【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

根津という街の奥の深さを知る

2009-07-14 00:42:28 | 旅行/温泉
森まゆみ『不思議の町・根津』山手書房新社、1992年           
         
 著者は昭和29年に文京区の動坂に生まれ、小学校の頃は少し遠出をして根津権現に冒険に出かけたとのこと。この地域に特別の想いがあるようで、この本が出来上がりました。

 根津は太古の昔は古東京湾の入江でした。海水は動坂付近まで来ていました(その根津の地名の由来は諸説があるらしい[pp.31-33])。

 江戸から明治、大正を経てこの界隈に人が住みつき、独特の生活と文化の臭う場所となりましたが、近年では徐々にマンションが建ち、古い伝統は失われつつあります。

 著者は書いています、根津、そこにあるのは「単純な下町情緒といったものではなく、もと遊郭であったところの情調、ドロップアウトしても悔いない人間たちの反抗心、一筋縄ではいかない庶民のしたたかさと、こすっからさなども複雑にブレンドされて、根津という町の恐ろしく魅力的な人気を形づくっている」と(p.263)。その根津が好きで、根津の地域史の叩き台にでもと思って、執筆を思い立ったようですが、資料が少なく、そのため本書は聞き取りを多く挟むというかたちでまとめてあります。

 本書を読んで、本書を携えて「根津権現」にも行ってみました。その足で久しぶりに行った「はん亭」という串焼屋のことも詳しく書いてあります(pp.249-252)。

 この建物は大正3年ごろのもの。もともとは三田平吉という人が経営する爪皮問屋だったのですが、串焼き屋「はん亭」の直前はある運送会社の独身寮だったそうです。

 短い時間では、根津界隈はとても廻りきれません。藍染川、根津小学校、バンスイ(金魚の池)、根津銀座、団子坂界隈なども散歩してみたいです。

 歴史的に根津はこれまで5回の転機を迎えた、とあります。最初は遊郭が洲崎に移転したとき(明治21年)、2回目は大正6年に市電が開通したとき、それから震災と戦災、そして今度(本書が書かれた1990年前後)の地価高騰とマンション・ラッシュ、いま根津は岐路にたっているのです。

 本書の構成は以下のとおりです。
Ⅰ 藍染川
Ⅱ 根津権現ー江戸の根津
Ⅲ 根津遊郭」「Ⅳ団子坂菊人形
Ⅴ 藍染大通りの人々
Ⅵ 谷底の文化人たち
Ⅶ 根津の暮らしー明治・大正
Ⅷ 根津万華鏡

哀切きわまりないメロディーと戦争悲劇「ひまわり」

2009-07-13 00:11:12 | 映画

 ヴィットリオ・デ・シーカ監督
   「ひまわり
(I Girasoli)」(イタリア,1970年
)107分

         ひまわり

 
戦争がもたらした人間関係の切なさで多くの人々の心をふるわせたのがこの作品です。

 第二次大戦下,ジョバンナ(ソフィア・ローレン)と軍人のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)はナポリで結婚。
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日間の結婚休暇を楽しみます。仲良くたわむれたり,オムレツをつくったり・・・。彼らは休暇が終わって離ればなれになるのがいやで,ある芝居を考え出しました。アントニオがジョバンナに暴力をふるい,気がふれたとの狂言芝居をうち,狂気をよそおって脱走をはかったのです。アントニオはまんまと精神病院に一時入ることができましたが,結局芝居がばれ,罰として懲役のかわりに,ロシア戦線に送られることになってしまいました。ジョバンナに「毛皮をお土産に,帰ってくる」と約束して。

 アントニオは厳寒のドン河近くのロシア平原で敗走する途中,餓えと乾きの生き地獄のなかで倒れ,凍死寸前。意識不明で倒れているところをマーシャ(リュドミラ・サヴェーリェワ)に助けられました。彼は記憶も喪失し,帰還がかなわないまま成行で彼女と所帯をもつことになりました。

 ジョバンナは一人ミラノで彼の帰還を待ち続けますが、彼女のもとに届いたのは,夫の行方不明通知でした。納得できない彼女はロシア戦線からの復員してきた兵士のなかに,敗走中,アントニオと一緒だったという兵士に出会い、兵士の話しをきくうちに夫が生きていると信じます。

 彼女は単身,ロシアに夫を捜しにでかけました。ジョバンナはモスクワの外務省に赴き,そこの職員とアントニオを探しました。ドイツの命令でイタリア兵士やロシア人捕虜をうめた墓標は延々と果てしなく続くひまわり畑の一角にあり,ジョバンナは懸命にアントニオの消息を求めますが,手がかりさえ見つかりません。

 モスクワではイタリア人でありながら今はロシアにとどまって生活をしている男を偶然みつけ,後を追いますが,夫のことは知らないといわれます。彼の写真をてがかりに必死に夫をさがすうちに,ある地域のおばさんたちがイタリア人の住んでいる家を知っているといいいます。

 しかし,彼女を待ちうけていたのは子どもとともに幸せで平穏な家庭生活をおくっていたアントニオと命の恩人であるマーシャでした。マーシャから事情を聞き,ジョバンナは仕事から帰宅した夫と駅で逢いますが,胸にこみあげる複雑な感情から,言葉をかわすこともなく列車に飛び乗ってその場を立ち去りました。

 怒りと悔しさ,そして絶望でジョバンナは夫の写真や夫の衣服などをたたきつける。やりきれない思いで彼女は,行員と結婚。

 
 このあと、ドラマは一気に盛り上がります。

 戦争に翻弄され,ひとつの運命を強いられた男と女。ウクライナの地にどこまでも続くひまわり畑,ヘンリー・マンシーニの哀切にみちたメロディ,悲しみが胸にせまってくる映画です。


壮大な浄土真宗の総本山・知恩院

2009-07-12 00:18:56 | 旅行/温泉
知恩院(京都散歩⑥) 東山区林下町400

  知恩院にはこれまで2回、行きました。10年ほど前です。今回が3回目です。1回目は、普通見ることのできない三門の2階にあがることができました。2回目は秋、ライトアップされたモミジがきれいだったこと。幻想的でした。

 知恩院は浄土宗総本山です。山号は華頂山。本尊は法然上人(本堂)、阿弥陀如来(阿弥陀堂)で、創立者は法然です。

 現存の三門、本堂など壮大な伽藍が建設されたのは江戸時代です。浄土宗徒であった徳川家康は1608年(慶長3年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂を造営しました。造営は2代将軍秀忠に継承され、三門は1621年(元和7年)に完成しました。

 1633年(寛永10年)に火災にあい、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼しました。3代将軍家光が再建しました。

 三門は本堂へ向かう急勾配の石段の立っています。高さ24メートルの大きさで、東大寺南大門より大きく、日本の寺院の三門のなかで最大の二階二重門です。門の上部内部は釈迦如来像と十六羅漢像が安置され、天井には龍図が描かれています。

 本堂(写真)は三門をくぐり、急な階段を上った台地にあります。1639年(寛永16年)3代将軍家光によって建立されました。間口44.8メートル、奥行き34.5メートルの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂として偉容を誇っています。

独自の視点にたった杉浦さんの「江戸へようこそ」

2009-07-11 00:21:40 | 歴史

杉浦日向子『江戸へようこそ』筑摩書房、1986年
               
江戸へようこそ
 少し変わった視点に立っている江戸論です。その視点とは精神としての江戸、「日本人の精神的なニュートラル・ポイントが江戸、そういうふうにとらえたい」のだそうです(p.10)。

 「あっけらかんとした絶望感が、江戸市民の大半を占めていたのではないか・・・。明るい絶望感というちょとおかしいかもしれないのですが、絶望に近いほど明るい、そういっ湿り気のなさ、その感覚に、東京人であるわたしたちが共感を覚えた時、東京もまた江戸へとたどりつく事になる」(p.11)のだと著者は書いています。

 それゆえに、著者はいわゆる江戸趣味を否定し、ノスタルジーも否定し、話したいのは「江戸時代の江戸という名の都市に起こったさまざまな現象」とのことです(p.7)。

 というわけで話題は、吉原、花魁、春画、浮世絵、戯作、歌舞伎、粋などなど。「ありんす国だよりー吉原について」「よっこら、すうすう、はあはあー春画について」「真(まこと)があって運のつきー戯作について」「つかず、はなれず、ユラユラとー粋について」、そして3つの対談(中島梓、高橋克彦、岡本蛍の各氏)、さらに著者提供の「黄表紙を読む」と「特別付録」と続きます。

 中島氏との対談で話題となった「着物」の効用と推奨、高橋氏との対談で話題となった浮世絵の意味(情報)が面白かったです。

 また、江戸時代の春画は情事ではなく色事であり、「知的ゲーム、好色的な諧謔としてのエロティック・スケルツォ」であるという見方(p.77)、「粋」とはなにかはっきりと言えないが、媚態、意気地、あきらめが集約した浮遊状態、固定してしまったおのは「野暮」という見方(pp.177-179)、が胸にストンと落ちました。


イタリアの壮大な歴史のなかの人間ドラマ「山猫」

2009-07-10 01:07:07 | 映画

ルキノ・ヴィスコンティ監督「山猫」(イタリア,1963年)205分
        Il Gattopardo
 「山猫」は,1860年代のイタリア統一運動のなかで時代の流れに抗しえず,歴史の波にのみこまれていく貴族階級の運命を、シチリア島の名門貴族サリナ家と公爵の姿に託して描いた作品です。

 18605月,イタリア統一のために立ちあがったガリヴァルディ率いる革命軍がシチリア島に上陸。山猫の紋章をもち,島で300年の歴史を誇るサリーナ家は革命の進行に動揺しますが,公爵(バート・ランカスター)は躊躇なく一家を連れて,例年の行事である山荘の晩餐会に向かいます。

 このような時代背景のなかに,登場人物ひとりひとりのドラマが展開されて行きます。まずタンクレディ(アラン・ドロン)ですが,彼は公爵の甥で,最初革命軍に加わり,次いでガリヴァルディが戦死した後は王党派の正規軍に身をうつし,出世への野心を隠そうとしません。彼の恋愛の関心は最初,従順なサリーナの娘コンチェッタ(ルチッラ・モルラッキ)にはありましたが,次いで晩餐会で出遭った開放的な美女アンジェリカ(クラウディオ・カルディナーレ)に移っていきます。

 アンジェリカは,成金もののカロジェロ(パオロ・ストッパ)の娘で,この映画では新興ブルジョアジーの力を象徴する存在として扱われています。

 サリーナ公爵はコンチェッタや妻の意志に反すると知りながら,甥のタンクレディの未来のために経済力のあるアンジェリカとの結婚を支持します。

 さらにエピソードがひとつ挟まれます。サリーナ公爵は政府から上院議員の要請を受けるのです。しかし,ここでも公爵は自身を古い時代の人間と自覚し,野心家のカロジェロを推して道を譲ります。

 映画のなかで反復されるサリーナの言葉「現状を保つためには,変わらなければならない」は,長く貴族の地位にあったサリーナ公爵にできたことが,タンクレディとアンジェリカが新時代に逞しく生きていく手助けになることくらいしかないという心象の吐露です。

 滅びゆく貴族階級と時代を次ぐ新興ブルジョアジーとの鮮やかな対照はここに,人間存在と心持の有り方として哀しくも明確に描かれています。

 この主題は,最後の絢爛豪華な大舞踏会の場面で完結します。この場面でのサリーナ公爵とアンジェリカのダンス,さらにタンクレディとアンジェリカのダンスを眺める公爵の姿,若い二人の抱擁と華やかなダンスの流れと繋がる映像展開に,旧体制と新しい体制とが拮抗しつつ,前者から後者への時代のエネルギーが移行していく過程を見ることができます。

 ヴィスコンティの出色の演出で、壮大な歴史ドラマです。


無垢な魂を持つ女性の蘇生を描いたフェリーニ

2009-07-09 00:17:10 | 映画

フェデリコ・フェリーニ監督「カビリアの夜」(伊,1957年)105分
        
 この映画は、男に何度も何度も騙され, 無垢な魂をもった主人公が気高く生きていくのですが,それをまた利用する男がいて,彼女を傷つけます。彼女はそれを自らの慈悲で許し,蘇っていくという話しです。

 見方によっては,男女関係のありかたとして絶対にあってはならない関係がそこには描かれています。しかし,そうした見方は誤解です。

 フェリーニが描いたのは,社会的地位があるわけでもなく,金持ちでもなく,人生をあるがままに受け入れて生きている女性がいて,彼女の魂は無垢であり、強く,尊いということです。

 カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は夜の女。純真無垢の彼女は何度も男にだまされますが,人を信じて疑わない心を失いません。あるときは有名な映画スターに拾われ,夢のような一夜を彼の家で過ごせそうになったとたん,彼の恋人があらわれて,破局。


 そうこうしているうちに,ある日,彼女の前にオスカルという青年があらわれます。

 カビリアはオスカルに夢中になり,彼女から結婚を申し込まれ込まれると家を売り払って全てをお金にかえてしまいます。しかし、オスカルもそれまでの男と同じで,彼女はまたしてもお金をとられ,河へ突き落とされます。泣き崩れるカリビア。


 それでもその泣き顔にいつしか笑みが戻ってきます。生き生きと歩く買う彼女,有名俳優とのデート,巡礼での祈り,催眠術をかけられてのデートなどカビリアの純粋さが積み重ねられ,ラストでは「もう生きていくのは嫌,殺して」と泣き崩れます。

 傷つけられたカビリアは,人間(お祭り騒ぎをする若者)によって励まされ,蘇生します。「カーニバルによって人生を肯定する」というフェリーニのモチーフが明確にうちだされた作品です。無垢な魂の遍歴を優しく描いたペーソス溢れる名作です。 

                
         ジュリエッタ・マシーナ


今年は太宰治生誕100年

2009-07-08 00:29:39 | 評論/評伝/自伝
津島美知子『回想の太宰治』人文書院、1978年

                               
                             


 「太宰は箸を使うことが大変上手な人であった。長い指で長い箸の先だけ使って、ことに魚の食べ方がきれいだった。あれほど箸づかいのすっきりした人は少ないと思う」(p.83)。

 著者は太宰治の妻でしたから、生活者としての太宰のことをよく知っています。当然といえば当然ですが、上記のような文章は妻でなければ書けないのでは。

 著者は夫だった太宰について書いたものを加筆しつつまとめ、このような本にしました。

 冒頭、結婚にいたった経緯の回想があります。甲府での話です。以来、太宰が愛人と入水自殺するまで、妻として生活をともにしました。

 生活者としての太宰といっても、力仕事はだめでペンをもつことだけであしたから、著者の苦労は人並みでなく、「金の卵を抱いている男」と渾名をつけていたとか(p.31)。

 それでも、戦争中、甲府から千代田村への荷物疎開のおりに、大八車を引いていた太宰が著者に「荷車に乗れ」(p.103)と言ったり優しいところがありました。

 何かおもしろくないことがあって、著者は結婚前に交わした手紙やはがきを庭で燃やしてしまった(p.41)とか、ラジオや時計を含めて家財道具など買わなかった太宰が闇商人らしきものから懐中時計を買ったのを著者がむしょうに腹がたってなじったとか(p.177)、ありのままが書かれています。

 「太宰治」という筆名の由来(友人が「万葉集」をめくっているうちに「太宰」というのはどうかと言って、「よかろう」ということになったとか[p.154])、『女生徒』で使ったノートの書き手であるS子さんのこと、『右大臣実朝』『惜別』執筆の裏話、など興味つきません。

 銀座「ルパン」での太宰の有名な写真がありますが、穿いている靴は配給された兵隊靴で、いい靴が手に入りにくかった戦後、太宰が上機嫌で穿いていたという記述もありました(p.180)。

 「主観のかたまり」(p.196)のような太宰でしたが、人間臭さはその文学とともに一流でした。今年は太宰治生誕100年です。

介護保険制度はともかくもスタートした。

2009-07-07 09:41:24 | 医療/健康/料理/食文化
宮澤由美『認知症に向き合う本』新日本出版社、2009年

                 
             


 「認知症は脳や身体の疾患を原因として、記憶・判断力などの障害がおこり、普通の社会生活がおくれなくなった状態」(p.15)です。

 現在誰かの援助を必要とする認知症患者は200万人、2025年頃には300万人をこえると老人保健福祉制研究会は予測しています(p.10)。

 認知症の原因はさまざまなようです。アルツハイマー型認知症、脳血管障害性認知症など。1999年にアリセプト(塩酸ドネペジル)が発売されましたが、これは進行を遅らせるものです。

 あと5年から10年ほどでアルツハイマー型認知症を根治する薬が実用化される見通しのようです(p.35)。

 本書は認知症の早期発見、治療の方法、ケアの在り方、認知症患者が安心して暮らせる町づくりについて解説されています。

 「人口の高齢化が進み、これまでと変わってくることは、随分早くから予想され、また世界の先進諸国でも同様の現象が起きていますが、日本の政策の根本的な誤りは、”国民の暮らしや健康、命を守る”ことより、国家財政、とりわけ医療費や介護保険財源とおいう経済的な問題を短絡的に優先させた結果、あらゆるところで矛盾が噴出しているところにあります」(p.168)。精神内科医である著者の認識はこのようですが、とにかく2000年から介護保険制度はスタートしました。

 本書でも紹介されているような地域、自治体レベルでのさまざま工夫がいま育っているのも事実です。

 著者は結んでいます、「認知症の早期治療に向けて、適切な介護の構築に向けて、何より介護の社会化の再構築に向けて、広く大きな連帯の輪ができ、根本問題である、国の医療政策、高齢者政策、障害者福祉政策へ向けての働きかけができる時、いつか行く道は少しづつ明るさを増していくのでしょう。今こそ、勇気をだして連帯の時ーこれが、この本を通じて最も訴えたいメッセージです」(p.171)、と。

女将さんの笑顔とおばん菜が嬉しい先斗町の「おせん」

2009-07-06 00:01:09 | 居酒屋&BAR/お酒

「出逢ひ茶屋 おせん」(京都散歩⑤)
京都市中京区木屋通三条京阪下ル東入ル石屋町126 TEL 075-231-1313

 先斗町歌舞練場の北側に、このお店はあります。別のお店が目的で先斗町まできたのですが、そこが直感で肌合いが合わないと感じ、そのあとで偶然に見つけたのがこの「おせん」です。知る人ぞ知るところのようです。京の味といえる“おばん菜”の店です。

 食材にこだわりがあり、メイン食材の野菜は、京都有機の会所属の方から届く京野菜、魚介は丹後・和歌山直送のものが使われています。

 料理は、茄子とにしん、ぶりと大根、海老芋と棒だらなどです。 カウンターにはおばん菜がズラリと並んでどれもおいしそう。単品メニューも豊富です。

 鯖寿司、それに写真の逸品(丹波地鶏の塩焼き)などを注文しました。お酒はやはり伏見です。

 女将さんが大変、愛想がよく、上手に話しかけてきます、満面の笑顔がいいです。花街らしいはんなりとした空気と、初めての人でも寛げる雰囲気を持つお店です。
               京都 グルメ 「出逢ひ茶屋 おせん」


相国寺で「相国寺・金閣寺・銀閣寺名宝展ーパリからの帰国ー」を

2009-07-05 00:32:14 | 旅行/温泉
相国寺(京都散歩④) 京都市上京区今出川烏丸東入相国寺門上町701

 相国寺は、京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院です。山号を万年山と称しています。

 本尊は釈迦如来で、開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石です。3代将軍足利義満は、「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382年)に発願し、実際に竣工されたのは10年後の明徳3年(1392年)でした。

  足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺で、京都五山の第2位に列しています。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文や雪舟は相国寺の出身です。

 また、京都の観光名所として著名な金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)です。

  相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として栄えましたが、たびたび火災に見舞われたました。全部で4回焼失しています。

  ここにも龍の画があります。法堂の天井の蟠龍図です。等持院の似ていて円形のなかに龍がいて、下から見上げながら天井の円形にそいながら一周すると、龍の眼がつねにこちらを見ています。不思議です。さらに、ある特定の場所ですが龍の下で柏手を打つと龍の鳴き声がかえってきます。これも不思議です。そういうふうに作ったのでしょうか??

 また、ちょうど「相国寺・金閣寺・銀閣寺名宝展ーパリからの帰国ー」という企画ものがこの相国寺の承天閣美術館で開催されていました。昨年パリで開催された3つのお寺の宝物展の凱旋展示です。充実した企画でした。若冲、雪舟、探幽、応挙、大雅の粒ぞろいの名品が展示されています。

           

青鞜社のなかで育った加藤みどりの生涯

2009-07-03 00:12:19 | 評論/評伝/自伝
岩田ななつ『青鞜の女 加藤みどり』青弓社、1993年
                青鞜の女 加藤みどりの書影
 岩田ななつさんは、6月24日付、本ブログで紹介した   『文学としての青鞜社』の著者でもあり、その本に刺激を受けて本書を読みました。

 青鞜社で育った加藤みどりの伝記小説です。加藤みどりは本名は高仲きくよ。1888年(明治21年)に信州上伊那群赤穂村に生まれました。12歳の時に母と死別。

 幼い4人の弟妹のめんどうをみる生活が始まります。父の了解を得て4人の弟妹をつれ上京。20歳のときに短編小説「愛の花」が『女子文壇』で一等当選。22歳で加藤朝鳥と「自由恋愛」から同棲、そして結婚。

 平塚らいてうが「青鞜」をたちあげるとともに、その考えかたに共鳴して入社します。雑誌「青鞜」誌上で小説を次々と発表(11編)。

 社会、家庭で束縛された女性の鬱屈した生活、悲惨な境遇に悩む女性の生き方をテーマとしました。

 注目すべきは1913年(大正3年)4月に大阪でイェーツの「幻の女」の女王デクトラを演じたことです(ただし、この演劇の評判はあまりよくなかったようです)。

 生涯3人の子をもうけますが、社会で活動したいという願いは強く、子どもを家政婦に日中、世話してもらったり、里子にだしたり、社会活動と家庭との狭間で悩むことが多かった人生でした。理想主義的な夫とは当初は順調な結婚生活であしたが、生き方、芸術の在り方などで意見があわず、経済的に恵まれないこと、子育ての環境が整わなかったこともあって、次第に疎遠となりました。

 1921年(大正10年)、子宮癌で死去。亨年34.本書にはみどりと朝鳥の生活と活動、清踏社同人とのつきあいが、現場にいるような錯覚を覚えるほど、細かく描かれています。

 従来、青鞜社の平塚らいてう、伊藤野枝についてはよく知られていましたが、加藤みどりに関しては全くといっていいほど明らかにされていなかったので、著者は自ら執筆を思い立ったとのことです(p.185)。

気鋭の脳科学者による「赤毛のアン」論

2009-07-02 07:51:27 | 文学
茂木健一郎『赤毛のアンに学ぶ幸福になる法』講談社文庫、2008年

         
             



 著者はモンゴメリの小説「赤毛のアン」に小学校5年生の時に出会いました。その読書体験はただの感動だけではなく、「敗戦体験」だったそうです。

 初めての生身の西洋文化との出合い、西洋に対する強烈な憧れ。しかし、著者は長く、『赤毛のアン』への憧れを隠していたのです。

  その著者は今、大人になって封印を自ら解き、その魅力を解明し、学びとるべきものを提示してくれています。

 「アン」の魅力はまず主人公の個性。赤毛でニンジンのようだけれども、彼女の想像力はとめどつきないのです。美しい自然に名前を与える想像力。彼女の個性はマシュウとマリアという老兄妹の人間性にも影響を与え、周囲の人々を感化していきます。

 この老兄妹はもとよりリンド夫人、ギルバート、ダイアナとの関係も丁寧に描かれ、読者はストーリーを楽しみながら、アンと一体となって成長していくことができます。


 また、『赤毛のアン』のベースにあるのはキリスト教的ヒューマニズム、そして運命を受け入れるという世界観(残念ながら日本での『赤毛のアン』のブームは表面的で、この小説の核の部分の理解が不足していると著者は書いています)。

 では、テーマである「幸せになる方法は?」。それは奇蹟を見つけること。そして奇蹟はどんなにつまらなく見える日常にも必ずある、と著者は語っています。

 奇蹟を起すには「ひたむき」に生きること。「ひたむき」に生きるには「仮想」の世界、魂がむかうべき目的地を感じ取ること。さらに、気持的には「ゆらぎ」を感じること。

 著者は結論のようにこう書いています、「常に自分の中に美しい世界を持ち、毎日の生活の中に沢山の感動を見つけ出す。そうして「ひたむき」生きる中で、やってくる「運命」を受け入れる。/それこそが、アンやマシュー、マリラに起こった「奇蹟」に巡り合う方法。幸福になるための、「奇蹟」を生み出す方法なのではないでしょうか」と(p.263)。


奇想天外なルイス・ブニュエルの「昇天峠」

2009-07-01 01:14:40 | 映画

ルイス・ブニュエル監督「昇天峠 (SUVIDA AL CIELO)」メキシコ、1951年
 
       

  かなり前に観た作品で、ただただ面白かったことが印象的です。

  あらすじは、だいたいこんなふうです。

  死期が間近い母親の願いをきいて、三男坊のオリヴェリオは腹黒い兄たちに遺産を横取りされないように、遺言状を作成しに出かけます。オリヴェリオが住むところはひどい田舎で母親のいる町までにはバスでいくしかありませんが、このバスはおんぼろバスです。心がせくオリヴェリオですが、いろいろな難事が次々とおこります。

 まず、走りだすやいなやパンク。ようやく修理が終わり、昇天峠に向かうと天候が一変して霧がたちこめてきて、対向車が道をふさぎます。

 さらに乗客の妊婦が産気づき、出産。スタートするとバスは川にはまってしまいます。乗り合わせた男好きの新妻ラケルに誘惑されたオリヴェリオはあらぬ妄想にふけるうちに、今度は運転手が眠いので眠りたいと言い出します。オリヴェリオは代わって運転をするのですが、ひと眠りした運転手は自分の母親の誕生パーティーがあるので実家に立ち寄りたい、ついては乗客もつれていくといい始めます・・・。アジャー。(パーティーシーンは最高です)

 奇想天外、唐突無稽なトラブルの連続。はて、この結末は??