ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(81)~(83)

2015-09-25 16:41:32 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
81)日出ヶ岳(ひでがたけ) 別称 秀ヶ岳 「日の出を見るのにふさわしい山」



大台ケ原周辺は年間雨量500ミリを超える日本有数の豪雨地帯で、そのためトウヒ、ブナなどの鬱蒼とした原生林に緑のササやコケが生育して、美しい自然風景を醸し出しています。春のシャクナゲ、秋の紅葉、黄葉の素晴らしさでもよく知られています。「世界の名山・大臺ヶ原山」(大正12年大台教会発行)によると、山上に広大は高原をもつことから、昔は大平原(おおたいらはら)と呼ばれていたのが、いつしか大台と書かれるようになったようです。また大和、伊勢、紀伊の三国に跨ることから三国山と、また眺望の素晴らしいことから国見山とも呼ばれていました。



台ヶ原山は巴岳や三津河落山など周辺の山々の総称ですが、その最高点が日出ヶ岳(1695m)です。熊野灘に臨み、日の出を見るのに相応しい山としての名を持ち、山頂からは大峰山脈の主要な山々を一望、冬季の晴れた日には富士山や御岳も見ることができます。

っては筏場道、尾鷲道(現在は廃道に近い)が大台ケ原への登路でしたが、今はドライブウェイ終点の山上駐車場からスタートするのが普通になっています。上北山村物産販売所とビジターセンターの間の道を入ると心・湯治館(宿泊施設元大台荘)を過ぎて、すぐ右に尾鷲の辻に通じる中道、その先で苔鑑賞路が別れます。しばらく林の中の平坦な道を行き、いくつか流れを渡ると整備された登り道になって稜線の鞍部、熊野灘の見える展望三叉路の展望台に出ます。



右は東大台周回路ですが、左へ急な木の階段を登ると三角点があり、横に休憩所を兼ねたコンクリート製の展望台がある山頂です。





駐車場から40分ほどで、屋上に登れば360度の大展望が待っています。


82)大杉谷
 
「関西の黒部」
  大小の瀑布と深い淵を連ねた9キロにわたる美しい渓谷、冠松次郎が「関西の黒部」と絶賛した大杉谷。本来は三重県側から入山して途中、桃の木山荘で一泊して日出ヶ岳を目指すのが本来のルートでしょうが、ここでは、日出ヶ岳から東に派生する尾根を下った時の様子をご紹介します。

*現在、通行は可能ですが、入山期間が4月24日~1123日(2015)と定められ、台風などの影響で危険な場所もあるので、十分な注意が必要です。また例年、ダム湖の水位によっては連絡船が運行されないなど、交通の便が非常に悪いので、必ず最新の情報をご確認ください。* 



日出ヶ岳山
頂を下るとミネコシという小ピークを越えてシャクナゲ平にでます。ここからシャクナゲ坂の下りは、花の時期には顔が染まるほどの見事さです。堂倉避難小屋を過ぎて、最後は少し石段を下ると大台林道にであいます。



さらに尾根道を下ると大杉谷で最初の、落差20mの堂倉滝に出会います。吊橋を渡り、対岸に見える与八郎滝、姿を見せぬ隠滝を通り、次の吊り橋で光滝の上に出ます。



坂を下って光滝を見て、水際の岩の道をいくと七ツ釜吊橋です。



ここから滝見小屋までの下りは悪場の連続です。



ツ釜滝は「日本の滝百選」に選ばれた、大杉谷で一番の見どころです。名の通り七つの滝がかかっていますが、見えるのはそのうち三つです。しばらく岩壁の道を下ると桃の木山荘が建っています。



翌日は山荘の前にかかる吊り橋を渡り、不動滝のかかる不動谷出合を過ぎて嘉茂助吊橋に来ます。ここから平等クラを仰ぎ、長い平等クラ吊橋を渡ると、



次に出会うのはニコ二コ滝。



その先の猪(しし)ヶ渕では河原に降りて、水面に周囲の岸壁や緑を写す美しい眺めで一休みできます。



さらにアップダウンの連続で、大杉谷最大の135mの落差を持つ千尋滝を仰ぎます。



京良谷出合で再び河原に降りた後は、更にいくつかの吊り橋を渡します。



最後は大日の岸壁をくり抜いた、下を見ると恐ろしいほどの道を通って宮川発電所の立つダム湖登山口、500mほど歩くと乗船場です。ダム湖を船で渡れば30分ほどですが、ある年、船に乗れず、くねくねと湖岸を巡る道を歩いたことがあります。大杉バス停まで2時間近くかかりました。



83)大蛇クラ
「絶壁の上の素晴らしい展望」
 


日出ヶ岳から正木ヶ原、牛石ヶ原、大蛇クラを経てシオカラ谷吊橋から駐車場へ回るコースが「東大台周回路」です。



休憩を含まない所要時間は約3時間半ほど。大蛇クラはその中の名勝の一つですが、日本山岳会編「新日本山岳誌」で大台ケ原山と並んで一項を立てているのに倣いました。 



日出ヶ岳から展望三叉路に下ると、行く手には木の階段道が続いています。



この階段は鹿による食害と登山道保護のために設置されたのですが、最初は人工的な空中回廊の出現に「二度とくるか」と憤りさえ感じました。しかし、年月の経過とともに周りの景観とも少し溶け込んできました。



シロヤシオの花を見ながら階段を登り切ると正木辻で、ここから正木ヶ原にかけては、立ち枯れたトウヒの白骨林が特異な景観を見せています。



明るい笹原の正木ヶ原に下るとシカの遊ぶ姿も見られます。中道と合流するところが尾鷲辻で休憩所があります。



針葉樹の林を過ぎて次に開けたところが牛石ヶ原。金の鳶を乗せた弓を持つ神武天皇像が立ち、道を挟んで牛石があります。



昔、高僧が様々な妖怪を封じ込めたという伝説もありますが、「世界乃名山・大薹ヶ原山」では『伝説して神武天皇御小憩の跡なりと云ふ、巨石あり、形臥牛に似たりこれ地名の出る所似なり』と、

「和州吉野郡群山記」では『…牛の形のごとし、ただ一石至って大なり。色黒し。』と記されていて、どちらにも怪物の話は載せられていません。



石畳の道を行くとシオカラ谷へ下る道を分岐して、直進すると少し下りになり大蛇クラの岩頭に立ちます。大蛇クラの名の由来については「和州吉野郡群山記」に『この処、大蛇を封じ籠めし所と云ふ』とあります。ここからの眺めは素晴らしく、正面には西大台の竜口尾根の起伏の上に大峰山脈、約800m下に東ノ川の流れ、右手には蒸篭クラ、千石クラの大絶壁の奥に西ノ滝、中ノの滝が白布をかけています。




大パノラマに満足して分岐に帰り、シャクナゲ林の急坂を下り終えるとシオカラ谷の清流に出ます。吊橋を渡ると整備された急坂の道を、途中で少し平坦な道を挟んで駐車場へ登り返します。

<付録>大蛇クラの伝説 大台ヶ原山は尾鷲辻の名が残るように、古くから紀州からの海産物などを「熊野物」として大和に運ぶ通商路があるなど、廃道になった今と違って、尾鷲湾周辺の村々と行き来の盛んなところでした。

昔、紀州船津村の猟師、六兵衛は大蛇クラ近くに小屋を作り、網すきに使う「スクリ」の木を集めていました。ある夜、焚火の横でスクリの皮を剥いていると、四十歳くらいの女が立っていて「ご飯をくれ」といいます。お櫃の麦飯を空にした女は次に「酒をくれ」といって、六兵衛の五升樽を飲みだしました。

 そこへ、同年配の女が現れて無言でにらみ合い、先の女に目で合図して表へ消えました。すると天地が揺れ動くようなもの凄い音がして、六兵衛は気を失って倒れてしまいました。
 気が付くと、あとから来た女が白髪白鬚の老人と並んで立ち「われは大台ヶ原の山の神、先の女は大蛇の化身じゃ。お前を助けてやろうと思ったが、化け物の力が強いのでこの人の力を借りて追い払った。」と言って二人の姿が消えました。大台の神に協力した老人は弥山大神だったとういうことです。 

宮廷鵜飼と夕景の嵐山(2015.09.19)

2015-09-21 21:08:22 | 旅日記



シルバーウィークの初日、京都定期観光バスで嵐山へ行きました。



京都駅烏丸口16時10発の舞子号は乗客42人、ネットで予約したあったせいか、幸いにも一番前の席に座れました。
可愛いガイドさんから四季折々の京の話を聞きながら、渡月橋の畔の駐車場へ…

夕暮れの渡月橋を渡って、まず嵐山中腹の虚空蔵法輪寺へ長い石段を登ります。

今昔物語・枕草子・平家物語にも登場する古いお寺で十三詣りでも有名ですが、本堂の前には狛犬ならぬトラさんと向かい側にはウシさんが鎮座しています。頂いた「参詣のしおり」で、本尊・虚空蔵菩薩が「丑寅年生まれの守ご本尊」と知りました。

法輪寺の展望台からは、西山の愛宕山から東山の大文字山、比叡山までの山々や夕陽に照らされた京都の町並みと、素晴らしい展望を楽しみました。



渡月橋畔の渡月亭前で、鵜匠さんから鵜飼の説明を聞きます。



小さいときから大事に育てて、鵜が親と思うほど可愛がっておられる様子が伺われました。



夕食は渡月亭別館で。これまで何度かのマイカーの旅では飲めなかった冷酒とともに、彩りも豊かな美味しいお料理を賞味しました。



とっぷりと日が暮れた18時半、鵜飼見物の乗船場へ。



「宮廷鵜飼」は平安時代の貴族の遊びを再現したもので、私たちの乗る見物船は御簾や吊灯籠、紫と赤の幕で王朝風に装飾され、船頭さんは貴族に仕える「白丁(はくちょう)」の装束です。



鵜飼が始まりました。



篝火に照らされながら鵜たちが見事な漁の技を見せてくれます。



お別れの時が来て、期せずして大きな拍手が起こる中を鵜たちは引き揚げて行きました。


奈良の山あれこれ(76)~(80)

2015-09-10 17:12:01 | 奈良散歩

(76)馬ノ鞍峰 「山岳美と渓谷美を兼ねた山」



台高の主稜上の馬ノ鞍峰は、標高は低いが、登山路の通る谷の斜面には手つかずの原生林が残り、深山幽谷の趣がある』畏友・森沢義信氏の「奈良80山」に、このように紹介されています。2007年、五月晴れの憲法記念日、山友のSさんと三人で、上掲書に『台高山脈の山岳美と渓谷美をともに楽しむことのできる、まれなコース』と記された道を登りました。



明神谷と三之公谷の出合となる林道終点が登山口で、ここから「かくし平」までは散策路があるので、木の杖がたくさん置いてあります。ゆるやかな登りが続く道は、小さな沢を渡ったり、ザレ場を越したりするが、桟道や丸木橋などでよく整備されています。明神滝への分岐を見送り、登山口から1時間ほどでカクシ平の南朝遺跡・三之公行宮跡に着きました。



三之公とは、北朝に神器を譲った後亀山天皇の曾孫にあたる尊義王、その子の尊秀王と忠義王の三人のことをいいます。現在でも交通の不便な、この山奥でのご不自由な生活を思うと、有為変転は世の習いとはいえお気の毒でなりません。
小さな谷を何度か渡り、林の中の急斜面を登って馬ノ鞍峰から西に延びる尾根の上にでると、木の間から白髭岳、弥次平峰が見えました。



尾根に出ると勾配はゆるます。スギ、カシ、ヒノキ、ブナ、ミズナラ、ツガ、モミ、ヒメシャラなどの、奇妙な形の木、共生している木、目を見張る程巨大な木、根が尾根いっぱいに拡がっている木、キノコがたくさん寄生して入る木などを見ながら登うちに、次第に痩せ尾根になります。見事なシャクナゲ林に入るが、まだツボミが固く残念でした。アケボノツツジの花が艶やかな彩りを見せる最後の急坂を登って、1,177m、二等三角点の埋まる山頂に立ちました。林に囲まれて展望はありませんが、長い間の念願だった山頂だけに満足感に浸りました。登山口から約3時間でした。



帰り
はカクシ平で尊義親王のお墓にお詣りし、40mといわれる高さから一直線に落下する明神滝へ寄りました。これだけの高さを、岩壁に触れずに飛び出すように落ちる滝は、関西では珍しいのではないでしょうか。幕末に著わされた「和州吉野郡群山記」にも『三の公の滝、また明神の滝と云ふ。高さ三三尋、腰を打つことなし』と記されています。

77)三津河落 (さんづこおち)「三つの川の分水点」



津河落の名は、紀ノ川(吉野川)、熊野川(北山川)、宮川(大杉谷)の水源として、その分水嶺となっていることからきています。「和州吉野郡群山記」には「三途川落」と表され、『大台一の高山なり』と記されています。分水点の「三津河落」は広大な笹原の中にあり、ピークではありません。「三津河落山」は一般に、如来月から大和岳にかけてのピークの総称とされています。

しかし、古くからそれぞれの峰は別の名前で呼ばれていたようで、「世界の名山・大臺ヶ原山」 (大正十二年・大台教会刊)に次の記述があります。『中の谷川に沿ふて遡れば三津川落に至る、即ち三国三水の分嶺なり、此地隆起の度日出ケ嶽に譲らず、展望の快亦殆んど相亜ぐ、唯さんづのかうちてふ称呼の、さながら、黄泉の境に入るが如き心地するを厭ふべしとするのみ、昔はみつかはおちとこそ云ひけん、知らす何処のえせものぞ誤り初めしにや。…』



る年、日出ヶ岳から稜線を辿りました。巴岳、名古屋岳、如来月とピークを辿り、モミ、トウヒ、ブナ、シャクナゲなどの林を下って、広々としたミヤコザサの原っぱに飛び出すと、三津河落山の石標がありました。



最高点の如来月より少し低い(Ca1630m)のですが、Y字型に尾根の別れる実際の分水点です。



たちはY字の下棒に当たる南から来ましたが、日本鼻、大和岳は左前方(北西)に伸びやかに拡がり、右前方(北東)には緩やかに緑の尾根が下り、その上に一筋の道が大台辻へ続いていました。

78)大和岳  「日本の鼻?」



「和州吉野郡群山記」では「国見が岳」の名で記されていますが、説明は一切ありません。「世界の名山・大臺ヶ原山」では次のように詳しく記されています。

『山戸谿 三津川落を去りて、約半里ばかりの処に、また隆起せる高地あり、山戸岳と云ふ、其南谿より流出る川は即ち山戸川にして、此川に沿へる一帯の谿谷を山戸谿と云ふ、山戸川と中ノ川の間なる山の背を日本鼻と云へど其義詳かならず、或は山戸が鼻にもや、此山わたり地相平達にして能く大臺の称呼に合ふ、随ひて水声緩慢、頗る大陸的趣致ありなど云はることも、偶然にあらず、況んや老樹欝葱として、四面を包み、風光最も閑寂を極むるをや。』



私たちは三津河落から、笹原の中の平坦な道を大和岳へ向かいました。真新しい農林水産省雨量測候局を過ぎると、左手に小さい丘がありました。



上に引用した日本鼻です。「…郡山記」では『日本ケはな<>(これは低き山なり。この山中の水、日本ケ谷へ流るるなり)』と記されていますので、「大和=日本」と転化したのかとも思われます。ここも見晴らしのよい草地で、奥の林との境に古い雨量測候所らしい建物がありました。



笹原を少し下ってオオイタヤメイゲツの林を抜け、ちょっと登り返すと大きな岩のある大和岳です。経ヶ岳に続く稜線の上に大峰山脈がぼんやり浮かんでいました。

79)如来月 「付から月へ?」

 
三津河落より如来月

国土地理院の地図では標高(1,654m)のピークが三津河落山とされています。「和州吉野郡群山記」の「大台山記」に『如来附(三途川落に添える小山なり。三途に附きしゆえゑ、如来附といふ。高山にあらず)』『三途川落に登れば渓筋三方に分かれたり。一方東は宮川に出、一方北西は紀ノ川に出、一方西南は大台に入りて新宮川に出る。(和州吉野郡山記)』と書かれています。また、『前鬼山ヨリ大台山ヲ見ル真写』という図があり、円い山頂の巴岳を挟んで、左に秀ヶ岳、右に三途川落が共に富士山型に描かれています。面白いことに秀ヶ岳(日出ヶ岳)より三津河落山が高く描かれています。如来月は三津河落より低いとされるなど、正確な測量が出来なかった時代と、現在の標高や山名と比べてみて面白く思いました。
 
川上辻は昔、名古屋峠と呼ばれていました。ある年、少し筏場の方に下り、左手の涸れ谷を登ってナゴヤ岳と三津河落山のコルにでました。丈の低いミヤコザサの中に一筋の細い道が通じていて、ブナやトウヒの林の中を登ると、次第にジグザグの道になりました。



大きな岩が積み重なった左側を回り込むように登ると、「如来月」の古い石標と府県境界を示す石柱があり、新しい山名板は、如来月と三津河落山の二種類が混在していました。細いヒノキに囲まれて眺望は全くありませんが、静かな気持ちの良い頂上でした。



実はこの時、てっきりここが三津河落山の山頂と思っていました。数年後、再訪すると前にたくさんあった山名板は一枚も見当たらず、石の山名標と境界見出標だけが残っていました。

 



80)経ヶ峰 

「怪物をお経で封じ込めた山」

 大蛇クラより

大台山中、三津河落山から西へ延びる尾根上にあります。「大和青垣の山々」では「和州吉野郡群山誌」大台山記の「教導師」をこの山に比定しています。
「和州吉野郡群山誌」によると『ほうその木谷という所有り、この処より大台の地中山々見ゆ。土俗云く、慶長一七年丙午年、伯母峰の道を開き、西上人(この僧不詳)この教導師へ変化を符じ込めしという。伯母峰よりこの所へ一里あり』。註によると西上人は、上北山と川上両村を結ぶ伯母峰越えの道を開くなど、さまざまな功績があり、土地の人は後に丹誠上人と呼んで徳を慕ったといいます。



上に引用した『変化を符じ込め』というのは「経を埋め化け物を封じ込めた」という意味で、山の名はここから来ています。今はすぐ下を大台ヶ原ドライブウェイが通っています。
ワサビ谷への降り口付近の小広場に車を置いて、北へドライブウェイ左手の稜線に登りました。



落ち葉に埋まるような踏み跡を辿って行くと、最初の小ピークに小さな石標が立っていました。西上人が怪物を封じ込めるために経を埋めた経塔石のようです。踏み跡はゆるく下って、ドライブウェイのガードレールに沿って20mほど行き、再び山道に入ります。バイケイソウの群落の中を通り、シカ除けの柵沿いに原生林の中を登ります。やや尾根が狭まり、岩が出てくると経ヶ峰(1528.9m)に着きました。



山頂は樹木に囲まれて殆ど展望がありません。帰りはドライブウェイを歩いて、往復45分の短いハイキングでした。


伝説の山の花

2015-09-07 15:46:16 | 四方山話

1 クロユリ(1)



戦国の世、信長の信任を経て五十四万石の富山城主となった佐々成政は、本能寺の変後、秀吉と対立して、雪のザラ峠を越えて浜松の家康に援軍を求めます。しかし色よい返事は得られず、再びアルプスを越えて帰城した彼は家臣が不愉快な話を聞かされます。
 それは寵姫の小百合姫と中小姓・熊四郎が彼の留守中に不倫したということでした。激怒した成政は「身に覚えがない」という小百合姫の言葉を信じず、姫は一族とともに神通寺川畔の榎に逆さ吊りにして斬り殺されます。
 断末魔の姫は「立山にクロユリが咲けば、必ず佐々家を滅亡させる」と恨んで亡くなります。クロユリはこんな不気味な伝説の花です。 

2 クロユリ(2) 



秀吉の大軍に富山城を囲まれた佐々成政は、頭を丸め墨染めの衣を着て和を乞い、許されて二年後には肥後一国を与えられます。彼は秀吉のご機嫌伺いにと、正妻・北政所に加賀白山のクロユリを取り寄せて贈りました。
 北政所は日頃の意趣晴らしに、淀君に「この天下の珍花を見せて、鼻を明かしてやろう」と茶会を催します。ところが淀君は活けられた花を見て「これは珍しい。滅多に見られぬ白山の黒百合」と言ったので、北政所の怒りは「二股をかけた?成政」に向けられます。
 しかし、真相は淀君が困らぬように、師匠の千利休が娘を通じて、あらかじめ教えておいたということです。 

3 ミズバショウ、クガイソウ、ヤナギラン



有峰の近く亀谷(かめがい)には天正年間、銀山が発見され、最盛期の慶長から元和年間には数千軒が密集し、数千人の遊女が工夫を慰めていました。そんな或る日、山師の大山左平次らの宴席に見知らぬ三人の美女が現れ、工夫がいつものように戯れようとすると姿を消してしまいました。
 その後、鉱山は廃れ、その跡に今まで見なかった美しい三つの花、ミズバショウ、クガイソウ、ヤナギランが咲きだしたと伝えられています。

4 ヤマアジサイ



雪倉岳の麓・小谷村に手巻という美しい娘が母と住んでいました。ある日、母の薬を貰いに行ったまま帰らず、村では総出で探したが見つからず、峠近くの川縁に彼女の櫛が落ちていただけでした。
   村人は「送りオオカミに喰われた」と噂しました。何年か後、櫛の落ちていた辺りに美しいヤマアジサイの花が咲き、娘の命日に散っていきました。その後、オオカミは姿を見せなくなりました。

5 シラネアオイ



五竜岳の麓、四ヶ庄村の猟師、茂一には自慢の娘「ゆき」と老練な愛犬「アカ」がいました。ある雪の日、カモシカ猟に出たアカは漁場に行く途中、雪崩に会い死んでしまいます。
 それを聞いて探しに行った「ゆき」も同じ場所で雪崩に会い亡くなります。やがて雪が解けて娘と犬の遺体が見つかり、その後には美しいシラネアオイが咲きました。

6 トリカブト 



北海道にモリというアイヌがありました。湖を隔てた隣村との争いが絶えず、村長は相談の末、智勇優れた若者を使者に送ることにしました。
 ところがこの壮挙を喜ばないのが若者の恋人、村長の娘でした。船出の時、半狂乱になった娘を血涙を払って村長が切り捨てると、真っ赤な血潮が辺りの飛び散りました。その後に生えたのがトリカブトでした。

7 コマクサ(1)



昔、木曽の御嶽を登る行者が激しい腹痛に襲われました。一心に般若経を唱えていると一羽の雷鳥が現れ、導かれて田の浦(今の田の原?)に来ると雷鳥は樹に止まり羽根を休めました。行者が足元を見るとそこには世にも美しい花がさいていました。
 
行者が試みにそれを噛むと気分が爽快になり、あれほど苦しんだ腹痛も嘘のように収まっていました。それ以来、このコマクサとキハダの皮から出来た「お百草」は霊薬として有名になりました。

8 コマクサ(2)



浅間山の麓、小諸に「お駒」という母と「お市」という娘が住んでいました。ある日、お市は病を得て、八方手を尽くしても治りません。お駒は知人に勧められて木曽の御嶽に登り、御嶽神社に娘の治癒を一心に祈願したところ「頂上に咲く美しい桃色の花の汁を飲まよ」という神のお告げがありました。
 娘は快癒し、誰云うともなくこの花は「お駒草」という名になりました。

9 リンドウ 



ある冬の日、役小角(役行者)が日光の奥山を歩いていると、一匹のウサギが雪の中からせっせと草の根を掘り出していました。行者が聞くと兎は「主人が病気なので薬草を取りにきた」と答えて草の根を咥えて跳んで行きました。
 小角が持ち帰り、煎じてみると薬効があることが分かり、健胃、強壮剤として今に伝えられています。
  このウサギは二荒神の化身だったといわれています。

10  オトギリソウ 



平安の昔、晴頼(せいらい)という鷹飼いがいました。タカが傷つくと何処からか薬草を取ってきて、その汁で傷を治していました。決して他人には教えなかったその草を、弟が私すべきではないと草の名を他言してしまいました。(他の鷹飼いが弟を女で誘惑したという説もあります)。
 激怒した兄が弟を斬り殺したことから、この名が付いたと「和漢三才図会」に名の由縁が載っています。

*信濃路社「北アルプス夜話」他を参考にしました。写真は画像加工.comで処理しています* .