どうしても私の自慢話の様相で申し訳ありませんが、どうかお許しください。
福岡でのキャンペーン顔ぶれで最も豪華だったのは「人斬り」で、五社監督・三島由紀夫・勝新太郎・仲代達矢・賠償美津子・新条多久美の面々でした。私流の根回しで福岡だけ実現したキャンペーンで、東京からも取材陣が来福する今では想像も出来ない凄いメンバーでした。
その他には渥美マリ売り出しのため、博多のど真ん中(水上公園)で水着撮影会をしたり、「野火」の宣伝で、当時ある炭鉱にブルトーザーとして使用中の砲塔を除いた戦車を、拝み倒して借りて本物そっくりに改装し、博多の明治通りを走らせるなんて突拍子もないことをやりましたが、道路一時借用の許可は取っていたものの道路を凸凹にし、警察から大目玉をくらったのも今となってはいい思い出です。
宣伝材料は、題字・ポスター・特殊宣伝物・カレンダーなどを本社が作成、後は新聞広告をメインに、テレビ・ラジオ宣伝、小型ポスターなどを九州というカラーに沿って宣伝課長の責任で作成していました。当時は新聞広告の図案は外注ではなく、宣伝課の図案係が作成していて、九州支社宣伝課の作った新聞広告が2度も電通賞映画新聞広告賞を獲り、朝倉摂・制作のブロンズ像は今でも手元にあります。電通賞は本社でも獲ったことがないというので大いに面目をほどこしました。
全国の宣伝・広告費の九州支社の持分は全国の12%でしたが、支社長でさえこの使い方について指示する権限は無く、宣伝課長は随分羨ましがられたものでした。