ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

トラが一番?

2012-10-31 06:00:00 | 四方山話

 ネパールの紙幣の表には、これまで国王の肖像が描かれていました。2002年まではビレンドラ国王でしたが、2001年6月に皇太子のによる王族殺害事件があり、それ以後はビレンドラの弟・ギャネンドラ(暗殺事件の黒幕?)が国王となったので、紙幣の肖像も彼に変わっています。2008年、王政から共和制に変わったのちは国王の肖像から順次、エベレストが描かれた紙幣に変わりつつあるようです。もっともネパールを代表するサガルマータ(エベレスト)は以前から使われています。

500ルピー
100ルピー
 
500Rs、100Rsには透かしが二つあり、右側はギャネンドラ国王の肖像、中央下は仏像が入っています。
 
前のビレンドラ国王(眼鏡をかけておられた)時代の紙幣の透かしは右側だけでした。100Rsの寺院はニャタポラ寺院。
50ルピーも本来はギャネンドラ国王の筈ですが、この紙幣は2005年の「記念年」にネパール中央銀行発行の新紙幣です。この人は???
 
20ルピー。
 
 
10ルピーは新しい素材、ポリマー製です。透かしには王様の冠だけがはっきり写っています。
 
 
紙幣の裏面には動物が描かれています。500ルピーは二匹のトラ
 
 
100ルピーはサイ。
 
 
50Rsはダフィです。ネパールの国鳥(日本はキジですね)で雄はとてもきれいな色をしています。

 
ついでに実物はこれ。2003年、ゴーキョピークの帰りにキャンズマのキャンプ地(標高3600m)で撮った写真です。雪の朝、餌を漁っていました。
 

20ルピーはシカ、
 
 
10ルピーはインパラの家族、
 
5ルピーはヤクです。
 
やっぱりトラは最強! いや、残念なことにネパール紙幣の最高単位に1000ルピーがあり、そこに描かれている動物はゾウでした。
今、手元に紙幣がありませんが、ネパール南部のチトワン国立公園でみたインド象だったと思います。
実際に戦っても、トラはゾウさんには勝てないそうです。そりゃ、ツバメさんやコイさんにも負けたもんなあ。仕方ありません。

霜降の大和民俗公園(2012.10.30)

2012-10-30 09:35:30 | 今日の大和民俗公園

 

吐く息が白く見える寒い朝。夜明けが遅くなり、6時を過ぎて大和民俗公園にようやく陽が射してきました。
紅葉がだいぶ進んでいます。
 

初冬の花・サザンカが咲き始めました。
山茶花は茶梅と書くのが正しいそうですが、別名の「姫椿」と呼ぶのが、この花にふさわしいと思います。

わが家の庭で(2012.10.29)

2012-10-29 14:21:56 | 我が家の歳時記

 ツワブキが咲き始めました。俳句で「石蕗(つわ)の花」は冬の季語です。

五十嵐播水という人の句に…「蝶の黄を淡しと思う石蕗の花」。
たまたま庭に黄色の蝶がいたのですが、残念ながら写真には撮れませんでした。

 
 
ホトトギスはまだまだ元気に咲き続けています。
 

最後の柿を収穫しました。うちの柿は甘くてご近所でも好評なんですが…
今年は不作で、おまけに美味しそうなのはみんな、カラスとヒヨドリに食い逃げされてしまいました

トラ好きにお奨めの本二冊

2012-10-28 17:57:46 | 読書日記

トラが好きです、ちょっと前…秋の初めの頃ですが、こんなご本を読みました。

 
馬上の偉丈夫は、タイトルにもありますように加藤虎之助清正であります。帯に(小さい文字で)「この男が生きながらえていれば、豊臣家の運命は変わった。」(そして大きく)「家康がもっとも恐れた男」とあります。帯が裏に回ると「本能寺の変、天下統一、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い…報恩の思いを胸に秘め、戦国動乱期を駆け抜けた豪傑。その人生と謎めいた末期に新たな光を当てる傑作歴史小説」。
 これで、どんな内容の本かはほぼ明らかですが、蛇足を加えますと…「報恩の思い」というのは、清正は夜叉若と呼ばれていた頃から六尺一寸(185㎝)という大男でしたが、郷里が秀吉と同じ尾張中村であり、長浜城主であった秀吉に近習として召し抱えられ、秀吉を烏帽子親として元服して清正と名乗ります。数々の戦で武勲を立てますが常に秀吉を実の親とも仰ぎ、秀吉亡きあとは遺児・秀頼を守り抜きます。関ヶ原の戦いでは石田三成に組しなかったため、戦後、家康から肥後一国を与えられ熊本藩主となりますが、その篤実な性格から領民から敬慕される良き領主でした。家康の招きを受けて上洛した秀頼と家康の対面の場で、常に傍らにあって未然に暗殺を防ぎます。彼の死因は「腎虚の病」と言われていますが、この小説では家康に「主計頭(清正)を早う世を去らせる手段はなきか」と言わせ、側臣・本多正信が「伊賀者を使い、毒飼(どくがい)を試みまするかや」と答えることで毒殺を匂わせています。ともかく痛快な小説です。
 

こちらの小説の舞台は江戸。主人公のこれも大男の南町奉行同心・虎之助は安政の大地震がきっかけで臨時の見回り同心に任命され、江戸の町を駆け巡ります。東北大震災の記憶も消えない今の世相を彷彿とさせる状況の中で、さまざまな人間模様が描かれ事件が起こります。事件解決のヒントを虎之助に与える母親と二人の出戻りの姉。父親の代からの目明しで虎之助を助ける「噛み付き犬の松五郎」、虎之助がほのかな思いを寄せる町娘とその妹、友人の同心などが五つのエピソードを紡いでいきます。
 いわゆる人情捕り物帖のスタイルですが、「灰色の北壁」や「ホワイトアウト」しか読んでいなかった私には、真保裕一が時代小説を書くのも新鮮な驚きでした。しかし、欲をいうと出だしは快調ですが、後半から次第に政治?も絡む重い話になってきて、読むのがしんどくなってくるのが残念でした。

今日も秋晴れ大和葛城山(2012.10.26)

2012-10-26 16:11:51 | 山日記

【コースタイム】駐車場所(水越トンネル大阪側出口上)07:40…中間ベンチ08:45~08:50…山頂(白樺食堂横)09:35~10:35…中間ベンチ11:03~11:05…駐車場所11:45

 
今日も素晴らしい秋晴れ。急に思い立って葛城山に行きました。水越トンネルを抜けて旧道に入ると、いつもより少し遅い時間ですが車の数が少ないようです。トンネルを見下す絶好の場所に駐車できました。天狗谷沿いの道を登りますが、この時期は花も殆ど見当たらず黙々と登るほかありません。ただ、ひんやりした木陰の道は夏場に比べると捗ります。それでも鎖場のところでシャツを一枚減らして、水場でコップの水を一杯。あとは楽に中間ベンチに着きました。誰にも会わないまま、静かな山道を登って白樺食堂の前に出ました。
 

今日は高原ロッジに用があるので、先にそちらに向かいます。ロッジ前で白いススキと紅葉が青空を背にして研を競っていました。
 

いつもとは逆にツツジ園の方から三角点に登りました。
 

今日は遠望がきき大峰・大台はくっきりと、河内側では建築中のアベノ・ハルカスも微かに見えていました。
 

すぐ下るのは勿体ないお天気なので、景色を眺めながらゆっくりモーニングコーヒーを楽しみ、山頂部滞在1時間。その間に出会ったひとは僅か数人でした。
 

ロープ駅分岐近くから「婿洗い池」の方を見下したところ。紅葉にはまだ始まったばかりです。

下りも中間ベンチ近くまでは男性独りに出会っただけでしたが、ベンチからは急に登ってくる人が増えました。少し汗ばんでくる頃、駐車場所に帰りましたが、我が愛車の左右はもちろん旧道にもずらりと車が並んでいました。好天気に恵まれて、いいトレーニングができました。

古塔とコスモス(2012.10.22)

2012-10-23 09:44:26 | 花日記

 

朝のwalkingから帰って朝食を済ませ、9時過ぎから法起寺周辺のコスモスを見に行きました。
日本最古の三重塔(国宝)を背景にした、休耕田を利用したコスモス畑です。
 
 
前回にきたときは咲き初めでしたが、今はちょうど見頃になり、新聞でも紹介されただけに大賑わい。
大勢のカメラマンが訪れていました。
 
 
 
コスモスは秋桜(さだまさしや山口百恵を思い出しますね)、「おおはるしゃぎく」ともいいます。
 
 
 
 
 
 
 
 
いろんな種類のコスモスが咲いていました。黄色のコスモスなどは人工的に作りだされたものでそうです。
 
 
ちょっと汗ばむくらいの暖かい秋日和。青空の下の短いハイキングでした。

朝靄にコスモスの花が…(2012.10.22)

2012-10-22 13:17:55 | 今日の大和民俗公園

 

5時45分に家を出て公園へ。秋も深まり素手では冷たさが沁みるようです。

朝靄のなかにコスモスの花が浮かんでいます。朝日が昇ってきました。足元は朝露でぐっしょり。

 
 

ダリアの花も美しく咲いています。(♀ペン撮影)
 

顔見知りの人がワンちゃんの排泄物の後始末をする間、リードを持ってあげました。
 
 
2周目になると靄は次第に消えて行きました。今朝は1時間20分、10,135歩のwalkingでした。

鯖街道・熊川宿(2012.10.17)

2012-10-19 15:47:41 | 我が家の歳時記

 17日、夜が明けてもまだ雨は降っていませんが、風が強く窓の外の梢を揺らしています。8時半、若女将の見送りを受けて帰途に着きました。国道303号線(若狭街道)は滋賀県高島市に入ると琵琶湖西岸の今津に至りますが、私たちは今津町保坂から南へ367号線で京都へ向かいます。この小浜から保坂、朽木、大原を経て京都に至る道筋は古来「鯖街道」と呼ばれています。若狭の海で取れた魚、なかでも鯖が多く京都へ運ばれる道で、都に着く頃にはちょうど良い塩加減になったといいます。

 
熊川宿は鯖街道の若狭側にあり、上中から30分も走ると到着しました。秀吉に若狭一国の支配を任された浅野長政が、天正17年(1589)に交通と軍事の要の地として諸役免除の宿場町にしました。
 

ここは二度目ですが、今回は西口の駐車場にイノッチ車を置いて、丸さんの車で道の駅「若狭熊川宿」のパークに移動。ここからスタートして上ノ町の街並みを歩きます。すぐに復元された熊川番所(2006年撮影)があり、その先には「子守り岩」と呼ばれる大きな岩が民家の横にデンと鎮座していました。
 

河内橋を渡り中ノ町に入ります。これは「旧速見勘兵衛家」。伊藤忠二代目社長・伊藤竹之助氏の生家で熊川を代表する町屋です。一般公開されていますが、まだ時間が早いようでした。
 

もと熊川村役場を改修して鯖街道の資料や民具などを展示している資料館です(2006年撮影)。
 

若松屋。お土産屋さんで店を開いたばかりでしたが、イノッチさんがお婆さんにお話を聞きました。この看板は明治時代からあるとのこと。現在もタバコを売っています。
 

ここから国道に出るまでの短い路地を御蔵道といいます(2006年撮影)。今は崩れかけた蔵もあり、ドングリがいっぱい落ちていました。
 

国道側から見た御蔵道。ツタが絡まる廃屋の風情です。
 

倉見屋。元問屋で熊川宿でもっとも古い町屋です。平入造りの重厚な建築が往時の繁栄を偲ばせます。
 

得法寺。蓮如上人の旧跡でその銅像の他、徳川家康腰掛けの松(枯れて山門脇に根っこが置いてあります。元は真ん中の松の辺りにあったようです)、沼田氏の供養塔などがあります。
 

T字路の突き当りを左へLの字に曲がるところを「まがり」と呼んでいます。城下町などによく見られる軍事上の備えでしょうか。ここから下ノ町になります。

 
宿場歩きを終えて車に乗る頃から雨が降り始めました。朽木の道の駅「くつき新本陣」でお土産を買って、雨の鯖街道を走り抜けました。写真は「焼鯖寿司」です。

山の帰りに…(2012.10.16)

2012-10-19 12:55:49 | 旅日記

三十三間山を下りて三方五湖へ行きました。本当は明日、周辺をドライブがてら見て回って帰る予定だったのですが、雨の予報に今日中に行っておくことになりました。いったん上中にある今宵の宿に断わって、もう一度、三十三間山の麓を北上します。県境尾根の終わる三方で162号線に入り、三方湖のぐるりを回るように走ると梅の里会館がある世久津から北庄へはずっと梅林が続きます。若狭町は福井梅でも有名な所なのです。レインボーラインを走り、山頂公園の駐車場へ。

 
梅丈ヶ岳(標高397m)へイノッチさんは「歩いて登ろう」と意気盛んでしたが、日没が迫っているので所要時間2分のリフトに乗りました。それでも「頂上へ着いてから15分で最後のリフトになりますが…」と係員。
前に来たのは1990年ですから、山頂の様子は大きく変わっています。今は「恋人の聖地」として認定?され、「誓いの鍵」がずらりと並んでいます。また子供向けの「カブトムシの館」など様々な施設が作られています。
 
 

三方五湖にちなんだ五つの花園に110種のバラが咲きます。これはイングリッシュ・ガーデンの秋のバラ。
 

三輪子さんが「五木の園」碑のレコードの部分に触れると、五木ひろしの「ふるさと」の歌が流れてきました。
 

野外彫刻で記念撮影。
 

三方五湖はそれぞれ水深が違うので水の色が異なり、「五色の湖」と言われるそうです。
展望台からの眺め。手前が水月湖、左端に日向湖が少し見えます。奥の左が菅湖、右は三方湖。
 

夕陽が日本海を染めてススキの穂が光っています。日が沈むまでもう少し待ちたいところですが、閉園のアナウンスに急いでリフト乗り場へ向かいました。(Photo by Maru-san)
 

丹後街道沿いの宿「えびす荘」は料金から想像したよりも、部屋は広くて清潔でした。鉱泉を引いた風呂で山の汗を流し、夕食。料理もなかなか美味しかったです。部屋に帰って22時まで駄弁りながらまた飲み、風の音を気にしながらもぐっすり眠りました。(Photo by Maru-san)