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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

イタリア ルネサンスの旅4

2016-03-21 | 美術

ルネサンスの聖地フィレンチェには珍しく近現代彫刻の美術館がある。マリノ・マリーニは未来派の時代からイタリア彫刻界を牽引した巨匠。ファシズムを経験し、戦争、核戦争などの「不安」を荒れ狂う馬に乗る人物で繰り返し表現した。マリーニはいったい、いくつの暴れ馬と人を彫ってきたのだろう。それは、第2次大戦を経、未曾有の殺りくを目のあたりにしたマリーニの現代に対する不安そのものを表しているように思えてならない。近い時代を生きたベラルーシ出身、パリで活動したユダヤ人のオシップ・ザッキンは、「破壊された街」シリーズで戦争を告発した。マリーニも暴れ馬で表現したかったのは、人間の手では制御できない人間の行いだったのではないか。その愚かさ、破滅性、絶望性は、戦争でこそ明らかになる。戦後も同じモチーフで制作し続けたマリーニの作品が、戦乱がない状態=平和ゆえに文化が花開いたとされるフィレンチェ・ルネサンスの地に勢ぞろいしているのは、皮肉で、かつ意義深いものを感じてしまう。

旅の最後の日は、フィレンチェをはなれ、シエナへ赴いた。シエナ派の代表画家であるシモーネ・マルティーニやロレンツェッティ兄弟の作品が目白押しだ。初期ルネサンスがフィレンチェで開花したのは偶然ではない。商業都市として栄えたのは事実だが、同じく繁栄したシエナと競っていたからだ。この対抗は、美術史的にはルネサンスを開花させたフィレンチェの勝利と見えるが、シエナ派の作品は、「人間的」なフィレンチェのそれとは違って魅力にあふれている。13世紀の偉大な画家ジョットの系譜をひきつつ、13~14世紀の国際ゴシック様式を広めたのはシモーネ・マルティーニの功績と言われる。結果的には、フィレンチェ・ルネサンスの躍動感あふれる新様式に、シエナ派の画業は古臭いと駆逐されるのだが、あの厳しい顔立ちのマリアにはなんともいえぬ味がある。例えばドゥオーモ付属美術館にあるドゥッチョの「荘厳の聖母」など、ラファエロが描くような慈悲に満ちた優しい表情より、信仰の厳しさ、イエスの行く末、いや、イエスを生むことになる我が身の厳しさをより的確に表しているのではないかと思えるほど固い。けれどそれが味わい深いのだ。

レオナルドが描いた「最後の晩餐」は、数多の画家が描いてきた「最後の晩餐」スキームを根本から変えたという。それまでの「最後の晩餐」は、誰がイエスか、一人だけ光輪をつけているとかで一目で分かった。あるいは、裏切り者のユダだけこちらに座っている、ユダだけ光輪をつけていないとか、ユダも一目で分かったのにレオナルドのそれはそうではなかったのだ。しかし一方で、そのような形式的、定型的、いわばお決まりの構図もまた大事だったのだ。というのは、グーテンベルクの活版印刷以前、聖書の物語を教会や聖堂の絵画でしか学べなかった人たちにとって、このお決まりの構図が一番重要だったからだ。

逆に言うと、レオナルドなどフィレンチェ・ルネサンスの革新性を理解するためには、シモーネ・マルティーニらシエナ派のそれまでの、布教をより広範囲に、多くの人に、そして同時に勃興しつつある商人層や貴族などに高く評価、庇護されるために描いた業績を無視することはできないのである。

キリスト教美術は多くの場合、13世紀以前のそれは特に絵画の場合、多くは遺っていない。ましてや、教会など建物の壁に直接描かれていた時代、その建物が滅失してしまえば、なおさらのこと遺っていない。しかし、パネルや祭壇画と言う形式で残されたシエナ派の業績はきちんと遺っている。今回の旅で再確認できたことだ。

キリスト教美術は、遡れば遡るほど面白く、興味がつきない。(了)

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イタリア ルネサンスの旅3

2016-03-11 | 美術

バロック美術そして、その後の西洋絵画はミケランジェロ礼賛にあふれていたが、19世紀初頭ごろから、ラファエロへの人気が高まる。19世紀中ごろのラファエロ前派は、そのラファエロを見直し、さらにはイタリア・ルネサンス以前の中世美術への傾斜を志向するものである。レオナルドが盛期ルネサンスの大御所なら、ミケランジェロはそのライバル、そして一番若いラファエロはルネサンスの完成者と目される。そのラファエロを観るならパラティーナ美術館である。

現在、西洋絵画世界で「聖母子」といえば、ラファエロ。あの優しく慈しみ深い表情のマリアと、愛らしさの中にも将来の悲劇的結末を見据えたかのような瞳のイエスを完成、定着させたのはラファエロとされる。パラティーナ美術館ではそのラファエロの秀作が堪能できる。「小椅子の聖母」は若くして亡くなったラファエロ後期の傑作である。その肢体からはずしりと重いであろうのに、イエスのその重さを感じさせない柔らく抱くマリアの表情は優しく、憂いもある。傍らのヨハネはその二人を心配そうに見つめ、イエスよりわずかにませて見える。絶妙かつ細心のタッチ。作品の少ないレオナルドや肉体系のミケランジェロに比べ、その親しみやすさにファンが多いのもうなずける。ウフィッツイ美術館からパラティーナ美術館まで、アルノ川を渡り、地下をとおるヴァザーリの回廊。一度訪れてみたかったが、今回の旅行中は閉鎖と出ていた。しかし、ウフィッツイ美術館でちらっと鑑賞している人たちが見えたので、なにか特別のルートや申し込み方法があるのかもしれない。とても残念。とまれ、パラティーナ美術館では、ラファエロの全時代の作品をそれぞれ網羅しており、レオナルドやミケランジェロに比べて圧倒的に短い画家生活を生きたラファエロの、秀でた若い才能が爛熟していく様が楽しめる。ただ、ルネサンス以降、プロテスタントの勢力が強まり、偶像崇拝の対象としての美しい聖母子像の宗教絵画は廃れていく。ラファエロは完成者であったが、同時に最後の聖母子像画家でもあったのだ。

サン・マルコ美術館は、ラファエロよりもっと古い初期ルネサンス、フラ・アンジェリコと出会う聖域。フィリッポ・リッピもそうであるが、グーテンベルクの活版印刷が人口に膾炙する以前、信仰を伝える修道士など教会関係者は絵によって民衆に伝道する画家でもあった。サン・マルコ修道院の壁画はフラ・アンジェリコによる伝道であるとともに、そこで修行する修道士たちの信仰を深める言わば修験図であった。ここにも中世の華やかさ、きらびやかさとは正反対の禁欲的構図が並ぶ中で、色彩は鮮やかだ。最も有名な、修道院2階の階段を登り切ったところに見えるフラ・アンジェリコの「受胎告知」はとても静謐。ほんのりと紅みがかったマリアの頬は、重大な「告知」を伝える大天使ガブリエルにときめいているかのような証だ。しかし、もちろんそれは処女のマリアがありえない懐胎に驚き、かつ、それを受け入れる宿命に希望をも抱いているからである。

フラ・アンジェリコの同じ構図での「受胎告知」は、壁画ではなく板絵判として、プラド美術館にもっと色鮮やかな作品があるが、やはり、修道士が修行の糧として、あるいはフィレンチェの市民が崇めたであろう壁画のそれは、跪いたほど見とれる美しさと、神々しさである。(フラ・アンジェリコ「受胎告知」)

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イタリア ルネサンスの旅1

2016-02-21 | 美術

「テルマエ・ロマエ」のヤマザキマリさんが、『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』(集英社新書 2015年)で、「偏愛」の対象として紹介した基準を「なんらかの意味で『変人』だった」からと述べている。同時に、「寛容の精神に満ちたルネサンス美術は、他のどの時代の美術よりも、自分を癒してくれるもの」とまで。ヤマザキさん自身14歳でドイツやフランスなどを一人旅、そこで知り合ったイタリア人陶芸家の誘いで17歳で日本の高校を中退して単身、油彩と美術史の勉強のために留学。それからは、ずっと海外での生活。出産と同時に彼と別れてシングルマザーに、お金のために漫画を描き始めて、現在の夫は14歳下の陶芸家のお孫さん。比較文学研究者の彼についてダマスカスやカイロ、リスボン、シカゴそしてフィレンツェなどと転々としながら、日本での漫画発表を続けている。ヤマザキさんこそ、十分「変人」的人生である。

言うまでもなく、イタリア・ルネサンスは、西洋美術史の大きな転換点であるが、芸術世界だけでなく文学や哲学、科学、そして宗教と大きな変革の時代であった。今回、16年ぶりにフィレンツェを訪れて、美術以外の世界を感じることはできなかったが、改めて「神が中心」から「人間が中心」という発想の大転換があったこと、美術の世界だけだが堪能できた。

オフシーズンであったためウフィッツイ美術館もそれほど混んでいなかった。ここではヤマザキさんのあげるルネサンス変人、サンドロ・ボッテチェリ、ミケランジェロ・ブオナローティ、レオナルド・ダ・ヴィンチそしてラファエロ・サンティらの作品がところ狭しと並ぶ。混ではいないが、ボッテチェリの「プリマベーラ(春)」などは、なかなかそばに近づけない。やはり、これらの画家、そして盛期ルネサンスの作品群は傑出している。というのは、ラファエロがその頂点であるが、聖母にしろ、実在の人間にしろ、対象を「人間らしく」描いたのは、まぎれもなくルネサンスの成果であるからだ。ルネサンス以前14世紀にジョットが大成した宗教画は、物語としての画面であって、登場人物の表情に重きが置かれていたわけではなかったものを、15世紀にマンテーニャが圧縮法を、ピエロ・デラ・フランチェスカが遠近法を駆使して、絵画に深みを与えたが、まだ、登場人物の表情細部の描写にまで発展していなかったものを、ボッテチェリ以降親しみやすい作品を発表した。そこにルネサンスの巨人らの功績があり、500年経った今でも人々を惹きつけてやまない輝きを持っている。

ルネサンス以後の美術は、ルネサンスをどう超克するかに重きを置かれていたように思う。メディチ家の衰退とともに、フィレンチェでのルネサンス美術は16世紀初頭にはマニエリズムに変容していったといわれるが、しかし、それとてルネサンスの偉業を継ごうとしたゆえの作品展開であり、16世紀以降のバロック美術はルネサンスの技術革新、「人間主義」精神抜きにはあり得ないのであった。(ピエロ・デラ・フランチェスカ「ウルビーノ公爵夫妻の肖像」)

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「終わりなき変奏」  現代の「静謐」モランディを観る

2015-12-31 | 美術

風俗画を多く描いたフェルメールの作品は「静謐」と評されることが多い。人物を描いた風俗画でさえ「静謐」と言われるのであるから、静物画はもっと「静謐」に違いない。と思ったら17世紀フランドル絵画でよく取り上げられた画題は「静物」で、それらはある意味「静謐」とは程遠い。ついさっきまで生きていたウサギが吊るされ、獲れたばかりの大きな魚が並べられている様はある意味躍動感にあふれている。

モランディの静物画は、20世紀の躍動感あふれるシュルレアリズムの時代にあって、「静謐」にこだわった。しかし、モランディがテーブルの上の壜や水差し、コップばかりだけ集中的に描いたのは1950年代。アメリカではポロック、デ・クーニングなど抽象表現主義が勃興し、モランディは対局を行ったかに見える。なんの変哲のないコップや水差しをしつこく描くまではモランディも自己のスタイルを模索していた。初期には、イタリア未来派を模倣してみたり、ルネサンス以前中世の画家ジョットや、光と影の画家カラヴァッジョ、さらには静物画における「存在感」としての18世紀のシャルダン、そして形態として多くを吸収したセザンヌの影響もあった。

だからであろう。モランディの静物画は、たんに「静物」を描いたのではない。それは、どのように壜や水差しをどの角度から光をあて、どの方向から描くか。念入りに丹念に幾度も幾度もの試行錯誤。並べ替え、光を当てなおし、絵具を選び、また最初からの繰りかえし。要するに、単に壜を並べているわけでも、同じ画題を繰り返しているわけではない。そこに妥協はないのだ。それが分かるのが、同じように見える作品でも配置、色使い、コントラストなど微妙に変化していることだ。

なぜ、モランディはそこまで同じ画題にこだわったのか。実はモランディはパリやロンドン、ニューヨークといった同時代の美術シーンを牽引した都市に一度も行かなかったそうである。その分、多くの作家がモランディの元を訪れたそうであるが。モランディは、ほとんど自宅のあるボローニャから出ず、訪れたのはルネサンス美術の華フィレンツェばかり。偏屈にも見える。しかしこれだけは言えるだろう。壜や水差しをしつこく描いていたからといって、美術「世界」から遠ざかっていたからでも、絵画の将来に興味がなかったからでもないことを。その証として、モランディは訪れる作家たちの情報をもとに絵画の将来に接していた。そして外に行かない分、同じ画題にこだわることによって、どうすればもっといい絵が描けるだろうかと日々苦悩していたに違いないからだ。でないと、素人目からは同じに見える絵をあれほど描き続ける苦行を続けることはできない。

「終わりなき変奏」。本展のテーマだ。同じ画題をずっと描き続けることは「終わり」なく、しかし、そうであっても徐々に「変奏」することが予定されている。「変奏」という語は、「変奏曲」以外で使うことはほとんどない。リズムが変わる、調が変わる「変奏」は、モランディによって音の世界ではなく絵画の世界でもそれが実行されたのだろう。

イタリア未来派の模倣と先に述べたが、モランディの静物画はよく見るとジョルジュ・デ・キリコを彷彿とさせる(現にモランディはある時期、キリコに傾倒していた)。そう、静物=still lifeではなく、むしろシュルレアリズムなのだ。そう分かると、瓶の一つひとつ、水差しの一本、一本も具体性のあるそれではなく、もランディの創造の範疇から出でたアブストラクト(抽象)に見えるから不思議だ。

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こちらを見ている彫刻 舟越桂「私の中のスフィンクス」展

2015-08-17 | 美術

舟越桂の彫像はこちらを見ない。たとえば、アイドルや女優のポスター、ピンナップはどの方向から見てもこちらを見ているような錯覚に囚われる。その反対だ。舟越は、全身木彫のなかに眼球だけ大理石を用いる独特の手法でかつ、その大理石の眼は、わざと外側を向き、決して鑑賞者とは正対しないという。作品そのものの不可思議さ、超現実性と相まって、それら作品群は、見るものを置いてきぼりにする。そう、見られているのではなく、見ている者が見ているかどうか。

彫刻は、見られる角度が一方向ではない。横から、背面から、ときには斜め下から、上方から。多分、彫られているときにどの方向から見られるかを想定しているのではなくて、どの方向から見ても、その作品の本質にはなんら影響を及ぼさないからであろう。それは、作家があらゆる方向から彫りすすみ、その彫りすすみと同じように鑑賞者も見てすすむからである。そういう意味で彫刻は元来多面的で、見据える方向は、見る側に委ねられているようにも思える。しかし、舟越の作品はそうではない。こちらを見ていない眼球がこちらをとらえて放さないのだ。

作家の小川洋子さんが、「舟越さんの作品はどれも、待たれる人々だ。打算も理屈も超えた、証明さえも必要としない約束のもと、待つ人々の願いを心で受け止めている。ただ単に不在を補っているのではなく、不在そのものとして、そこに存在する。」と述べている。「待たれる人々」。そう、こちらを見ていないけれど見据えている、見ないでおこうとすれば、それに気づく、不思議で、ある意味怖い存在。それが舟越作品の「待たれる人々」の本質かもしれない。

小川さんがいつ、どの作品群を指さして語ったのかは詳らかではないが、舟越作品は、近年両性具有やおどろおどろしい迫力をもってして対面していく。「私の中のスフィンクス」シリーズである。なぜ「私の中」であるのか。スフィンクスは人に対して「4本、2本、3本の脚を持つ生き物」の謎かけをしたが、人はそれを自分のことと認識した。しかし、人は、人間はスフィンクスの言うような変化を生きるのであろうか。あくまで「私の中」という完結しない自己完結ではないのか。

舟越の描くスフィンクスは雌雄同体である。人間を超えている。しかし、彫られたそれはどう見ても人間である。そのスフィンクスが私たちに問いかける。私はどう見えるのか、と。いやはや、舟越彫像はすべて、見ている者が見られている、その見方が試されていると冒頭に述べたことが、現実離れしたスフィンクス像でも貫徹されているのだ。描かれている、彫られている私がどのような異形になっても、あなたは、ちゃんと、私を見ているのかと。

彫刻作品は、ときに平面画業以上に抽象性が増すことによって、好き嫌いが分かれるという。舟越の作品に抽象性はみじんもないように見える。しかし、近代彫刻以降を見ても、ロダンの、ヴィーゲランの、あるいは高村光雲の作品に抽象性はなかったか。そんなことはあり得ない。作者の観念どおりに彫られていったにすぎない。

こちらを見ていないのに見ている。とは怖い。彫刻の側から見ているこちらを見られている。そのような怖く、深い体験を船越作品は、あちらこちらから試してくれる。(もう一人のスフィンクス)

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スコットランド・イングランドの旅紀行3

2015-08-05 | 美術

ロンドン2日目には、郊外のウイリアム・モリス・ギャラリーに足を運んだ。W・M・Gは、モリスが10歳くらいから通学生として過ごした学校の近くにあり、のち寄宿生となったそうである。W・M・Gは、モリスの父親が早逝する直前に購入した館であり、モリス一家はその後、金銭的に不自由のない生活をここで送ったという。モリスはのちに私立学校を退学、オックスフォード大学にすすむほんの数年間をここで過ごした。しかし、貴族のマナーハウスに比べて決して広くはない住まいは、モリスの豊かな少年時代を彩ったに違いない。W・M・Gのそばは広大な庭園(公園)。大学の休暇には帰省したこともあるだろう。そして、この家は、モリスの最愛の家族、母や姉の息吹がしみ込んだ住処でもある。

聞くのと違って、展示はこちらのペースで読めばいいのでなんとなく理解できた。モリスがここでどう過ごしたか、モリス芸術はどう花開いていったか。オックスフォードで運命の女性に出会ったモリスは、階級差をこえて求婚する。真黒な髪を持つ美しい女性ジェイン・バーデンである。ジェインはすでにロセッティらのモデルをつとめていて(ラファエル前派のミューズであった)、結婚したのに忙しいモリスや、自身の不運な結婚もあってロセッティは、ジェインと「affair」な関係にあった(そういう風に、説明版にあった)。しかし、モリスはジェインとは離婚せず奇妙な関係を続けたまま、モリス商会での旺盛な活動、のちに社会主義者としての活動もした。そのあたりがよく分かる展示であったし、小さな空間にモリス・デザインがあふれているのが心地よい。モリス・デザインは150年を超えて飽きの来ない豊かで、落ち着いた魅力が身上だ。それは工業化に異議を唱えたモリスが、花や草木など自然界の普遍に美を求めたからで、社会主義者となったモリスが産業革命後の工場労働者の境遇を告発したのとはうらはらに、手のかかる美しいモリス・デザインがブルジョアだけの所有物となり、現在も必ずしも庶民の日常使いのテキスタイルとなってはいないことが微妙かつ複雑な趣と思える。もちろん、モリス・スタイルがダイソーで入手できるのも悲しいが。

W・M・Gのあとはその流れからヴィクトリア&アルバート美術館へ。V&Aは、15年くらい前だろうか訪れたことがあるが、そのときはモリスのこともほとんど知らなかったし、そもそも絵画ではなく工芸品の美術館なので興味が持てず、時間を費やさなかった。しかし、筆者にドイツ中世の彫刻家ティルマン・リーメンシュナダーの魅力を教えてくださった福田緑さん(『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(丸善プラネット 2013年)外 などの著者)の教示により、彼の作品があったから訪れたようなもの。なぜ、V&Aにあるのか定かではないが、旅の行く先々でリーメンシュナイダーに出会える、それを探すのは福田さんのおかげで今やとても楽しみとなっている。

ロンドン最後の日には、午前にナショナル・ギャラリーを訪れたが、企画展はサウンドとペインティングのコラボをしていたが、時間も考えあきらめ、テート・ブリテンへ。T・Bがこんなに広いと思わなかったのは、ロンドンの滞在時間が短いとN・GとT・Mばかり行ってT・Bにあまり行かなかったからかもしれない。たいてい天気も良くないし。

驚いた。T・Bの広さでも、ティモシー・スポールが好演した最近の映画「ターナー、光に愛を求めて」ばかりでもない。企画展にバーバラ・ヘップワース展をしていたことだ。

バーバラ・ヘップワースは、ヘンリー・ムーアと並ぶ英国を代表する抽象彫刻の大家といっていい。しかし、ムーアが柔らかい曲線の母子像で日本国内でも野外などよく見られるのに比べて、ヘップワースの作品はいわば難解である。しかし、今回の企画展で分かったのは、ヘップワースが野外彫刻などをとおして、石と格闘していた姿である。石との格闘。それは石像彫刻家として必然の道だが、ヘップワースのそれはジャン・アルプの影響故フォルムがやさしい。格闘しているのにやさしいフォルム。むしろ純粋、かつ完璧なフォルムを求めるために格闘していたのであり、結果として曲線のフォルムが生み出されたのかしれない。

(以下、船越桂展のブログも認めるつもりなので続く。スコットランドイングランド紀行は一応この項で終わり。(B・ヘップワース Untitled))

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スコットランド・イングランドの旅紀行2

2015-08-02 | 美術

エジンバラからロンドンへ特急列車で4時間半。実際にはもう少しかかったが、日本の新幹線やフランスTGVのない英国では、国の縦断は普通の特急列車での旅となる。延々と続く何の変哲もない風景。というのは、イギリスにはそもそも高い山や渓谷、大河がない。羊の群れや牛の群れ。干し草をくるくる巻いたものが続く。しかし、大河はないが、水の豊かなイングランドの河川に揺れる木々とそこではたらく人の姿。これはコンスタンブルの描いた世界ではないか。川の青と木々の緑と、変化の少ない色彩と情景と。そこには冗長な独白はなく、あるとすれば潔く、静かな自然に見えたほとばしりを告げる短編詩か。ワーズワースとか、バイロンとか、エリオットとか。てんで分からないが、晴れたと思ったら、すぐに雨の降る、気まぐれでそれも大げさではない天候に、それを受け止める起伏の穏やかな大地にこそ、詩人の心を揺るがした風景がそこにはあるのかもしれない。

ロンドンに着いたのは夕方近くであったので、テート・モダンに行ってみた。閉館まであと1時間くらいしかないのに、特別展はソニア・ドローネーとアグネス・マーチン展。うーん、どちらにするか。結局、コンセプチュアルではなく、キュビズム的に分かりやすい?ドローネーを選んだ。

ソニア・ドローネーは夫、ロベール・ドローネーの妻として紹介されることも多いが、ロベールが1941年に亡くなった後も、戦後もフランスのデザイン界で活躍したソニアこそ、その業績を広く、長く紹介されるべきだ。というのは、ウクライナで生まれたロシア人であったソニアは、ロベールと結婚したため、長くフランスに住み、フランス人とも見まがうが、筆者は、そのキュビズム的要素は、革命後のロシアを席巻した構成主義の影響を感じ取ってしまう。ソニアがロベール亡き後、こだわったのは幾何学的枠組みに色彩をあやつる構成主義であり、イタリア未来派の連続性をも取り入れた、ある意味クレー的楽しさに満ちたドローイングであった。

ソニア・ドローネー展をなぜ選んだのか。それは、後述のテート・ブリテンで催されていたバーバラ・ヘップワース展とも相通じるが、そもそも日本では考えられない企画展であるからである。ソニア、いや、ドローネー夫妻でもいいが、キュビズムやイタリア未来派だけにしぼった企画展は考えにくい。しかし、ピカソやブラックが静物をいかに3次元的に動的に表現するかと悩んでいたあとの時代、未来派は動的な対象を「動的に」表そうとした。それは2次元で表現できる限界を伝えようとしたのかもしれない。

ところで、テート・モダンの入口を象徴していたタービン・ホールの巨大なインスタレーション(とにかく大きい「幕」は美術館全体を覆いそうなものであった)は、現在取り外されているが、これは、すぐ隣に建設中の新館の関係であるらしい。もともとテート・モダンは発電所・工場を再利用したもので、ポンピドゥーセンターやMoMAとはコンセプトが違う。この新館で、いかにイギリス風モダン・コンテンポラリーをプレゼンできるか。新館開館は2016年12月という。また、ここに来られるであろうか。(テート・モダンからミレニアム・ブリッジ、セントポール大聖堂を臨む)

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スコットランド・イングランドの旅紀行1

2015-08-01 | 美術

スペイン・カタルーニャ地方、沖縄、そしてスコットランド。現在世界で独立の動きが強い3大地域をあげたつもりではない。が、ほんの最近、独立を住民投票でノーとしたスコットランドには興味があった。まあ、ほんの2日の観光だが。エジンバラは7月下旬だというのにとても寒かった。予報では最高気温が16度、最低気温が9度と出ていたあたり日本とかなり違うということは分かってもらえると思う。

エジンバラは街を南北にニュータウンとオールドタウンに分かつが、ニューといっても18世紀に開発されたという全体的に旧い街。坂の上がオールドで低いところがニュー。ヨーロッパのいずれも街もそうだが、バリアフリーとはほど遠い。それでもエジンバラ城や聖ジャイルズ大聖堂は美しい。大聖堂はゴシック様式とはいえ、北仏にあるような見上げるほどの高さはない。ステンドグラスが美しい。ゴシック様式と書いたが、高さがそれほどないのもうなずける、12世紀から建設を始めたというのであるからロマネスク様式の時代から始まったのだ。そしてスコットランドといえばメアリー(・スチュアート(朝))女王。悲劇の女王とか、その美貌ゆえさまざまな策略を弄した、あるいは、のまれた女王とも称されるが、宗教改革の波でプロテスタント勢力の波に押され気味のカトリック、ヘンリー8世のときにローマ・カトリックと袂を分かちイギリス国教会を設立した時代。ところが、カトリックのメアリーはチューダー朝側のエリザベス1世から謀反の疑いをかけられ19年幽閉ののち処刑されたという。そのあたりが、物語として今も語り継がれているのであろうが、スコットランドの反イングランド感情の複雑な露呈が今回の独立投票であったのかもしれない。ただ、貧しい英語力でネイティブとも交流できなかった身には、そのあたりの微妙な感性を知ることができなかったのが淋しい。スコットランド紙幣は、同じポンドでありながらロンドンなどイングランドでは使用できないという。同じ国なのか、違う国なのか。シチズンシップという、ナショナリティーとは違うところで市民権をはぐくんできたブリテンのあり方が垣間見えるとともに、そうはいってもグレートと一括りにすることによって、結局はイングランドもスコットランドも王制のもとに傅く姿にも見えた。

王室が好きなのは、居であるロンドンに勝るとも劣らないエジンバラは(広大なホルリードハウス宮殿とその庭園というか森)今も女王が滞在する場となっており、映画「クイーン」でヘレン・ミュラン扮する女王が、森で野生の鹿に出会うシーンがあるほど手つかずの自然にあふれている。だからだろう。ロンドンに並ぶ重要地として、ナショナル・ギャラリーを擁し、その規模ははんぱではない。ルネサンス以前から、西洋絵画の王道とばかりにラファエロ、ティツィアーノ、ティントレットと続く。レンブラントの自画像、フェルメールもある。ロンドンと規模的には雌雄つけがたいが、同規模の眼福といってよい。そういえば、西洋絵画の名品が紹介されるとき、結構「スコットランド国立美術館蔵」となっていたりする。ここまで来る価値のある美術館。そして避暑の地だ(エジンバラの7月の最高気温は16度から20度程度、最低気温は9度から13度程度!)。(スコットランド・ナショナル・ギャラリーのレオナルド・ダ・ヴィンチの習作とされる作品)

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誰でもモネの「眼」になれるわけではない でも「まなざしのレッスン」は積むことができる

2015-05-18 | 美術

 

「まなざしのレッスン」1が出て14年。前作では、西洋古典的絵画を中心にその明らかな場合もそうでない場合も含めた神話的、宗教的意味をまさに「目からうろこ」(これこそキリスト教的だ)で解説してもらった覚えがある。そして、続編の出るのを今か今かと待ち望んでいたのが本作だ。

筆者は今回19世紀から20世紀の近代・現代絵画をいくつかの視点で分析して俯瞰して見せる。項目は大きく分けて主題とテーマ、造形と技法、そして受容と枠組みである。どういうことか。西洋古典絵画の場合、主題はその細かな点はさておき、ほとんどが神話画か宗教画かによるものであるから推し量ることができた。しかし、近代絵画はどうか。19世紀フランスはサロンで圧倒的に好まれたのは宗教画と並んで物語画であった(ロマン主義)。ドラクロアの「民衆を導く〈自由〉」は我々のだれもが知る超有名作品だが、1830年の王政復古体制を打ち壊そうとパリで勃発した7月革命を題材としており、史実を物語的に表したものであり、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(1819年)とともに、その劇的さが史実というレアリスムでありながら、宗教画に飽きた人々の心をとらえた。遅れてイギリスに勃興したラファエル前派はミレイの「オフィーリア」(1852年)など主題を史実にではなく、文学に求めたが、主題の選び方は前世の宗教画の解釈を超えて自由に広がって行ったと見るのが妥当だろう。これは市民社会の成熟ともちろん無縁ではないし、フランス革命やナポレオン戦争、そして普仏戦争などあいついで経験した近代戦争と無縁ではない。しかし、戦争の記憶は画家たちの観念をも時代によって厳しくさせ、ゴヤが「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」(1814年)を描いたおよそ120年後、ピカソは「ゲルニカ」(1937年)で無差別空爆という近代いや現代型戦争を告発するまですすんだのだった。

近代絵画のもっとも時代を変革した動きはもちろん印象派。劇的な物語から日常の風景に画題を求めた印象派は、いわば主題を画家個人の視線に求めたと言える。それもルノワールやドガのように都会の風俗にこだわった画家、モネやピサロなど田園風景を多く描いた画家、いずれもすでにある物語ではなく徹底的に自分の「眼」にこだわったといえる。

言わば平面で終わっていた印象派の中から、塗り方によって革新を拓いたモネなどにはじまり、造形をより抽象化、立体化していった試みが厚塗りのゴッホ=後期印象派、色彩理論をとことんまでつきつめたスーラ=新印象派、具象から抽象への変換を成し遂げたピカソ=キュビズム、もはやアプリオリにはテーマが読めないカンディンスキー=シュルレアリスムなど、絵画は「造形と技法」をとてつもなく発展させた。

そして平面ではおさまらない西洋絵画の世界は、より立体感を増すとともに、アカデミズムの枠を取り払い、アジアやアフリカ美術を取り入れ、ジェンダー規範を超え、アウトサイダーアートへも拡大の一途をたどっている。まさに受容と枠組みに終わりはない。

「まなざしの『レッスン』」のためには、そのまなざしを鍛えるための膨大な経験と知識が必要だ。日本語でいうと「西洋美術」と一括りしてしまいがちだが、キリスト教以前ギリシア・ローマの地中海美術から、ホロコースト以降のコンセプチュアル・アートまでその守備範囲はとてつもなく広い。それらの連関性、発展性を素人アート好きが「レッスン」を踏むことによって、より楽しめるならこれ以上のことはない。『まなざしのレッスン』1,2はその基本書、入門書、“あんちょこ”として必携となっている。次のレッスンはまた14年後だろうか。アートを彩る必須の要素として、彫刻や工芸、建築のレッスンも施していただけたらと思う。(『まなざしのレッスン ①西洋伝統絵画』は2001年刊、『同 ②西洋近現代絵画』は2015年刊 いずれも三浦篤著  東京大学出版会)

 

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印象派と一線を画した象徴主義に酔う ホドラー展

2015-02-03 | 美術
今、ちょうどチューリッヒ美術館展が神戸市立博物館で開催されているが、兵庫県立美術館ではこのホドラー展である。筆者の知っているオーストラリア出身の英会話講師はラファエル前派が好みというほど美術には詳しいが、ホドラーは知らなかったそうだ。
スイス出身の画家と言うと最も有名なのはクレー、そしてジャコメッティ(は彫刻が主だが)、アルプスのセガンティーニくらいだろうか。クレーはスイス出身とはいえ、バウハウスで教鞭をとっていたし、カンディンスキーらとミュンヘンで「青騎士」を結成していたこともあり、ドイツでの活動が長い。しかしホドラーは生涯スイスを離れなかった。
ちょうどホドラー展にあわせて、高階秀爾さんの講演があった。高階さんは西洋美術近代美術の大御所らしく、ホドラーの位置づけを分かりやすく解説した。いわく1953年生まれのホドラーはフランス印象派の後の後期印象派ゴッホらと同世代。しかし、印象派より、モローやオーストリアのクリムトら象徴主義の影響が色濃い。そして、壁画でその名をスイスで不動にしたのはシャバンヌの影響があったからという。たしかに、全体として大仰なホドラーの作品は、戸外であれ、室内であれ、個別具体的なちまちまとした題材の多い印象派のそれとは明らかに違っている。それはホドラーがたどり着いた境地と言うべきか、リズムを平面で表す オイリュトミー の発想であった。
オイリュトミー それは、リズム。なるほどホドラーの絵からは、クレーとは違うサウンドが聞こえてくるようだ。サウンドと言っても、明確なものではない、かすかな、それでいて消えることのない確からしさ。なぜ、聞こえると感じたのか。ホドラーは、自身の絵画理論としてパラレリズムをあげている。平行主義、と訳されるが、同じような構図を繰り返し描き、むしろ形態(人間)の普遍性を表そうとした試み。シャバンヌに影響を受けたホドラーの壁画には、少ない動きの女性像が繰り返し出てくる。あるいは、実際の世界では見かけない宗教的な瞑想を感じさせる動き。パラレリズムの本質は普遍であること。現実にはない、現実的な女性らが舞う仕草は、もう写実を離れ、想像の世界でとさえ見える。しかし、卓越したデッサン力を有していたホドラーが、想像の世界だけに舞い落ちるわけがない。それは、同時代、フランス印象派が戸外に出てそれまでのアカデミズム画壇、現実にはない世界 に反して日常の世界にこだわったことや、スーラなどの科学的描画法とは違う絵画世界を表そうとしたに違いない。聞こえたと感じたホドラーのサウンドとは、印象派以前の劇的性を勝手に感受したかもしれない。
一方、壁画など、イタリア・ルネサンス期と思うなかれ。ホドラーの壁画は、実は現実的である。というのは、ハノーファー市庁舎を飾る「全員一致」は、題材こそ16世紀初頭、ハノーファー市がルターの宗教改革を受けて、プロテスタントを受容する重要なシーンであるにも関わらず、まるで、革命運動に賛同する民衆を描いているかのような斬新さがあるからである。ともあれ、ホドラーの作品は、象徴主義的にして、現代的である。また、分かりやすい裸婦像などにほとんど関わらなかった点で、ある意味ジェンダーを超えている。要はスイス的合理主義なのかもしれない。
まだあまり知られていない、ホドラー。日曜日の昼間というのにそれほどの人波でもなかった。もっと、ホドラーの作品が知れ渡り、好まれていいと思う。(恍惚とした女)
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