ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

56年前の今日(1959.02.22)

2015-02-22 10:07:27 | 過去の今日

56年前の今日、1959年2月22日。伯耆大山にいました。前夜、2尺4寸のキスリングを背負ったNと私は、卒業試験の教室からそのまま大阪駅に直行して、夜行列車に乗りました。

「0705 大山口。0745 大山寺で朝食後、08:40 発。細かい雪。2合目で雪止み快晴。正面登山道を登る。」

 九合目で監視員か指導員か知らぬが、腕章をつけた人が私たちを待ちかまえていて、「お前らは山を知らんのか。ここは雪崩の巣だぞ」とこっぴどく叱られました。

「1230 頂上小屋(‐2℃)。ラジュウス(コンロ)の調子が悪く、漏れた石油に引火」慌てて雪のいっぱい詰まったバケツを被せました。結局、何を喰ったのかは覚えていません。ガスが出始めたので、縦走は諦めて夏山道を下りました。

二人ともイライラして、つまらぬこと(これも理由は忘れてしまった)で口論し、お互いに意地を張りあって別々にラッセルをして二本のトレースを付ける始末。所々ヘソの上まで雪があり、時間は徒らに経過するし、疲労困憊の挙げ句いつの間にか交代で先に立って、仲良く背を接して下りました。

17:45 大山寺着。夜行で行き夜行で帰るという、しんどい山でした。

Nは大阪ではちょっと知られた会を主宰し、海外遠征などで活躍しましたが2007年、先に逝きました。改めて冥福を祈ります


54年前の今日(1961.02.19)

2015-02-19 05:00:00 | 過去の今日

もう半世紀以前になりますが、この日、職場の先輩や同僚と5人で伊吹山に登り、頂上からスキーで下りました。
以下は当時の山日記からの抜粋です。(左から二人目が私)

山麓の民家で一泊した翌朝、小雪をついてリフトで三合目まで上がる。シールを着け、途中、一、二ヵ所よく滑る所があったが、大した苦労もなく八合目に着く。閉ざされた小屋の前でスキーを脱ぎ、アイゼンに代え、スキーを担い急斜面に息を切らす。しかし思ったより早く九台目に着き、ここからは緩い登り。

山の家で昼食後、頂上へ。積雪4m60cm。

測候所は一面エビノシッポで覆われて、まるでおとぎの国の城みたい。 14 ~5m の西風は強いが、ときどきガスが晴れて素晴らしい眺望に満足。記念撮影の後、滑降に移る。九合目を過ぎて急傾斜にかかるころ、靖先輩のバッケン折れ、山根先生と実さんが応急修理。見事成功して出発。五合目まで斜滑降、キックターンの連続。一度転倒したが、見事に空中転回して立ったりして楽しく滑る。長い斜滑降の連続で、少し膝がガクガクする。五合目を過ぎるころより快晴となり快適に滑降を続ける。

三合目ゲレンデなど一寸遊んでいきたいところだが、帰りのバスの時間にあまり余裕がないので、残念ながら横目で見て一路下る。(*この日、名古屋の人が山頂より 800m 転落、奇跡的に生還したと後で知った)

[ コースタイム] 起床 05:15 …出発 06:15…宮下リフト乗り場 06:30…三合目07:05~08:15 …リフト終点08:30 …五合目08:45 …八合目 09:40~10:00 …頂上山の家10:35~11:30 …頂上11:30 ~12:00…スキー修理 12:15 ~ 12:45 …三合目13:05…一合目 14:00~14:30…宿舎帰着15:00


9年前の今日ー2007.01.21

2015-01-21 01:01:01 | 過去の今日

2007年の今日、1月21日、千日山歩渉会の仲間たち11名で東南アジアの最高峰であるマレーシアのキナバル山(標高4095.2m)に登りました。

登山口からの標高差が大きいわれわれ中高年には厳しい山ですが、奇岩や岩盤の特異な山岳風景が楽しめ、ウツボカズラを始め珍しい動植物にも出会えます。写真上は頂上直下のアグリー・シスターズ・ピーク(醜い姉妹)。下はロウズ・ガリーの深い谷(1,600mあるという)を挟んで急峻な岩壁の連なる岩尾根。

狭い頂上には二つの標識があり、一つは山名と標高を、今ひとつはこの山に初めて登ったグンティン・ラガダン(現地人)の名が記されています。既に2年前の2005年に日本山岳会の仲間二人と妻の四人で登頂していますので二度目でしたが、70歳台に入ってのリーダー兼添乗員めいたお世話は結構疲れました。

しかし全員無事に山頂に立ち、下山後はコタキナバル近くの島で遊び、熱帯の山と海を存分に楽しむことができました。まずは山頂付近の光景をお伝えしました。


22年前の今日~雪の大台ケ原から大杉谷へ

2014-11-02 07:00:00 | 過去の今日

 

1992年11月2日、初めての山行から35年後、前日泊まった大台山の家を出ると美しい霧氷の世界でした。気温マイナス4℃。予定通り大杉谷へ向かいます。

日出ヶ岳山頂は強風で厳しい冬山の様相でしたがシャクナゲ平を過ぎると嘘のように姿を変え、穏やかな日差しが帰ってきました。

谷筋に降りると、日陰ではまだ雪や氷が残っていましたが、「以前は細い針金にすがって通過した七ツ釜手前岩壁の下りも、立派な太い鎖が取り付けられて、全く危険を感じない」と山日記に書いています。

秘境といわれた大杉谷はすっかり変貌していましたが、紅葉の山肌にかかる飛瀑、水や岩の色は昔と変わらぬ美しさでした。


初めての山行(56年前の今日)

2014-11-01 11:27:32 | 過去の今日

1958年11月1日。大学の同級生6人が卒業前のグループ旅行で山陰へ行こうと、夜行列車で大阪を発ちました。



翌2日、始発のバ
スで大山寺へ向かい、正面登山口から伯耆大山をめざします。 

「前日に1名遭難して自衛隊が出動していた。頂上付近はすごい風雪とガス。縦走はあきらめて元谷を下る」
 
初めての山日記の記事です。借り物のキャラバンシューズとザック。大山登山は山陰旅行の、ほんの付け足しの筈でした。景色も見えず、苦しいだけだった山が、なぜこの後、こんなに私をのめり込ませるきっかけになったのでしょう。



翌1959年2月22日、この時の発案者N(故人)と再度、正面登山口から登ります。

 
 
深雪のラッセルで苦労しながらも、二度目の登頂を果たしました。

 

13年前の10月4日

2014-10-04 06:00:00 | 過去の今日

錦繍の霞沢岳

2001年10月4日、前夜、島々から岩魚留を経て徳本峠の小屋に泊まった私たちは、快晴に恵まれたこの日、霞沢岳に登りました。ご存じのように常念山脈最南端にある2,646mの山ですが、1984年までは一般登山道がなく霞沢か八右衛門沢を登るのが唯一のルートでした。深田久弥が日本百名山に入れるか否か悩んだという不遇の山です。

この日も小屋から霞沢岳に登ったのは、埼玉の青年と私たちの3人だけでした。昼までに頂上に着かなければ引き返すつもりで6時20分出発。

小屋の前からは30年前に二人で登った笠ヶ岳が正面に、

その横に穂高連峰が真近に見えました。

『今日始めてのピークは2428m 、地図を見ると東西と南北に走る二つの尾根が十字状に交差している。ジャンクションという名の由来だろう。展望は東側だけが開け、左から蓼科山、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス…そして御嶽と乗鞍岳が並んでいる。甲斐駒の左に正真正銘の富士の姿。登り切るとようやく霞沢岳からK1に続く稜線が望めた。まだ嫌になるほど遠い。』

展望を楽しむ間も惜しんで出発。湿地帯を抜けて樹林帯を登ると、次の下りでは梓川の流れとその右手上に常念から蝶、大滝と続く稜線が見えました。手前の尾根は真っ赤なハゼノキの葉が彩っています。

『六百山からK1に延びる稜線が近づき、最後の急登になった。文字通り胸をつくような、シャクナゲやハイマツの根を掴んでの喘登である。』

K1ピークに立ちました。

『真っ青な空の下、展望は申し分なく、行く手に目指す霞沢岳、その手前にK2、右に噴煙を上げる焼岳が低く見える。真下は上高地で梓川の流れを挟んで帝国ホテルと温泉ホテルの赤い屋根が妍を競っている。穂高は朝からとは姿を変え、奥穂が真正面に来る。左の西穂への稜線、ジャンダルム、畳岩が懐かしい。前穂への吊尾根も去年、二人で歩いたばかりだ。あの時泊まった岳沢の小屋も見える。』先に出発した同宿の青年に写真を撮って貰いました。

K2のピークを越えて本峰へ向かうと、『見た目ほどは長くかからずに登り着き、素晴らしい山に登れた喜びに、思わず二人で固い握手を交わす。ハイマツに囲まれた狭い頂上には、三角点と新旧二つの山名板があった。』

頂上滞在、わずか10分で下りました。K2では二羽のライチョウに出会い、K1で昼食をとりました。徳本峠に帰り16時に下山開始。

日本山岳会上高地山岳研究所に着いたのは18時過ぎになりました。長丁場でしたが、しかし達成感は格別で、美しい錦繍をまとった山、正面の穂高を始めとする素晴らしい展望…今も目に浮かびます。


19年前の9月22日

2014-09-22 06:00:00 | 過去の今日

もう20年近く前になりますが春に退職した1995年9月、旅行社のパック・ツァーに参加してスイスに行きました。

22日はロープウェイでエギィーユ・ミディへ登りました。途中で一度乗り替え標高差2700mを20分ほどで登り切りますが、もの凄い急勾配で最後はまるで垂直のエレベーターに乗っているようでした。エレベータで中央峰テラスへでると、

純白のモンブランからグランドジョラスへ続く岩峰が並び、眼下にジェアン氷河。左にはシャモニ針峰群。

遠くグラン・コンパンの右肩にマッターホルンが小さく見えました。この日はツェルマットで泊り、

翌23日は宿からモルゲンロートに輝くマッターホルンを眺め、登山列車でゴルナグラード駅へ。

シュトックホルンへキャビンで登り、足首を埋める雪を踏んで小高い丘から360度の大展望を楽しみました。

電車でローテンポーデンへ下りハイキング。マッターホルンの投影する池・リッフェルゼーの畔で弁当を食べ、残った花が寂しげに咲く草原をリッフェンブルグへ歩きました。

*詳しい旅行記は下記のページ http://mountainpenguin.web.fc2.com/swiss/swiss1.html をご覧ください* 


50年前の今日(1964.07.24)

2014-07-24 06:00:00 | 過去の今日

北 岳
梅雨明けを待ち詫びたように7月下旬は山に入っている日が多かった。51年前の1963年は雨中の雲ノ平にいたし、1965年は燕岳から槍への縦走途中だった。この頃、私たち夫婦は会員数80名ほどの大阪の社会人山岳会に所属していて、私はチーフリーダー、♀ペンは入会後5年目の中堅女子会員だった。毎年、夏は六甲山系でボッカ訓練などを行った後、北ア、中ア、南アなどで4~5泊の幕営山行が年中行事だった。日数的にもお互いにこれが最大限で事実、有給休暇の多くを、この頃からお盆前にかけての夏山シーズンで消化している。
 さて、1964年は男性7、女性4のパーティで白根三山を縦走した。以下は当時の山日記から。

7月22日 港町発の「やまと」はガラ空きで、17時から並んだ我々は完全に肩透かしを食う。車中、例によって差し入れのうち重そうな奴を平らげたりしながら、あまり寝られずに富士に着く。創価学会の千人の大部隊に逢ったりして身延線の始発に乗り、甲府へ。ここでバス待ち。芦安から予約してあったマイクロバスで、いよいよ入山。

7月23日 快晴。広河原~白根御地 野呂川に沿って走るマイクロバスはスリル満点。まるでジェットコースターなみのスピードで広河原に着く。ここで昼食。すぐに御池への登り。川沿いにしばらく登って、樹林帯の登りにかかる頃からHが遅れ気味。ガンバで高度を稼ぐ。苦しさが高じる辺りで左に捲き、冷たい水場に出る。鳳凰を見上げ、思う様水を飲み、すぐに御池の畔のテント場に着く。北岳バットレスがすぐ目の前にそびえている。

7月24日.快晴。~草スベリ~北岳~北岳小屋付近

↑草スベリからバットレス
出発してすぐ草スベリの急坂にかかる。最初の一本でレモンを囓り、頑張る。KOが苦しそう。

稜線に出ると、富士、中ア、北アと素晴らしい展望と冷風が待っていた。(↑前列左・変愚院、中央・♀ペン)しきりに写真を撮り、北岳へ向かう。

 北岳より仙丈岳

北岳頂上で差し入れのメロンを喰う。最高の味!(前列中央・♀ペン、後列・タバコを咥えている変愚院)

バットレスを見下ろしながら行く北岳小屋への下りは、思ったよりキビシイ。



だがキジ場からも富士の見える絶好の幕営地。北岳別荘地の満月は素晴らしかった。

7月25日.快晴。~間ノ岳~農鳥岳~大門沢小屋付近

 ←北岳テントサイトにて

稜線へ出るのは思ったより楽だった。間ノ岳を過ぎ、農鳥の小屋へかかる頃から日差しが強くなり、頭が痛くなりそう。

今日の行程は水が不自由なのが恨めしい。西農鳥への登りで手前のピークと間違ったりして少し遅れる。この辺りよりKの様子がおかしい。東農鳥の手前でついにダウン。先にパーティを行かせて空身で歩かせ、ザックを二つ担いで頑張る。東農鳥でO、Tが迎えに来てくれる。SLのKUまでがバテ気味。大門沢の下降点で遂にパーティを分ける。KOとI、T、Oを残し、ビバーグを覚悟して先行のパーティ(KU、KA、女子)と別れを告げる。

約1時間でKは少し元気を取り戻し、自力で下れる見通しがついたので、降りることにする。さすがに大門沢の下りは嫌になるほど長い。ようやく水場に着き、歓声を上げて腹一杯になるまで飲み、ふらふらで小屋にたどり着く。小屋は満員なので河原にテントを張る。

7月26日~奈良田~身延  遅寝をして、ゆっくり朝飯を平らげ、奈良田に下る。河原沿いの暑い道や、樹林帯の激しい下りや、

吊橋のスリルやらを経て発電所に着く。真っ黒に日焼けした顔を揃えて、賑やかにバスに乗り込み帰阪の途に着く。快晴続きがありがた迷惑で、稜線歩きで水がなく苦しい山行になった。

この年の10月には東京オリンピックで日本中が湧いた。12月、ペンギン夫婦が誕生した。


16年前の今日(1998.07.17)

2014-07-17 06:00:00 | 過去の今日

オハラ湖周辺ハイキング

7月17日(金)快晴
ヨーホー国立公園にあるレイク・オハラへは、徹底した自然保護のためフィールド近くから一日2台出るバス(計60人)に乗るか、13キロの道を歩くしか他に方法はない。この標高2000mの美しい湖を起点に、さまざまな高山を巡るコースが整備されていて、いわばハイカーの聖地ともいえる最高の雰囲気が味わえる所である。
Lake O'HARA 9:00…All Soul's Prospect11:00~11:15…Hanging Garden of Babylon12:15~12:50(lunch)…Hungabee Lake14:30~14:40…Lake O'HARA 15:28



予約してあった8時半のバスに乗りレイク・オハラに着く。美しい湖は後でたっぷり上から見ることにして、さっそくビッグ・ラーチ Big Larch といわれるトレイルに入る。名前通りカラマツの美しい林である。黄葉する秋も素晴らしい眺めという。「悪魔の積み上げた岩」Devil's Rock Pile という所を過ぎしばらく行くと、ジグザグの登りになる。シロヤシオに似た白い花が咲いている。稜線にでると、左眼下にエメラルド色のオハラ湖、その背後に屏風のようにクラスター岩峰群 Cluster Peaks が立ち並ぶ。その右に大きな氷河を抱いているのはヒューバー山 Mt.Huber (3358m)だ。

 

 アラン氏と

湖から標高差で400m登ったところが All Souls' Prospect (prospect には「眺め」と「願い」の両方の意味がある。よく名付けたものだ)。われわれも、ほっとして腰を下ろし、周囲の展望を楽しむ。

レイク・オハラは全体の形を見せ、クラスター岩峰が険しく岸辺まで迫っているのが分かる。その向こうはカサドラル山 Cathedral、白く光るのはモナーク氷河。今登ってきた道の背後には、ずっと姿を見せてきたオーダレイ Odaray(3133m)の頂が鋭い。十分に眺望を楽しんで右手のサーファー山 Mt.Schafferに沿う岩の道を緩く下る。前方の岩の上にホーリー・マーモットがすまし顔で座り、オハラ湖を見下ろしている。近づくと顔を上げてこちらを見る。「俺の住まいはキレイな所だろう?」と言っているんじゃないか、とアランに言うと、同感だと答えて、ナネットに「KAIがこういっている」と伝えていた。左折して北へ岩稜を離れて、カラマツの散在する緑の草原の中に降りる。



オパビン氷河からの冷たい流れが音を立てている。雪を散りばめた岩峰群に囲まれた静寂な別天地だ。名を「バビロンの空中庭園」 Hanging Garden of Babylon という。ここで頭上にクラスター Cluster(2706m)の鋭い岩肌や、ヒューバー氷河を見上げながら、朝作ってきたサンドウィッチとジュースなどで軽いランチタイム。食後はまずオパビン・テラス池群の畔を通る。雲ノ平の日本庭園に似ている。ここから大きく右にヘアピンカーブして、正面のオパビン氷河やガンサイト・ピーク Gunsight peak に向かって再び高度を上げていく。ガラガラの岩の道で、今度は二つ並んだハンガビー湖とムーア湖を見下ろしながら行く。

 

しばらくで緩い下り道になり、ここでSさんが小さいが美しい六角形に整った水晶を見つける。やがてハンガビー湖 Hungabee Lake の畔に降り立つ。ここまで来ると、オパビン氷河の末端がすぐ上の段丘まで来ているのが分かる。そこに最奥の湖、オパビン湖 Opabin Lake があるのだが、15時半までにバス停に帰らなければ例の13キロを歩く羽目になるので、残念ながら時間切れ。大きくUターンする形で西北に向かう。しばらくはガラガラの水平道で、反対方向から来た何組かのハイカーと行き違う。中には真っ白いヒゲ面の高年者もいる。カナダに来て2週目に入り、私たちの挨拶もなかなか堂に入ってきた。

 

短いが急な登りがある。右が垂直の岩、左は岩塊が積み重なった崖で、北穂高の南稜の感じだが、高山は初めてのKさんも元気に通過する。再び下り、氷河からの水が滝になって勢いよく流れ落ちているところに出る。バスの時間が気になるが、ジグザグの下りが思ったより長い。途中で先行のパーティに追いつき、全員ようやくオハラ湖畔に降りたが、反対側のバス停まで湖を3分の一周しなければならない。アランが早足でバスを止めに行ってくれ、全員発車2分前にバスに乗ることが出来た。このコースは花こそ少なかったが、今までのトレール中、高山の気分を一番味わえた所である。これまでも予備知 識が全くなく、全ておまかせのハイクだったが、日程の最後で山の懐深く入れた感じで、もっとも印象に残った。

 

これでジャスパー、バンフ、ヨーホー各国立公園5日間のハイキングを終え、ロッキー・マウンティン・ハウスのマーシャル邸に帰る。途中、例の炭坑の町ノルデッグでアルバータ・ビーフのステーキの夕食。金髪のもの凄く可愛い、人形のような少女がお給仕してくれた。そこからの道で、コヨーテが道を横切るのを見た。前に書き忘れたが真っ白なマウンティン・ゴートもフィールドで見ているので、動物との出逢いもかなりの数となった。

16年前のカナディアン・ロッキー・トレッキングの想い出シリーズはこれで終わります>


16年前の今日(1998.07.16)

2014-07-16 06:00:00 | 過去の今日

 スコーキー・トレイル(続)

7月16日(木)曇り後雨 7月16日(木)曇のち晴
Skoki rodge 9:25… Pika's Pass11:45…Boulder Pass12:10~12:50…Trail Head14:15…Fish Creek(parking)15:00


爽やかな目覚めで朝を迎えた。ロッジの名物男でその生き方が一冊の本にもなっているKen Jones(88歳)が、鮮やかな手つきで焼き上げたパンケーキで朝食。日本の山小屋と違って、8時になってようやく頂くことが出来る。
   雨は朝になって止んだが、曇り空から今にもまた降ってきそうなので、予定を変えて短いコースになる。小屋の前の川を渡って、深い谷間の道に入る。湿った土の上にムースの足跡があり、クマの糞がある。ハハコグサが多い。カナダでは "pussy's 何とか" 「小猫の足の裏」というそうだ。日本では "mother and children だ"と言ったが、どうもカナダの方がうまく表現しているようだ。青緑の見たこともない色のリンドウが咲いている。

森が切れ、昨日遠目に見た滝目指して進む。この滝は氷河の水をたたえた大小二つの池・スコーキー・レイクスから落ちる、かなり幅広い滝である。

滝の右岸、急で狭い階段状の岩場を登る。かなり高度感があり、ちょっとスリルがある。最後はチムニー状で岩穴をくぐる。岩の上に雷鳥(ptarmigan)が3羽。頭の赤いのが母親だ。それで気が付いたが、昨日のターミガン・レイクは「雷鳥湖」だ。

岩屑の道のやや急な登り。ピカ・ピークを右手に見てピカ・パスに近づく。ピカ PIKAとは俗称・岩ウサギ(rock-rabbit)で、グレイの身体に大きな円い耳を持ち、テニスボールに耳を付けたように見える。滅多に見られないそうだ。(前掲書による)。ところがアランさんが立ち止まって、口に指を当てたのでそちらを見ると、なんとこのピカが岩屑の上にいたのだ!あわててカメラを向けると、素早く姿を隠してしまって残念ながら写真には残せなかった。このパスが今回の最高地点。

後は下に見える雷鳥湖に向けてお花畑の中をのんびり下る。ターミガン・レイクにはガンの一種、ルーン(loon)の家族が一列になって泳いでいた。



この鳥はカナダの国鳥だそうで、1ドル貨 loony に姿を刻んでいる。ここから元の道をどんどん下ってバス停に着いた。バスが来るのに45分あるので、アラン、Kさんと3人はパーキングまで歩くことにする。

広い林道はときどきスキーのトレイルと交錯する。予定通りの時間に到着。昨日11K、今日が19キロ(林道歩き含む)のトレッキングということになる。