ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

開創1200年の高野山へ(2015.05.19)

2015-05-21 15:24:45 | 私の関西百山

昨夜からの雨がまだ残っている朝。奈良西大寺発のツァーバスで高野山へ向かいました。
高野山へは子供が小さいときから、近くはJACの記念行事をはじめ高野三山巡りなどで何度も訪れています。昨2014年も同じ時期(しかも一日違い!)に丸さん夫妻と高野三山巡りで歩いたばかりです。
しかし、今回は
「開創1200年を迎える高野山で末広がり八つの体験」という惹句で、初めてツァーで行くことになりました。



さて車窓から大門を見て山上に着くと、さすがは記念の年だけに雨模様なのに大勢の信者や観光客の姿で賑わっていました。
金剛峯寺前の駐車場でバスを降り、まずレインコートを着て傘を差して持明院へ歩きます。由緒のある古いお寺ですが、ここでは四国霊場八十八ヶ所のお砂踏み体験。
   各寺の本尊の前に置かれたお砂を踏むことで、お遍路をするのと同じ功徳を得られると言われています。バス二台の90人の人がずらりと並んでお砂を踏みました。

境内すぐ横の西国三十三ヶ所観音を拝観する頃から小降りになり、レインコートを脱いで門を出ました。
 大門の方に引き返す格好で、金剛三昧院へ歩きます。境内の自由参観で本堂にお参りし、経蔵や四所明神などを見学しました。ここはシャクナゲでも有名なお寺ですが、残念なことに花は既に終わっていて、代わりに本堂の前の黄色のボタンが目を引きました。
 写真は国宝の多宝塔です。お寺のホームページによると高さ約15メートル、屋根の一辺はおよそ9メートル。貞応2(1223)年の建立で、高野山で現在残っている最も古い建立物です。

金剛峯寺へ帰り、平成の大修理法会以来16年ぶりに御開帳の「秘仏ご本尊・弘法大師座像」を拝みました。

広い寺院内を狩野派の襖絵を鑑賞しながら巡っていくと、新別殿の広間(写真)でお菓子のお接待がありました。



さらに巡路を進むと蟠龍庭を眺める回廊に入り、我が国で最大級の石庭を見学しました。白砂の雲海の中で 140個の蒼黒い花崗岩の竜が奥殿を守っているように配置されています。

壇上伽藍へ歩き、金堂で創建1200年で初の御開帳の「伽藍金堂」を拝観しました。次に根本大塔の内陣で、16本の柱に描かれた堂本印象の16大菩薩と本尊・大日如来を拝みます。この頃には青空も出て来て暑くなりました。



バスで一の橋に移動して、宝善院で金剛山最古の庭園を鑑賞しました。



クマガイソウが咲いていました。



道を隔てた赤松院で住職のユーモアあふれる法話を聞き、秘仏・羊年守り本尊を見学したあと、精進料理の昼食を頂いたときは14時になっていまし
た。

食後、重文の掛け軸や寺宝・左甚五郎の木彫りの虎を見て、中の橋駐車場から奥ノ院へ。

ベテランの女性現地ガイドの説明で、数百年を越える杉の大樹とともに古くは歴史に名の残る諸大名、新しくは良く知る企業まで20万基といわれる墓碑や供養塔が並ぶ参道を歩き、新しく教えられることも多々ありました。

御廟橋を渡ると人間世界を離れた霊域に入ります。燈籠堂に登って回廊を巡って御廟にお詣りしたあと、空海・弘法大師が入定している窟屋のある地下へ初めて下りました。間近でお大師さんに手を合わせお願いをし、「南無大師遍照金剛」と三度唱えました。お大師さんは今もここで瞑想を続けられているので、毎日二回、維那という職名の二人の僧が御供所から食事を届けています。

その御供所(台所)と味見をする「嘗試(あみ)地蔵」の前を初めて通りました。

最後に中の橋からバスで女人堂へ。もともと女人禁制の高野山には七つの入山口のそれぞれに女人堂があり、ここから先に入れない女性が真言を唱えながら籠ったのですが、現在は弁天岳への登り口にある、このお堂だけが残っています。

これで、巡拝を終えて再びバスに揺られて家路に着きました。万歩計の数字は1万2千を越え、ツァーとはいうものの単なる観光気分では済まされない、有意義な一日でした。


奈良の山あれこれ(15~20)

2015-05-13 15:42:46 | 私の関西百山

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(15)白 山
「奈良にも白山があります」
ただし加賀の白山と違って「しろやま」と読みます。三輪山の北山麓を走る県道を東へ、近頃は笠蕎麦で知られる笠荒神への途中から右の細い道へ入ります。



標高差250m、最後はちょっとした急坂を上ると奥不動寺に着きます。



お寺の前から既に見えている白山へは僅かの登りです。奇妙な形の岩塔が聳えたつ風化した花崗岩の台地で、二上山の屯鶴坊(どんずるぼう)に似ていますが、より小規模です。



しかし、こんなに近くで、アルペン的な風貌が見られるのは意外でもあります。



標高450mのここからは、龍門、三輪、遠く二上山が見渡せ、大和平野の一部も見下ろせました。なお、この山の南、黒崎には白山比神社、初瀬に白山権現がありますが、どちらも加賀白山からの勧請と伝えられています。

(16)巻向山
「いっぺん貧乏してみたい」



三輪山の北東、初瀬山との間にある、ほぼ同じ高さの二つの峰で、南側の山に三角点(567m)があります。



柿本人麻呂が「あし引の 山河の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳(ゆづきがたけ)に雲立ち渡る」と歌ったのは、この巻向山といわれています。西山麓に「山辺の道」が通り、近くに三輪の神・大物主神と孝元天皇の妹・ヤマトトトモモソヒメ(かの箸でホト<陰部>を突いて死んだ姫)の神婚伝説で知られる箸墓があります。

箸墓には別に「箸中の長者説」があります。「長者の家には金の成る木があり、毎日金を生んで減らないにの飽き飽きする。一度貧乏してみたいと天罰を蒙るために三度の食事ごとに箸を捨てた。その箸の山が今の箸墓」というのですが…はてさてどちらが本当でしょうか。(箸墓の写真は、熊木健二氏より拝借しました)

(17)初瀬山
「こもりくの山」

長谷寺の裏にある548mの低山で、万葉集で「こもりくの」の枕詞で詠われる泊瀬山は、この辺り一帯の山をさすようです。「和州旧跡幽考」に「泊瀬山(はつせやま) 八雲御抄曰 海士小舟(あまおふね)泊瀬山といへり。とませ山ともいへり。泊瀬又は長谷…此処は山之口より入りて奥深き故に籠口(こもりく)の初瀬といふ」とあります。



登り口近くの見廻不動尊の説明板に「弘法大師豊山に参籠を終わって笠山の方に向かわれた時此処で回顧され、…秘宝荘厳の霊場故、この山に入る者は心を定め浄めるようにと、…須彌山王の上に不動明王の御形をほられたものだと傳えられる。…」とありましたが、



不信心ものの私は気軽く入山したために藪漕ぎで散々な目に会いました。

(18)三輪山
「神さんも好きねえ」



この山の名前の由来については、日本書記の「容姿端麗のイクタマヨリヒメに夜ごと通って妊娠させた男の正体を見るため、糸の着いた針を衣の裾に刺させると…三勾(みわ)だけ残り…美和山の神であると分かった」と記されているのが有名です。一説にはその正体は白蛇だったとか。



今も大神神社拝殿の前の大きな杉には白蛇が住んでいるといわれます。古事記にも、三輪山の大物主が美女セヤダタラヒメを見染め「その美しい乙女が厠で大便(くそ)まれるときに、赤く塗った矢に姿を変え…乙女の秀処(ほと)をぐさりと突き刺した…」(三浦佑之訳注釈・口語訳古事記)という話があります。



大物主はこの娘を娶り、生まれた子は神武天皇の后となります。他所からヤマトに入ってきた天皇家が、土着民の信仰対象だった山の神性を利用して支配力を強めたと考えられます。登拝するには大神神社摂社の狭井神社社務所で初穂料300円を収め白い襷をお借りします。



登拝口の御幣で自ら御祓いをして、注連縄の下を潜り登山道に入ると、山内は撮影禁止だけでなく、その情景も一切口外できないことになっています。で、ここでも割愛します。467mの山頂まで往復1時間半~2時間。裸足で登拝される方や途中の滝で禊をされる方などに出会うと、こちらまで真摯な気持ちで登らなければと思わせられます。

(19)天神山
「菅原道真がほめた山」



ボタンで知られる長谷寺の東にこんもりと茂った山があります。
長谷寺から初瀬川を挟んで対岸にある標高455mの低山です。この山(別名・与喜山)は昔から長谷寺の寺領として伐採が禁じられてきたので、原生林が鬱蒼と茂り、「与喜山暖帯林」として天然記念物に指定されています。「与喜山」の名は菅原道真が「良き山」と言ったことから付いたと伝えられています。



山麓の与喜天満宮は菅原道真を祀る鎌倉初期以来の古い社で、秋の祭礼は長谷寺の年中行事に入るなど長谷寺との関係が深いお宮です。

ここから落葉に埋もれた道を登ると、夫婦岩と呼ばれる磐座(いわくら)があります。古代、天の神を祀った自然信仰の場所で、中世からの天神(道真)信仰と何か関係があるのかも知れません。ここから更に急登になり、時には木の根や岩角を掴んで登ります。木の間から巻向山、初瀬山を望みながら標石のあるピークに立ち、天神山へは更に小さなピークを二度越していきます。



最後の急坂を登って天神山山頂に着くと三等三角点と山名板が幾つかあるが、展望はまったくありませんでした。



北に向かう道を「まほろば湖」(ダム湖)に下りました。

(20)外鎌山
「恋する万葉歌人の墓が…」



万葉集に「忍坂(おっさか)のやま」と歌われ、朝倉富士とも磯城富士とも呼ばれる形の美しい山です。山頂には南朝最後の忠臣・玉井西阿の砦があったと伝えられています。北側の桜井市朝倉台周辺は開発が進み、住宅地の中に4基の古墳群からなる史跡公園があります。



南山麓が「忍坂」の地で、ここに鏡女王(かがみのおおきみ)の墓があります。もと天智天皇の后でしたが、天皇が妹の額田王(天皇の弟・のちの天武の恋人)に心を移して藤原鎌足の正妻となったというあの女性です。もっとも、鎌足と鏡女王はもともと相思相愛だったということで、談山神社の東殿は彼女を祀る恋神社という名の縁結びの神様です。北側の朝倉台から登るのが一般的で登山口から約20分。私たちは南側の「忍坂道伝承地」石碑から登りました。石位寺の前を北へ舒明天皇陵を過ぎたところから踏み跡をたどりました。背丈を越す密生したスズタケを30分以上にわたって強引に漕いで小さなピークに立ちました。

さらに潅木の生い茂る尾根を30分近く登ると狭い頂上に着きました。頂上からは、木の間隠れですが大和三山、 桜井市街、三輪山、音羽三山とまずまずの展望が得られました。帰りは細いがはっきりした道で、舒明陵の少し先の大伴皇女墓の横に出ました。


ヨーロッパ三ヶ国駆け足旅行(5)

2015-04-09 08:44:08 | 私の関西百山

3月25日。インターラーケンで朝を迎えました。リタイヤの年(1995)9月、二人では初めての海外旅行が、ハイキングを含むスイスの三大名峰の旅でした。今回のツァーはこの時、悪天で見ることが出来なかったユングフラウだけがコースに入っていて、今度こそはと期待が膨らみます。

二つの湖で挟まれた町・インターラーケンを出たバスはグリンデルワルドの手前、グルンドへ。

ここで列車に乗り替えます。

高度を上げるにつれて周囲は次第に白銀の冬景色に…

クライデシャイネックで乗り替えると、アイガーの山腹をくり抜いた長いトンネルに入ります。

途中駅のアイガーバンドで5分停車。駅の窓から見た外の風景です。

アイスメール駅でも停車後、終点のユングフラウ・ヨッホ駅へ。3454mにある世界最高所の鉄道駅です。更に超高速エレベーターで標高3571mスフィンクス展望台へ。

建物の外は前回にも増しての悪天候。飛雪が頬を叩き、痛ささえ感じます。残念ながら今回も無展望に終わりました。

ヨッホ駅は2012年、創業100周年を迎えて面目を一新。<TOUR>と書かれた観光用周遊コースが出来ています。イルミネーションに彩られた通路を進むと…

鉄道工夫たちへのオマージュや

カルスト帯水層の洞窟を通り

迷路のようなアイス・パレスに続きます。

ペンギンやクマさんたちをはじめ、様々な氷の造形物が目を楽しめてくれます。

下山の時間になってクライネ・シャイディックに下りました。ここにはスキーのコースが集中しています。ここまで電車で来てリフトでさらに上に行く人、ここから滑り下りる人など大勢のスキーヤーに出会いました。

クライネ・シャイデック駅で。
格好良く滑り降りてきた白人の男性が、スキーを脱いでシャッターを押してくれました。

列車が入ってきました。急勾配のため車輪の間に歯車を付けたアプト式軌道になっています。

夕方、インターラーケンに帰ってきました。小雨が降り肌寒さを感じます。Shoppingタイムのあと、今宵の宿、ジュネーヴ郊外のトアリーに向かいます。


キナバル登山の想い出(続き)

2015-01-23 06:06:06 | 私の関西百山

登頂当日は簡単な朝食後、2時半出発。真っ暗な登山道を登ります。

パナール・ラバンの岩場を過ぎてトラーバース気味に登り(…暗闇でしたので下山時の写真です)

中間のサヤッサヤッ小屋着。標高3668mのここにはチェックポイントがあり、IDカードを確認されます。(これも下山時のもの)

登山口より8km地点。下に見えるピークはキナバルサウス

目指すローズピークは背後に…

灰色の広大な花崗岩の大斜面を登ると、暗闇の中に何人も座り込んでいる人に出会い驚きます。(これは登頂前の私。バテて座り込んだ訳ではなく、4000mを越えたので記念撮影。)

最後は岩梯子の急登で、4時間近くかかって最高峰ローズピーク4095 mの山頂に立ちました。下りは一気に登山口まで下りました。

この山で気付いたことがいくつかある。まず登山道も宿舎も、最盛期の富士山や北アルプスのような混雑がなく、実に快適なこと。これは宿舎の関係で入山者が制限されているためで、この日の登山者数は約120人と聞いた。また下山時のガイドはピンク色のビニール袋を持っていて、ここにゴミを入れて持ち帰ることが義務づけられている。この山に必要なのは技術や経験よりも体力である。登山者には日本人のツァーを別にすると若い人が多く、軽装で震えながら登っている人もいた。確かに登頂日の登り標高差800m、平均所要時間3~4時間、下り標高差2300m・平均所要時間6~7時間は、わたしたち高齢者には厳しい数字である。ラバンラタで出合った日本人グループは、この小屋で二泊したそうだが、こうするとかなり余裕を持って行動できるだろう。」


私の関西百山(100) 諭鶴羽山

2014-12-09 20:23:45 | 私の関西百山
 
100 諭鶴羽山 (608m) <淡路島>
(ゆずるはやま)淡路島で一番高い山。山名の由来は、天竺の摩迦陀神がツルに乗って熊野に赴く途中、山頂で羽を休めたからとか、あるいはこの山には「ユズリハの木」が多く自生しているためとかいわれている。
 
 
 
1998 年5月15日、千日山歩渉会のメンバー7人で登った。この前月に開通したばかりの明石大橋を渡り、淡路島に入る。東海岸を南下、諭鶴羽ダム堰堤横に車を停める。曽我十郎が仇討ちの願掛けに頂上の神社から担ぎ下ろしたという「十郎担い石」という2個の大岩がある。その前が登山口で、階段を10段ほど登りヒノキ林の中を急登する。
 10分程で明るい尾根に出て、下にダムを見下ろすようになると後はなだらかな道。大きな石の道標を過ぎ、神倉社に着く。社の横に太い高野槇が何本かと、役行者や不動明王の石像などがある。
 
 
なだらかな尾根道は木漏れ日がチラチラする緑の中で、そよ吹く浜風と相まって実に爽快。1時間ほどで広い草地の山頂に立つ。
 
 
八州展望台といい、淡路、紀伊、和泉、河内、摂津、阿波、讃岐、備中を見ることが出来るそうだが、あいにく海上は少しもやっていた。それでも石の台に登ると西に鳴門大橋を挟んで四国の山や町、東には紀淡海峡が光っていた。遠く和歌山の町も霞んでいる。
 
 
反対側の諭鶴羽神社の方に下る。沼島を正面に見下ろす電波塔を過ぎると神域に入る。昼なお暗いアカガシの群生地である。大きいものは高さ20m、根回りは3mを超す。イヌグスやスダジイなども混じる鬱蒼とした林を過ぎ、平和祈念塔の立つ広く明るい草原で昼食。
 
 
帰りは諭鶴羽神社にお参りした。淡路一帯の産業神で、祭神はイザナギノミコトなど熊野権現と同じだそうだ。鎌倉時代には20余も社堂があったという。同じ道をウグイスやホトトギスの声を聞きながらダムに帰る。
 
*午後は南淡路の大鳴門橋から渦潮(小さいものだったが)を見た後、由良に泊まる。翌日は淡路富士とも言われる淡路第二の高峰・先山(せんざん 448m )に登る。ただし、すぐ近くまで車で、3カ所ほど長い石段を登ると、千光寺の山門、三重塔、六角堂、本堂などが立つ山頂だった。
 
*関西には私が登っただけでも、まだまだご紹介したい山がたくさんありますが、ようやく目標の百山に達しましたのでこのシリーズは終わります。長い間のご愛読ありがとうございました。*

私の関西百山(99)大江山

2014-12-06 18:29:10 | 私の関西百山
 
99 大江山 千丈ヶ岳・833m ) 
(おおえやま)丹後山地の中央にある鍋塚山、鳩ヶ峰などの総称。最高峰の千丈ヶ岳の別名でもある。東山麓に元伊勢神宮内宮と外宮があり、崇神天皇の時にここから伊勢に遷宮されたという。またお伽草紙の酒呑童子、謡曲の大江山など、鬼退治伝説でも有名な山である。
 
 
1996年10月27日、パソコン仲間の低山排桐派オフ会に二人で初参加。総勢10数名の賑やかな山歩きだった。
前日に集合場所を下見するついでに、鬼のモニュメント、鬼の交流博物館(1)見学、元伊勢神宮内宮(3)と外宮(4)に参拝後、福知山に引き返してビジネスホテルに泊まった。
  今朝は大江駅前の鬼瓦公園(2)で顔合わせのあと車二台は鬼嶽神社前に配置、千丈ヶ岳から北西に延びる稜線上740m地点、航空管制塔の立つ林道終点から上りだす。登山道に入ると雑木林を10分ほど下って、林が切れた見晴らしのいい場所に鬼の岩屋がある。
 
 
さらにコルに下って鍋塚への登り。見事に紅葉した雑木林の道は道幅も広くよく整備されている。
 
 
疲れも感じないうちに鍋塚頂上(763m)に着いた。北に海が見え半島の辺りは伊根の船泊、右に青葉山。
 
 
行く手には鳩ヶ峰と主峰・千丈ヶ岳が重なって見える。青空に映える山肌はまさに錦繍を纏ったあで姿。別のコルに下ると林道が延びてきていて駐車場と休憩所がある。
 
 
コルから600mの登りで鳩ヶ峰(746m)頂上。のんびりと陽光を浴びながら、360度の山々の大展望とランチタイムを楽しむ。食後、最後の目的地、千丈ヶ岳を目指して落ち葉の散り敷く木の階段道を登る。真紅のナナカマドの樹林帯を抜けると、なだらかな833m二等三角点の山頂。
 
 
振り返るとスタート地点の管制塔から続く紅葉の稜線。手前には白いススキの穂、遠くに青い海。そして三角錐の三岳山、すぐ近くの赤石ケ岳はいうに及ばず、ぐるりを取り巻き、重なり合う山、山、山。眼下に拡がる箱庭のような町や村。昨日泊まった福知山の市街地が光っている。大展望に酔いしれて立ち去りがたい山頂であった。

私の関西百山(98)雪彦山

2014-12-03 09:59:53 | 私の関西百山

 

98 雪彦山(915m)

(せっぴこさん)夢前川の源流に位置する山で、新潟の弥彦山、福岡の英彦山とともに「日本三彦山」の一つとして知られる。洞ヶ岳、鉾ヶ岳、三辻山の三つの山の総称であるが、上の標高は三角点がある三辻山のものである。洞ヶ岳は険しい四つの岩峰からなる古くからの修験道の山で、その大天井岳を雪彦山の主峰とすることもある。
 
始めて登ったのは1969年だが、1枚の写真も残していない。ここでは1993年、二人で訪れたときの様子を記す。
 
 
マイカーで山麓の賀野神社大鳥居前の駐車場に着き、頭上に聳え立つ不行岳の岩峰を仰ぎながら出発。岩や木の根の階段状の急登で、不行岳の岸壁を間近に見る岩の上に出る。尾根上の道となりホッとしたのも束の間、再び灌木帯の中の厳しい登り。尾根の左を捲くと、はるか下に沢の水音が聞こえ、大きな岩塊を越えて出雲岩に着く。
 
 
大きく道の上にオーバーハングした岩に、いくつかアブミがセットされている。しっかりした岩の道を左側から捲くように登ると、5メートルほどのチムニーに鎖が取りつけられている。登りきると出雲岩の上に出た。
 
 
ついで覗き岩のクラック。
 
 
少し登るとテラス状の見晴らし台。明神山の鋭峰を始めとする播州の山々の展望が素晴らしいが、凄い絶壁で下を見ると足が疎む。次にちょっと岩登りのテクニックが要る、細かいスタンスのスラブがあり直登する。捲道もあり「馬の背」と呼ばれる所だ。これで核心部は終わり、あとは一登りで洞ヶ岳に着いた。
 
 
大天井岳(884M)の標識があり非常に展望が良い。笠形山が整った美しい姿を見せ、播州平野の向こうには瀬戸の海が鈍く光る。
 
 
大天井岳から鉾立山

いったんコルに下って鹿の壷への道に入る。ここから山の形相はがらりと変わり、潅木帯の中の熊笹の道となる。人影が消え、この後、下山するまで誰一人にも出会わなかった。熊笹の中を登ると、三つ目のピークが915Mの地図上の雪彦山(三辻山)だった。灌木に覆われ展望が悪く、わずかに北から西にかけて峰山高原と遠く氷の山が望めるだけ。下りは背丈を越える熊笹を漕いで、何本もの倒木が道を塞ぐ林の中の分かり難い道となり、最後に長い熊笹の中を登り切ると、鉾立山頂に出た。
 ここは960Mで三山では最も高い。しかし全く展望なし。緩く下っていくと、急に谷に向かって急勾配で下り出す。どんどん下ってこれで正しいのか不安になる頃、峰山←→雪彦の古い標識が見つかった。
 
 
 
紅葉谷の源流らしい細い流れに沿って下る。徒渉したり古い橋を渡ったり美しい滝を見たりしながら下る。やがて右岸の岸壁に沿った長い桟道が連続する。足下は深い谷に落ち込んでいてスリルがある。
 
 (虹の滝・1997年11月)
 
滝の音は耳を聾するばかり。右に地蔵岳の岸壁を仰ぐようになると洞が岳からの下降路に出会う。ここから急に広い道となる。賀野神社への道を左に分けると急坂の下りで、再び谷を渡りゴロゴロの岩塊の急降下。谷間に夕闇が迫る頃には後の大きな滝に出合う。なだらかな草原の道を通り、ダムの横に出た。
 
<コースタイム> 駐車場10:45…出雲岩11:45…大天井岳(洞が岳)12:23……途中昼食…13:50雪彦山…鉾立山14:30……15:40虹の滝?15:50…16:40駐車場
 
1997年11月9日、低山徘徊派・秋のオフ会9人で同じコースを歩く。素晴らしい紅葉を見ながらの楽しい山行だった。

私の関西百山(97)氷ノ山

2014-11-28 10:56:57 | 私の関西百山

 

97 氷ノ山(1,510m)

(ひょうのせん)兵庫県養父市と鳥取の若桜町をまたぐ、中国山地では大山につぐ高峰である。ブンマワシコース、氷ノ山越えコース、仙谷コース、二の丸コースなどがある。下記に記した福定からのコースは、現在では頂上に避難小屋が新設されるなど、かなり様子が変わっている。
 
始めて氷ノ山に登ったのは1960年2月28日、当時、母校のS高校で実習助手をしていた私は先輩教員4人と、これも初めてのスキーツァーで東尾根から氷ノ山~鉢伏山(1,221m)を目指した。東尾根の登りは快適。千本杉ヒュッテは殆ど雪で埋もれていた。ここから氷ノ山頂上まではシールを利して簡単に登る。
 鉢伏への稜線は案外に長く痩せていて、途中で二度スリップ。よくもスキーを流さなかったものだ。すっかりバテ気味になる。横滑りの練習場みたいな斜面の連続でようやく鉢伏のゲレンデヘ出たと思った途端、腐った雪の中へ突っ込んで、左膝と足首のニヵ所を捻挫。なんとか頑張って大久保へ下った。
 朝7時前に宿を出て19時まで、12時間行動だった。当時のS高山岳部は公立校ながら大阪府代表で全国大会に出場するほどの実力校で、これには先輩でもあるY先生の力が大きかった。私も顧問の一人に加えて頂いて、休日を待ち兼ねて山へ向かっていた。
 
 
1961年の冬山合宿は前年のスキーで回ったコースを周回する予定だった。元旦から大久保でスキーをしながら後輩たちが来るのを待って、3日午後から福定へ下り山に入る。深雪にワカンを付けて登るが東尾根の取り付きが分からず、大谷ヒュッテの近くで幕営。
 
 
翌4日は雨で明けたが、苦労しながら尾根の上に出て昼食。風雪が強まる。ここから東尾根の単調な登り。ときどき雪が止み、鉢伏辺りの稜線が望まれる。寒さと疲労でクタクタになった頃、ようやく千本杉に着く。ヒュッテの中でテントを二つ合わせに張る。
 
5日、ガスの中を頂上に向かう。大した苦労もなく頂上を越し、氷ノ山越えで昼食。1,175mのピークをからみ、急斜面の難場をトラパースし終えた頃、冬の日は西に沈み、右下方に大久保の灯りが手招きするように近い。スキーコースの標識を見つけたが、谷が深く切れ込んでいるので夜の下降を諦めて、鞍部近くにテントを張る。
 
 
6日、小さい谷をいくつか越し、偵察を繰り返しながらも最大傾斜線沿いに下る。下るにつれて雪は重くなり、空腹にラッセルがこたえる。去年通ったスキーのルートより、かなり西寄りで牧場のスキー小屋に出た。後で知ったが大ナルという地点からの難コースだった。
 
 
昼前ようやく大久保に帰る。GPSやケイタイのない時代で宿の主人は救援隊の心配までして下さっていた。翌1962年も同じ日程、同じ場所で合宿したが、この年は天候も良く無事に行動を終えた。その4月、私は大阪市の高校教員となり、赴任した高校の山岳部や地域の仲間たちと、その後もスキーやハイキングで何度もこの宿のお世話になった。

私の関西百山(96)笠形山

2014-11-26 08:48:19 | 私の関西百山

 

96 笠形山(939m)
(かさがたやま)古くから秀麗な形で播磨富士として知られた。京都の愛宕山からみた形が陣笠に似ていると言われる。山頂からは北は但馬・丹波の山々、南は瀬戸内海を一望できる。山麓には1400年前、法道仙人創建と伝えられる笠形神社、笠形寺がある。
 
 
1993年5月5日、近所の友人夫妻と4人でいくつかある登山口の一つ、笠形神社の大鳥居が立つ寺家から山頂を目指した。笠形神社への分岐から大きな岩の重なる涸れ沢をしばらく登り仙人滝に着く。
 
 
展望が開け、結構、高度を上げてきた事が判る。ここからは歩き易い山道で山腹を捲きながらアップダウンした後、厳しい登りになる。しかし背後に展望が開け、周囲はツツジの花が美しく苦しさを感じさせない。
 
 
蓬莱岩は別にどうと言う程のものでもないが、見晴らしのいい所だ。稜線に出て薮こぎを覚悟していた道は、広く笹が切り開かれていて楽に歩けた。ササの高さが次第に低くなり、広々した気持ちよい高原状の鹿ノ原に出る。楽しく通り過ぎると、一転して杉の大木の中のひんやりした小暗い道になり、最後の急坂を少し登って笹ノ丸に飛び出す。



壊れかけたロボット雨量計と立派な休憩所がある。展望が開け、正面ちょうど程よい距離に笠形山があり、頂上の展望台が手に取るように見える。昼食後、頂上に向かう。

 
かなり高く見えたが、いったん鞍部まで下って登り返し、意外に楽に一等三角点のある頂上に着く。流石に360度の展望を誇るだけに周囲に数え切れぬほどの山々が見晴らせ、特に北側に連なる連山の眺めが良い。下りはあっという間に笹ノ丸を過ぎ、長い木の階段をどんどん下る。

 
草原状の見晴らしのよい所を降り切った地点から左に大きく曲がり、「谷苦登コース」との分岐に出る。今降りてきたのは「楽々展望コース」だそうだ。杉林の中の広い道を行き、笠形神社の境内に入る。こんな山の中にと思うような立派な神社で、特に本殿や拝殿の木鼻、欄間などの彫刻の精緻さに目を見張った。姫路城の心柱を切り出した檜の跡や、天を突く大杉もあった。ここから広く緩やかな林道となり、所々旧道を拾いながら、笠形寺を経て元の大鳥居に帰った。
 
<コースタイム>大鳥居9:50…仙人谷入口10:50…仙人滝11:10-11:20‥・蓬莱岩11:50…鹿ノ原12:20…笠の丸12:40(昼食)-13:30…笠形山頂上13:50-14:30…笠形神社15:08-15:15…休み堂15:45…笠形寺16:00…大鳥居駐車場16:15
 

私の関西百山(95)千 ヶ 峰

2014-11-20 17:14:54 | 私の関西百山

 

95 千ヶ峰( 1006m
(せんがみね)中国山地の最東部・東播磨の最高峰である。山頂付近は草原状で播磨、丹波、但馬の山々の大展望が得られる。三谷、岩座谷、市原の三つにルートがある。
 
 
1997 11  16日、千日山歩渉会例会に 6 人で登った。播州路を走る車を、小さいが整った円錐形の錦の衣を纏った山々が出迎えてくれる。やがて正面高く目標の千ヶ峰を仰ぐ。紅葉が美しい森林公園から、カーブを繰り返して三谷渓谷入口に車を置く。
 
 
杉林の中の急登から美しい渓谷沿いの道になる。2~3mほどの小さな滝が連続して現れ、やがて三谷大滝雌滝にくる。木橋で左岸に渡る。橋の上から仰ぐ雄滝は、規模は小さいが真っ直ぐ豪快に落ちている。
 
 
道は次第に勾配を増し、左、右と渡り返した後に沢を離れると、胸を突くような急坂となる。岩座神からの道が合わさった所で小さな平地があり、ここで初めての休憩。
 
 
エネルギーを補給して傾斜がゆるまったクマ笹の道を行く。頂上が見上げるように迫り、急斜面を登る先行パーティの姿が小さく見える。
 
 
一歩一歩踏みしめて広い頂上台地に着いた。大勢の人が食事中で大賑わい。空全面が雲で覆われているが、予想以上に遠目が利く。
 
 
すぐ目に付くのが南の笠形山。その向こうに七種山、明神山。北西には段ヶ峰が見える。氷ノ山は雲に覆われているようだ。東側には丹波の山々が見えている筈だが、同定することは出来なかった。確かに360度の大展望が楽しめる山だ。三角点のある大石碑の辺りは満員なので、反対側でゆっくりランチタイムとする。
 
 
下山は市原峠に向けて、クマザサの中の広いが急な道を降る。勾配がゆるまると緑、茶、黄色模様の山肌や箱庭のような集落を見下ろしながら気持ちのよい稜線の散歩。市原峠は2万5千図と違い、神崎町への分岐からすぐ右によく踏まれた道が下っている。暗いヒノキ林を10分も下ると地蔵さんを祀った石室があり、二本杉の標識があった。そのすぐ下まで朝の林道が延びてきていて、登山口の標識はここにあり駐車場所まで長い林道歩きを強いられた。休憩が少なく、ちょっぴりハードだったが、変化に富み楽しい山行だった。