kenroのミニコミ

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イタリア ルネサンスの旅4

2016-03-21 | 美術

ルネサンスの聖地フィレンチェには珍しく近現代彫刻の美術館がある。マリノ・マリーニは未来派の時代からイタリア彫刻界を牽引した巨匠。ファシズムを経験し、戦争、核戦争などの「不安」を荒れ狂う馬に乗る人物で繰り返し表現した。マリーニはいったい、いくつの暴れ馬と人を彫ってきたのだろう。それは、第2次大戦を経、未曾有の殺りくを目のあたりにしたマリーニの現代に対する不安そのものを表しているように思えてならない。近い時代を生きたベラルーシ出身、パリで活動したユダヤ人のオシップ・ザッキンは、「破壊された街」シリーズで戦争を告発した。マリーニも暴れ馬で表現したかったのは、人間の手では制御できない人間の行いだったのではないか。その愚かさ、破滅性、絶望性は、戦争でこそ明らかになる。戦後も同じモチーフで制作し続けたマリーニの作品が、戦乱がない状態=平和ゆえに文化が花開いたとされるフィレンチェ・ルネサンスの地に勢ぞろいしているのは、皮肉で、かつ意義深いものを感じてしまう。

旅の最後の日は、フィレンチェをはなれ、シエナへ赴いた。シエナ派の代表画家であるシモーネ・マルティーニやロレンツェッティ兄弟の作品が目白押しだ。初期ルネサンスがフィレンチェで開花したのは偶然ではない。商業都市として栄えたのは事実だが、同じく繁栄したシエナと競っていたからだ。この対抗は、美術史的にはルネサンスを開花させたフィレンチェの勝利と見えるが、シエナ派の作品は、「人間的」なフィレンチェのそれとは違って魅力にあふれている。13世紀の偉大な画家ジョットの系譜をひきつつ、13~14世紀の国際ゴシック様式を広めたのはシモーネ・マルティーニの功績と言われる。結果的には、フィレンチェ・ルネサンスの躍動感あふれる新様式に、シエナ派の画業は古臭いと駆逐されるのだが、あの厳しい顔立ちのマリアにはなんともいえぬ味がある。例えばドゥオーモ付属美術館にあるドゥッチョの「荘厳の聖母」など、ラファエロが描くような慈悲に満ちた優しい表情より、信仰の厳しさ、イエスの行く末、いや、イエスを生むことになる我が身の厳しさをより的確に表しているのではないかと思えるほど固い。けれどそれが味わい深いのだ。

レオナルドが描いた「最後の晩餐」は、数多の画家が描いてきた「最後の晩餐」スキームを根本から変えたという。それまでの「最後の晩餐」は、誰がイエスか、一人だけ光輪をつけているとかで一目で分かった。あるいは、裏切り者のユダだけこちらに座っている、ユダだけ光輪をつけていないとか、ユダも一目で分かったのにレオナルドのそれはそうではなかったのだ。しかし一方で、そのような形式的、定型的、いわばお決まりの構図もまた大事だったのだ。というのは、グーテンベルクの活版印刷以前、聖書の物語を教会や聖堂の絵画でしか学べなかった人たちにとって、このお決まりの構図が一番重要だったからだ。

逆に言うと、レオナルドなどフィレンチェ・ルネサンスの革新性を理解するためには、シモーネ・マルティーニらシエナ派のそれまでの、布教をより広範囲に、多くの人に、そして同時に勃興しつつある商人層や貴族などに高く評価、庇護されるために描いた業績を無視することはできないのである。

キリスト教美術は多くの場合、13世紀以前のそれは特に絵画の場合、多くは遺っていない。ましてや、教会など建物の壁に直接描かれていた時代、その建物が滅失してしまえば、なおさらのこと遺っていない。しかし、パネルや祭壇画と言う形式で残されたシエナ派の業績はきちんと遺っている。今回の旅で再確認できたことだ。

キリスト教美術は、遡れば遡るほど面白く、興味がつきない。(了)


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