




私としたことが大事な人を忘れていました。彼の生涯出演本数は620本というとてつ
もない数字であり、しかも溝口健二監督作品の常連であり、更に私がいま住んでいる
福岡市の出身である進藤英太郎さんです。
明治32年(1899)に福岡市で生まれた進藤さんは、同市の大名小学校→市立商業高
校(現・福翔高校)へと進み、卒業間近に中退して遠く離れたカムチャッカ漁業に従事し
ています。
俳優業とは縁もゆかりもない漁業~雑貨商~海産物屋を経て、その後に芝居に興味
を持ち大正14年(1925)頃には劇団員となって演技を磨き、時々映画にも出ていたよう
です。
昭和11年(1936)になって完全に映画へ転向、その手始めが溝口監督の「浪花悲歌」
「祇園の姉妹」であったのです。戦時中は主に東宝で「ハワイ・マレー沖海戦」「阿片戦
争」などにも出演して徐々にポジションを獲得、戦後も東宝に属して「女優」「酔いどれ天
使」などに出演します。
昭和24年(1949)にフリーとなり各社に出演、大映では溝口監督作品を中心に「三十三
の足跡」「偽れる盛装」「お遊さま」「源氏物語」「西陣の姉妹「千羽鶴」「祇園囃子」「山椒
大夫」「噂の女」「春琴物語」「近松物語」「楊貴妃」「新・平家物語」「赤線地帯」「祇園の姉
妹「不知火奉行」など30本近い出演作品を残してくれています。
特に私としては尊敬する溝口監督作品で一番好きな「山椒大夫」では、そのものズバリ
の山椒大夫役をされていて、あまりの適役に私は唸りました。
溝口監督が亡くなってから大映作品は数本出ていますが、昭和31年(1956)に東映専属
となり、更に悪大名、悪徳商人などの敵役の元祖みたいな活躍を続けました。あの独特
な口調や動作は今でも忘れられません。
昭和42年(1967)に再びフリーとなり、映画にプラスしてテレビにも活躍の場を広げました
が、テレビでは映画でほとんど無かった根は善人役やコミカルな面を見せて好評でした。
昭和51年ころから心臓病を患い入院加療していましたが、昭和52年(1977)に心筋梗塞
で78歳の生涯を閉じました。

李香蘭さんと共演した満映の「私の鶯」では貿易商を営んで居た時に身に着けたのか流暢なロシア語を話されたそうですし、溝口監督の作品では頑固以外のスマートなイメージでしたですね。
そう言えば、先日、進藤さんも出演された溝口監督の「西鶴一代女」を撮影した ひらかたパークに行って来ました。
喧噪感漂う園内にステージやセットが組まれていたのかぁ・・と今では想像もつきませんが、溝口組のスタッフや田中絹代さん、進藤さんが此処に居たのかと思うと とても感慨深かったです。
トップのスチールは「山椒大夫」です。
進藤さんはユニークな俳優さんで、どうして大映で長く出てもらえなかったのか、
とても残念な思いです。
溝口さんが亡くなられたからでしょうね。
ミクシイで知りましたが、体調不良とお聞きして心配しています。お互いに
健康だけには留意しましょう。
東映の時代劇で、この方や
山形勲さん、月形龍之介さんの悪役の映画を
よく、家族で見たことが懐かしいです。
皆さん、気品のあるたたずまいで
それでいて憎らし気で、
今、思うと凄い俳優さん達に感じます。
なんでもご存知の中島さまに、おこがましいのですが、
進藤さんのお孫さんが
斬られたり、追い詰められたりする場面になると
お孫さんが、泣くのでテレビでは、
悪役を封印することにした。
とのエピソードあるそうですね。
テレビの「おやじ太鼓」は、時々、見てましたが
アップのお顔が、かなりインパクトあった記憶があります。
大映の専属俳優さんではありませんが、数々の大映作品に出演して印象深い
思い出を残してくれました。最後の方では善人役をやっていますが、これも似合って
いましたね。
ところでこの欄で交流されていたタム親父さんが急逝されました。金曜の欄に
お知らせを載せましたが、寂しい限りです。
まぁ、そうだったのですか、、、、
こちら様に、初めてお邪魔したときに
中島さまをはじめ、タム親父さまや、(小三太夫さまにも)
参加しやすい温かな雰囲気で歓迎して頂きました。
私のつたない投稿から、横レスで
盛り上がって楽しませて頂きました。
今、振り返ってみたら、タム親父さまとの横レス交流は
3月09日が最後になっているようです。
ほんとにお詳しくて、参考になること多かったです。
残念です。
こちら様の場しか、機会なくお許し願いたいのですが
ご冥福をお祈りします。
彼も私も福島県人でウマが合うというか楽しくお付き合いをしておりました。
ブログの他にもメールで連絡をとりあっていて、それがバタっと途絶えて
心配していたら奥様からの電話でしょう、驚くましたし悲しかったです。