

私と作品とのかかわりをもう1本ご披露します。年数が経っているのでお許し頂きたいの
ですが、大映末期に池広一夫監督からの貰った手紙をご披露します。監督のお父さんは
大映九州支社長で赴任されたことがあり、私も配下にいていろいろ教わったことがある関
係です。そんな事もあって池広監督とは昵懇にしていただきました。時期は私が大映から
ダイニチへ出向していた時代です。
「(前文省略) 「喧嘩屋一代」はつまらない作品でごめんなさい。今度は、"片足のエ
ース"のことで面倒をお願いせねばなりそうです。この作品を勝プロでやりたいと
いう勝ちゃんの依頼があり、勝プロでやれぱ予算も日数も現在の大映でやるより
は条件がよく喜んでいます。自分としては勝ちゃんが出ない作品をやりたいと勝
に進言しているのですが、勝ちゃんは、自分は勿論、裕次郎も、王、長島、金田も
出せると張り切っています。私は最初の考え方で進みたいと思いますが、まだ撮影
所長には何も話していませんので、お含みください・・・。
という主旨で、当時の池広監督は草野球で膝を痛めて歩けない状態で博多に飛べないこ
と、映画の主人公が福岡在住の青年なので、地元テレビ局が持っているニュースフイルム
など、情報集めからロケのことまで色々と相談に乗って欲しい。その状況をふまえて少し先
になるけど博多に行くので協力してください、・・・でした。
物語の内容は博多のある高校の野球選手が、小児麻痺で片足が不自由なのに、それを
克服してピッチャーで大活躍するという熱い内容の映画。
私は池広監督の要望にお応えし、資料の提出、ロケ隊受け入れの準備と宿舎の手配、協
賛タイアップの交渉、主人公青年との連絡打ち合わせなどのほか、本人の悩み相談までや
ることになり、大わらわで協力応援をした作品でした。
そして1971年公開時はダイニチが大映映配となっていて、いよいよ大映終焉の鐘が鳴って
いた時期でもあり、私としても感無量の作品となったのです。





福岡のロケに来てたのですか、全く記憶なしです。申し訳ない。
私は勝ちゃんと池広監督からの要請でお手伝いしたのですよ