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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ナポリもいいが、やはりローマ。ベルニーニに会う。

2015-01-12 | 美術
ナポリは初めてだ。「ナポリを見て死ね」ということわざ?もある。が、ナポリは美しいがナポリ市街は美しくない。ごみと落書きとクラクション。ごみと言えば、何か月か市の収集が滞ったことも話題だが、そもそも道路にごみが散乱している光景もあまり気にならない市民性だったのではないか。落書きは、ロンドンやパリ、ベルリンなどヨーロッパの主要都市で多く見かけるが、特にベルリンなどではアートと思しきほど魅せられるものがある(表現されたものすべてがアートだという立場はここではおいておく)。けれどナポリのそれはあまりうまくない。クラクションは、交通量が多い、マナーが悪い、歩行者がそもそも信号や横断歩道を無視して道路を渡るなどがある。道路を歩くとそのように見るのもうんざりしそうな街だが、高台から見下ろす街は美しい。これを見てからでないと死ねないというのも分かるような気もする。
ナポリは教会が多いが、考古博物館はポンペイで出土した遺物であふれている。言うまでもなく、キリスト教以前の美術作品である。ポンペイがヴェスビオ火山の噴火で灰燼に帰したのが紀元79年。驚くべきことは、紀元1世紀の時代にあのような都市と文化があったこと。そして、それが美しい色彩も含めて遺っていること。筆者は、キリスト教美術がいくら古いと言っても、現存していて、私たちが美術館等で見られるのはせいぜい11~13世紀のもので、それ以前の作品は極めてすくないのに対し、日本の仏像や仏画は10世紀以前のものも多く、こちらの方が古いぞ、と偉そうに言っていた。しかし、ごめんなさいというか、ポンペイには脱帽した。2000年の時空は、容易に越えられない。劇場や闘技場といった大きな施設に加えて、住居に加えて、居酒屋や娼館まであって、2000年前の市民生活も現在とあまり変わらないことが見て取れる。それにしてもあのポンペイ市民のビビッドな表情が残っていることがすばらしい。
教会の多い旧市街スパッカ・ナポリは、一転キリスト教会絵画、彫刻の宝庫である。一つひとつの教会には残念ながら訪れることはできなかったが(教会の入場は朝早く、午前中のみの場合も多い。)、足をのばして、高台にあるカポディモンテ美術館には行った。南伊最大の美術館にして、15世紀のマンテーニャをはじめ、ルネサンスの巨匠ミケランジェロ、ラファエロも登場し、ご満悦である。北方のブリューゲルも多い。しかし、ナポリと言えばカラヴァッジョ。の作品は残念ながら、「鞭打たれるキリスト」だけだった。ただ、バロックの巨匠カラヴァッジョの作品は、たとえばローマのボルゲーゼ美術館のようなバロックそのものといった空間が美術館より似合うのかもしれない。
総じて、イタリアは地域的にきちんと時代や傾向を押さえておかないと美術史として捉えるのは難しい。レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェの工房で学んだが、ミラノで大成したし、フィレンツェで成功したのはボッティチェリや後にローマに進出するラファエロ、ミケランジェロ、ルネサンス以前はシエナ派、後期ルネサンスはヴェネチアのティツィアーノ、14世紀のジョットはパドヴァである。
であるから、カラヴァッジョがヴェネチアからナポリまで流れて、命を落とす衝撃的な変転物語より(カラヴァッジョはヴェネチアで殺人事件をおこし、より南へ逃れたという)、作品自体が、個々の美術館に収められた経緯を調べたり、想像する方が楽しいだろう。
実は、今回の旅の一番の成果は、ナポリに異動する前に半日ほど過ごしたローマで、ホテルから歩いて行けるところにあるサンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会にあるベルニーニの作品。ミケランジェロを超えたとまで言われたベルニーニは、サン・ピエトロ広場を設計するなど、バロック界で万能の才を見せつけた。なかでも、ボルゲーゼ美術館の「アポロンとダフネ」に匹敵する傑作。それが「聖女テレジアの法悦」であり、本当に、見られてよかった。
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あるがままに生きた画家 タカハシノブオを視る

2014-11-17 | 美術
なんという激しさだ。画面に叩きつけた筆跡は、具象、抽象を超えて肉体からほとばしった血潮や、吐血さえ思わせる。「あるがままに生きた画家」高橋信夫。神戸は港湾現場を中心に日雇い労働に従事した高橋は、安定した生活とは無縁で妻の死後、生活苦のため、娘とは生き別れとなる。
ただ一人、不安定な生活の中でも絵と詩の創作はほとんど途切れることなく続けた。高橋は自身の画作にタカハシノブオと記した。漢字であるとただ普通の日本人に見えるところが、カタカナで表記することによって日本人であるとか、高橋という日本ではありふれている属性から自分を解放しようとしたのか、自分は何者でもないタカハシノブオという他に代えがたい一個の存在であると。
タカハシノブオの画題は、身の回りを中心に実に狭い。なかでも繰り返し魚(の頭)を描いた小品群は、逆説的だが圧巻だ。というのは、魚の頭など取るに足りない題材で、タカハシの描くそれは市場から買ってきた塩鮭の頭だとか、せいぜい鯛ではない生の小さな安魚のそれでしかないのに、その生気あふれる様に圧倒されるのだから。絵画を格闘と言ったのはゴッホだったか、白髪一雄だったか。数多の画家が描画に格闘し、その闘いは果てるともなく、ある者は筆を折り、ある者はキャンパスを御したと嘯き、そしてある者は、格闘したまま果てていった。タカハシノブオはどうだろうか。少なくとも果ててはいないし、果てようとしたのでもない。あるのは、眼前にある魚の頭と格闘し続けるエネルギーだけだ。しかしそのエネルギーは止まるところを知らない。
ものすごく単純化するとある種の画家はエネルギッシュすぎる人種である。体が言うことをきかなくなっても描き続けたルノアールやモネ、セザンヌといった印象派の面々やピカソ、日本ではとてつもなく長生きの小倉遊亀や先ごろ文化勲章を受章した野見山暁治なども入るかもしれない。そのエネルギーはどこへ向かうのか。2回の結婚、数人の愛人など性的に旺盛だったピカソは女性性器をかたどった作品も多い。タカハシノブオも女体や女性器そのものの作品もある。しかし、タカハシノブオの興味は、次第に街の風景や、出会った飲み屋の女性、娼婦?のポートレート、そして先の魚の頭を描くようになる。そしてタカハシノブオをして晩年はほとんど制作できなかった深酒は体を蝕んでいた。
絵画の歴史のなかですでにある区分から見れば、タカハシノブオの作風はフォービズムか抽象表現主義か。おそらくそのどちらも入っていて、そのどちらでもない。画材は水彩をはじめ、油絵、クレパス、線画など多岐にわたるが菓子箱や段ボール紙を使うなど決して恵まれた環境ではなかったタカハシノブオの描画意欲を支えたものはなにか。それは怒りではなかったか。2度の応召、炭鉱そして神戸は新開地に流れてきての窮乏生活、その中で妻を失い、愛娘との決別。しかし描き続け、詩作もやめなかったし、港湾労働者としてベトナム戦争反対運動に参加する。貧しさへの怒り、社会的不公平・不公正への怒り、どうにもならない自身への怒り。
画家が世に出る、後世に遺るのはきちんと画家の作品を受け止め、収集し、散逸の危険を防いだコレクターらの苦労があるからだ。その点、タカハシノブオを早い段階から見出し、収集に励んだ「神戸わたくし美術館」の三浦徹氏の功績がとても大きい。感動できる心と言ってもいい。三浦氏の慧眼なくしてタカハシノブオが私たち眼前に広がることはなかった偶然に感謝の念をささげたい。(無題)
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「忘却」とは実は忘れないことだ 横浜トリエンナーレ2014の2

2014-10-15 | 美術
横浜トリエンナーレの第4話は「たった独りで世界と格闘する重労働」。「芸術家は、なぜかいきなり、社会や宇宙と闘いを始める格闘家のことである」そう。あるいは「格闘家は、役に立つ価値観とはあいいれず、しだいに人里から遠ざかっていく。そして、やがて人知れず忘却の海へと旅立っていく」という。(ヨコトリ オフォシャル・ガイドブック)
芸術家が孤独なのはある意味必然で、必須であるとさえ思う。それは芸術家の生み出す発想は、同時代の人に受け入れられず、後世にやっと認められたり、あるいは多くは認められず消えていくことで明らかだ。まさに「忘却の海へと旅立っていく」。しかし、それらの中にあって、「忘却」の対象とならなかった芸術家、作品だけが残り、私たちに改めて「忘却の海」を意識させるものとなっている。
現代彫刻家福岡道雄の「飛ばねばよかった」は、人がバルーンを揺らしているのではなく、床にどしりと居座った!バルーンに操られているヒトが宙に浮く。操るものが操られる発想の転換とともに、こういった大きな作品、それも重量級のそれは「格闘する重労働」を想起させる。かつて筆者は現代美術は大工と根気であると書いたが、その総体を現すのは重労働である。そのなかでも彫刻家の重労働ははんぱではない。福岡のように軽いはずのバルーンを地面に居座るように重い素材で造ることは普通で、旧来の素材であるブロンズや、木材も重い。さらに、現代彫刻はスチールや岩石もよく使用する。スチールや岩石で「社会や宇宙と闘いを始め」ているのである。
第5話「非人称の漂流~Still Moving」は、林剛と中塚裕子の10年間の表現活動をもとに試みられた「創造的アーカイブ」だとする。アーカイブは(記録)資料であって未来を志向する「創造的」とは両立しえないように思える。しかし、今回仮設展示された法廷、テニスコート、監獄というモチーフはある意味終わりがない(法廷は判決を言い渡すだけで、被告人の行く末に責任を取らず、テニスコートは果てしないラリーを想像させ、監獄は「終身刑」(日本には法律上ないが)という終結がない)普遍的なものだ。
ジョゼフ・コーネルのボックスは、ミニチュアワールドとは違う見せることを意識しない完全に閉じた一人ワールドだ。第6話「おそるべき子供たちの独り芝居」では、子どもが自己満足のためだけに創造していた世界を大人になっても造り続けた人たちの「オタク」ワールドが広がる。現代風俗語となった「オタク」と違うのは、競うことを度外視しているあたり。ドイツ人グレゴール・シュナイダーの部屋の中に部屋をつくる作品は、ドイツ故アウシュビッツの閉塞を想起させるが、これはうがちすぎかもしれない。
前回記したように、全話をまわることはかなわず、また第10話で催された福岡アジア美術トリエンナーレは唐突の感じもしたが、森村が「忘却」を実は「忘れるな」というメッセージを反転させた逆説を意図したものではないかとの企みは分からなくもない。そして、芸術とは実は長い歴史の中で膨大な「忘れえない」モノ、コトで成り立っていることも。
今回、横浜トリエンナーレの後、東京に寄ったが、筆者にリーメンシュナイダーの魅力を教えてくれたAさんご妻夫(リーメンシュナイダーについては世界一の ―あえてそう言う― 研究者、鑑賞者は奥様の方である)にお会いして、お話しできたことが何よりも東京行きのご褒美!となった。新国立美術館で開催されていた「チューリッヒ美術館」もジャコメッティの作品で絞めていて満足したが、実際にチューリッヒ美術館を訪れた者としては少しもの足りなかった。また、ブリジストン美術館のウィレム・デ・クーニング展も寄ってきたが、アメリカ抽象表現主義の偉業では、ジャクソン・ポロックに軍配かなと思う程度の展示であった。(林剛・中塚裕子への「創造的アーカイブ」法廷)

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「忘却の海」とは果たして? 2014横浜トリエンナーレ

2014-10-12 | 美術
日本で開催される数年ごとの現代美術展のなかですっかり定着した感のある横浜トリエンナーレはもう、今年で5回目だ。また、横浜では歴史遺産となっている赤レンガ倉庫を使った会場そのものが大規模なインスタレーションとなっていた手法は止めて、ここ2回は横浜美術館をメイン会場とする手堅い運営も定着したようだ。たしかに、赤レンガ倉庫自体がもともと作品展示に向いていなかったし、他の会場とのアクセスも悪い。横浜美術館を起点とすることで、シャトルバスを回し、他の会場へも回りやすくなっている。このやり方は、越後妻有トリエンナーレや瀬戸内国際芸術際などの地方開催でなく、都会の開催ということで神戸ビエンナーレや愛知トリエンナーレにも参考になるかもしれない。
今回の総合テーマは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。華氏451とは、本の所持や読書が禁じられた未来世界を描くレイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』から来ている。アースティック・ディレクター森村泰昌が「私たちは今、根源的な何かを忘れているのではないか。そのことに敏感に反応している芸術表現を集めることで、考えるてがかりに」と述べている。「根源的な何か」とは人によって違うだろう。しかし、「忘れる」という営為は人間にとって必然であり、ときに必要でもある。そして、とかく人間は忘れてはいけないことを忘れたり、忘れたいのに忘れられないことがある。ただ、それも人間の性で、であるからこそ、忘れたことの価値と忘れることの大事さを再認識する必要があると思うのだ。
さて、森村は「(芸術は)ものを作ると同時に、ゴミを作っている。(中略)完成すると、ゴミや働く人たちに感謝することもなく忘れてしまう」とも言う。また「トリエンナーレは忘却の海に漕ぎ出して、忘れていたものを引き上げる展覧会」であると。確かに芸術は大量のゴミを作りだす行為だ。そして、ゴミにならなかったほんの少しの作品が後世に残り、愛でられる。本展は11の物語から構成されていて、横浜美術館のオープニングはイギリス人マイケル・ランディの不要な美術作品を放擲する巨大なゴミ箱。崇高な作品がゴミ箱に入った途端ガラクタと化する理不尽。そのものは何も変わっていないのに。
物語は第1話「沈黙とささやきに耳をかたむける」から始まる。横浜美術館の所蔵作品からカジミール・マレーヴィッチやアグネス・マーティンなど抽象表現主義から読み取れるのは何か。それはラトビアの画家ヴィヤ・セルミンスの描く「銃を撃つ手」で明らかだ。描いていないものを、あるいは表面的には描かれていないものを想像することだ。セルミンスの銃の先には何があるのか。それは暴力か、憎しみか、戦争か。
第2話、「漂流する教室にであう」は、釜ヶ崎芸術大学の実践紹介である。高度経済成長の停止とともに置き去りにされた釜のおっちゃんらが集う「学びあい」と「表現」の場である。正式な芸術教育を受けていないおっちゃんらの絵画、習字、詩歌は「表現」からもっとも遠ざけられていた人たちの「発現」でもある。岡林信康ではないけれど、「(おれのしていることなんて)誰もわかっちゃくれねえか」なのである。(もちろん岡林の歌は「山谷(ブルース)」で釜ヶ崎ではない。)
第3話「華氏451はいかに芸術にあらわれたか」では、この展覧会限りの巨大な書物まで現れる。そう、忘れ去られるための書籍。
以下、第11話まで続くかが、全部を見たわけではないし(会場が離れているのもある)、詳しく語るには手に余る。それは、今回のヨコトリが目指しているのが明らかであるからだ。「忘れる」ことを思い起こさせること、そして「忘れる」ことを認めること。実はこれが一番難しい。(続く)
(マイケル・ランディ「アート・イン」)
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戦争は、すべてを「人質」にする ジャン・フォートリエ展

2014-10-05 | 美術
スイスのローザンヌというとバレエ・コンクール。しかし、知る人ぞ知る美術館がある。アール・ブリュット美術館(ニキフォル 知られざる 天才画家の肖像 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/79ef94c7e2d7db02fbd7c1bd94667138)。障がい者アートをアール・ブリュットと名付け、広めたのがジャン・デュビュッフェ、そのデュビュッフェの師がジャン・フォートリエである。アンフォルメルの嚆矢がデュビュッフェであるなら、フォートリエのドローイングはそもそもその普遍的価値を広めた。
フォートリエの抽象性は、日本ではかなり受け入れがたい部類のものではないか。それは、フォートリエの影響を受けたとされる1950~60年代関西は阪神地区で大きな足跡を遺した具体美術協会が、美術の世界ではその功績を評価されながら、美術界を離れると誰も知らないことに端的に表れていると思う。
現在、美術教育の分野では、現代美術に対する距離を縮めようと例えば、「面白い」をコンセプトに小中高生を、現代アート展に連れていったりする取り組みもある。たしかに「面白い」からはじまるアートへの近接はある。しかし、フォートリエの大きな仕事である戦争を描いた、一連の作品「人質」シリーズは少なくとも「面白い」ものではない。
塹壕戦、毒ガス戦。近代戦争の大量殺戮を可能にした総力戦、殲滅戦は第1次世界大戦ではじめて展開され、それに従軍したフォートリエ自身、毒ガスに襲われる。傷病兵として銃後に運ばれ、入院したフォートリエ19歳。オットー・ディックスの言に明らかなように、近代戦争は人を人として捉えなくする最大限の装置が備わっていた、人間性破壊という。
第2次大戦には従軍しなったフォートリエは、スイスからフランスに戻ったところで反政府主義者と交流があるとしてゲシュタポに捕まる。すんでのところで解放されたが、その前後、フォートリエが制作していた作品群は、その事件の精神的ショックもあり、先鋭化を増していく。「人質」シリーズ。
反ナチスとして、捕えられ、すさまじい拷問を受けた兵士や、うち捨てられる罪のない市民。骨は折れ、むき出しになり、顔をそがれ、生前の姿をとどめない人たち。フォートリエの抽象は、具象によっては描き切れない、描いていては逆に真実を伝えきれない、なのに描くことで伝えるしかないという画家としての業を最大限追求した姿でなかったか。
戦争の実相、写真や動画のある現代、絵画で訴求することの限界性を以前書いたが、それでも、絵画の力でその暴力性、無慈悲性を伝えることはできる。フォートリエの「人質」シリーズは、抽象に見えるけれども、実際は具象。腕のない、撃たれ傷つく兵士や市民の姿が、よく見れば、フォートリエの画業から見て取れる。
「人質」シリーズをはなれた後のフォートリエは、厚塗りの度合いを高めていく。見事、具体の白髪一雄(足で描いた)や嶋本昭三(インク瓶を投げつけた)に受け継がれていると思うのは考えすぎか。ルネサンスの肖像画が古びないとの同じように、フォートリエの抽象も古びない。絵具を厚塗りしているだけにも見えるその作品群は、ドローイングという現代絵画の分野から見れば、全く「前衛」でさえもなにもないところが面白い。(「人質の頭部 №5」)
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2014夏北フランスの旅5

2014-09-07 | 美術
DENONと書かれた入口を抜けるとき、得も言われぬ満足感にひたる。これは、今回の旅行記「2014北フランスの旅3」で記した、ルーブルならではの満足感である。今回ルーブルでまわるところを決めていた。ルーブルにはドゥノンのほか、リシュリューとシュリーの3翼あるが、やはりお目当てはドゥノンである。ナポレオンの時代に館長(美術担当相)であったドゥノンの名を冠したこのセクションはル-ブルの中でもっとも広く、モナ・リザ(後述)をはじめ、ミロのヴィーナスなど人気作品が目白押しである。
しかし筆者のお目当てはモナ・リザでもミロのヴィーナスでもない。ちなみにルーブルのモナ・リザに見えたのは数年ぶりであるが、観覧者向けの表示に「デル・ジョコンド(モナ・リザ)」となっていた。これは、ルーブルが長年論争になっていたモナ・リザのモデルをリザ・デル・ジョコンドと認定したからにほかならない。近年の研究でジョコンド説が確定的とされたためだと思うが、モナ・リザのモデルが誰であったかはルーブルの広大、莫大な展示・収集の中ではほんの一部をなすにすぎない。そして、モナ・リザと同室の反対側の壁にヴェロネーゼの「カナの婚礼」があり、モナ・リザの100何十倍?の大きさだが、こちらに見入る人は少ない。しかし、こちらの迫力も半端ではない。そして、この部屋に至るイタリア絵画の部屋がルネサンス前からはじまり、バロック期まで続き、きりがないのだ。
今回は、古代、中世のキリスト教美術もあるドゥノンを中心に回り、近代彫刻を贅沢に配したマルリーの中庭だけは見ておこうと、リシュリュー翼だけは訪れ、ルーブルをあとにした。
 前回パリに来た際に行かなかったオルセーはルーブルからも歩ける。以前は撮影可だったが全面的に不可になっていた。フラッシュ禁止のサインを無視してバチバチと写す人も多かったので、美術館側がたまりかねて全面禁止したのかもしれない。また展示方法が大きく変わっていた。以前はモネの部屋、ルノワールの部屋と画家ごとに小さな部屋がいくつも区切られていたが、2階の広い空間に印象派前後の作品が作家、時代ごとに並べられており、まるでルーブル・ランスの展示方法の印象派版といった趣である。これはこれでよい。狭い部屋の人気作品になかなかたどり着けない以前と比べて、解放感が随分違う。印象派はもともと大きな作品は少ないので、マネのバルコニーやオランピアなど象徴的な作品にはじまり、モネ、ルノワール、ドガの彫刻、ピサロ、シスレー、そしてシニャックの新印象主義との配置は分かりやすいだろう。そして、ゴッホとゴーギャン、ドニなどのナビ派は別室が設えてある。ちょうど近代彫刻の雄ジャン=バティスト・カルポーの企画展が開催されており、うれしい限りだ。ロダンより少し前に活躍したカルポーだが、神話を題材にした作品が多く、理解に困難をきたすが(説明のフランス語は分からんし)、その躍動感はすばらしい。2階から見下ろせる1階フロアの眺望は相変わらずで、元駅舎の空間が楽しめる。
がんばって、夜遅くまで開館しているポンピドゥーセンターも訪れることにした。例のごとくフロア1は企画展、フロア2は常設展。いくつかの企画展が同時並催されており、現代美術の楽しさを満喫できる。それというのも広さが十分なこと、企画のコンセプトが野心的で斬新なことから生み出される余裕みたいなものを感じることができるからだ。日本の美術館ではなかなかこうはいかないのではないか。空間の制約も予算規模も違い、そもそも文化に対する考え方が違う。フランスには国立の美術館は数多ある。パリ市内だけでも10館以上あるのではないか。日本は国立美術館が東京に3館、東京を除く全国で2館、博物館も4館にすぎない。
中世の町ストラスブールやメス、地方に開館した新しい美術館、そしてパリで締め、フランスでの美術三昧は再訪の日を望んで今回はこれで終わりである。(レイモン・デュシャン・ヴィヨン「馬」シリーズ ポンピドゥーセンター)
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2014夏北フランスの旅4

2014-08-31 | 美術
印象主義の画家の中には普仏戦争を経験した者も少なくない。貧乏画家らを支援したバジールは戦死しているし、従軍経験を描いた者もいる。アメリカ独立戦争やスペイン内戦も取り上げられているが、筆者の個人的興味をひいたのはやはり2度の世界大戦を経験し、戦争の悪をこれでもかと描いたオットー・ディックスの作品群だ。ディックスは塹壕戦や銃後の退廃をこれでもかと思うくらい描き続けた。そのディックスの戦争=悪への警鐘は、第2次大戦で現実のものとなる。ディックスは40歳を過ぎて再び兵役にとられ、戦争の実相を経験する。戦後ディックスが述べた「人間はいつまでも過ちを犯す」の言は、2度の愚かな戦を経験したディックスの心情はその筆先に現れている。
第1次大戦は史上初の毒ガス戦と言われ、それまでの死者数とはくらべものにならない犠牲が出た。そしてヒトラーの登場。本展では、在日韓国人研究者の徐京植さんが発掘したホロコースト犠牲者であるフェリックス・ヌスバウムの絵まであった。ナチスはその精神にそぐわないと断じた絵画を毀棄したり、画家を弾圧したが、その陰でナチスやヒトラーを揶揄・批判する絵画も確実にあった。一方、ケーテ・コルヴィッツは若い兵士を送る母としての悲しみや、街で犠牲になる同胞の慟哭を無骨な彫刻に遺した。
画家の戦争協力という点では、日本人の藤田嗣治が、その責任追及に嫌気がさしたからフランスに逃れたと説明されることに典型的で、そういった例も多いが、ヨーロパの画家たちも同じ思いを抱いたであろう。第2次大戦後の戦争はおもにアメリカが関わる植民地支配、というより自国権益のための戦争である。
従軍写真家が多数戦場の実際を伝えたヴェトナム戦争では、絵画に変わって写真によって戦場にいない者が戦争を感じる時代となった。そこにはもうナポレオンやヒトラーなどの戦争指導者としての英雄はない。あるのは撃たれ、倒れ、殺されて行く兵士や市民、逃げ惑う人々。阿鼻叫喚が私たちの眼前に迫ってくるだけだ。
ポル・ポト派による自国民虐殺は、ユーゴスラビア内戦、ルワンダの殺戮などに続いてジェノサイドを現代人に認識させた。そこにはもう映像としての既視感だけで「画家」の出る幕はない。しかし、映像は同時代に起こっている事実を他国の人に伝えると同時に、現実世界を、たとえば、ディックスのように描いた戦場の実相ではなく、画家をして想像の範疇を超えて戦争の重さを描くという役割を与えた。
ところで想像の範疇を超えず実相を描いた画家もいた。本展では、もしあればいいなと思っていた画家の作品があり、それを見つけた時とてもうれしかった。
浜田知明。浜田の「初年兵哀歌(歩哨)」シリーズは、京都国立近代美術館、兵庫県立美術館、伊丹市立美術館がときおり作品展を開催するが、その戦争=悪の描き方はディックスに並ぶ、それ以上に鮮烈、そして静かに強い。さらにアウトサイダーアートのダーガーまであった。ダーガーの作風は、少女趣味のロリコン・異常性愛では決してない。それは実際の少女を知らない妄想の中で生きた描き方で明らかである(実際の女性を知らないダーガーは少女にペニスを描いた)。ダーガーにとって弱き者の象徴としての「少女」は、力を合わせて悪に立ち向かい、勝ち取る姿がナウシカのような英雄を望まない戦争の終わらせ方として新鮮で、アウトサイダーアートに私たちが期待してしまう、もっとも平和的なカタチを提示しているのかもしれない。(実は、ダーガーの描く群像は「少女」であるかどうかも疑わしい)
映像で描かれる時代に画家は出場できないと記したが、戦争は画家のもっとも描くべき、また描かざるを得ない題材である。ピカソが「ゲルニカ」を描いたからといって戦争が止んだわけでもない。しかし、「ゲルニカ」がなければ後世の私たちはゲルニカ爆撃(非戦闘市民に対する無差別爆撃はゲルニカと並び日本軍による重慶爆撃があるが、こちらは日本人画家による作品は寡聞にして聞かない)を知る、感じることは出来ないし、同じように映像がなければ、戦争の実相を現代の私たちは知ることはできない。
20世紀末~21世紀の戦争は、アメリカによるアフガニスタン攻撃、イラク攻撃、そしてリビア、シリア、そしてイスラエルとガザ地区などますます映像以外では描くことが困難な状況となっている。しかし、「戦場でワルツを」(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%A5%EC%A5%D0%A5%CE%A5%F3)で描かれたように、戦争の実相を伝えることは美術家の永遠なる課題であり、そして何らかの方法で描くことができる。
そういった意味でもルーブル・ランスが今回企画した「戦争」展は、専守防衛の憲法9条を持つ日本が集団的自衛権行使に踏み出したとき私たちこそ、細微に感じる問題提起であるとも思う。ランスまで来て本当によかった。(オットー・ディックス)
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2014夏北フランスの旅3

2014-08-30 | 美術
海外の美術館を訪れた時、2種類の満足感がある。一つはルーブルなど巨大、見たい作品がいっぱいあると分かっているときなどに感じる入館時のワクワク感。もう一つは、鑑賞している最中、あるいはした後に「ここに来てよかったなあ」と思う満足感だ。ルーブル本館が前者ならルーブル・ランスが後者だ。ランスと言っても筆者も間違えていたが、大聖堂のあるLeimsではなくて、ベルギーやイギリスへの中継都市リールから1時間ほどの小さな街である。そうLensは、ルーブルの別館ができなければ誰も訪れない。しかし、今や観光客がどっと訪れる。駅からシャトルバスもあるし、歩いても20分ほどの立地も人気だが、建物やそれを取り巻く環境に関心が高まっている。ポンピドゥーメスが日本人の坂茂作なら、こちらはここ数年あちこちで建築賞をとっている日本人ユニットSANAA(妹島和世、西沢立衛とその仲間たち)の手になる作品だからだ。
四角い箱を5つ組み合わせたような外観は「帽子」のポンピドゥーメスに比べるとなんとも地味である。しかし、その四角の中が楽しい。中央に鎮座する棟はエントランス、オーディトラム、ライブラリー、カフェなどとなっていて、これから鑑賞する人の水先案内人となっている。入館すると常設展へも企画展へも同じように反対方向に誘導される。多くの人がそうするように筆者もまず常設展に足を運んだが、展示の仕方がユニークだ。紀元前3500年のエジプト美術に始まり、どんどん時代をおりて行く。一つの部屋にファラオの彫像、ミイラから地中海の壷、ポンペイのモザイク、ローマ彫刻、初期キリスト教美術、ルネサンス、バロックへと人類が進化するかのように私たちの美術も進化しているかのようだ。今回の常設展はおもにエジプトから西洋美術への伝播という流れのようだったが、もちろんイスラム美術や、東洋美術も同じような道筋を企画することもできるだろう。パリのルーブル本館に収まりきらない作品を厳選して、分館としたともいうが、展示品は少なくてもこのような大胆な見せ方は、床に座って説明を聞いていた子どもたちも含めて、美術は世界や歴史とつながっていることを実感させてくれると私たちに再認識させてくれるだろう。
さて、美術館に来ての後者の満足感をここでは感じたのだ。企画展のテーマは「近代の戦争」。戦争はどう描かれ、どう喧伝され、またどう批判されてきたか。ダヴィッドはナポレオンの勇姿を架空の構図で描き、ナポレオンに愛でられたが、それは戦争の指導者が実物を無視しても立派に見せるための自己顕示欲と自己愛の象徴であった。近代戦争と言ってもナポレオン戦争は、帝国の領土を拡張するための皇帝の野望を表したすぎず、20世紀の植民地争奪戦ではまだない。しかし、前線の兵士と踏み荒らされた土地に住まう人々の悲惨さは18世紀でも変わりない。厳冬の地ロシアで斃れて行く兵士らも絵画となっている。ゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」はあまりも有名だ。(以下 続く)
(ルーブルランスの常設展風景)
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2014夏北フランスの旅2

2014-08-29 | 美術
世界遺産に登録されている大聖堂は数多く、中でも「○○地区(の景観)と大聖堂」みたいな大聖堂を含むものもあり、大聖堂単体で世界遺産となっているのはフランスでは、シャルトル、アミアン、ランス、ブールジュである。では、フランスではこれら世界遺産になっていない聖堂はどれくらいあるのだろうか。研究書には正確な数があるのかもしれないが、分からない。しかし北フランスやドイツ、ベルギーに点在する聖堂を見て回るという壮大な計画をたてたくなる。それがメスの大聖堂で再認識させられた。
いや、メスの大聖堂は高さこそなくシャルトルのような息をのむステンドグラスもないが、正面に大きな薔薇窓を擁し、高さのない分やや幅広の立派なゴシック様式の逸品である。13世紀に建設が構想され、16世紀初頭に完成したとあるが、当初地域に2つの聖堂が構想された。だからなのであろうか、大聖堂からほんの5分ほどのところにも規模は小さいが同じくゴシック様式の立派な聖堂がある。なぜこんな近いところにあるのかとの疑問が氷解した。しかし、聖堂の数はそうでも町全体がゴシックの漂う中世なのがメスの美しい所以である。
しかし、今回メスを訪れたのは中世目当てではない。コンテンポラリー、現代である。2010年5月パリのポンピドゥー・センターの分館として開館したポンピドゥー・センター・メスは、日本の坂茂設計で、帽子を思わせるその奇抜な外観のみならず、大胆な展示が度肝を抜く。坂の帽子からは外部を覗くように“眼”の部分があって、最上階の展望台になっている。そこからはメスの中世の町並みが一望でき、正面には大聖堂が鎮座する。帽子とはいえ、直径200メートル、再頂部の高さ50メートルはあろうかという巨大なものだ。巨大な現代作品を配するのに工夫がなされている。正面から入って迎えるのは常設の近代有名作品(とその拡大レプリカ)群。パブロ・ピカソ、フェルナン・レジェ、ロベール・ドローネー、サム・フランシス、ルイス.ネヴィルソン、フランク・ステラ…。いや、これらの前にまずYan Pei-Mingの巨大な墨色のドローイングが私たちを現代美術が必然的に持つ、現実問題への提起から逃げてはならないとも言うべき宿痾を直視させるのだ。
ちょうどしていた企画展はSimple Shapes.古今東西の人類の形態に対する想像と着想を近現代美術はどう表現してきたかを問うもの。そこでは単純とも思える形が実は深遠なもの、複雑と見えるフォルムが自然界ですでにあるものを人間が描こうとしたにすぎないこと、あるいは、見るカタチと考えるカタチ、思っているカタチと実際に見えているカタチの誤解や思い込みにも切り込む。
余計な部分を徹底的に削ぎ落し、いわば究極のフォルムを目指したブランクーシや「笑う」カタチを編み出したアルプ、海の定点観測に寄る静かな時間を流れを表現した杉本博司まで、筆者の好きな作家群も登場しご満悦。
ここにはポンピドゥーの飽くなき探求性、先進性がある。そして不思議と中世の街に舞い降りた帽子型の宇宙船が、その居としてメスを選んだのもふさわしく思える。もっとゆっくりしたいメスであった。街中のメス美術館も静か佇まいでオススメである。(「帽子」のポウピドゥー・メス)
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2014夏北フランスの旅1

2014-08-25 | 美術
パリに行った際にゴシックの大聖堂ばかり回って、シャルトルの美しさに驚嘆したが、ストラスブール大聖堂は違う意味で圧倒された。とてつもなく高いのだ。142メートル。中世建造の大聖堂では最高である。
アルザス=ロレーヌ地方というと歴史教科書の必須地名だが、ストラスブールはその中心、国境の町として300数十年間にフランス領、ドイツ領ところころ国が変わり、フランス領に落ち着いたのは第2次大戦後という。文化的にはもちろんドイツが色濃く、シュークルートというソーセージとザワークラフトの煮込みや少し甘い白ワイン、プロテスタントの教会もあり、シェンゲン条約後は両国民が自由に行き来し、欧州評議会や欧州人権裁判所もあるEU統合の象徴のような町でもある。
さて、大聖堂はもともとロマネスク様式とされるが(建設が始まったのが13世紀初め)、ファサードなどどう見てもゴシック様式である。内部のつくりはかなりシンプルで、ステンドグラスも多くはない。また、有名なからくり時計は、映像でその仕組みを見ることは出来たが、実際に精巧に作動するところまでは見られない。いずれにしてもこの大聖堂は1874年まで最高だったというから、その高さこそ最大の特徴で、展望台まで上る予定だったが雨が降ってきたので断念したのは残念であった。高さがこの大聖堂の特徴と記したが、忘れてはならないのが色である。なんでもロレーヌの山の砂岩を使用しているため独特のピンク色、赤茶色をしており、ケルン大聖堂が経年により黒く変色したのを除いて、もともとの白灰色でない大聖堂は珍しいのではないか。入り組んだ町の中心に突然現れる様は、こちらの居住まいを正すほど強力で、近づけばファサードにやはりいる、微笑みの天使たち。大聖堂はやはり美しい。
ストラスブールからTGV(仏新幹線)で2時間半ほど。ロココ様式が残ることで有名な町ナンシーである。ナンシーを現在我々に惹かせるのはロココというより、アールヌーボー・アールデコが花開かせたエミール・ガレらのガラス細工がこの地で次々と生み出されたからに違いない。ガレの作品にあふれるナンシー派美術館は町の中心からははずれたところにあるが、訪れるべき価値のある閑静なたたずまい。ガレらのパトロンであったコルバンの邸宅を改造したらしい美術館は規模こそ小さいが、いたる所にガレの作品とそれらを並べるのに相応しいアールデコの調度品、バロックやロココの時代とは違う過剰さを排したセンスは同世紀の者をして親しみやすい。というのは、アールデコは日本では柳宗悦らの民芸運動にあたり、小さく、しかし確かな手仕事の妙がここかしこに垣間見えるからだ。庭に住んでいるおとなしい黒猫とともに、静かな美が私たちを迎え入れてくれる。
旧市街、観光客でどっと賑わうスタニスラス広場の一角にあるのがナンシー美術館。ルーベンスなど西洋絵画の蒐集もよいが、地下がガレと同じく活躍したガラス工芸作家ドーム兄弟のコーナーとなっており必見。様々な色、いろいろな形そして用途。暗い空間に林立する作品群に息をのむ。ガラス工芸に疎い筆者でもこのコレクションのすごさは理解できる。ガラスで何が表現できるか新世紀の技術で考えられる限りの挑戦をしたドーム兄弟と、その職工たちの熱意が偲ばれる。(ストラスブール大聖堂正面ファサード)
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