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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ドイツ中西部の旅 2017ドクメンタを中心に③

2017-09-13 | 美術

ミュンスター彫刻プロジェクトは10年に一度の開催で、今回初めて訪れることができた。ミュンスターの街の中心部にあるノルトライン・ウエストファーレン美術館(LWL)は彫刻プロジェクトの本拠地。会期中は無休、午後8時まで開いていて、プロジェクトを回って疲れたらトイレ休憩などに使えるし、ロッカーも使いやすい便利な立地と施設。しかしLWLは単なる中継地ではない。そのコレクションたるや中世キリスト教美術から近代アートまで途切れない。しかも彫刻プロジェクト開催中は、現代アートのインスタレーションまである。まさにアートの至福である。

プロジェクトは、ミュンスター市街のいくつかの場所に作品がある。街中は歩いて回れるが、市街地の公園などにある作品は、自転車で回るしかない。ミュンスターはだいたい平地の街。レンタルバイスクルがあり、筆者も借りたが、一番低いサドルに合わせたのに足が着くかつかないか。それでも歩いて回るより多くの作品に見えたのはよかったが、本当に作品解説・理解としてよかったのはLWLから歩いて回れる範囲の作品をめぐるガイドツアー。ガイドのカレンさんは英・独・仏・西語ができてイタリア語はまだまだという。ドイツ語は全く不明、英語もおぼつかない身にとっては驚異の人だが、いろいろな参加者のレベルを察してか分かりやすい、聞き取りやすい英語で案内してくれたので助かった。むしろ現代アートは解説なしではよく分からないまま通り過ぎてしまうことが多いので、ガイドは有益だ。

LWLから出発するガイドツアーの最初の作品は、もともと美術館の敷地内にあったヘンリー・ムーアの彫刻がまるでトラックの荷台に乗せられ、いまにも運び出されそうな視覚の錯覚を企図した作品(Tom Burr)。カレンさんは、問う「作者は何を意図していると思うか」と。どんなに重く確固たるものに見えても容易に運び出され、そこの実像ははじめからなかったかのように思われてしまうこと。筆者は「Refugees(難民)」と答えたが、果たして作者の意図に合致していただろうか。いくつかの後に訪れたのは内部が空洞の大きな石柱(Lara Favaretto)。空洞なのが分かるのは、人間の目の高さに細い切れ目があるから。貯金箱?これもギリシアやイタリア、スペインなどEU内で債務超過・経済破たんが現実化、危惧される国に対し、EUや国家のヘルプが果たして、一国を助けることができるのか、いや、一人ひとりの「義援金」ではないか(それもふくめて無意味)とのアイロニーか。

Nairy Baghramianの鉄骨のチューブが3つに切断された作品には、思わず「Christianity world?」との頓珍漢な問いにカレンさんは即座にNo。もちろんキリスト教の三位一体を想起したのだが、筆者の考えすぎというより、そもそも西洋美術がキリスト教由来というずいぶん前の西洋美術理解に縛られていたということか。作品は、隣の場所で6つに切断されていた。かように可変的な固い物体は、実はどのようにも分断的で切断的である。それは変化も分散も許さないかに見えたスチール製の「紐」が実は、柔軟なのである。チューブか紐か?紐帯と言うことばがあるのか分からないが、結ぶものは、はずれ、解かれるもの。印象深い作品だ。

街を挙げての芸術祭は、いろいろ地域を回れて楽しい分、移動が結構大変だ。ミュンスターではレンタルバイスクルも利用したが、それもない場合はおよそすべての作品を回ることは出来ない。都会の芸術祭(次回紹介するドクメンタなど)は公共交通で回れるが、地方ではそうもいかない。たとえば瀬戸内国際芸術祭などは作品が島に点在していて、その島を巡る船も限られている。ミュンスターに3,4日滞在して、彫刻プロジェクトほかふらふらと過ごすのが理想なのだろうが。しかし、何らかの政治的発言も伴うコンセプチュアル・アートたる現代美術は、その意味をじっくりと考え、その作家の発言するその意図に諾か否かの姿勢を自問自答してみるいい機会と言う意味で、長い時間が必要だろう。(Nairy Baghramian)

 

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ドイツ中西部の旅 2017ドクメンタを中心に②

2017-09-04 | 美術

ドイツはビール大国であるが、キリンやアサヒのようなナショナルビールはない。すべて地ビールでその土地に根ざした地ビールである。ケルンではケルシュビール。200ccのグラスにピルスナータイプのビールを注いで、空いたら勝手に次のグラスを持ってくる。わんこそば方式なのだ。油断していると延々お代りすることになる。

ケルンの次に訪れたのはヴッパータール。世界で最も古い懸垂式モノレールがある。懸垂式モノレールって?鉄道オタクにしか分からない用語に思えるが、要するにぶら下がり方のモノレールである(ヴッパータール空中鉄道というらしい)。日本では千葉と神奈川にしかないそう。ヴッパータールのモノレールは景色がすこぶる良い。川の上をずっと走るのだ。ぶら下がり型ゆえ、茂る木々も美しい。それで、デュッセルドルフからバスで45分(鉄道駅が改修中で運休中だった。)かかるが、わざわざ行ってみた。ヴッパータールそのものは特に観光客が来そうにもない地方都市。しかしあのピナ・バウシュ舞踊団の本拠地であるというのだから、これも舞踊好きにはたまらない、がそれだけである。

駅前のショッピングモールといい、どこにでもある街。駅からも歩いてすぐのフォン・デア・ハイト美術館は規模はそれほどでもないが、ドイツ表現主義の作品がそろっていた。デュセルドルフに帰るバス乗り場が分からず、美術館の年配の係員は英語が通じず、インフォメーションセンターのお姉さんは、はっきりとは分からないという。列車運休の臨時バスだから仕方ないか。なんとか、探し当ててデュセルドルフまで戻った。

デュセルドルフにはK20州立美術館とK21があるのだが、駅から歩いていけると思い、K21だけ訪れた。ドイツはワイマールの時代まで統一国家がなく、フランスやイギリスのような国立大美術館(ルーブルやナショナル・ギャラリーみたいな)がない。それで州単位の美術館が発展し、これが巨大とは言えないけれど軽んじられない規模なのだ。K21もK20とともに十分な規模なのだが、疲れていて結局K21しか行けなかった。K21は現代アートである。面白かったのが体験型、金属製の巨大なトランポリンのような網。作業着に着替えて大人だけが許される不安定な網に体を委ねると、平衡感覚、腹筋、背筋いずれもない者はすぐに転んであたふた。どうにか立ち上がって進むが、下に落ちないとわかっていてもこれがスリル満点で、予想できない揺れにいい大人たちが歓喜をあげる。結局30分ほどの制限時間では、筋力、柔軟力のない者はいろいろとは歩きまわれなかった(つまり筆者のこと)。それでも十分楽しめたのが、体験型現代アートの妙。体験型というと結構子ども目当てのものも多いが、これは網目の大きさもあり、小さな子どもは参加できないよう。まあ、ドイツ人は大きいから子どもといえども小学生高学年くらいなら参加できるのだろう。

デュッセルドルフには近代までのK20美術館や近代絵画の収集で有名なクンストバラスト美術館もあったが、今回は時間的に訪れることができなかった。とても残念。

デュッセルドルフのビールはケルンと打って変わって、濃いめのアルトビール。これをケルシュのようにじゃんじゃん注がれたらかなわないが、幸い、注文してはじめておかわりを持ってくる。2杯目はヴァイツェンタイプをいただいた。まだ今回の目的ミュンスターにもカッセルにも辿りついていないのに、アートの旅かビールの旅かよく分からなくなってきた。(ヴッパータール「空中鉄道」)

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ドイツ中西部の旅 2017ドクメンタを中心に①

2017-09-01 | 美術

ケルン大聖堂は、完成まで600年かかった(資金難でおよそ200年の中断がある)。中世ゴシックの大聖堂はいくつか訪れているが、ケルンはすさまじい大きさだ。高さでいえばほかにもより高い大聖堂もあるようだが、その広さがはんぱでない。そして美しい。

大聖堂の要素は美さに尽きる。シャルトル大聖堂が高さでも建延でもなく、600年後の現代の私たちを惹きつけるのは、その美しさ故である。ケルンの美しさは大きさである。中世ゴシックの大聖堂の建築技術は、高さを求める過程で飛躍的に伸びた。高さを支えるため、聖堂の外側に補強の外枠を編み出した(フライングバットレス)。この言わば余計な補強材が美しい。そびえる聖堂に無数の骨組み。それは計算されつくした構造建築の粋を極めながら、まるで骨組み自体が現代の高度な、それでいて最先端のアートシーンになっているかのようだ。工場萌えの様相でさえある。ケルン大聖堂はその規模ゆえ周囲をぐるりと回るにも時間を要する。だから大きさに味があるのだ。

ケルンはドイツ中西部最大の観光地である。ベルギーからの訪問客も多い。しかしケルンは大聖堂だけではない。応用工芸博物館はデザインの歴史が時代を追って見られる。デザインというより工芸、オーナメンツの極致だろう。ドイツ手工芸の歴史をたどれば。その極致・巧緻を見せつけるのが「中世最後の彫刻家」リーメンシュナイダーである。

実は、応用工芸博物館という観光客はほとんど訪れないマイナーな場所にリーメンシュナイダーの作品があることを教えてくださったのは、日本でのリーメンシュナイダー紹介の第一人者である福田緑さんである。福田さんはリーメンシュナイダーの作品紹介の著書をすでに2冊出版されていらっしゃる(『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』2008.12『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』2013.1いずれも丸善プラネット)。著書ではおもに作品個々の紹介に重きをおかれていて、その画像、作品データともこれから訪れる者にとても貴重な情報源となっている。

応用工芸博物館にあるリーメンシュナイダーの「聖母子」は1495年頃の作品とあって、リーメンシュナイダーが比較的若い頃のもので、16世紀、円熟味が増したそれらの峻厳さには及ばない。しかし、リーメンシュナイダー特有の虚ろでいてしっかりした聖母の眼(まなこ)は健在である。「しっかりした」と記したが、リーメンシュナイダー作がすぐにわかるのはある意味、その彫像のまなざしである(と思う)。美術館に着く。中世彫刻の部屋にたどり着く。探す。すぐに分かる。リーメンシュナイダーの彫りは。あああれだと。それはその眼が示しているからだ。

ケルンはドイツ中西部随一の観光地で観光客も多い。駅前には警察車両が詰めていて、アジア系と分かる自分は申し訳ないが、アラブ系の人はしょっちゅう身分証明を求められている。駅前の大聖堂界隈では、警察官に出くわすが、ちょっと歩くとそうでもない。応用工芸博物館を出てコロンバ美術館、ヴァルラーフ・リヒャルツ美術館に向かう。WRは、中世から近代までそろう大きな美術館。印象派のカイユボットの作品が数点もあるのには驚いた。重いのに図録を購入してしまった。ケルン大聖堂の500段の塔に登ったこともあり、かなり疲れていたが、時間が許す限りと大聖堂裏手のルートヴィヒ美術館にもおじゃました。こちらはルイーズやロスコなど抽象表現主義が集まりうれしくなった。ケルンは、リーメンシュナイダーから戦後美術まで堪能できる。(リーメンシュナイダー「聖母子」部分)

 

 

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「奇想」はアートの本来的役割かも  「ベルギー奇想の系譜展」

2017-06-28 | 美術

本展の主催の一つBunkamuraザ・ミュージアムの上席学芸員宮澤政男さんが日本(人)のベルギーに対する貧弱な知識・理解を述べている。「ベルギー語は?」などと。チョコレートやワッフルなど表面的には現代の主要商品以外にあまり知られていない(まあ、小子も含めてヨーロッパに対する表面的理解はそのようなものだが)国で、ボスからマグリット、現代のファーブルまで「奇想」の画家、作家の系図は連綿と続いているという。

「ベルギー」という国自体がなかった時代、ヒエロニムス・ボスのキリスト教の教訓(七つの大罪)にあふれた世界はベルギーというオランダやドイツなどプロテスタントの勃興した世界にもフランスやイタリアなどカトリックが相変わらず勢力を誇っていた世界にも受け入れられたであろう。それはキリスト教の重視する人間の行為に対する戒めをとても分かりやすく、また、厳しく描いているからである。「傲慢」「嫉妬」「激怒」「怠惰」「貪欲」「大食」「邪淫」をそれぞれ擬人像で版画にしたヒエロニムス・コックは、その構成の巧みさ、細部の緻密さをボスにあやかってと記しているそうであるが、一つひとつの題材はボスを参考にしたピーテル・ブリューゲル(父)の細密描写そのものである。もちろん擬人像であるから実際の描写ではなく、「奇想」であるが、フランドルにおける細密描写の巧緻は15世紀はじめのヤン・ファン・エイクの画業ですでに確立されており、ボスが黎明ではない。ヤン・ファン・エイクの傑作「ゲント祭壇画(神秘の子羊)」は、キリスト教での重要な儀式、子羊を生贄にささげ、神職らが隊列する壮大な画面構成からなるが、もちろん実際に行われた様子を描いたものではないだろう。そしてどこか超現実を感じさせる描写は「奇想」の系譜に入れてもおかしくない。

しかし、ボス、ブリューゲルの系譜は圧倒的で、とても大罪を犯した人が天国に行けない恐ろしい世界を描いているにも関わらず、どこかユーモアがあり親しみやすい。そこが、筋肉ムキムキのキリストが人々を天国と地獄にばっさりと切り分けたイタリアルネサンスのミケランジェロと大いに違うところである。そしてムキムキ系を引き継いだ17世紀のルーベンスが描く世界もまた細密さも併せ持っている。微妙な画風を継承するフランドル(ベルギー)という地がフランスとプロイセンやオランダといった大国に挟まれた故に花咲いたとの解説もあるが、筆者にはそれは分からない。ただ冒頭で紹介したようにベルギー語などないのに、国で話されている言葉は、北はフランドル語(オランダ語)、南はワロン語(フランス語)ときれいに二分されており、それでも不自由のない世界というのが長く続いた小国の知恵であるのは確かだろう(もっとも、近年は右派勢力の台頭で、言葉の地域に沿った分離独立の機運が高まっているのは、現在のヨーロッパ世界の保守主義と排外主義と無縁ではない。)。

20世紀になりデルボーとマグリットは「奇想」の典型と紹介される。たしかにデルボー、マグリットの描く世界は現実にはあり得ない。鉄道と裸体の女性たち、青空が中身になっている鳩など、想像世界でしか考えられない対象を次々に「現実化」した彼らはおそらく、現実でなく超現実をもってして現実を説明しようとしたのではないかとも思える。それは何ゆえか? デルボーやマグリットに訊いてみるしかないが、これだけは言えるだろう。そもそも言語で区別できない、人種で区別できない、なにをもって区別とするかのか、を歴史上問われてきた地域で、その混とんを超現実の発生との説明は無意味であると。なぜなら、美術をふくめ芸術の世界は、簡単には説明できないものを生み出してきたゆえに芸術足り得てきたのであるから。(ボス工房「トゥヌグダルスの幻視」)

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その妖しさの虜になる快感   クラーナハ展

2017-03-01 | 美術

2017年は、ロシア革命100年であるが、もっと遡ればルターの宗教改革から500年である。だから去年東京は国立西洋美術館からはじまり、現在大阪の国立国際美術館で開催されているクラーナハ展は、ルターと近しかった故の開催でもある。

しかし、クラーナハはルターと敵対していたいわばカトリック側の注文にも応えており、一筋縄ではいかない。クラーナハは1505年ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明候の宮廷画家となり以来3代、50年近く選帝侯に仕えている。ルターの宗教改革派を弾圧する側に身を置いていたのだ。しかし、そのような「保守派」の世界に身を置き、絵画の世界ではさまざまな革新を追求したところがすごい。その革新の成功が、クラーナハの描く裸体画である。

クラーナハが裸体画を描き出したのは、宗教改革後の1520年頃以降とされるが、クラーナハが実際裸体を描き始めたのはそれより以前らしい。そもそも、クラーナハは自己の工房を大々的に発展させ、同じモチーフの画を次々に生み出す、今でいう大量生産の手法を編み出した。現代の大量生産とはだいぶ違うであろうが、絵画印刷のなかった時代、同じ画を次々に生み出すやり方は画期的であった。そしてクラーナハは早描きの名人でもあった。

妖しい裸体と微笑みとも無表情ともとれる表情。登場する裸体は、もちろん現実のものではないが、裸体画の発展が、宗教や神話にかこつけて鑑賞する者が見たいものを制作した経緯に照らせば、クラーナハの仕事はその要請に十分に応えたものといえる。その視線は常に猥雑でありながら、クラーナハの手にかかるとビーナスも、イブも、ユーディットも蠱惑的でありながら、どこかセクシャリティに欠けるのはなぜか。それは現実にはあり得ないヌードなどであるからである。例えば何度も描かれたイブを見ると、あれほど細く引き伸ばされた体躯はない。体つきは華奢で子どもっぽいのに表情は妖艶。そしておよそ隠しているとは思われない極薄のベール。16世紀の技術であのようなベールはなかったことはもちろんのこと、あれは隠すためのベールではなく、見せるため、視線を集中させるためのベールなのである。と、同時に視線の先にある、見たいもの(もちろん男性の視線だけであるが)は実はそれほど鮮明には描かれておらず、観者の想像、いや妄想に委ねている。これこそがクラーナハのうまいところで、それまでの宗教画・神話画に見られた実際にはない姿から、あるがままを写実的に描こうとするルネサンス以降の肖像画の系譜の中間に位置する、発展段階ともとらえることができる。もっとも、肖像画のすぐれた技量は、イタリアでのそれより、クラーナハの属する北方で15世紀半ばにはヤン・ファン・エイクによってすでに確立されていた。そういう意味では、宗教画・神話画から離れ、いち早く実際の肖像画が発展したのが、宗教改革を生み出した北方であり、宗教画・神話画のままさらに発展したのが、ローマ教皇の勢力下であるイタリアは16世紀半ばにティツィアーノのすぐれた画業に集約されるのも理解できるのである。

ところで、クラーナハの双璧と言えばデューラーである。デューラーの絵や版画が、ことのほか繊細、職人技でどこか近寄りがたい雰囲気まで感じさせるのに対し、クラーナハのそれは先の蠱惑的なヌードをはじめ多くは親しみやすい、というかどこか惹きつけられてしまう。しかし、その中に人間の愚かさや傲慢さへの戒めなど、聖書やキリスト教的倫理観が垣間見える。

あの妖しさに自ら虜になる快感。クラーナハの魅力は尽きることがない。

 

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「聖母子像」から親しみやすい「母子」像へ  メアリー・カサット展

2016-11-21 | 美術

さすがに「女流」画家という言い方は減り、きちんと「女性」画家と言うようになったが、まだまだだ。「男性」画家といちいち言わないのは、日本人にとって、西洋人の名前だけでは男女分からからというのもあるだろう。けれど、人が男性か女性かといった属性、あくまで属性である、で分けるならば「男性」画家とことわるべきであるのにそれはない。少なくとも「メアリー」ならそもそも「女性」画家とことわる必要もない。

しかし、メアリー・カサットが生きた時代、女性はアカデミーにも入学できず、サロンに出展できず、独学、女性ゆえ数々の困難に直面した。メアリー・カサットが裕福な家庭に生まれたゆえ、画業だけで成功したのは明らかだが、その資金的背景でドガに教えを乞い、画壇に続けることができたのが大きい。

印象派はサロンの趣味や選考過程に反旗を翻したが、サロンそのものに反対したわけではない。ドガのようにサロン解体を叫ぶ画家は少数派で、モネやピサロのようにサロンでの評価に未練を持っていた画家も多い。サロンはもちろんそうであるが、時代ゆえ、印象派の仲間でも女性画家が正当に評価されていたかどうかは不明である。結婚を機に筆をおいた女性画家も多いし、印象派随一の女性画家ベアト・モリゾでさえ、モネの弟と結婚したあとの作品は少ない。

カサットはそのような時代にあってもドガや他の印象派の画家らの手法を吸収し、自己のスタイルを確立したと言えるだろう。それは手法そのものもあるが、画題である。生涯独身であったカサットは自身の子どもももうけていない。しかし、キリスト教絵画の重要画題である聖母子を現代風にアレンジしたかのごとく普通の母と子どもを描き続けた。描くその視線には、慈しみがみて取れる。印象派はルノワールに代表されるように都会の風俗や人々を描き、野外の光を追い求めてジベルニーに庭までつくったモネにしても、大聖堂など建築物を描いたりしている。カサットの師事したドガは、言うまでもなくバレエの裏方に通い詰め、踊り子に執着した。カサットの描く母子は、キリスト教の母子像ではなく、そこいらにまみえる母と子である。そして、技術的には、当時の印象派の画家たちが好んだジャポニズム(=浮世絵)あり、現実のモデルをそのまま描く写実主義あり、である。母が子をやさしくあやす、大事に抱きかかえる、そのような姿を描き続けたカサット。印象派がサロンの求める史劇や神話の世界を否定し、日常の世界、自分らの手の届く世界を描いたにもかかわらず、「女子ども」を描く画家はいなかった。ルノワールのように女や子どもを別々に描いた者はいたとしても。

アメリカという自身の出身である新興国から最大限の評価を得、アメリカに「凱旋」的に受けいれられ、シカゴ万国博覧会の壁画を任されるが、「果実をとろうとする子ども」などカサット得意の優しい母子像は受け入れられなかったという。それ自体が先述の聖母子像であるカサットの選んだ画題は、キリスト教絵画の歴史のないアメリカでは理解、共有する価値観がなかったのだろう。

レンブラントが肖像画の達人と呼ばれた時代、よっぽど高貴な人を除いて対象はすべて男性であった。少なくとも名前がある人は。名前がないという言う意味では同じかもしれないが、カサットの描く母子にはもちろん固有名はない。固有名がないからこそ生まれる普遍性を、女性が画家として生きるのに困難な時代をカサットは観取していたのかもしれない。それは技量をも超える普遍性として。「女性」画家として成功したカサット。その存在の重要性を改めて考えさせるのだ。(カサット「浜辺で遊ぶ子どもたち」)

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「個人と個人、個人と集団との間に生じる齟齬」 隙間を「仮縫い」でまつろう試み 髙橋耕平展 

2016-10-16 | 美術

失礼ながら髙橋耕平さんを知らなかった。現代美術シーンの「若手」作家は数多いるが、髙橋さんのコンセプト「記憶の継承と忘却や断絶」「個人と個人、個人と集団との間に生じる齟齬や共感」(「遠隔同化 二人の耕平」展リーフレットより)は、何かと黒か白か、こちら側かあちら側かと二項対立したがる風潮に疑問符を投げかけるアート本来の役割、それはたぶん現実の政治・社会状況に異なった視点からストップをかける役割を持っていると思う。

2016年4月に施行された障害者差別解消法では、民間企業に対し、障害者にたいする「合理的な配慮」を欠いたと申し出のあった場合の主務官庁への報告義務と、その報告義務を怠ったたり、虚偽の報告をなした場合の罰則を定める。しかし、実効性に疑問があるとの批判もある。問題は実は「合理的な配慮」という国家的線引きでない。政府広報は「合理的配慮」の例として、目の見えない人に対する点字書類の用意や、車いす利用者に対するフラットな通路などをあげる。それらも大切だが、この国家的線引きは、これを用意すればいいのでしょうという健常者側の一般的な基準と、その基準をどんどん厳しくしてしまう可能性を包含している。どんどん厳しくしてしまうというのは、主に、企業に準じて官庁や自治体など公共機関では、文句が出る前により「配慮」していますよと、全体的に自由度の低い間口を用意することにつながりかねないからだ。

実は、上記おもに身体的障害を対象にしたバリアフリーへの取り組みとその「配慮」は、思想的、精神的な自由度を狭める発想につながりかねない。というのは、個人と個人の段階で解決できた取り組みを「配慮」の名のもとに画一化するからである。例えば、障害者と一言でくくられがちであるが、これができる、これはできない、これは介助者がここまで関わる、関わらないが個々別々であるのに、エレベーターがあるからいいでしょ、スロープがあるから配慮しているでしょうとなりかねないからである。そこに個々の「個人」の姿はない。

「障害者」と一括りにされがちな一人ひとりが何を考え、何を望むのかについて、社会の側が丹念に聞き取ってきたとは言えない。それは「健常者」がそうではなかったから、より無視されることの多い「障害者」故であるかもしれない。そして、何がベストなのかを問う過程にはベターやワースに対する回避があるべきだろう。

阪神淡路大震災という未曽有の災害で、一人で生きていくのが困難な「障害者」があの時どう過ごし、どう生き抜いてきたか。その前提として、それまでどう生活してきたか、その後どう過ごしてきたか。ドラスティックな経験をした人もいるだろうが、多くの人はそうではない。そして、「健常者」であっても一人で生きていくことはできない。

髙橋さんは、本展で震災と震災後の「障害者」がどう生きているかを震災とは関係なく、言わば日常を追うドキュメンタリーの手法で、描いている。例えば西宮市の車いすユーザー鍛冶克哉さんは、とてもアクティブで、神宮球場や海外にも出かけている。それは「障害者がそこまで…」ではなく、「障害者」と「健常者」と間の壁を高く設けたからの嘆息に過ぎない。そして鍛冶さんは震災のときまだ小学生だった。

2014年9月に東京で開催された「反戦 ― 来るべき戦争に抗うために」展にも髙橋さんは出展されている(主催は沖縄在住の美術評論家土屋誠一さん)。同展は、同年7月に安保法制を閣議決定した政権の横暴を指弾するアーティストの表現活動である。それはいいか悪いか以前に議論をすっ飛ばした逡巡を拒否する横暴に対する異議申し立てであると、少なくとも、筆者は感じている。

髙橋さんの提示を楽しく、そして、少しだけ腕を組んでは考えなおしている。

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創造する人間の旅に同行できるか  あいちトリエンナーレ2016

2016-09-25 | 美術

芸術祭が盛んである。今年から始まったものも多い。横浜トリエンナーレが老舗とすれば、あいちトリエンナーレは3回目で中堅に近づきつつあるといったところか。芸術祭は大きく分けて2つある。越後妻有アートトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭のような地方の、いわば「田舎」を活用したものと、横トリやあいちのような都市型のものと。都市型といっても、国内外の作家が作品を持ってきて展示するやり方だけではない。横トリやあいちでは地元の商店街や古びたビルを活用して、その場の雰囲気に合わせたインスタレーションもある。観客に美術館などメイン会場以外の街を回らせることで、その街を感じ、街をあげての感覚が都会の展覧会なりに工夫されているのだろう。

 2016あいちトリエンナーレのテーマは「虹のキャラヴァンンサライ 創造する人間の旅」。キャラヴァンンサライとは隊を組んで旅する商人の宿のこと。今回は名古屋市内の他、岡崎や豊橋にも主会場がある。隊商をモチーフにしていることからも、今回は文化人類学の視点から未知の世界、土地を紹介、探究させる展示が多いようだ。例えば言語学者・文化人類学者の西江雅之や民族学者フォスコ・マライーニの展示。イタリアン人マライーニは1938年にアイヌ研究のために来日するが、マライーニがイタリアのファシスト政権に与しなかったため、敵国人として日本政府に抑留される。2年間愛知での抑留生活を遺された写真などから解説する。あるいは大巻伸嗣の「Echoes Infinity 永遠と一瞬」は、曼荼羅あるいはモザイクを思い起こさせるような床一面多種多様な色砂で描く花畑。その美しさ、まさに永遠と一瞬に息をのむ。

文化人類学や民俗学の観点からアプローチを試みているように見えるが、実は現実の歴史、政治や社会の問題をほうふつとさせているのが、北海道と沖縄の展示。メイン会場ではない古いビルを少しずつ利用した栄・長者町会場では侵略と支配に苦しんだアイヌやウチナの地がその苛烈さとは反対に淡々とした写真や映像で語られる。壁に貼られた年表にはきちんと95年の米兵による少女暴行事件に抗議する県民大集会や、今日のやんばるの森は高江のヘリパッド移設問題の表記もある。なにかと芸術に政治を持ち込むなという、「中立・公正」の仮面をかぶった公からの弾圧とそれを忖度する主催・展示側が目立つ現在の芸術に「中立・公正」はありえないときちんと反論しているようにも見える。

好き嫌いは別にして、会田誠の作品が一度撤去された東京都現代美術館のように、芸術作品とは物議をかもしてナンボの面もある。しかし、昔はわいせつ性で議論が多かったそれら軋轢やトラブルが、現在では、戦争、平和、原発・核などまさに政治的文脈で「中立・公正」が持ち込まれることが多い。公・政権側がこれこそ「中立・公正」だとメジャーを芸術や教育、あるいは公の施設に持ち込めば、もはや「中立・公正」ではあり得ないと知るべきだろう。

都市型の芸術祭は、地方の辺鄙な土地でなされるそれよりビビッドに歴史・政治的スティグマにさらされ、あるいはそれを問いかけることが困難、センシティブにならざるを得ないのではないか。しかし、あいちトリエンナーレは移動する生き物である人間の習性を「隊商の宿」をとおして感じさせてくれた。次回以降も楽しみだ。(大巻伸嗣の「Echoes Infinity 永遠と一瞬」)

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「トリックスター」としてのフジタ、日本人画家では納まらないフジタ  「藤田嗣治展」

2016-07-30 | 美術

エコール・ド・パリの面々は日本で人気が高い。モジリアニ、ローランサン、キスリング、カシニョール…。フジタもその一員と目される。日本で評価されずパリへ、乳白色の裸体画がパリ画壇で評価され、日本に凱旋。戦争画をすすんで描き、戦後それゆえ戦争責任を追及され、日本を「捨て」パリへ、そして晩年フランス国籍を取り、カトリックに入信。カトリック教会の建築に晩年を捧げる。

分かりやすいといえば分かりやすいが、今回本展で明らかになったのは、フランスから日本へ帰国した間にメキシコなど中南米に旅したことで、フジタがメキシコ美術などに大きな感化を受けたこと。メキシコ美術といえばその時代、ディエゴ・リベラらメキシコ革命時に壁画運動を支えた3巨匠の時代。フジタはそれら壁画運動のエッセンスを最大限に吸収し、後に、大日本帝国がすすめた「大東亜戦争」の戦争絵画を並外れた技術をもって世間に知らしめた糧となった時代であった。

フジタ美術の真骨頂は戦争絵画であると言われる。(フジタワールドで薄められたものhttp://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/7a00b0a590690264fdfd431e3fa53780#comment-list)しかし、フジタは本来すぐれた技量で、フランス近代画壇の実力派画家たち、先にあげたエコール・ド・パリの面々やピカソなどすでに人気を博していた画家たちのエッセンスを巧みに取り入れていた。本展に合わせて企画された浅田彰氏の講演会が開かれた(「フジタを追って ―世界史を横断したトリックスターの足跡」)が、浅田氏も指摘するとおり、フジタは自己の位置、環境に合わせて巧みに自己を変幻させてきたのだ。トリックスターとしてのフジタの活躍はまず、最初パリで発揮される。社交界で変な日本人を演じているのは絵が売れたからと売れるため。派手な女性関係、おかっぱにイアリング、大げさ、時に下品な行動は、日本ではひんしゅくものだったが、それもいわば計算済み。何が受けるかを綿密かつ本質的に理解していたのだろう。しかし、余命いくばくもない父に会うため、パリでの成功をひっさげて帰国した日本では散々で、ときは日中全面戦争へ向かう頃。その間メキシコなど南米で2年間壁画芸術などを吸収したのは前述の通りだが、奇しくもその吸収が、日本帝国主義の戦争絵画で結実する。

決して戦意高揚、勇ましいとは言えない「アッツ島玉砕」は見る者を感涙させたというが、フジタが細部まで描ききった兵士の姿ゆえ、その現実感に感動したのではないか。もちろん、戦争の実相は感動するようなものではない。しかしフジタは、本人の思惑を超えて、その技量を持って、日本では酷評されていた自身の名声を回復したのだ。

戦後、従軍画家として戦争画をいくつも描いたフジタは一転して戦争責任を問われる。そして、それが嫌になってフランスに戻り、フランス国籍を取得したのは周知のとおり。戦後フジタが繰り返し描いたのは子どもたち。戦前は乳白色の裸婦、猫、壁画、戦争画と変転した画家は、罪のない子どもの絵にシフト、没頭したとも言える。しかし、フジタの描く子どもらはいわゆる可愛さがない。誰も笑っていないし、あどけなさもない。子どもらの目線には、国家に道程に翻弄され、また、自己の道がその技量故、器用に渡りとおせたと見えて実は満足のいくものではなかったことを示しているように思える。

晩年カトリックに入信、教会建築(装飾)に専念したフジタには「トリックスター」でもなんでもない、器用さとは無縁な一画家の「境地」が垣間見える。フジタを日本人画家として再評価する試みは、実は一番フジタの実像から遠いのかもしれない。(「校庭」1956年)

 

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鉄に創造性を与えた彫刻家 ゴンザレスの仕事

2016-04-15 | 美術

ヨーロッパ近代彫刻の雄と言えば、まずロダンを思い浮かべると思う。ではロダン以降、特に20世紀を代表する彫刻家とは誰であろうか。

印象派のルノワールやドガ、後期印象派の影響色濃いフォービズムのマティスなど彫刻を手掛けた画家も多い。マティスは20世紀になってからの評価が高いし、平面に限らず陶器など多作のピカソも彫刻を制作している。しかし、20世紀の彫刻家と言えばブランクーシやボッチョーニ、ザッキンが考えられる。ただ、「20世紀の」という場合、ここでは第2次大戦後は視野に入っていないと思う。だから、戦後の活躍の方が想起されるジャコメッティやマリーニ、アルプは容易に思い浮かばない。そして、東西に分断されていたため、その作品が西側に知られるようになるのに時間のかかったエルンスト・バルラハやケーテ・コルヴィッツになるともっと知られていないと思う。実は、長々といろんな彫刻家の名をあげたのには理由がある。ピカソがもっとも信頼を寄せていた彫刻家といえば、フリオ・ゴンザレスであり、ここには登場しなかった「20世紀の」彫刻家足り得るからである。

ゴンザレスは、ピカソと同じカタルーニャ地方の出身。金工職人の家に生まれ、父が早くに亡くなったため、兄らとともに家業を継いだが、一家でパリに移住。そこでピカソに出会い、高く評価される。一家を支えるため、溶接工として働いたことが、後の制作に大きく寄与することになる。それまでの彫刻が、金属を使用するといえばその素材、加工法はロダンの系譜でブロンズであった。ブランクーシやアルプ、リプシッツはブロンズ以外の秀作もあるが、当初はブロンズ作品であった。そして、ロダンの時代の青銅のブロンズから、ブランクーシやアルプのように光沢のあるブロンズに発展したものであり、ゴンザレスのように鉄を制作で使いこなした者はいない。ゴンザレスは溶接の技術を得て、鉄にアートを咲かせた。

歴史によれば、金が尊ばれる時代以前、紀元前、鉄がもっとも貴重な鉱物資源であった。金や他の鉱物資源が鉄より高価であるのは確かだが、鉄が加工に優れ、安価ゆえに入手しやすい素材として、工業素材としての有用性を確固たるものとなった。ブロンズはそれで使いこなす技術がいる。しかし、鉄も美術作品として顕現させるには技術が必要だ。ゴンザレスは溶接技術で、鉄という工業素材に息吹を与え、その冷たく、固いだけのイメージを変質させたのだ。

例えば、鉄と真鍮を使用した花シリーズ。菊を鉄で表したり、花弁をひとひら、ひとひら鉄で制作した。しかし、花のような柔らかいものの典型との距離というより、見せるイメージの固さとは裏腹に、ゴンザレスは柔らかさ、親しみやすさを、むしろ鉄に求めたのではとも思える。抽象彫刻は、難解であるとともに、造形的な面白さ故にときに柔らかく、温かさをも感じてしまう。アルプの彫刻は曲線ばかり、楕円や球形の多用ゆえに柔らかい雰囲気を醸し出しているが、ゴンザレスのそれは直線や方形が多いにかかわらずやさしい。

大きな戦争をくぐりぬけた美術家たちは、なんらかの形で大量殺戮、市民や近しい友人、家族らが殺される戦争そのものに反対の意思表明をしてきた。ピカソのゲルニカは、スペイン内戦中、共和国軍を支援したドイツ軍のゲルニカへの空爆に対する抗議であったし、ザッキンは瓦礫と化した街、イコール多くの命が奪われた戦争そのものの非人道性を厳しく問うていた。

鉄に魅せられたゴンザレスは、ピカソやザッキンのように直接的な戦争反対の作品を表しはしなかったが、繰り返し制作された「モンセラ」シリーズは、明らかにスペイン内戦によって、後に帝国主義の戦争に巻き込まれたスペインの、被害をまともに受けた一介の市民、農民、非戦闘員らの怒りと苦悩、諦観を現したものであった。そしてカタルーニャは言葉を禁止されるなどフランコ政権によって徹底的に弾圧された。

ときに抽象は具象を凌駕する。ゴンザレスの彫刻に対面していると、固い鉄が、柔らかな人間、感受性を奥深く表しているようで、とても温かく迫ってくるのだ。(叫ぶモンセラのマスク)

 

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