↑ 左から私、藤村志保、本郷功次郎
かなり前に脳梗塞で倒れたが奇跡的に回復していると聞いていたのに、遂に
今月14日、心不全で帰らぬ人となった本郷功次郎です。
心から冥福をお祈ります・・・。
彼とは大映時代に、スターとなっても飾らない人柄が好きだったし、妙に気が
合った仲間の一人でした。
岡山の金物店の息子で、立教大学では柔道をやっていた本郷を、偶然なこと
から見つけ出して会社に連れて来たのは松山常務でした。
当時の大映はドル箱映画の一つであった柔道物で、菅原謙二に続くスターを
見つけて育てようとしていた時期で、俳優になる気など全く無かった本郷を、
なんとか口説き落として入社に持って行っのだと聞きました。
松山英夫常務は我々宣伝部の親分格の人で、いまや社会通常語となった「ゴ
ールデン・ウィーク」の名づけ親でも著名な人です。
私は松山さんが宣伝担当重役だった頃から薫陶を受けた一人で、後年、松山
さんは大映存続のためにと、まるで戦争中の特攻隊出撃のような気持ちで出
向したダイニチ映配の社長でもあったし、私も一緒に出向した一人なので特別
な思いを抱く方なのです。
その松山常務が入社させた本郷功次郎なので、売出しには当然ながら力が
入りました。
彼とは一緒に多くの仕事をやりましたが、新作のキャンペーンとか、ご挨拶ま
わりにとても積極的に付き合ってくれて、その付き合いの中には、彼と私しか
知らない内緒話が沢山あります。
若かった我々ですからお遊びが中心の話が多いのですが、勝ちゃんを除いて、
あれだけ遊んだ人は珍しいぐらい若い本郷は遊んだし、付き合った私も私だっ
たの想いです。
某大統領の奥様に手を出したと疑われ、暗殺団が来るという話をはじめテンコ
盛りです。
亡くなったのだから秘話を話しても構わないかとも考えたのですが、結婚して
後の彼は奥さんをとても大事にしたと聞いていますので、発表すれば仰天さ
れるであろう内緒話は書かないことにしました。
大映が倒産したのが昭和46年(1971)で、私は管理職でったため残務処理を
やって離れたのが翌47年の5月でした。
彼と宝塚の男役トップだった古都都との結婚式は、勝新太郎・中村玉緒夫妻
の媒酌で昭和48年11月25日に本郷の故郷で行なわれ、昭和49年1月11日
に東京プリンスホテルで友人知人を集めての披露パーティーでした。そういう
時系列ですから既に大映とは無縁になっていた私でしたが招待を受けました。
いい男でした・・・。
↑ 決して上手い役者ではありませんでしたが、熱心に役柄に取り組む好漢でした・・・。
↑ 左はロケ先で玉緒ちゃんと。 右は、何かで不満タラタラの私・叶順子・本郷。
↑ 左から志保、上原カメラマンのお父さん、本郷、私。右は私、志保、本郷、弓、酒井京撮所長
↑ 右は「視界ゼロの脱出」(監督・野村鉄太郎)の指宿ロケで。 右のスナップは本郷と私です。
永遠の二枚目スター・本郷功次郎さんの、ご冥福をお祈りいたします。
いつも有難うございます。
今回は田宮二郎と藤由紀子のことを書くつもりだったのですが、
本郷の追悼に急遽変更しました。
それにしても、こんなことばかり書いていて、一人よがり自己満足の
世界ではないかと考える次第です。
寂しくってたまりません・・・。
お立寄りいただき有難うございます。
本郷ちゃんの奥様はとてもお元気で、二人の息子さんと幸せに
過ごされています。