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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(28)

2015-07-12 | 〆リベラリストとの対話

26:共産主義的教育について④

リベラリスト:今回は、「大学の解体」をめぐって対論してみたいと思います。「大学の解体」とは言い換えれば、「高等教育の機会均等」ではなく、高等教育そのものを抹消しようという企てですね。

コミュニスト:非常に単純化すれば、そうなりますね。「機会均等」という標語はすべてそうなのですが、空論に終わることがほとんどです。なぜなら、「機会」は均等だが、「結果」の均等は問わないというのが「機会均等」論ですから、鰻の匂いだけは全員均等に嗅がせてやるが、実際に食べられる者は限られるという議論なのです。

リベラリスト:そうでしょうか。鰻を食べるために必要な努力をする限り、鰻を食べるという結果もついてくるというのが、機会均等論の真意です。あなたの議論は、鰻などどうせ食べさせてくれないのだから、鰻そのものを死滅させてしまえと言うに等しいものです。

コミュニスト:しかし、現実に大学という鰻を食するための努力をすることができる環境とそうでない環境は階層的に決定されています。いくら奨学金等の支援策をもってしても、これは埋め切れない階級格差です。かといって、大学全入を認めれば、今度は大卒学歴の価値下落を生じ、学位は紙切れと化します。

リベラリスト:そこで、あなたによれば、「知識階級制の牙城」である大学は解体されなければならないわけですが、解体といっても単純に潰すのではなく、一方では生涯教育機関としての「多目的大学校」、他方では研究専業の「学術研究センター」に分割されるとのことです。この区別は、実は新たな知識階級制を生みだす元となりませんか。

コミュニスト:少し誤解があるようです。大学を単純に多目的大学校と学術研究センターとに分割するのではなく、両者は全く別物です。前者は教育機関ですが、後者は研究機関であり、研究機関としては、数ある就職先の一つに過ぎません。

リベラリスト:しかし、学術研究センターは独自に研究生を選抜養成すると説明されています。これは、一種の学生のエリート選抜ではありませんか。

コミュニスト:学術研究センターの研究生は学生ではなく、センターの職員です。ですから、これは大学への入学とは根本的に異なり、研究所への就職ととらえればよいのです。共産主義社会では研究職も特別なエリートではなく、数ある就職コースの一つです。

リベラリスト:学術研究センターは研究者を教育の負担から解放するメリットはありますが、一切教育しない研究専業機関というものが学術のあり方として健全かどうかという問題もあります。

コミュニスト:学術の社会還元ということなら、学術研究センターは現行大学以上に一般向け学術講演会などを主催する余裕が増えますし、センターの研究員が多目的大学校の講師として講義するといった形で、多目的大学校との連携も取れますから、ご懸念には及ばないものと考えます。

リベラリスト:なるほど。何となく分かってきました。とはいえ、私自身は高等教育の意義をなお信じています。あなたのように、教育は基礎教育で完結し、あとは就職後の生涯教育に委ねればよいということでは、市民社会の知的レベルを維持できるかどうか、不安を拭えません。

コミュニスト:共産主義社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるという趣旨のことを書きましたが、まさに共産主義社会は経験主義的社会なのです。そこで求められる知は高等教育を通じて上から知識体系として与えられるものではなく、日常の生活経験から得られる経験知です。

リベラリスト:経験知の大切さは理解します。ただ、経験に偏るあまりに、理性を信頼する近代的な合理主義の成果面まで失われないかという疑念は残ります。お節介になりますが、「共産主義的高等教育」というものがあり得ないのかどうかも一度検討されてみてはどうでしょうか。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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