ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(42) 金勝アルプス

2014-01-22 13:51:55 | 私の関西百山

金勝アルプス <近江盆地>

琵琶湖南部の大津市、草津市、栗東市にまたがる金勝アルプスは、標高600mに満たない低山の連なりながら、荒々しい花崗岩の巨石が山肌に露出するアルプスの名に恥じない風貌である。山中には磨崖仏や寺院跡が多く、古くはこの地に仏教文化が栄えたことを伝えている。一帯を金勝山ともいい、東北方に位置する阿星山、東方に位置する飯道山とともに金粛菩薩(こんしょうぼさつ=東大寺開山の良弁)の霊地とされている。竜王山には良弁が創建したと伝えられる金勝寺がある。

1981年9月、初めて千日町ハイキング同好会で竜王山に登った。この時も一緒だった息子が20歳になった1988年10月には彼の運転で行き、落ヶ滝から鶏冠山を経て竜王山へ縦走している。その後も数度登っているが、最近では2012年10月に猪花さん、丸屋夫妻とこの二山を登った。

上桐生キャンプ場の駐車場から数分、北谷林道を右に折れる。自然林の山道をいくと新しい林道を渡って落ヶ滝に着く。

息子と来たときは支尾根の踏み跡を探しながら鶏冠山へ直登したが、今は沢筋にはっきりした道が続いている。

大石にペンキ印があったり、ロープの下がっている大きなスラブ状の岩を登ったり変化に富んだ道である。沢を詰めて短い林の中の急登で北峰縦走路に出た。北の鶏冠山への道は、木の間から三上山、竜王トレーニングセンターなどを見下し、かなり急傾斜な悪場も交えながらピークを二つ越える。

最後に短い急登で鶏冠山(490.9m頂上に立つ。林に囲まれ無展望である。

 (Mar.2004)

分岐に帰り尾根道を南へ行く。風化した花崗岩の白砂、緑の松、そこここに大きな岩を配置されてまるで箱庭のようだ。

 (May.1995)

天狗岩に登ると、琵琶湖を中心にして湖北、湖東の山々を一望にする胸のすく展望が広がった。

 耳岩から天狗岩、鶏冠山

昼食を終えて縦走を続ける。耳岩を過ぎ、何度か階段を登ってベンチのある白石峰にくる。

 白石峰から竜王山

ここから竜王山へピストンする。平坦な尾根道を行くと間もなく座高50センチほどの石龕仏・茶沸観音がある。

林の中を下り、登り返して八大竜王を祀る祠の前に出る。

  (Oct.2012)

右に少し登ったピークが四等三角点の埋まる竜王山(604.7m山頂である。窓のように開いた木の間から三上山が小さく見えた。

白石峰に帰り、狛坂寺址へ下る道に入る。急坂だが歩きやすく整備されている。

 重ね岩

薄い浮彫の仏像が残る「重ね岩」を過ぎて、最後の展望所「国見岩」で天狗岩と別れを惜しむ。林の中の急な下り道は、前に来た時に比べると荒れている感じで狛坂寺址に降り立つ。

 狛坂磨崖仏(Oct.2012)

今は磨崖仏と平地を挟んで小さな石仏が数対並ぶだけだが、9世紀初めに金勝寺の別院として創建された大寺であったという。奈良時代に彫られた磨崖仏は、高さ6.3m幅4.5mの巨岩に、中央に大きな如来坐像、両側に脇侍の菩薩立像を浮き彫りにしている(上部の化仏が鎌倉時代の補作)。最初(1987年)に見たときは、あまりにも鮮やかに線刻が残っているので驚いたものだ。

 (May.1995)

1995年撮影の写真と比べても、現在はかなり摩耗しているのが分かる。

林道茶沸線までの沢沿いの道もかなり荒れていた。つい先月の大雨の影響かも知れない。林道が新名神道の下を潜ると「逆さ観音」がある。

鎌倉時代の三尊像を彫った大岩が逆さにずり落ちたものである。

やがてオランダ堰堤に出る。草津川の砂防ダムの一つだが、1872年に技師・田辺儀三郎がオランダ人ヨハネス・デ・レーケ指導で設計したもので、川畔にレーケの銅像が立っている。石の堤の上を対岸に渡るとキャンプ場の一角で、間もなく朝の駐車場に帰った。【コースタイム】上桐生青年の森キャンプ場 08:45…落ヶ滝 09:20…北峰縦走路10:05…鶏冠山 10:45~52…天狗岩 12:15~12:55…耳岩 13:07~13:17…白石峰 13:27…竜王山 13:47~14:00…白石峰 14:17…狛坂寺址 14:40~14:50…林道出合 15:08…キャンプ場16:20 (2012.10.09)


私の関西百山(41) 湖南アルプス

2014-01-19 09:44:12 | 私の関西百山

41 湖南アルプス    

大津市の東南端から甲賀市(旧信楽町)に続く山域には500m級の山々が散在し、その花崗岩を露出した山容から湖南アルプスと呼ばれている。私たちの好きな山域の一つなので、あえて一纏めにしてリストアップする。

 

太神山(600m)
【たなかみやま】奈良時代から平安時代にかけては、都に邸や寺院の建築用材を切り出す大切な杣山であった。また田上の名の通り、農耕の水源の山として崇敬されてきた。

1970年代には枝のバス停から歩いたが、今はアルプス登山口までバスが通じている。ここからは天神川沿いに東海自然歩道を30分ほど歩くと迎不動がある。車ならここの駐車場まで入れるようになった。不動橋から山道らしくなり、七曲りの急坂を登る。道の両側に奇岩の連続する変化の多い地形となり泣不動に着く。稜線に出て矢筈ヶ岳への道を分けると、間もなく不動寺二尊門である。

「右しがらき道」(現在は廃道)という古い石の道標と木の門があり、その奥の対になった石の童子が微笑ましい。門をくぐると四十四丁の町石があり、ここから広い参詣道を登る。四十八丁でもう一つの山門をくぐり、折れ曲がった長い石段を登ると不動寺で、岩にのしかかるように作られた舞台作りの本堂が建っている。二等三角点の埋まる頂上はさらに石段を登った奥ノ院手前にある。下山は稜線に帰り北に向かう。林の中の八丁坂を下ると砂岩帯となり少し登ると天狗岩がある。

木曾駒のものよりずっと小型だが、鼻の形が高いだけこちらの方が天狗らしい。ここからの下りは、かってはブッシュの中だったが、今は全コースが東海自然歩道になっている。道は西に曲がり吉祥寺川の流れを何度か渡り返して、新免古墳群や磨崖仏をみて新免バス停に出る。(全行程約11km)


矢筈ヶ岳(562m)
【やはずがたけ】尖った双耳峰を矢筈(弓の弦をつがえる矢の尾部のくぼみ)に見たてた山名である。

上述の田上山の迎不動から富川道に入る。両岸には黒い岩がそそり立ち、清らかな流れに沿う気持ちのよい道を登ると御仏河原にでる。右をとると笹間ヶ岳への道である。左手の雑木林を登り稜線に出ると、やがて出合峠に着く。右に折れ急登10分ほどで失筈ヶ岳の頂上に立つが、狭い頂上は樹木に囲まれ、わずかに南西方が望めるだけである。太神山へは出合峠に戻り北へ向かう。ここからはかなり複雑な地形で、ルートファイティングに苦労した。最後に谷の源流のようなところを渡ると、間もなく二尊門に出た。


 

笹間ヶ岳 (433m)
【ささまがたけ】地元では権現山と呼ばれている。

登山口の上関近くにある新茂知神社に参拝して林道を進む。やがて深い翠緑を湛えた美しい池・図越池の横を通る。雑木林の中の緩い登りから、深く決られた溝状の登りを過ぎて尾根に出る。

1978年11月に子供たちも一緒に登った時は『尾根筋へ出て大きな岩のある展望の良いところで一服した。正面に立木観音の屋根が小さく望まれる。

ここから痩せ尾根を登り、最後は樹林帯の中、えぐられた道の急登となる。』と山日記に記している。
 1993年に来た時は林道や河川砂防工事中で各所に青いビニールシートが敷かれ、登山道も味気ない風景の中だった(この辺りの登山路の状況は現在かなり変化しているようだ)。笹原へ出てしばらくで笹間ヶ岳頂上である。



八幡岩という巨岩があり、登ると上は思ったより広く、反対側は20mはあろうかと思われる絶壁になっていて、眺望はすばらしい。琵琶湖大橋が遠く光り、宇治川の流れが帯のようだ。醍醐山、瀬田川、琵琶湖、遠く比叡、三上山、近くに堂山から太神山への稜線と期待通りの展望が楽しめた。稜線上の小さいピークをいくつも上下して、尾根から離れて沢筋を大谷河原に下る。ほぼ池塘が点在するほぼ平坦な湿地帯を行くと、御仏河原に出る。ここから出合峠までも尾根や谷の入り混じった分かり難い道だった。93年には御仏河原から天神川へ下り、堂山へ向かっている。

 笹間ヶ岳より

堂 山(384m)
迎不動から天神河原の流れを飛び石伝いに渡る。若女谷左岸の道をしばらく行くと鎧ダムの堰堤がある。その先で河原の奥まった処を左手の松林の中に入る。高原状の湿地帯を20分ほど行き、少し登ると見通しの良い尾根に出た。小さなピークがいくつも連続する露岩の多い尾根道を歩く。頂上直下のコルからいったん大きく下り、岩場を登ると頂上に着いた。大きな岩があり360度の展望である。下りは天神川ダムに向かって下る。露岩と低い松の尾根道で、やがて谷に向かって急降下するが、所々、道が不明瞭な所がある。沢に降りると何度か流れを渡り返し、時には徒渉を強いられたり、沢沿いの道を探したりしながらどんどん下って天神川ダムにでた。アルプス登山口までは数分の距離だった。この翌年には逆コースを歩いた
。 

 


私の登った「午」の山(6)

2014-01-19 08:53:34 | 山日記

馬ノ鞍峰(1,1781m)
(うまのくらみね)台高山脈主稜のうち、北半分の高見山から池小屋山までは良く歩かれているが、池小屋山から大台ケ原山への南半分は原生林と密生した笹薮が続き、道は踏み跡程度しかなく山小屋や避難小屋もないので、縦走する人は少ない。入山の困難な山が多い中で私たちにも取り付きやすい山が馬ノ鞍山である。

2007年5月、この山域をよく知るハチキンさんから誘ってもらい登った。入之波温泉を過ぎて三之公林道終点まで車で入る。

右に明神谷を見下ろしながらの緩い登りは小さな沢を渡ったり、ザレ場を越したりするが、桟道や丸木橋などでよく整備されている。明神滝への分岐を見送り、登山口から1時間ほどでカクシ平の三之公行宮跡に着いた。

三之公とは、北朝に神器を譲った後亀山天皇の曾孫にあたる尊義王、その子の尊秀王と忠義王の三人のことをいう。今でも不便なこの山奥でご不自由な生活を過ごされたと思うと、お気の毒でならない。小さな谷を何度か渡り、林の中の急斜面を登って馬ノ鞍峰から西に延びる尾根の上にでた。

木の間から白髭岳、弥次平峰を眺める。勾配が緩んで雑木林の中を行くと次第に痩せ尾根になった。見事なシャクナゲ林に入るが、まだツボミが固く残念だった。

その代わりにアケボノツツジの花が艶やかな彩りを見せてくれた。最後の急坂を登って二等三角点の埋まる山頂に立つ。

林に囲まれて展望はないが、長い間の念願だった山頂だけに満足感に浸った。少し下ったところで昼食を済ませて元の道を下る。

帰りはカクシ平で尊義親王のお墓にお詣りし、明神滝へ寄った。

滝は40mといわれる高さから一直線に落下している。これだけの高さを、岩壁に触れずに飛び出すように落ちる滝は、関西では珍しいのではないだろうか。

【参考コースタイム】林道終点09:15…明神滝分岐09:48…カクシ平1キロ道標10:03~10:13…カクシ平10:48…尾根に出る11:40~11:50…馬ノ鞍峰12:20~12:55…尾根下降点13:35…尊義親王墓所14:00…カクシ平1キロ道標(コーヒータイム)14:30~14:47…明神滝15:10~15:20…林道終点15:40

*「私の登った午の山」はこれで終わり、「私の関西百山」を再開します*


私の登った「午」の山(5)

2014-01-18 21:18:25 | 山日記

生駒山(642m)
大阪平野と奈良盆地を区切って南北に走る生駒金剛山地の北半、生駒山地の主峰であり、古くから河内・大和の人々に朝夕、親しまれてきた。戦中の小学5年生の時から70年代初めまでこの山系の中腹に住んでいた私にとっては、実に思い出深い山である。子供の頃から何度となく登ったが、大阪側からは近鉄枚岡駅より神津嶽、暗峠コース、石切駅から辻子谷コース、額田駅から枚岡公園を経て登るコースなど。奈良側では、近鉄南生駒駅より車道を暗峠へ登り、スカイライン沿いに北へ山頂を目指す道。 元山上駅から千光寺、鳴川峠、暗峠経由のコース。生駒駅からは宝山寺への参道を行き、寺からケーブル横の急坂を登るなどいろんな登山道を歩いた。ドライブウェイに駐車して幼かった孫と登ったこともある。

三角点は遊園地のSL軌道内にあるが、登山者は断って無料で入場できる。

以下は2008年3月、何十年振りかで歩いた生駒越えの想い出である。

元山上駅から住宅街を抜けて延喜式の古社・生駒山口神社に参拝、鳥居の前の橋を渡ると次第に山道になる。鳴川の集落に入り清滝から「ゆるぎ地蔵」の前に出る。

高さ約2mの石仏は弘安四年の銘がある鎌倉期の秀作である。不動滝で行場道に入る。沢沿いにしばらく登り、竹林の中を千光寺へ向う。千光寺を元山上というのは、役行者が大峯山を開く前にここで修業したからだという。

行者の石像がずらりと並ぶ長い石段を登ってお参りする。沢沿いの道と合流して水源地を過ぎ石仏の立つT字路にでる。信貴生駒スカイラインの下を潜ると鳴川峠に着く。縦走路を北に20分ほど歩くと大原山で東屋とベンチがいくつかある。新しい三角点はドライブウェイ駐車場の方へ少し下った広場にある。縦走路に引き返し暗峠に寄り道する。

生駒山地を越えて河内と大和を結ぶ道は、北から中垣内越(古堤街道)、暗越(奈良街道)、十三峠越(十三街道)、亀ノ瀬越(北八尾街道)などがあり、さらに何本もの枝道があった。中でも暗峠<くらがりとうげ>(標高455m)を越える八里八町の奈良街道は、奈良時代以前から利用されてきた古道の一つで、江戸時代には重要な通商交通路となった。暗峠には20軒近くの茶店や旅籠があり、伊勢参りの人々で賑わったことが「河内名所図会」などに記されている。「なるかわ園地」に戻り、急坂を下って「神津嶽」入口にでて階段を上る。

ここは神武天皇が東征の時に、アメノコヤネノミコトと姫神を祀った「枚岡神社創祀の地」とされている。反対側に下るとコンクリートの覆屋のついた展望台があり、東大阪から大阪に続く市街地が見晴らせた。

ここから広い道を枚岡梅林に下った。

枚岡神社前の手水鉢の水は鹿が咥えた巻物から落ちていたし、狛犬ならぬ狛シカがうずくまっていた。神社の紋は下がり藤。ここは「元春日社」といわれ、春日大社より古い社という。元山上に元春日。こんなことからも、大阪と奈良は古代から縁が深かったことが知られる。約10キロ、楽しいハイキングだった。


私の登った「午」の山(4)

2014-01-17 13:52:39 | 山日記

鞍馬山(629m)
古くから山岳宗教の霊山として知られ、源義経が牛若丸の幼年時代にこの山に棲む天狗から剣を教わった伝説で名高い。南側中腹にある鞍馬寺へは何度か参詣しているがケーブルで行くことが多い。

1986年9月、町内のハイキング同好会例会で初めて貴船口から歩いた。たまたま100回目の例会で、参加者10名、10時10分のスタートだった。山門をくぐってケーブルを待つ長い行列を横目に、九十九折れの参道を登る。坂道と石段のジグザグを快調に登って、清少納言の言う程「近くて遠い」とも思わぬ内に本堂に着く。休憩の間に納経を済ませ霊宝館を見学。奥の院への木の根道となるが、わずかの登りで「背くらべ石」にでて右の尾根へ登る。こ暗い木立ちの中の道をしばらく行くと、始めてのピークがあり、小汚い池と祠がある。倒木を越えたりしながら更に登り、次の経塚のあるピークで三角点を捜すが見当たらない。この先はブッシュ混じりの下りとなるので一応、ここをピークとした。
   不動堂、義経堂と下り、奥の院からはどんどんジグザグ道を下って、あっと言う間に貴船神社に着いた。

有馬富士(374m)
兵庫県三田市。別称・角山。低山ながら美しい円錐形の山容なのでこの名がある。
 すぐ側まで住宅地が迫り、登山道も整備されている。昨(平成13年)開園した「有馬富士公園」から福島大池を経て登る。始めは歩きやすい道だが、頂上近くは一部、岩梯子状の登りとなる。
 1990年に登った時は樹木に遮られて眺望は今一つだったが、現在は切り開かれて良くなったようだ。公園入口から約45分。

写真は帰りに立ち寄った東光寺花山院からの有馬富士。花山院は西国三十三観音霊場の巡礼を終えた花山法皇の隠棲の地で「有馬富士ふもとの霧は海に似て波かときけば小野の松風」の歌で知られる。標高418mの阿弥陀峰山頂にある。


私の登った「午」の山(3)

2014-01-16 11:37:09 | 山日記

木曽駒ヶ岳(2,956m)
西の木曽谷と東の伊那谷に挟まれて南北に連なる中央アルプス(木曽山脈)の最高峰である。1961年9月の連休、職場の先輩3人と木曽側の木曽福島コース・駒の湯から初めてこの山に登る。雨の中、倒木が多い急坂の道を九合目玉の窪小屋へ。足の踏み場もないくらいの、すごい混雑だった。翌朝、サブザックで頂上へ。ガスと小雨で何も見えない。宝剣に向かったが、雨がひどくなり、あきらめて引き返して上松道を下山した。

74年7月転勤した別の職場の同僚らと伊那側からロープウェイで千畳敷へ登る(伊那側のしらび平からロープウェイが開通したのは67年)。「900Mの高度差を一気に引っ張り上げて貰って、着いた駅の同じ屋根の下が山荘だから、山行という感じがしない。」などと生意気なことを山日記に書いている。カールのお花畑を散歩して千畳敷山荘泊。

翌日、強風の乗越浄土まで登ったが、メンバーの一人が急病になり下山した。78年7月、この職場の山の会11名のリーダーで、やはり千畳敷山荘泊。


翌朝、極楽平に登り、宝剣岳を越えて乗越浄土から木曽駒へ。下山は61年に登った道を駒の湯へ降りたが、やはり倒木を切り開いたような箇所が多かった。

82年夏、家族4人に義父母、義弟の7人、車二台で出発。ロープで千畳敷に着き、明日の天気が心配で先に極楽平から宝剣へ登る。鎖場で、多少時間がかかったが無事、頂上に立ち、乗越浄土を経て山荘に帰る。

翌日、乗越浄土から中岳を経て駒ヶ岳へ。

思いがけず大展望に恵まれた。少憩後、気持ちのいい庭園のような道を馬の背へ。濃ヶ池へ下る頃より雨。大きな残雪を横切ったり、オコジョに会ったりしながら駒飼池へ。一登りで乗越浄土へ帰り着く。下山して蓼科温泉で泊まった。

94年8月初旬は千日町ハイキング同好会9人で5度目の木曽駒へ。
乗越浄土の天狗荘に荷を預けて、サブで宝剣に遊びに行く。夕食にはまだまだ時間があるので、木曽駒にも登っておく。翌朝は小屋の前でご来光を見て、中岳の頂上を捲いて岩場の道を行く。快晴の頂上でゆっくりと景色を楽しみ、馬の背から濃ヶ池に下る。駒飼ノ池はすっかり干上がっていた。昼前に菅ノ台でバスを降りると、暑さで頭がクラクラした。

昨2013年9月末、丸さん夫妻と20年ぶりに木曽駒へ。13時半に宝剣山荘へ着き、荷を置いて山頂を往復した。

ガスで無展望だったが、夜は満点の星空を小屋の窓から眺めた。

翌朝は小屋の前でご来光を見て、富士を見ながら伊那前岳へピストンした。快晴で素晴らしい展望の稜線歩きだった。丸さんには長時間運転でお世話になったが、その日のうちに帰宅できた。


伊勢神宮参拝(2014.01.14)

2014-01-15 13:38:39 | 旅日記



今年は少し遅めの「お伊勢参り」でした。大きな燈籠が出迎える外宮の入り口から


表参道火除橋を渡り、大鳥居を潜ります。


水が撒かれた玉砂利の参道を進むと、神楽殿の前を通り旧社殿の前に来ます。昨年10月、20年ごとの式年遷宮が行われ、神様は新しい社殿に移られましたが古い社殿はまだ残っていました。


衣食住をはじめとする産業の守り神「豊受大神」をお祭りする新しい正殿が左に建てられています。御垣内の中に入り参拝はできますが、内部の撮影はできません。


別宮への入り口にある亀石。近頃なぜか人気のあるパワースポットです。


正殿を背にして亀石の前を進むと、右手に1の土宮があります。もともとはここ山田原の地にあった地主神(土着の鎮守さま)・大土乃御祖神を祀っています。2は元寇のときに神風を吹かせて敵を追い払った風の神様をまつる風宮。ここから坂道を登った小高いところに豊受大神の荒魂を祀る3多賀宮(高宮)があります。4は参拝を終えて帰る途中で大杉と太さを競う♀ペン。


バスで内宮へ行き、宇治橋を渡ります。外宮でもそうでしたが、もう1月半ばなのに絶え間なく参拝者が行きかっています。


御手洗(みたらい)所で五十鈴川の清流で身も心も清らかにして…




五重!の垣根に囲まれた正殿におわします天照大神に参拝します。


奥にある旧殿地をぐるりと回りました。これは初めての経験です。


御厩(うまや)横から参集殿にでて陶器の縁起物を授かり、参集殿でしばらく休んで子安神社にも参拝して境内をでました。


そのあと御祓い横丁を散策。ここもすごい人です。ようやく少し疎らになった処で…




赤福本店前はいつもの行列で店の人が「最後尾」の札を掲げていました。

 

お蔭横丁ではリニューアルされた「おかげ座」で、古事記や日本書紀に基づく日本神話の映像や、爪や髪の毛まで表現した精密な和紙人形の展示を楽しみました。予報がいい方に外れて、少し気温が低かったものの素晴らしい快晴の一日でした。


マンモスの牙から城下町の成立まで

2014-01-13 11:07:36 | Weblog



昨12日、橿原考古学研究所付属博物館へ行きました。畝傍山を降りて「イトクの森古墳」の前の県道を渡って少し歩くと博物館です。


最初に特別陳列の「十二支の考古学・午」を見ました。上のパンフ中央に見える「獣頭人身」の十二支「午」像の拓本をはじめ、藤ノ木古墳から発掘された鞍の金具、祭祀用の「土馬」など、珍しい資料が展示されていました。パンフレットの表紙にもなっている絵馬にも多くの種類があり、中には円の面積を求める「算額」もあって、様々な願いが込められていることを改めて感じました。


 

常設の第一展示室に入ると、まずマンモスの大きな牙が目を引きます。「シガゾウ」と説明があるので「日本にもゾウがいたんやなあ」と話していると、女性の学芸員さんが「ここは初めていらっしゃいましたか?」と話しかけてこられました。「何度かちかくを車で通っているのですが…」と答えると、「何10万年も前の氷河時代には大陸と地続きで、オホーツクなどの北からも動物が渡来できたのですよ」と話されました。そしてさりげなく、
次の「ナイフ型石器文明」の説明に移られました。二上山の「サヌカイト」の名前は知っていましたが、「讃岐で最初に発見された石器なので」この名があることは初めて教わりました。先ほどのシガゾウは滋賀県ではじめて発掘されたので付いた名で「なんでも早い者勝ちですね…」と笑いを誘われます。同じナイフ石器の原料で産地が信州・和田峠と分かるものがあり、当時から長距離の人的交流があったことや、1万2000年前の縄文土器のデザインの付け方も説明していただきました。他にも九州から始まった稲作が近畿に来るまで100年かかったこと、さらに100年後に秋田地方に伝わったことも地図で教わりました。


 銅鐸の展示(右端三つ以外は模造)

 紐に付いた鹿の角で銅鐸を鳴らす

他にも屈葬された人骨、いったん埋葬されて大きな土壺に入れられた頭蓋骨など興味深いものがありました。食糧にしていたはずの犬が壺に入れられて埋葬されているのもありました。学芸員さんが「よほど狩りなどで働いた犬なんでしょう」と言って「想像するのは自由で楽しいですよ」と言われたのが心に残りました。

第一展示室を観終わる頃に正午のチャイムが鳴り、「この調子で説明していくと3時間はかかるのでかえって迷惑でしょう。私はこれで…」「また来てください」と仰ってくださいました。館内の写真も撮影禁止のマークのあるもの以外は許可されること、第二、第三の展示室で特に重要な観るべきものを教えて頂いてお別れしました。私たち二人のためには勿体ないような懇切丁寧なお話に深く感謝します。



第二展示場の埴輪の馬。左になぜ鹿がいるのか…とバカなことを考えてしまいます。




第二展示室ではヤマト王朝が成立して古墳時代となり、飛鳥時代へと移る時代の展示。第三展示場では鎌倉時代に寺内町や城下町ができるまでの文物が展示されています。




特に藤ノ木古墳の出土品や太安磨呂墓からの出土品が必見です。


中庭で埴輪のウマさんと記念写真を撮りました。
普段よりも長い時間をかけて見学したので少々気疲れしましたが、本当に意義深い半日でした。