しています。要するに、出来るだけ早く終わらせるということです。しかも、不完全とはいえ、代議機関としての民衆会議は存在しますから、完全な執行権独裁とは違うのです。

リベラリスト:しかし、革命委員会という革命指導機関が全権を掌握する体制を基本とし、緊急政令のような強大な立法権も持つわけですから、相当な権力集中体制となるでしょう。

コミュニスト:体制の枠組みを維持したままの「改革」ではなく、社会を根本から変革する「革命」を完遂するには、実際的に考えて、ある程度の集中体制が必要であるということは否定できないのではないでしょうか。

リベラリスト:たしかに、貨幣経済システムそのものの廃止にまで進もうというあなたの革命事業を完遂するには、実際的に考えて、大変な独裁権力を必要とするでしょうね。巨大な反対運動に直面する可能性が大ですから。挑発的な言い方になりますが、遠慮せず、あなた個人が「偉大なる領導者」として全権を掌握する徹底した独裁政治を期間限定でお考えになってはいかがですか。

コミュニスト:それはあり得ません。真の共産主義革命は、全世界・地球規模での連続革命として完遂されるものですから、個人独裁はやろうとしても無理なのです。

リベラリスト:貨幣経済廃止には私のようなリベラリストも反対運動に身を投じるでしょうが、これに対して、警察的な抑圧は一切加えないのですか。

コミュニスト:KGBのような秘密警察機関は設立されませんから、ご安心ください。ただし、反対運動という名目での犯罪的な諸活動が警察的に取り締まられることは当然です。

リベラリスト:一方で、あなたは「反革命活動への関与が疑われる団体や個人に対する情報収集・動静監視及び対抗的抗議活動、場合により捜査機関への告発を行う、警察権限を持たない非権力的な組織」として、革命防衛連絡会なる組織を設立するとされていますよね。これは、民間団体の形で、警察法などの法規を超え自由自在に活動できる巧妙な秘密警察組織だと思うのですが。

コミュニスト:革防連は正規の警察とは異なる民間組織ではありますが、超法規的活動が許されるものではなく、当然各種法規を遵守しなければなりません。革防連は警察のような強制権力は持たないのですから、基本的人権を守りつつ、革命防衛の役割を果たすという意味で「巧妙な」組織なのです。

リベラリスト:そうですか。いずれにせよ、革命という政治行動は多数派の世論に反して少数派がその理念や政策を強制実施するという点において、本質的に非民主的なものです。それが正当化されるのは、よほど既存社会が崩壊危機に瀕しているような場合に限られるというのが私の考えです。

コミュニスト:その点、私も「革命のタイミング」という視点から論じております。タイミングを早まった革命はたしかに少数派による冒険主義的な政治行動となりますが、時宜にかなった革命はむしろ民衆総体での民主的な社会変革事業になるのです。

リベラリスト:その点、あなたはいわゆる連続革命論者でもあるわけですが、全世界で共産主義革命が短期間で継起するとされる連続革命は私には空想、と言って悪ければ机上論のように思えてきます。反論等おありでしょうから、次回討論しましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(21)

2015-05-17 | 〆リベラリストとの対話

19:非武装平和革命について②

リベラリスト:コミュニストさんが提唱される「民衆会議」を通じた非武装革命論は、どこかインドのガンジーの非暴力抵抗論を思わせる―ガンジーが所属した「国民会議」の党名も含め―のですが、影響関係はあるのですか。

コミュニスト:そう思われるのも無理はありませんが、私が『共産論』をまとめた時、ガンジーのことはまったく念頭にありませんでした。ガンジーの名と業績は知っていますし、尊敬に値する歴史上の人物であると思いますが、彼は基本的に独立運動家であって、革命家ではありませんでした。もちろんコミュニストでもありませんでした。

リベラリスト:たしかに、非武装というのは、革命ではなく、抵抗の手法ではないかと思うのです。あなたが革命の手法として提起する集団的不投票についても、それは例えば不正選挙に対するボイコット手段としては効果的でしょうが、合法的に行われる選挙に対しては、ご自身不安視されているように、技術的に困難かと思われます。

コミュニスト:すると、やはり革命の「伝統」に従って、武装蜂起したほうがよろしいと?

リベラリスト:そうではありません。私は革命家ではありませんから、社会の変革は投票箱を通じてしか現実的には無理であろうと考えるものです。ただし、アメリカ独立宣言にあるように、暴虐な政府に対しては武器を取って革命を起こさざるを得ない場合はあるだろうと―そうならないことを切望しつつ―思います。

コミュニスト:私も二つの革命の方法を例示する中で、状況によっては武装蜂起型の革命が有効な場合はあるだろうと指摘していますが、そういうケースは乏しく、基本的には平和革命のほうが「現実的」であり、これからの革命の常道になろうと考えています。

リベラリスト:そこがどうしても納得いかないのです。投票ボイコットで合法的に無政府状態に追い込み、交渉でもって政権移譲、革命政権樹立に結びつけるというのは、机上の空論と言って失礼なら、理論倒れではないかと。小説や映画の世界ならわかりますが。

コミュニスト:それは、これまでそういう形の革命が起きたことがないから、経験的に理解できないだけです。徹底した経験論に立つなら、そのような革命は想定できないとなるでしょうが、革命論は経験論に終始するものではありません。理屈として立てられたものを可能にする方法を考えることも、革命論の使命です。

リベラリスト:では、どのようにして可能になりますか。私には思いつかないのですが。

コミュニスト:『共産論』にも書いたように、民衆会議運動です。民衆会議は革命後には公式の民衆代表機関となりますが、革命前には革命組織であるという連続的・発展的な運動体です。

リベラリスト:それは共産党のような政党組織抜きの革命運動論として、ポスト近代的な興味深いお考えと受け取りますが、どれだけの人々がそういう運動体の意義を理解し、参加してくるかどうか、私は懐疑的です。

コミュニスト:歴史ある共産党だって入党しようとする人は限られているでしょう。コミュニズムを正しく理解してもらうための困難さは運動形態を問わず、共通のものです。民衆のいわゆる動員解除状態は日本では極めて高度ですから、民衆会議の組織化も困難を極めるだろうことは承知しています。

リベラリスト:すると、積極的にそのような運動を自ら組織しようとはなさらないのですね。孤高のコミュニストさんですか。

コミュニスト:それは、自分自身の組織力のなさを自覚しているからでもありますし、『共産論』もまだ完全版とは言えないからでもあります。

リベラリスト:そういうまるで仏陀のような謙虚さは、レーニンその他、過去の傲慢な革命家には見られなかった新しい革命家像のように思われます。とはいえ、あなたが過渡期の革命体制として提示する部分は、どうもレーニン的なプロレタリア独裁論を思わせるものがあって、少し不穏さも感じますので、これについては次回対論してみたいと思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(20)

2015-05-10 | 〆リベラリストとの対話

18:非武装平和革命について①

リベラリスト:「自由な共産主義」の政策的な各論についても、いろいろと議論したい点はありますが、それ以前の問題として、あなたが提示される「平和革命」という体制移行の方法について、議論したいと思います。もっとも、「平和」という語は不戦平和主義と紛らわしいので、「非暴力」という語のほうが議論するうえではわかりやすいでしょう。

コミュニスト:予想どおりの展開です。つまり、いったい「非暴力(平和)革命」というような形容矛盾が可能なのかどうかという問いでしょう。ちなみに、私は「非暴力」ではなく、革命の手段に着目して「非武装」という用語を使います。

リベラリスト:読まれていましたか。そのとおりです。あなたは、投票ボイコットによる在宅革命というユニークな提案をされていますね。それが「非武装革命」ということなのでしょう。武器を取って蜂起する革命のイメージを覆すという点では有意義だと思うのですが、いささか漫画的―すみません―に思えてくるのです。

コミュニスト:荒唐無稽とはっきりおっしゃっていただいても、別に傷つきませんよ。たしかに、技術的に投票ボイコットという革命の方法は困難ですし、武装蜂起に比べて恰好悪いかもしれませんね。しかし、よく考えてみれば、恰好良い武装蜂起による革命のほうがもっとあり得そうにないのではないでしょうか。

リベラリスト:私の祖国の米国では、そうでもないのですよ。さすがに憲法には書いてありませんが、独立宣言には、革命の権利が記されています。米国民はいざとなったら暴虐な政府を革命で倒す権利を留保しています。ですが、それはまさに暴虐な独裁者が立ち現われた場合のことでして、憲法はそういうことが起きないように、三権分立を徹底しているわけですが。

コミュニスト:立憲政治が正常に機能している限りは、投票箱を通じて政権を取り替えることしかできないのですよね。ですから、発想を変えて、投票しない権利を行使することが革命になるのです。

リベラリスト:そこがよくわからないのです。立憲政治が正常に機能している場合は、おっしゃるように投票箱を通じて政権を取り替えることが「プチ革命」となるはずであって、なぜあえて投票をボイコットする必要があるのでしょう。

コミュニスト:私も旧『共産論』で示した三つの革命の方法の中に「投票箱を通じた革命」を含めておきましたが、それについては、「基本的に大統領直接選挙制を採用する典型的な共和制国家―しかも有権者が若く、その投票行動が比較的柔軟な新興国―で一定の可能性を持つ革命の方法であると言えようが、民衆会議が目指す革命の方法として積極に推奨されるべきものとは言えない。」と指摘しましたが、現在では革命の方法からは削除しています。

リベラリスト:なるほど、日本や欧州でよく見られる議院内閣制下の選挙では、「投票箱を通じた革命」が困難なことはわかります。それで、あえてボイコットという逆を突くような戦略を取るわけですね。でも、やはり私は疑問で、非武装革命云々というなら、技術的な困難はあっても「投票箱を通じた革命」こそが正道であると信じます。

コミュニスト:リベラリストさんは選挙政治の確信的支持者なのでしょうね。それも理解できますが、選挙とは基本的に反革命的なものです。革命的な激変を抑止するために、選挙という面倒な手続を踏むのです。ですから、共産党も選挙政治に没入していると急進性を失い、党是であるはずの共産主義社会の実現は名ばかりの理念と化してしまうのです。

リベラリスト:共産党も遠慮せず、共産主義社会の実現を有権者に堂々と訴えたらよいのです。その結果、共産党が最多得票すれば、政権獲得できるのではないですか。

コミュニスト:共産党の得票が伸張する前に、他政党の反共宣伝と集票マシンがフル稼働して、共産党の政権獲得を全力で阻止するでしょうから、実際にそんなことは起きないでしょう。本当に共産党が政権を獲得できるとしたら、それは共産主義の看板を下ろした時、つまり、イタリアのように共産党が反共政党に転向した時です。

リベラリスト:そういうこともあって、コミュニストさんは共産党によらない共産主義革命、すなわち民衆会議という独特の政治組織による革命を主張されるのですよね。これについては、改めて次回議論することにしましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(19)

2015-05-04 | 〆リベラリストとの対話

17:共産主義的家族モデルについて

リベラリスト:前回家族モデルの問題にも少し触れましたが、あなたが提唱する共産主義家族モデルは非婚姻的なパートナーシップというもので、要するに、資本主義社会で一般的な核家族モデルの究極ですね。これはいささか意外です。

コミュニスト:つまり、共産主義的家族モデルは、本来もっと大家族的なものではないかという疑問ですか。

リベラリスト:そうですね。核家族というのは本来労働者階級的な家族モデルであって、まさに資本主義の社会的な所産だと考えられますから、どうもあなたの描く未来の非婚的家族モデルは、共産主義的未来ではなく、資本主義的未来の家族モデルのように思えるのです。

コミュニスト:実は、私も『共産論』を執筆していた時、一番悩んだ点の一つは、家族モデル問題でした。実際、共産主義的家族モデルとして、大家族の復権という選択肢も念頭に浮かびました。しかし、私の構想する共産主義は農村社会への回帰を前提するものではなく、工業化・情報化社会の上に成り立つポスト近代的な共産社会を構想するので、農村社会的な大家族の全般的な復権はやはり想定できないと考えたのです。

リベラリスト:なるほど。そうすると、生産活動における社会化、日常生活における個人化という峻別がなされるのですね。実際のところ、そういうことが可能かどうかわかりませんが。

コミュニスト:実は、この対論のテーマにもなっている「自由な共産主義」とは、そのように個人主義的な自由と共産主義的協働化とを組み合わせようという試みなのです。共産主義=統制主義というような自由主義者が抱きやすいステレオタイプな「偏見」を克服したいのです。

リベラリスト:よくわかります。ただ、私は自由主義者ながら核家族モデルには疑問を持ち始めています。核家族は封建的な長幼序から解放されたフラットな家族関係である反面、密室的な環境下に親と子数人が逼塞的に暮らし、人間関係が濃密になり過ぎるがために、様々な家族病理を生じさせる元になっているように思います。その点、私はかえって共産主義に大家族モデルの復権を期待したくなるのです。

コミュニスト:それは興味深いご指摘ですね。これは全くの仮説モデルにとどまるのですが、共産主義社会では計画的な職業紹介システムが構築されることで、職住近接が実現するため、転居回数も減り、全般に定住性が強くなると考えられます。そうなると、近隣の結びつきが復活し、近隣家族が大家族的な集合体を作るといった形で、核家族モデルを「核」とした集合家族モデルのようなものが都市部でも現れるのではないかと予測しているのですが。

リベラリスト:なるほど、それは血縁ではなく、地縁に基づく大家族モデルのようなものですね。農村部など地方ではどうなのでしょうか。

コミュニスト:私の構想する共産社会では農業も社会的な形態で再構築されますので、農村の再編が見られるでしょう。それは従来型の家族農の集落ではなく、農業生産機構の職員の集住地となるので、農村というより「農業都市」のようなもので、そこにはやはり集合家族の形成が見られるかもしれません。

リベラリスト:そうした集合家族では家事や育児も共同化されるのですか。

コミュニスト:あくまでも仮説モデルなので、具体的な内実を説明することは難しいのですが、単なる「近所付き合い」にとどまらない「集合家族」となるからには、家事や育児も融通し合うことになるのではないでしょうか。

リベラリスト:シェアハウスのファミリー版のようなものですね。楽しそうです。どうやら、家族モデルに関しては、共産主義に軍配が上がりそうな気がしてきました。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(18)

2015-04-19 | 〆リベラリストとの対話

16:完全自由労働制について④

リベラリスト:あなたは『共産論』の中で、「資本主義世界の男性が狂奔してきた貨幣獲得‐利潤追求という大目標が完全に消失する共産主義社会にあっては、企業活動に対する男性の意識の持ち方も変容し、企業活動とは別のところに自己の道を見出そうとする男性が増えるかもしれない。このような男性的価値観の転換は、社会的地位における男女格差を解消する可能性を促進すると考えられる。」と述べられています。暗唱したくなるほどの名調子ですが、内容的にはいささか疑問を抱いています。

コミュニスト:つまり共産主義社会にあっても、男性の意識は変わらず、社会的地位における男女格差は解消されないだろうということですか。

リベラリスト:男性の意識以上に、女性の意識がある意味「変わる」のではないか。あなたが想定する完全自由労働制は貨幣経済の廃止の上に成り立つわけですから、働いて生活費を稼ぐという習慣はなくなります。となると、女性たちも生活のため無理に働くこともないので、主婦として家庭に入る道を選ぶ人が再び増大するのではないかと思うのです。

コミュニスト:そうだとすると、資本主義社会の女性たちは本当は主婦志望なのに生活の必要上やむを得ず渋々と就労していることになりますが、果たしてどうでしょうか。そういう人もいるのでしょうが、多くの人は、働くこと自体の喜びや生き甲斐を求めていると推察します。

リベラリスト:この問題は結局、以前議論した無報酬の完全自由労働というものが果たして成り立つのかという問題に帰着するでしょう。労働と消費が分離されて、一切働かなくとも生活できるという夢の社会になれば、最悪の場合、老若男女みんなして労働から引いてしまい、決定的な労働力不足に陥りかねないわけです。

コミュニスト:それでは議論が振り出しに戻ることになります。あなたに引用していただいた箇所で私が主張しているのは、さしあたり貨幣経済の廃止が男性の「企業戦士」的な価値観を転換する可能性です。

リベラリスト:はい。たしかに、貨幣経済が廃止され、労働して金を稼ぐという慣習が消滅すれば、「企業戦士」はいなくなるでしょうし、彼らの「銃後」を内助の功で支える「家内」もいなくなるでしょう。ですが、それによって、あなたが想定するように婚姻家族制自体も変容・消滅して、夫/妻という役割規定すら消失するというのは、いささか飛躍があるように思えるのです。

コミュニスト:たしかに、労働形態の問題を家族形態の問題に関連付けたのは、少し性急だったかもしれません。あなたが悲観されるように、共産主義社会下でも「男=夫は仕事、女=妻は家事」というような古い婚姻家族モデルが根絶されない可能性はあるでしょう。ですが、私はもう少し楽観的な予測を持っています。

リベラリスト:すると、「21世紀の共産主義革命」においては、フェミニストの「女性戦士」が鍵を握っているということですか。

コミュニスト:21世紀中に革命が起きるかどうかについては、より慎重な見通しを持っておりますが、労働をめぐる価値観の転換は女性のみならず、男性も含めたすべての人の思考回路に革命が起きないと、なかなか根本的には進まず、空しいスローガンだけの“男女平等”に終わってしまうだろうとは言えます。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(17)

2015-04-12 | 〆リベラリストとの対話

15:完全自由労働制について③

リベラリスト:共産主義的な完全自由労働制では、労働時間の大幅な短縮が実現し、各自の趣味や夢の実現に充てることのできる自由時間を獲得できるとまさに夢のようなことを書いておられますね。

コミュニスト:そのとおりです。どこまで時短できるかはわかりませんが、うまくいけば4時間労働(半日労働)も可能かと考えています。これぞ「自由な共産主義」の真骨頂です!

リベラリスト:半日働いて、半日遊べるのですね。たしかに素晴らしい!ですが、それではすべてが部分的なパート労働になりかねません。

コミュニスト:その点は、ご心配に及びません。前回まで議論しましたように、賃労働は存在しないのですから、資本主義的なパート労働とは異なり、低賃金に苦しむことはないのです。資本主義的労働では賃金切り下げの手段となる恐れが拭えないワークシェアリングが、そうした用語も不要なほど一般化するのです。

リベラリスト:ワークシェアリングは、資本主義の下でも特に過密労働が行われやすい分野では時短の手段として導入されるべきだと思いますが、それが一般化するとなると余剰人員が恒常化し、生産効率は低下するのではないでしょうか。

コミュニスト:資本主義が「余剰人員」を極度に恐れる理由は、働かない労働者に賃金を支払うのは不合理だからというのでしょう。しかし、それも賃労働制が廃されれば、心配要らないわけです。労働力というものは、常にぎりぎりの人員に切り詰めるよりも、少し余裕をもって配置するほうが労災や重大ミスの防止のためにも合理的でしょう。

リベラリスト:なるほど。とはいえ、労働者の士気や生産性が果たして半日労働のような半端労働で維持できるかどうか、私にはなお確信が持てないのですね。

コミュニスト:一日通しで働きづめるという労働習慣に慣れ切ったあなたがたアメリカ人や私ども日本人の時間感覚では、確信が持てないのも理解できます。ですが、同じ資本主義を共有していても、ゆったりした時間感覚で生きている地中海域諸国の人たちなら、理解してくれるような気がしますね。

リベラリスト:なるほど、それで「がんばれ、ギリシャ!」ですか・・・。実は私の母方祖先はギリシャ移民なのですが、たしかに地中海系のお昼寝付き資本主義はアメリカの貪欲資本主義や日本の勤勉資本主義とは文化的にも異なるようですね。

コミュニスト:文化の相違もあるかもしれませんが、それだけではなく、政策の相違でもあります。資本蓄積を国を挙げて追求する国と資本蓄積はほどほどにして人間的な生活を尊重する国の違いです。その意味では、地中海系資本主義は共産主義への架け橋と言えるかもしれません。

リベラリスト:「人間の顔をした資本主義」ということですか。人間の顔をしすぎて、国際経済危機を引き起こさなければいいですが。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(16)

2015-03-29 | 〆リベラリストとの対話

14:完全自由労働制について②

コミュニスト:リベラリストさんは、前回の対論の最後に、科学的な労働紹介システムが確立され、各人の適性に沿った職業選択肢がたくさん示されたとして、人々は無報酬で嬉々として労働するようになるだろうか、という疑問を示されました。

リベラリスト:はい。私の考えでは、人間は案外怠惰なもので、強制か報酬なくしては、真面目に働かないだろうと予測されます。強制労働は人道上不可とすれば、あとは報酬を「餌」とするしかないのではないか、と思うわけですが、間違っていますか。

コミュニスト:報酬が労働の一つの動機づけとなることは認めます。しかし、強制か報酬かという二者択一はいささか狭い労働観ではないかと思います。それは要するに、強制にせよ、報酬にせよ、外部からの動機づけなくしては人間は労働しないだろうという見方を前提としています。しかし人間の労働の動機には、仕事自体の喜びや誇りなどもあるはずで、そうした内発的な動機をうまく刺激する方法が確立されれば、強制も報酬もない完全自由労働制は十分成り立つと考えます。

リベラリスト:喜びや誇りを感じられるような仕事なら、そうでしょう。しかし、人が忌避するような仕事―具体例を挙げることは差し控えますが―の場合はどうでしょう。ところが、そういう仕事に限って社会にとってなくてはならないものなのです。

コミュニスト:その問題は意識しています。しかし、報酬がなければ誰もやりたがらないような仕事は、果たして選択可能な職業として認識されるべきなのか、と考えてみてはどうでしょうか。そのような仕事は生活に困っている誰かがやればよいと他人に押しつけるのではなく、自分たちの社会的な任務として引き受けるようにするのです。

リベラリスト:すると、それらの仕事は義務性を帯びてきて、強制労働制が浮上する可能性もありますね。私たちアメリカ人は「収容所群島」の世界には強く警戒的なのです。

コミュニスト:もちろん反人道的な強制労働制には私とて反対ですが、だからといって、社会にとって不可欠な重労働を他人任せにするのも、一種の奴隷制です。自由労働と社会的任務との切り分けをすることは、公正な社会の基本軸であると考えます。

リベラリスト:もう一つ疑問なのは、あなたの構想では例えば医師のような高度専門職までが無報酬のボランティア仕事となるわけですが、それでは高度専門職が激減し、医療等の専門技術的なサービスの提供が停滞するのではありませんか。

コミュニスト:少なくとも、現状のように高い報酬と名誉が目当てで医師になるという人が激減するなら、患者にとっては朗報です。医療や福祉は表向き高邁な理念を掲げていますが、報酬労働制のもとでは所詮、医療・福祉も報酬目当ての労働であって、しばしば露骨な儲け主義に走る傾向も見られます。報酬がなくなることで、初めて標榜どおりの理念が実現するのではないでしょうか。

リベラリスト:たしかに報酬至上の労働観は適切ではありませんが、完全無報酬で果たして何年にもわたる厳しい教育訓練を要する高度専門職が維持できるのか不安は拭えません。全般に、コミュニストさんの労働観は人間の勤勉さに対する篤い信頼に基づいているようですが、私はそこにやや甘さを感じてしまいます。

コミュニスト:リベラリストさんは、人間は本質的に怠惰であると悲観しておられるようです。私は人間が本質的に怠惰だとは思いませんが、人間にはギブ・アンド・テイクの関係を好む互酬的性質があることは認めます。しかし、これとて後天的に体得された習慣であって、先天的な本能ではないと考えています。社会の仕組みが変わることで、変化し得る性質なのです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(15)

2015-03-22 | 〆リベラリストとの対話

13:完全自由労働制について①

リベラリスト:今回から、労働の問題について話し合いたいと思うのですが、あなたの『共産論』で私が一番懐疑的なのは、無償の完全自由労働という構想ですね。要するに、複雑・単純を問わず、あらゆる労働をボランティアにしようというわけですが、それとある意味、究極のノルマ生産である計画経済とがどう結びつくのか、イメージが湧きません。

コミュニスト:計画経済と聞くと、過酷なノルマを課せられる強制労働をイメージされることが多いようですが、正しく理解された計画経済は強制労働とは無縁のものです。

リベラリスト:強制労働の禁止は、私もリベラリストとして十二分にわかっています。そして、自由市場経済下では労働の自由が保障されており、あえて労働しないことも選択肢としては認められているということも理解しています。

コミュニスト:そのことは、私も自由市場経済下での生活を強いられてきたコミュニストとして、承知しています。ですが、資本主義社会で労働しないことが可能なのは、労働で報酬を得ずとも、自己資産や他人資産による援助などの生活の支えがある場合に限られます。つまりは、有産有閑階級の贅沢なのです。

リベラリスト:有産階級も、自分の労働によって形成された資産に基づいて有閑生活を送るならそう非難する必要もないのでは?それより、私が知りたいのは、無償の完全自由労働で、どうやって労働を組織できるかです。ボランティアでカバーできる労働領域は限られています。

コミュニスト:一つの手がかりは、緻密な労働紹介システムです。資本主義では、労働するかどうか、するとしてどのような労働に就くかはそれこそ完全自由だという名目で放任されるため、ミスマッチやニートなどの問題が起きやすいのです。しかし、労働紹介が合理的にしっかりと行われれば、各人に適性に沿った労働を配分することが可能です。

リベラリスト:「労働配給システム」ですか。労働も労働生産物も配給制。統制経済の本性が出ましたね。

コミュニスト:それは、短絡的な批判です。少なくとも、私が構想する労働紹介システムは、画一的な労働分配ではなく、心理学も応用した科学的な適性評価に基づく労働紹介ですから、資本主義的な職業紹介よりも実質的なキャリアカウンセリングの意義を持っています。

リベラリスト:しかし、あなたが強調する計画経済というのは労働力の計画的動員なくしては成り立たないはずです。心理学的なキャリアカウンセリングだけでは甘いのでは?

コミュニスト:もちろん、経済計画には労働力計画も包含されますから、労働紹介は経済計画とも連動して、一定の計画性をもって実施されるでしょう。

リベラリスト:すると、やはり個人の職業選択の自由を制約する側面を生じ、リベラリストとしてはすんなり賛同というわけにいかなくなりますね。統制的と言って悪ければ、管理的になります。

コミュニスト:資本主義は職業選択の自由を高調しますが、それには裏があり、「自由」の触れ込みにもかかわらず、実際上各人の職業選択肢の数は決して多くないのだ・・・ということは、人生の半分くらいまで年を重ねた人なら実感できるはずですが。

リベラリスト:ええ、私もひしひしと実感していますよ。では、「科学的な労働紹介システム」が確立され、各人の適性に沿った職業選択肢がたくさん示されたとして、あなたの期待どおりに、人々は無報酬で嬉々として労働するようになるでしょうか。これは、人類という生き物の本質にも関わることなので、次回に回しましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(14)

2015-02-22 | 〆リベラリストとの対話

12:環境計画経済について⑤

リベラリスト:あなたの環境計画経済論でかねてより気になっていたことは、流通の問題が見えないことです。あなたは資本主義の優位性を消費の豊かさに見ているようですが、私見では生産者と消費者(原料や資材の消費者も含む)とをつなぐ流通ネットワークの構築こそが、資本主義市場経済の最大の強みだと考えています。逆に計画経済は流通が苦手分野であり、そのために物流が停滞しがちなのです。

コミュニスト:痛いところを突かれました。たしかに、流通について『共産論』はあまり明確に論じていません。しかし流通を軽視しているのではなく、流通のシステムは資本主義市場経済ほど発達しなくとも、十分に物流を確保できると考えるからです。

リベラリスト:どういうことでしょう。まさか荷馬車を復活させようというのでは・・・。

コミュニスト:西部劇とは違います。本来、計画経済はさほど流通を必要としないのです。特に食糧に代表される日用品は地産地消を原則としますから、長距離輸送は必要としません。消費事業組合直営の輸送サービスでまかなえると思います。

リベラリスト:あなたの提案では計画対象企業は環境負荷的な分野に限定し、その余は自由生産に委ねるのでしたね。そうした自由生産分野の物品の流通はどうなりますかね。

コミュニスト:おそらく郵便事業と後で述べる運輸事業機構の個別サービスでカバーできると思います。ちなみに貨幣経済は廃止されることが前提ですから、料金を気にかける必要はありません。

リベラリスト:それはよいとして、原料や資材といった生産者が必要とする物財については、大型の長距離輸送が必要ですが、これはどうしますか。

コミュニスト:そうした調達物流に関しては、運輸事業機構のような大規模な企業体が必要となります。これについては、『共産論』でも計画対象企業とし、「二酸化炭素の排出量の増加傾向が目立つ運輸部門は、少なくとも陸上貨物輸送についてはトラック輸送と鉄道輸送を単一の事業機構に統合化したうえ、長距離トラック輸送の制限と鉄道輸送の復権とを計画的に実行する必要がある。」とも指摘しているところです。

リベラリスト:国際間、いや、国家も廃止するというあなたの用語では“民際”間の物流は?

コミュニスト:商業貿易は廃されるということを前提に、不足産品の補充的な海外調達の問題になりますが、それには航空輸送が引き続き活用されるでしょう。同時に、周辺からの調達ならより環境的に持続可能な海上輸送の復権もあると思います。

リベラリスト:相当煩雑になりそうで、いわゆるロジスティクスの低下は避けられないのではないでしょうか。

コミュニスト:一見複雑ですが、むしろシステムとしては市場経済的ロジスティクスよりはるかに単純です。市場経済では無数の企業が複雑に入り組み、かえって物流を煩雑で非効率にしているため、ロジスティクスを研究しなければならないのです。

リベラリスト:経験論的に言えば、現実の資本主義的物流は実際ひどく入り組んでいるわりには、日々滞ることなく、なかなかスムーズに動いていますよね。なぜなのかを一度研究してみることをお勧めしますよ。「神の手」を感じられるかもしれません。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(13)

2015-02-08 | 〆リベラリストとの対話

11:環境計画経済について④

リベラリスト:あなたは『共産論』の中で、「消費生活の豊かさは、資本主義が最も華々しい勝利を収めたフィールドであった」と指摘しています。たしかに、消費を計画経済によって適切に規律することは困難であり、消費(広くは流通)を自由市場に委ねる資本主義の優位性は否定できないように思われます。

コミュニスト:消費を自由市場に委ねると言われますが、実際のところ、消費を誘引する需要は生産企業によって作り出され、操作されています。ですから、資本主義の場合も、統一的な計画こそ存在しないとはいえ、個別資本のマーケティングに基づく経営計画によって消費はコントロールされているのです。資本主義的な消費者とは、まるで口を開けて親鳥の給餌を待つ雛鳥のようなものです。

リベラリスト:でも、あなたも認めているように、資本主義はそういう「給餌」のシステムをしっかりと構築できたからこそ、今や労働者層からも受容されているのではないでしょうか。少なくとも、社会主義時代の旧ソ連・東欧の風物詩だった物不足、商店前での大行列を望む人はいないでしょう。

コミュニスト:たしかに、必需品の物不足は困りますが、必要のない有益品や贅沢品の物不足で困る人はいないでしょう。資本主義で平常時に物不足が生じることはまずありませんが、それは有益品や贅沢品まで含めた物全般の過剰生産のゆえです。つまり、物不足ならぬ物余りです。その非効率性と廃棄物による環境負荷は許容限度を越えています。

リベラリスト:しかし、現在の計量経済技術では、需要を的確に予測して、過不足なく生産するシステムを構築することはほぼ不可能ですから、「消費計画」は机上論だと思います。

コミュニスト:そうでしょうか。現在でもどのような物がどのくらい消費されるかは各業界である程度把握できており、データはあるはずです。また、私の提案にかかる環境計画経済における地方的な消費計画には消費者も参加し、また恒常的にモニタリングもするので、消費者と生産者の間での双方向的なコミュニケーションが行われ、消費者が何をどれだけ望んでいるかが可視化されます。決して、一方通行の机上的計画ではないのです。

リベラリスト:あなたの提案では、生産と消費を分離し、生産は中央計画ですが、消費は地方ごとに分権化してしまうのでしたね。しかし、生産と消費は一体のもので、両者を分離することは、先のような生産者・消費者の双方向性に矛盾するのではないですか。

コミュニスト:消費とは、本質的に地方的なものですから、消費の中央計画はそれこそ混乱のもとです。一方、中央計画の対象範囲は、環境負荷的な基幹産業ですから、生活必需品の生産にかかる産業分野は含まれません。ただ、地方の消費計画機関―消費事業組合―も中央の共同計画にオブザーバー参加し、消費の側から意見することができる仕組みにしますから、生産と消費が乖離する心配はないと思います。

リベラリスト:消費計画機関とされる「消費事業組合」なるものも、私には今一つイメージが湧かないのですが、それは日本の生協組織のようなものですか。

コミュニスト:外観的なイメージとしては、そのとおりです。しかし、内実は生協とは異なり、消費事業組合は地方圏が運営し、各地方圏住民(例えば近畿消費事業組合であれば近畿地方圏の住民、アメリカなら今日の州のレベルの住民)を自動的加入の組合員とする特殊な公的事業体であり、同時にそれ自身が消費計画機関でもあります。

リベラリスト:そう言われても、アメリカ人にはなかなかピンと来ませんがね。少なくとも、世界一自由な消費人であるアメリカ人の心をとらえるかどうかは疑問です。

コミュニスト:たしかに、アメリカ型消費モデルとは対極にある消費モデルでしょう。しかし、アメリカ型消費モデルの環境負荷性は、アメリカ人自身も気がつき始めていると思います。中国やインドがアメリカ型消費モデルに完全移行する前に、何とか共産主義的変革をしないと、地球の損傷は致命的なものとなりかねません。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(12)

2015-01-18 | 〆リベラリストとの対話

10:環境計画経済について③

リベラリスト:計画経済が最も苦手とする分野は、農業―広くは第一次産業―ではないでしょうか。ソ連型の計画経済が挫折した要因の一つとして、農業集団化の失敗があったと思います。自然の産物を育て、収穫する営為である農業は、人為的な計画に最もそぐわないものです。

コミュニスト:ですが、植物を工場で栽培する工場栽培のような技術が資本主義の下でも現れて始めていることからすると、農業が計画経済の完全な対象外とは言えなくなるのではないでしょうか。

リベラリスト:あなたの環境計画経済は、野菜果物が完全に工場で栽培される未来社会を想定しているのですか。

コミュニスト:そうではありませんが、さほど遠くない未来、ひょっとするとまだ資本主義の段階から工場栽培のウェートが相当に高くなるのではないかと予測しています。未来の環境計画経済も、その延長上に置かれるのではないかと考えられないでしょうか。

リベラリスト:私は、世界中で個人農業は減少し、食品資本や流通資本が直営する大農場が増加するだろうと予測していますから、工場栽培の拡大とともに、資本主義的な農業の集約化は避けられないだろうと見ています。共産主義的な計画農業もそれを継承するというなら、本質的にはどう違うのでしょうか。

コミュニスト:共産主義的な集約農業は、当然営利資本が経営するのではなく、公的な農業生産機構が運営する非営利的な農業ですから、見かけは同じでも内実は全く違います。

リベラリスト:言わば、旧ソ連の国営農場ソフホーズのようなものですね。しかし、旧ソ連ですら、ソフホーズの割合はそう高くなく、協同組合型のコルホーズが高いウェートを占めていたはずです。

コミュニスト:ソ連でも次第にソフホーズが増加していたのです。私は、コルホーズや個人農業を前提とした日本の農協制度のような中途半端な農業集団(合)化ではなく、環境的持続可能性を織り込んだより計画性の高い農業生産体制として、農業生産機構による統一的な農産を提唱しているところです。

リベラリスト:それは一方で、地方分権的にも運営されるというのですから、やはり中途半端になる可能性はあるでしょう。それに、私の祖国アメリカのように広大かつ反集権的な風土のところでは、そうした統一的な農産体制は無理のように思えます。

コミュニスト:農産は地域差が大きいので、地域的な特色を考慮した柔軟な分権は必須です。アメリカは分権が得意でしょうから、さほど心配は要らないのでないでしょうか。

リベラリスト:農業はよいとして、漁業はどうでしょう。こちらは養殖を別として、自然の生き物を捕獲する狩猟の一種であるからして、いよいよもって「計画」は妥当しないでしょう。

コミュニスト:漁業分野では、水産資源の持続可能性を維持するための漁獲割当という形の計画漁業が実現されます。農業とは別組織となりますが、水産機構のような統一的生産組織が設立されることになるでしょう。ちなみに、樹木を伐採する林業にも同様のことが当てはまります。

リベラリスト:興味深いお話ですが、私が理想とする第一次産業は、適切な環境規制・安全規制の下に、一定以上の規模の資本が直営する創造的かつ集約的な生産体制です。

コミュニスト:思慮深いお考えだとは思いますが、「適切な環境規制・安全規制」と「資本が直営する創造的かつ集約的な生産体制」が理想的に両立するかどうか、私は極めて疑問に思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(11)

2014-12-21 | 〆リベラリストとの対話

9:環境計画経済について②

コミュニスト:環境計画経済については、まだいろいろと疑問をお持ちのようですので、伺っていきたいと思います。

リベラリスト:はい。前回は環境計画経済の理論的な基礎となる環境経済学の未発達という総論的な疑問を提起しましたが、実際、仮に環境計画経済を実行するとしても、その方法に関して疑問があります。あなたは、新しい計画経済として、旧ソ連型の行政主導ではなく、環境負荷産業を担う企業体自身による自主計画ということを提案されていますが、私の意見では、このようなお手盛りの計画手法では、結局企業体同士での談合のようになってしまうのではないかと思われるのです。

コミュニスト:すると、旧ソ連型の行政主導計画のほうがよいと?

リベラリスト:もちろん、行政主導すなわち官僚主導の「計画」ではあなたも指摘しているように現場無視になりがちですから、よいとは言いません。私の知る限り、ソ連でも計画プロセスに現場企業体を参加させて、現場の意見を反映させる努力はされていたようですが、それもうまく機能しなかったということではありませんか。

コミュニスト:表面的にはそのとおりですが、行政主導では現場の意見を反映するといっても限界があります。ですから、行政を排除して、現場が自主的に計画するのがよいのです。

リベラリスト:しかし、あなたの制度設計によると、計画策定に当たる経済計画評議会なる機関には事務局が置かれ、環境経済の専門家が所属することになっています。これでは、その評議会事務局と所属する専門家たちが事実上の計画官庁(官僚)化する恐れもあるのではないでしょうか。

コミュニスト:事務局の運営いかんではその恐れはあります。しかし、事務局にはあくまでも事務及び計画に必要となる環境経済的な調査・分析を提供する機能しかなく、実際に計画を策定するのは生産事業体(生産事業機構)自身なのです。

リベラリスト:あなたはそれを「共同計画」と言っていますが、実際のところ、個々の企業体は自己利益―せいぜい業界利益―のために動きがちですから、真の意味での「共同」は困難なのではありませんか。

コミュニスト:生産事業機構という大規模企業体は、それ自体が一つの「業界」のようなものです。例えば、自動車生産事業機構は、資本主義なら競合メーカーとして林立していたものが一個の生産企業体に包括されるわけです。

リベラリスト:そうだとしても、自動車生産事業体は自動車生産の業界利益を第一に考え、他業界のことに関心を向けない恐れがあります。

コミュニスト:私の誤解でなければ、あなたが「業界利益」と言われる場合、資本主義経済における利潤(総利潤)が念頭に置かれているように見えます。しかし、真の共産主義社会は貨幣交換をしないということを再確認する必要があります。企業体は利潤追求を目的としないので、ある意味では全企業体が公益団体化するようなものです。従って、資本主義下で想定されるような「業界利益」なる発想は消失するのではないかと思われます。

リベラリスト:なるほど。そうだとしても、各生産事業体が自身の生産計画を持ち寄るだけでは、統一された共同計画にはまとまらないのではありませんか。どのようにして、矛盾のない共同計画なるものを策定するのでしょうか。

コミュニスト:そうした総合と止揚の作業は評議会の審議を通じて行なわれます。経済計画評議会はソ連の国家計画委員会のような行政機関ではなく、立法機関に近い評議機関です。審議の結果可決された経済計画自体は法律ではありませんが、法律に準じた規範性を持つ指針です。

リベラリスト:その規範が適用される対象は、私の理解が正しければ計画経済の対象企業に限られると思われますが、経済活動は全体が有機的につながっていますから、計画対象外企業は計画に拘束されないとなると、経済混乱の原因となるのでは?

コミュニスト:計画対象外の企業もたしかに計画の影響を受けますから、無関心ではいられないはずで、その点、対象外企業も何らかの形で計画策定プロセスにおいて意見を提出できるような配慮は必要かと考えています。

リベラリスト:となると、計画策定は結構複雑で、時間を要するプロセスとなりそうな気がします。経済活動の停滞をもたらさないか心配です。

コミュニスト:経済活動にスピードを要求するのは、貨幣による取引決済をいちいち要する資本主義的な発想です。貨幣交換が廃される共産主義経済では、敏速より熟慮のほうが優先されるのではないでしょうか。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(10)

2014-12-07 | 〆リベラリストとの対話

8:環境計画経済について①

コミュニスト:前回の対論で、「自由な」共産主義体制では、どこまでが計画経済の範囲内なのかの振り分けが難しく、そこを誤ると経済混乱が避けられないだろうと言われました。そのお答えですが、環境計画経済という考え方から、計画経済の適用範囲は環境負荷的な産業であるというのが一応の基準となっています。

リベラリスト:趣旨はわかるのですが、その線引きはかなり曖昧で、判断に迷うでしょうね。それから、環境という視点でくくってしまうと、計画経済全体の設計はどうなるのだろうかという疑問も浮かびます。計画経済の本旨は需要と供給の事前調節という点にこそあるはずで、環境規制は第一の目的ではないですから。

コミュニスト:もちろん環境規制だけではなく、需要と供給の調節も計画経済の目的に含みますが、古典的な計画経済のように、需給調節ばかりに目を向けるのではなく、環境的持続可能性を規準とした需給調節が目指されるのです。

リベラリスト:一般論としては理解できますが、実際にはどのように計画を策定できるか、現状では環境経済学はまだ十分計量化されていないので、実際の計画策定では相当困難があると思います。環境経済学がもっと精緻なものとなるまでは、市場経済に一定の環境規制をかけるという間接的な環境政策によるほかないというのが、私の考えです。

コミュニスト:たしかに環境規準による計画が計量的に行えるかどうかという懸念はあると思います。その意味では、環境計画経済は今すぐ実行可能なシステムではなく、やはり未来に向けての提案の一つということになります。

リベラリスト:そうなるでしょうね。でも、地球環境のほうは待っていてくれませんから、未来の環境計画経済が完成するまで手をこまねいているわけにいかず、やはり現在実行可能な「環境市場経済」をまずは目指すべきではありませんか。あなたからは「緑の資本主義」などと揶揄されるかもしれませんが。

コミュニスト:もちろん、環境計画経済が完成するまで何もせずにいてよいなどとは言いませんし、おっしゃるような「環境市場経済」も否定しません。私の言う「緑の資本主義」とは、資本主義に対する何らの反省もなしに、ただ「環境対策」を万全にすればそれでよしとするような発想のことを指す言葉です。

リベラリスト:環境問題は資本主義vs共産主義の経済体制論とは別次元の問題と考えるべきでしょう。どのような経済体制であろうと、地球環境問題は優先課題です。たとえ共産主義でも環境破壊を引き起こす可能性はあります。

コミュニスト:そのとおりです。ですが、環境問題が資本主義vs共産主義の経済体制論と全く別次元の問題とは言い切れないと思います。資本主義は資本の自由に対する規制はいかなる名目があれ、忌避します。ですから、「環境市場経済」は実際のところなかなか進まないのです。環境破壊を引き起こすような経済開発優先の「共産主義」も想定はできますが、共産主義的計画経済のほうが環境規制との親和性ははるかに高いと思われます。その意味で、真の環境的持続可能性はやはり共産主義でしか達成できないと考えるのです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(9)

2014-11-23 | 〆リベラリストとの対話

7:貨幣経済廃止について③

コミュニスト:前回対談の最後に、私見が計画経済の適用範囲を環境負荷的産業に限定し、その余は自由生産‐物々交換に委ねるとしていることについて、それでは計画によって事前調整されず、なおかつ「財布」による事後調節もされない、まさにアナーキーな生産活動が立ち現れる恐れがあると指摘されました。

リベラリスト:はい。それでは結局のところ混合経済体制であって、混合された要素の欠陥が相乗効果的に現れるという諸国で繰り返されてきたパターンにはまるだけだと思うのです。

コミュニスト:ということは、それこそ靴の生産まで含めて計画経済を貫徹すべきだということでしょうか。

リベラリスト:貨幣なき計画経済体制の正当性を強調されるなら、すべてを計画生産することを恐れる必要はあるのでしょうか。

コミュニスト:しかし、私が「自由な共産主義」という一見自己矛盾的な理念を提出したのは、計画経済の適用範囲を限定しつつ、その余は自由な物々交換や贈与に委ねるという仕組みを想定しているからです。

リベラリスト:初めに概念ありきならば、それはまさにイデオロギーでしょう。物々交換というのは、実は貨幣交換の原型ですから、物々交換を広範に認めるなら、実質上は貨幣経済と同じことであり、貨幣経済を廃止したことにならないのではないでしょうか。イデオロギーとしても一貫性を欠いています。

コミュニスト:初めに概念ありきだとは思っておりません。物々交換はたしかに貨幣経済の歴史的な母体ではありますが、貨幣という定型的・定量的な交換専用手段がある貨幣経済と、そうした交換専用手段を欠く物々交換とはイコールで結べないと思います。物々交換は大量的・定型的取引には不向きですから、取引はより個人性の強いものとなっていくでしょう。

リベラリスト:なるほど。ただ、そうなると、計画経済が適用されない分野―あなたが挙げた靴を例にとりましょう―では、需給関係の調節や環境的持続性への配慮などはなされず、アナーキーになるでしょう。

コミュニスト:計画経済の適用外のものは、必ずしも生活必需的とは言えない小物の生産などが中心になりますので、若干アナーキーであってもよいでしょう。それに、そうした分野でも、環境的持続性については製品の質や生産方法まで含め、環境法の規制が現在よりずっと厳しくなります。需給調節についても、現在資本制企業で個別に行なわれている需給見通しなどは、共産主義でも継承できることでしょう。

リベラリスト:しかし、靴は生活必需品ではありませんかね。それとも、共産主義社会では皆裸足ですか。ともあれ、貨幣交換がアナーキーに見えて、事後調節的に需給調整の機能を持っているという事実は、否定できないでしょう。その点、貨幣経済を廃止した場合はまさに経済計画が経済の均衡を図るうえで必須となるわけで、「自由な共産主義」によって計画経済の適用範囲を限定することに伴う経済混乱の恐れについては、もっと熟慮が必要ではないかと思います。

コミュニスト:わかりました。ちなみに、共産主義社会でも靴は必需品ですが、日用の消耗靴などは、消費分野の経済計画である「消費計画」の中に含めてよいと思われます。それに対して、お洒落靴のような驕奢品は、計画経済の適用外でも問題ないでしょう。

リベラリスト:あなたの「自由な」共産主義体制では、そのようにどこまでが計画経済の範囲内なのかの振り分けで相当苦労するのではないでしょうか。そこを誤ると、やはり経済混乱が避けられないように思われます。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(8)

2014-08-21 | 〆リベラリストとの対話

6:貨幣経済廃止について②

コミュニスト:前回の対論では、マルクス『資本論』で資本主義的な貨幣経済システムの合理性を反証するというお話でした。

リベラリスト:はい。普通『資本論』は資本主義批判の書として読まれていますが、私はあの本を読めば読むほど、逆に資本主義経済システムの強靭さを感じ、資本主義ってなかなか合理的によくできているものだと感心してしまうのです。ある意味、『資本論』は米国礼賛論です。

コミュニスト:そういう逆さ読みができるかどうかは別として、私も資本主義経済が簡単に崩壊するようなことはないと見ています。しかし、それは資本主義の経済システムが合理的だからではなく、資本主義が自己保存に長けているからだと考えます。

リベラリスト:私は資本主義の強靭さは自己保存うんぬんではなく、そのシステムそのものにあると見ます。マルクスは資本主義貨幣経済のアナーキーさを指摘していますが、実はアナーキーに見えて資本主義は事後調節の仕組みを備えており、「神の見えざる手」ならぬ「人の見えざる手」によって上手く調節されているのです。その調節に欠かせないのが、貨幣流通です。つまり、個人も企業も「財布」の紐で適宜調節するので、需給バランスが総体としては大きく崩れることなく、基本物資やサービスの提供が滞りなく行われているのです。すなわち、資本主義には「計画」の代わりに調節道具としての「財布」がある。

コミュニスト:私はそうした「財布」による事後調節の仕組みも、資本主義の一つの自己保存策とみなしているので、あなたとの相違は視点の位置にあると思います。たしかに貨幣流通を通じた事後調節のシステムは巧妙ですが、実際のところ資本主義は恒常的な過剰生産によって物不足を免れているのです。しかし、過剰生産の裏には在庫の大量廃棄という問題が潜んでいることを忘れてはなりません。

リベラリスト:廃棄物問題は深刻ですが、それも資本主義はリサイクルのビジネス化という形で内在的な解決策を示しているわけで、これはこれでなかなか見事な事後調節だと思いますね。

コミュニスト:リサイクルにも物理的な限界があります。そもそも初めから計画的に生産し、リサイクルで対応しなくて済むようにするのが、共産主義的計画経済の長所です。

リベラリスト:でも、あなたは計画経済の適用範囲を環境負荷的産業に限定し、その余は自由生産‐物々交換に委ねると言っていますね。計画経済外の経済セクターの規模にもよりますが、これでは計画によって事前調整されず、なおかつ「財布」による事後調節もされない、まさにアナーキーな生産活動が立ち現れる恐れもあるのではないでしょうか。

コミュニスト:そこは「自由な共産主義」というキーワードの根幹にも関わるところなので、次回の対論に回したいと思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント