ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

カムチャッカ・アバチャ山(2)

2008-07-31 08:41:24 | 山日記


町はずれに来ると舗装道路は終わり、道脇にはヤナギのような木が並び白い綿毛が風に舞っています。
それが途切れるとヤナギランのピンク、ナタネの黄にところどころシシウドの白が織りなす美しいカーペット。
シラカバやタケカンバが多くなり、間もなく水の枯れた広い川床に入りました。カマスは凹凸の激しい道なき道を激しく車体を揺らし、砂埃を巻き上げながら突進していきます。
しっかり窓枠にしがみついていないと座席から振り落とされそうで、居眠りもままなりません。



2時間ほどカマスに揺られながら次第に高度を上げ、最後は砂礫の段丘を乗り越えて標高800mのベースキャンプに着きました(12時30分)。
他のパーティの何台かの改造バスも次々と到着。
我々を歓迎するように、頭上の灰色の雲が薄れて青空が広がってきました。



緑の壁に茶色の屋根のコンテナが今夜の宿です。内部は二室に分かれ、それぞれ上下のベッドが二つずつ。つまりコンテナ一つが8人用のコテージです。
このようなコンテナが10数棟。少しずつ間をあけて、配置されています。
右に見える少し大きい建物はレストランです。



昼食のあと、足慣らしに正面に見えるラクダ山へトレッキング。
双耳峰の右側、槍ヶ岳のように見える岩峰のほうが少し高いようです。
この林道から次第に道が細くなり、山裾を右に捲いて右に見える雪渓を回り込みます。



雪渓を登り切ると左に折れて、がらがらの岩屑の道を直登。コルに出ます。



普通のツァーはコル迄ですが、私たちは槍の穂に登りました。
この写真の上部、V字型に切れた所のあとにスラブのトラバースがあり、ちょっぴり高度感もあって面白かったです。



下からでは左に見えたラクダのコブに登って見下ろした写真です。
真下に人のいるコル、その後に先ほど登った岩峰。その上に明日辿る長い稜線が見えます。(続く)

カムチャッカ・アバチャ山(1)

2008-07-30 10:00:23 | 山日記
JAC関西支部の海外山行「カムチャッカ・アバチャ山」に参加しました。
TLは同じ関西支部の仲間で、登山中心の旅行会社・ATS社に勤務しているSさん。
メンバーは彼を含め男性7名(うち会員外1)、女性4名の計11人です。

7月24日午後12時45分、関空をあとにウラジオストック航空特別運航便で、カムチャッカの州都ペトロパブロフスク・カムチャッキーへ。



4時間のフライトでこの長い名前の空港に着き、初めてロシアの土地を踏みました。
もう現地時間では午後9時前(時差+4時間)ですが、まだ夕暮れの明るさです。
入国審査は非常に丁寧というか、慎重というか、時間をかけてゆっくりとパスポートと入国カードを調べます。
やっとバスに乗り込んで、40分ほどで郊外のパラトゥンカ温泉郷に着きました。



緑の木々に囲まれたソルネチナヤ・ホテル。ホテルというより、ロッジか日本の民宿風。気の良さそうなオバサンがひとりで切り盛りしているようでした。
小さなロビーに、ヒグマと老人が一緒に遊んだり、釣りをしたりしている写真が貼ってありました。
ペットかと思って通訳兼ガイドのサラーワ君に聞いてみると、「この人は学者でカムチャッカのヒグマを長い間研究していて、最後はヒグマに噛まれて死んだ」ということでした。
少し離れた所にレストランと温泉(温水プール)があります。



アバチャへの足「カマス」
軍用トラックを改造した六輪バス。後ろの客室部分四輪と前の運転部分二輪が別に駆動するようで、道が悪くなると全輪駆動に切り替えていました。
客室部分は通路を挟んで二人掛けのシートが二列並んでいます。



25日9時前出発、まずスーパーでウォッカとビール、酒の肴を仕入れました。



次は自由市場(フリーマーケット)へ。
野菜・果物・菓子などの食料品、衣料品・家庭用品・玩具などの日用品まで何でも手に入ります。



ただし鮮魚だけは建物の中で売られています。売り子のオバサンが快く撮影に応じてくれました。
燻製や干物は外で売られています。TLがイクラ、サケ、タラバカニ缶を仕入れて、いよいよベースキャンプへ…(続く)

アバチャ山から帰りました

2008-07-29 12:12:58 | 山日記
7月24日からロシア・カムチャッカ半島に行っていました。
25日、アバチャ山(2,741m)に登り、昨28夕、無事帰宅しました。
今回は♀ペンはお留守番です。



BC(標高800m)で噴煙を上げるアバチャ山を背に。



山頂にて。
BCから一日で標高差1900mの往復は、話に聞いていた通り厳しいものでした。
それだけに、今になって登頂の喜びがじわじわと込み上げてきます。

山行やBCの模様、美しい高山植物、可愛い地リス、カムチャッカの町などの詳しいレポートは後ほど順次お届けします。

七の山

2008-07-22 17:28:55 | 四方山話
不思議な暗合で2000年から4年間、春に「七」の山に登っています。

七洞岳(778m)<2000.04.01>


別名・七洞山、白岩岳。
松阪市の南にある一等三角点を持つ山で、リアス式の海岸を見下ろす好展望で知られています。
急坂を登って獅子ヶ岳から続く稜線に出ると、絶好の展望台になる大きな露岩があり、行く手に七洞岳、背後に獅子ヶ岳が望めます。
ここから小さいピークを越して、大きく開けた広い頂上に着きました。
周囲の木が切り開かれていて360度遮るものがありません。北東に獅子ヶ岳、西から北西にかけて雪を被った大台ヶ原から高見山へ続く台高の峰々、三峰山、局ヶ岳の鋭鋒…。そして伊勢平野とリアス式海岸の眺め。予想以上の大展望でした。

七七頭ヶ岳(693m)<2001.04.22>


ななずがたけ。湖北・余呉湖の北にあり、麓から仰ぐ山容の美しさから地元では丹生富士と呼ばれています。山麓の集落から七つの尾根を山頂に集めているのが、山名の由来だそうです。(新日本山岳誌)
登山口から山頂までは約2km、山頂に伊香西国二九番札所・西林寺があるので、古い丁石と新しい距離標識が交互に現れて励ましてくれます。
尾根に出ると梢越しに墓谷山、金糞山を見て、最後の急登になって頂上台地に出ました。両洞山西林寺の扁額がかかる祠と小さな石塔があり、三角点はその少し先にありました。
樹木に囲まれて展望はありませんが、少し先のルリ池の周辺はイワウチワの大群落でした。
この池の水は村娘の顔に出来た腫れ物を治したという伝説があり、「七七頭ヶ岳の美人水」と言われています。
イワウチワ他にも、ショウジョウバカマ、イカリソウ、シュンランと花の多い山でした。

七種山(681m)<2002.5.22>


なぐさやま。兵庫県神崎郡福崎町と飾磨郡夢前町の境界にあります。際だった山容と、滝あり岩稜ありでコースは変化に富み、播州の名山と呼ばれるにふさわしい山です。
七種神社の鳥居を潜ると滑りやすい石混じりの道になります。虹滝に続き八竜滝と、豪快な音を立てる滝を見ながら石段を登り、拝殿前にでました。雨と水飛沫に煙る落差72mの七種滝を見て、神社の裏から結構急な岩場の登りになります。
…「ここから急坂40分、人生も同じ頑張ってください」など書いた立札がある。なるほど、所々に岩場を交えてかなり登り応えがある尾根道である。雨と汗でぐっしょり濡れながらも、全員快調に登る。右手が開けると、展望岩という標識があるが、雨雲の中で何も見えない。少し登ると稜線のT字路に出て、すぐ右が背の高いマツなどに囲まれた七種山頂だった。…
この日は七種山、七種槍、七種薬師の七種三山を周回する予定でしたが、豪雨にたたられ主峰を往復しただけで引き返しました。その後、再訪の機会を狙ったままになっています。

七面山(東峰 1624m)<2003.05.19>


山の名は、大和名所図会の「七峰相連なりて蓮華の如し」から来ています。頂上に金六という天狗が住んでいるという言い伝えもある、大峯七五靡の一行所です。
長い長いドライブと林道歩きが十二分に報われた、素晴らしい花の山でした。
こちらをご覧ください。

七曜岳(1584m)<04.09.24、06.07.29>

しちようだけ。大峯・大普賢岳の南に連なる奥駆道上の山.
ここも大峯七五靡の一行所です。こちらをご覧ください。

炎暑の矢田歩き(7.21)

2008-07-21 18:40:00 | Weblog
各地で最高気温を更新中の真夏日、久しぶりの矢田歩きです。



東明寺の境内でヤブミョウガの白い花が咲いていました。



尾根道に出ると日蔭はやや涼しく、団扇で風を送りながら歩きました。
「弘法の井戸」で顔を洗い、吹き上げてくるそよ風を楽しみながら下りました。



「矢田大石」の近くの栗林では、クリの実がもうこんなに大きくなっています。


郵便道から金剛山(7.19 )

2008-07-20 08:02:53 | 山日記
暑さにかまけて、しばらく山に行っていないので、足慣らしに金剛山に行きました。



山麓線を走り「神話の里・高天」の高天神社前に着くと、駐車場は毎日登山の方の車でほぼ満杯でしたが、運よくちょうど下山された人の車が出た後に駐車できました。
神社にお詣りして8時半出発。

高天滝を過ぎたところで道が崩れて高捲いた他は、よく歩かれた道を白雲岳を右手に見ながら順調に高度を上げます。
しかし、朝まで雨が降ったあとの蒸し暑さは格別で、全身汗びっしょり。タオルは絞るほどに濡れました。



最後の500段の階段を登ります。
登り切ると涼しい風が吹き抜けていて、まるで別天地のようでした。



10時15分、一の鳥居。



10時25分、葛木神社に参拝(写真は合成)。
すぐに下りるのはもったいないので、ブナ林や境内で涼を取って10時45分に下山。
いいお天気になって空気も乾燥してきたのか階段道も涼しく下れて、途中のスギ林で昼食にしたときは汗が冷えて寒さを感じるほどでした。



高天滝で汗を拭い、冷たい水で喉をうるおして、12時40分、車に帰りました。
登りは暑さに苦しめられましたが、後は快適な山歩きができて楽しい半日でした。

六の山(続き)

2008-07-19 19:54:25 | 四方山話
双六岳(2680m)

59年8月、大学の同級生4人と高山からこの年初めて通じたバスで新穂高温泉に入り、これも完成後まだ間のない小池新道を登り、大ノマ乗越から双六岳に向かいました。



最初の泊まり場・双六小屋では髭の小屋主・小池義清さんがやさしい笑顔で迎えてくれました。
「この人が今日、登ってきた道を殆ど独力で切り開いたのか…」と驚きました。
夕飯のおかずは、小池さんが双六谷で釣った「イワナの天ぷら」でした。食堂には燻製もたくさん吊るしてありました。



翌日、西鎌尾根を槍に向かう途中で雨が激しくなり、そのあと涸沢で台風の直撃を受けた山行でした。

61年夏、弟と前述(野口五郎岳の項)の大滝への縦走中に通過。

 双六池

63年8月には、一週間前にも♀ペンと登った薬師岳から雲ノ平を経て双六へ。
Y高校山岳部合宿でしたが、ここで雨になり双六池畔のテントで一日沈澱。退屈まぎれに小さな握り飯を寿司に見立てて、「次はイカ」「俺はマグロ」と冗談を言っていると、隣の別パーティのテントで聞き耳を立てる奴がいて、「先輩、隣の高校生が寿司食ってますよ」「馬鹿言え。山の中で魚が食えるか」…こちらは図に乗って「おい、ドライアイスが溶けるぞ」などと、しばらく面白く遊びました。

65年7月、同じ高校の夏合宿。燕~槍~笠ヶ岳の予定でしたが、初っ端から雨。大糸線が不通になって明科から臨時バスで中房温泉に入り、燕で丸二日沈澱。
槍の幕営地を出て双六を通過したのは、大阪を出て6日目の正午でした。いい天気なので双六泊りのを伸ばして、この日は鏡平泊りにしました。
鏡平が秘境と言われていた頃で、降り口には木の枝に缶詰の空き缶が一つ、目印にしてありました。
ここからの下りの凄いこと。踏み跡というより、ガレ場に雨が溝をつけたような道でした。
いったん平坦地に出て、笹原を漕ぐように登ると小さな池が散らばる鏡平でした。
勿論まだ小屋はなく、前年のものらしいテント跡の溝からはコバイケイソウが伸びていました。どうもこの夏は、われわれが一番乗りの様子です。

 テントを張る変愚院

目の前に槍から穂高に続く岩稜が一列に並んで出迎えてくれました。
枯れ木を集めて盛大な焚火をして、大声で歌い楽しい夜を過ごしました。
しかし、翌日歩きだして5分ほどで道が不明瞭になり、必死に赤テープを探して藪を漕いで3時間半、腰を降ろす場所もなくノンストップで蒲田川出合に下りつきました。
後から気付いたが冬道でした。北アルプスで藪漕ぎしたのは、後にも先にもこのとき限りです。

69年、会の夏合宿。新穂高から大ノマ乗越を経て双六池泊り。池の周辺にクロユリの大群落があったのが印象的でした。

80年夏。職場の同僚たちと槍ヶ岳へ。このとき小学校6年生の息子も一緒でした。
新穂高温泉からすっかり良くなった道を鏡平経由で双六へ、小雨模様で傘をさして小屋へ入りました。
翌日、心配していた空は晴れ上がり、息子と二人で小屋の前から美しいご来光を見ました。

 樅沢岳にて

この日は槍に登った後、槍平まで下りました。
息子は槍の穂先へ何の苦労もなくするすると登り、行列で登っていた周囲の大人たちから賞賛されて、親父は鼻高々でした。

六の山

2008-07-18 09:47:30 | 四方山話
六甲山(最高峰・931,3m)>
1958年、芦屋からロックガーデンをへて東六甲縦走をしたのが始めで、岩登りに、沢歩きに、ボッカにと春夏秋冬、毎週のようにせっせと通い詰めました。

仁川の岩場で。確保する変愚院

結婚後も、しばらくは勤め先が大阪西淀川区、新居が池田と地の利もあって、格好のホームグラウンドでした。
親父が亡くなって池田から大東市に帰り、更に大和郡山に転居して、次第に足が遠のきましたが、私たちにとっては「育ての山」と言える大切な山です。

数々の思い出の中で、二人に共通するものに「ボッカ訓練」があります。
所属していた社会人山岳会でリーダーになった変愚院が体力作りのために「ルール作り」をしました。
それは「六甲縦走を3回に分けて実施する。そのうち2回以上参加しないものは夏・冬の合宿に参加できない」というものでした。
ある年の1回目は塩屋から鉢伏山~菊水山~鍋蓋山まで。2回目は摩耶周辺。3回目は東六甲縦走を実施しています。
上の区間を男子は最低30㎏、女子は20㎏の荷を背負い、それ以外の区間は普通の日帰り装備でのアプローチと下山です。
砂袋がまだしも背中に優しいのですが、家から集合場所までがたいへんです。
そこで東六甲の場合ですと、宝塚に集合して塩尾寺の上で大キスリングに石を詰めます。
重量をごまかさないように会の装備の「竿秤」で計量しましたが、殆どの人が基準より多く担ぐのが普通でした。うんうん言って最高峰も近い水無山まで運び上げ、石を放り出します。お陰で塩尾寺付近は手頃な石を捜すのが難しくなり、水無山には立派なケルンができあがりました。

 水無山

昼食後、最高峰から芦屋に下り、帰りに梅田の阪神デパート屋上で生ビールを飲むのが楽しみでした。しかし代償は背中の両側に石でこすられた赤い傷。風呂に入ると沁みて情けなかったです。

 西山谷

もう一つ、この会では秋の合宿後や春の新人歓迎に六甲で「集中登山」を行いました。
ある年の場合は次の通りです。
A.塩屋~高取山~菊水山~摩耶→  B.西山谷~天狗橋→
C.大月谷~凌雲台→    D.住吉谷~黒岩谷→  E.船坂谷~川上滝→
F.苦楽園~ゴロゴロ岳→  G.ロックガーデン~一軒茶屋→
鳥居茶屋に14時に集合、各パーティのリーダーからコースごとの報告があり、
全員で東六甲を縦走して宝塚へ。
このときは13㎞ある最高峰~宝塚を2時間ほどで下山したので、全山縦走となるAコースの弟らは、しきりにぼやいていたのを思い出します。

ついでですがペンギンたちが始めて出会ったのも、集中登山の時でした。


夏、子供たちと…


冬の六甲で。

息子はこの頃からの阪神ファン。今は孫たちも「六甲颪」を歌っています。

五の山(続き)

2008-07-17 16:54:59 | 四方山話
五台山と五大山
JACの「中央分水嶺踏査」のうち、丹波の二区間を個人(ペンギン夫婦)で踏査しました。
ただし、登山道が整備されていて藪漕ぎなどのあまりないコースです。
2004年6月5日には丹波の山に詳しいYさん、Sさんはじめ低山徘徊派のメンバー
4人が同行してくれました。。

登山口から鴨内峠を経て1時間ほどで五台山頂です。


見晴らしのよい小広場で、「ふるさと兵庫50山」の大きな山名板とその前に文殊菩薩石像と654.6mの二等三角点がありました。
雲一つない真っ青な空の下に素晴らしい眺めが開けました。


南にこれから辿る鷹取山、愛宕山、五大山、更に黒井城址のある城山へと続く稜線。その上に三尾山、黒頭峰、白髪岳、虚空蔵山、妙見山など。

西に千ヶ峰、段ヶ峰、三国岳、氷ノ山、粟鹿山。
北から東にかけては三岳山、大江山塊、弥仙山、青葉山、由良ヶ岳…。
大気が澄んでいて、丹波、播州の山はいうに及ばず、但馬、丹後の山まで申し分のない大展望でした。

五台山から鷹取山(566.4m)、美和峠、愛宕山と縦走して五大山が近づくと、ヒカゲツツジが多くなり、花期には見事な眺めになると聞きました。


五大山は標高569.2m、点名「白毫寺」の三等三角点がありますが、標石はかなり古いもので50㎝近くも地面から飛び出ています。

後はなだらかなアップダウンで三日月山を越えて由良坂の峠に下り、最後に少しだけ藪漕ぎもして、この日の踏査を終わりました。

五の山

2008-07-16 09:57:34 | 四方山話
五竜岳(2814m)
白馬岳から南へ続く後立山連峰のほぼ中央に位置する山。
山名については、戦国大名・武田家の家紋「武田菱」に似た岩があるからと言われています。
他にも「後立山」をゴリュウヤマと呼んでその主峰とする説、「五菱(ごりょう)」の充て字で「菱」は断崖(割菱)を意味しているとする説もあります。

1961年4月初旬、勤め先の高校山岳部の春合宿と称し、先輩顧問の先生がリーダー、私がサブリーダーで、これから3年生になる生徒4名(私の9歳違いの弟を含む)と遠見尾根から登りました。
今では絶対に親も学校も許さない行動でしょうが、当時、大阪の高校山岳部はこれだけの実力を持っていたのです。


無人の遠見小屋で一泊。苦しい登りで翌日、二階まで雪に埋もれた五竜小屋に到着。小屋の中はツェルトを張るまでもなく暖かでした。

三日目。強風とガスをついて頂上アタック。
幸い途中で風は止んで、締まった雪を踏みしめて無事、山頂に立ちました。
時々、ガスを突き破るように鹿島槍が頭を出していました。
帰りは二つのザイルパーティに分かれて、殆どコンティニアスで下降。
下り気味の難場のトラバースが終わってほっとした途端、足もとのベルグラ(岩の上に張った薄氷)が靴の形のまま剥がれて、あっという間にスリップしてしまいました。
幸い反射的にピッケルを雪に打ち込むのと、安全な場所にいた I が確保してくれたのがほぼ同時で、全くショックもなくうつむけに停止しました。
滑落はほんの数メートル、時間にして数秒だったと思います。しかし、輪にしたザイルを手から離すとゆっくりと蛇のように伸びていったことや、その間にフラッシュバックのように様々なシーンが頭に浮かんだことが、今でも不思議です。
身体が停止したあとも、しばらくは膝がガクガク震えて立ち上げれませんでした。
他の二人がまだ難場の途中でしたから、もう一人引っ張り込んだら恐らく全員を巻き添えにしていたでしょう。 
思い出してもゾッとする命拾いの一幕でした。


3年後の夏、転勤した高校でやはり山岳部の顧問として夏合宿で通りました。
この夏も暑く、天狗池の幕営地を出た後は不帰キレット、唐松岳と水がなく
昼食のパンは喉を通りません。五竜小屋の近くにテントを張りましたが、
水は小屋の自動販売機で買わなければなりませんでした。

野口五郎岳(2924m)
あの新御三家の歌手の名前はこの山からつけられたもので、歌手の名前が山の名前になったのではありません。
野口は大町市の村落の名前、五郎は岩がごろごろしている場所「ゴーロ」から
来ています。
五竜でのスリップから3か月半、夏休みに高校3年生の弟と4泊で烏帽子~槍~大滝の縦走をしました。
大きなザックを背に、日本三大登りのブナ立尾根を烏帽子小屋へ登りました。


翌日朝、縦走路を飛ばして朝8時半に通過しました。ガスの中で何も見えませんでした。