ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

23年前の尾道旅行

2011-10-31 10:59:55 | 旅の想い出

この前に尾道に行ったのは何時だったか…と旅の写真から検索してみたら、1988年の12月でした。今年、行けなかったところや、今は変貌した観光スポットなどの写真もご覧ください。

この頃は結婚記念日が巡ってくるこの頃に、毎年、富士山を巡る旅をしていました。ところが4日前に追突されて車はドック入り。久しぶりに列車で行くことにして「福山・尾道ミニ周遊券」を購入しました。

『24回目の結婚記念日。この年初めての年休を取り、フルムーンの旅。新幹線を福山で降り、バスで勒の浦へ。 10何年か前に歩いた町を、♀ペンと史跡巡り。対潮楼では和尚さんの名調子の解説を聞きながら「日東第一の名勝」に見惚れ、前にはなかった勒城跡の資料館も見学。福山で昼食の後、またバスで明王院へ。夕方の列車で尾道に着き、ロイヤルホテルに宿を取り、刺身、デベラの活け造り、寄せ鍋と海の幸を満喫する。』

今まで気が付きませんでしたが、なんと今年、友人がとってくれたのと同じホテルでした。

翌日朝、駅近くで撮った林芙美子像。

「古寺めぐり」はコース東端の浄土寺から始めました。本堂の写真は今年より、よく撮れています。

今年は行かなかった「西国寺」
仁王門にかかる2メートル近い大草鞋です。

愛宕山の中腹に立つ西国寺三重塔(重文)
例の子規の句にも、お菓子の名にもなった「塔二つ」の、天寧寺と並ぶ、もう一つの塔です。

大林宣彦監督、原田智代主演「時をかける少女」に登場して有名になった「タイル小路」
最近のBLOGの写真を見ると、この頃に観光客などが持ち込んだ壁面のタイルなどは撤去され、もともとあった地元の住人が地面に埋めたものだけが残っているようです。

この時もロープウェイで千光寺山頂に登って、展望台から展望を楽しみました。

「文学のこみち」林芙美子の碑。この時の方が文字がはっきり読めます。

千光寺の鐘

正午。天寧寺三重塔。

天寧寺本堂。五百羅漢がずらりと並び壮観でした。

寺院巡り最後の寺・持光寺。20mに及ぶ「臥龍の松」

『急な坂道を上ったり、下ったり。この尾道も私は三度目だが、3年前の春は千光寺だけで始めても同じ。車無しの旅も新発見があって楽しい。』

『14時に尾道を立ち、岡山からは新幹線で18時に帰宅する。2日とも雨に会わず楽しい旅だった』
まだ、西への新幹線は岡山までしか通じていない頃の、殆ど忘れかけていた想い出です。


しまなみ海道・生口島(2011.10.27)

2011-10-30 15:55:27 | 旅日記

雲一つない青空の下、8時過ぎ尾道のホテルを出た車は生口島へ。尾道大橋を渡ります。
対岸の向島は思いの外に大きい島です。市民センターや高校、ショッピングセンターなどを見ながら向島ICから「しまなみ海道」に入ります。因島大橋を渡ると村上水軍で名高い因島。ミカン畑の見える丘陵地を走り抜け、生口橋を渡ると「しまなみ海道」の真ん中、生口島です。

何十年も昔、「しまなみ海道」(正しくは本州四国連絡道尾道今治ルート、西瀬戸自動車道)が一本につながっていない頃に、いくつかの島を訪れたことがあります。橋のあるところは貸自転車で、また自転車ごと漁船にも乗せて貰っての旅でした。今は1時間もかからず生口島に到着。

車を耕三寺駐車場に入れて、まず平山郁夫美術館の見学です。 9時の開館時間までコーヒーでも飲もうかと辺りを歩きましたが、立派な商店街はできていたものの喫茶店は見つからず、コーヒーは館内で頂きました。

平山郁夫さんは、1930年、この生口島で生まれ、豊かな瀬戸内の自然の中で少年期を過ごしました。10歳の時の絵、小学4年生当時の絵日記、中学生時代のスケッチや武者絵から最近の大作に至るまで、数々の作品をじっくり鑑賞しました。この美術館の特徴は、大下絵と言われる作品制作過程の原画も展示されていることです。

「慕わしきバーミアン」と「バーミアンからの平和の思い」の構成で、昭和40年代の平和と大石仏破壊後の惨状を対比させた特別展も見応えがありました。数々の展示の中で、このパンフレットの「三聖人平和の祈り」(キリスト、釈迦、マホメット)、金色の背景に黒い影絵の「求法高僧東帰図」、一面が炎の赤で描かれた中に不動明王がかっと目を見開いて立っている「広島生変図」が特に強く印象に残っています。

1時間を超す絵画鑑賞に疲れて、美しい庭園の緑で目を休めました。(ケイタイで撮影)

次は耕三寺です。今や「西の日光」と呼ばれる有名な観光地ですが、「潮聲山」という山号を持つ、れっきとした浄土真宗のお寺です。生口島出身の金本福松という人が、大阪で苦労した挙句に事業(特殊鋼管製造)に成功し、昭和初期から長い年月をかけて建立しました。

お堂や塔は全て日本各地の建築物を模して建てられていて、この「中門」は法隆寺の中門を模しています。

四天王寺金堂を模した法宝蔵。内部は近代美術展示館となっています。
この左には室生寺のものを模した五重塔があります。

「西の日光(東照宮)」と呼ばれる所以になった「孝養門」。
福松は母の没後、出家して僧侶となり耕三と名乗り、耕三寺の建築に着手しましたが、母が生前に行けなかった日光東照宮の陽明門を供養のために模して作った門です。 

 

本堂 。宇治の平等院鳳凰堂を模したもの。東翼楼には奈良・興福寺から移された釈迦如来坐像(重文)が安置されています。
左の大観音像はコンクリートと漆喰で作られた高さ15mの救世観音です。
このあと、岩山の地下に掘られた350mの「千仏洞地獄峡」巡りをして「未来心の丘」へ。

海を見下ろす高台に広がる5,000平方mの白い大理石の庭園です。



彫刻家の杭谷一東がイタリア産の大理石を使って設計・製作したもので、庭園全体が広大な芸術作品になっています。

 

最上部の「光明の塔」

いったん出口をでて道を隔ててた浄土苑へ。建物は金剛館。ここにも快慶作の重文・宝冠阿弥陀如来坐像をはじめ様々な仏教美術品が展示されています。耕三寺を出ると、ちょうど正午。駐車場横で甘いミカンを買って車に帰りました。

昼を過ぎても雲一つない紺碧の空と波静かな瀬戸内の海を眺めながら向島に着きました。朝とは違う道を通って…

尾道渡船(フェリー)に乗りました。車は数台で満車。自転車や人も乗り込みます。NHKの連ドラ「てっぱん」に登場したあのフェリーです。料金は車両運賃込みで一人140円した。

出港すると対岸の千光寺山がぐんぐん近づきます。千光寺の玉の岩(天辺に玉が見えます)やビルの間に天寧寺の塔が緑の山肌を背に鮮やかです。デッキに出る間もない数分間の船の旅でした。

もと魚屋さんの経営する綺麗なレストランで昼食後、お菓子屋さんや海産物のお店で買い物して新尾道駅まで送ってもらいました。自宅で採れたという柿、黒豆、キウィなど、どっしり重いお土産まで頂いて、来年の再会を約して別れを惜しみました。

下見までしてくれた旧友の暖かいもてなしに、ただ感謝するばかりの快晴に恵まれた尾道の旅でした。


尾道散策(続き)

2011-10-29 17:38:45 | 旅日記

千光寺参拝を終えて町へ下ります。その途中にある天寧寺は、足利義詮により貞冶6年(1367)に建立された大寺院でしたが、天和2年 (1682)に落雷によって全山が焼失、元禄年間に再興されましたが元の姿には戻れませんでした。

海雲塔とも呼ばれる三重塔は高さ25メートル、嘉慶2年(1388)に建立されました。境内を出て天寧寺坂を上ったところに位置したこともあって天和の災禍にも遭わず、代表的な足利建築として国の重要文化財の指定を受けています。

塔の横をまっすぐ下ると天寧寺本堂ですが、この看板から左に折れて「猫の細道」に入ります。

この赤ネコをはじめ、曲がりくねった細い坂道はネコだらけ。しかも細道両脇の家や店は荒れた感じで不気味な雰囲気です。♀ペンが一緒だときっと通れなかったでしょう。

艮神社の横まで下りて、やっと生活の匂いがする民家の横に来ました。

招き猫美術館です。すぐ先でローウエイ山麓駅横に出ました。
ここから山陽本線と並行する国道2号線脇の歩道を歩いて、浄土寺に向かいます。尾道は山がすぐ海に落ち込むような地形で、狭い山裾の平野部に市街地が細長く連なっています。いわゆる尾道三山(千光寺山、西国寺山、浄土寺山)の寺院は25ケ寺。浄土寺まで歩く間にも線路のガードを隔てて、いくつものお寺が見えました。

歩くこと10分強で浄土寺に着きました。ガードをくぐった石段の上に山門があります。

国宝の本堂と多宝塔の間に見える緑の山は浄土寺山。白く見えるのは巨岩群で、その横には浄土寺奥ノ院満福寺があります。展望台も見えています。

浄土寺は推古24年(616)、聖徳太子の開基と伝えられています。
多宝塔 は 嘉暦3年(1328)建立。鎌倉時代の様式を伝える国宝の建築物です。

2号線を渡って海岸通りを帰ります。通りと水道に挟まれた民家の裏手はすぐ海。波止場を歩くと大釜や漁網が置いてあり、漁船や釣り船が係留されていて汐の匂いが漂います。新旧の尾道大橋が並んで見えます。

尾道の印象は「坂の町」「寺の町」「猫の町」「ラーメンの町」に加えて「芸術の町」でもありました。有名な画家の写生地が点在し、美術館や博物館も多いのですが、ふとした街角の街灯や家の前でも芸術の香りがします。

これは松本病院玄関に置かれたブロンズ像。横の説明「イタリアからやってきた『いのししの像』ポルチェリーノ」によると、オリジナルはフィレンツェ「わら市場」にあるルネッサンス後期の作品。ポルチェリーノは仔豚の意味で鼻をなでると幸福を招くとか…。後ろの白い彫刻はフランス語で「なんとかと愛」…忘れました。

ホテルの個室で4人の宴会。肴は鯛づくし。久しぶりの再会、尽きぬ話にお酒も進みます。

部屋に帰ると、闇の中に大橋の灯りが浮かび上がっていました。明日はあの橋を渡って生口島までドライブします。 


尾道散策(2011.10.26)

2011-10-28 13:50:22 | 旅日記

32年前にヨーロッパを訪ねた友人2人と尾道を訪ねました。新尾道駅へ車で迎えに来てくれたのは、この町生まれで今は大阪と生家を行き来している、昔の仲間。彼の案内で二日間、秋の尾道の旅を楽しんできました。

26日、まず尾道ラーメンの有名店「東珍康(とんちんかん)」で昼食後、ホテルに車を置いて千光寺へ。
正面に見えるのが千光寺山。鳥居奥に見える艮神社の参道右側にロープウェイ乗り場、さすが有名なラーメンの町だけあって、ここにも尾道ラーメンの店があります。

ロープウェイは満員でしたが、たったの3分の辛抱で山頂に着きます。頂上展望台からの眺め。
尾道水道を挟んですぐ目の前が向島です。

ここから約1キロ、千光寺まで「文学のこみち」を下ります。道沿いに、尾道ゆかりの作家や・詩人の作品が自然石に刻まれた文学碑25基が立っています。

正岡子規の句碑。「のどかさや 小山つゞきに 塔二つ」
二つの塔は、西国寺三重塔と天寧寺海雲塔のことといいます。

金田一京助歌碑 「かげとものをのみちの やどのこよなきに たびのつかれを わすれていこへり」

林芙美子文学碑。有名な放浪記の一節が刻まれています。
『放浪記  林芙美子
 海が見えた   海が見える
 五年振りに見る尾道の海はなつかしい。 汽車が尾道の海にさしかヽると
 煤けた小さい町の屋根が 提灯のやうに拡がって来る。
 赤い千光寺の塔が見える。  山は爽やかな若葉だ。 
 緑色の海、向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。
 私は涙があふれてきた。』

天気が良すぎて、松の影が濃いのが残念です。千光寺山(144.2m)の八合目あたりから古寺・千光寺の境内になります。

千光寺は空海が開祖で多田満仲が中興したと伝えられている真言宗の古いお寺。「文学のこみち」から来ると裏門をくぐります。
とまず出会うのが鏡岩です。境内中央にある「玉の岩」と関連の深い岩で、昔はその宝珠や日、月の光を鏡のように反射させていたと伝えられています。

続いて光明真言、大日如来真言の梵字が彫られた梵字岩。ここから大師堂の前を左に折れて小さい門をくぐります。

除夜の鐘で有名な竜宮造りの鐘楼。もともとは元禄初年より「時の鐘」として朝夕に時を告げていました。
俚謡にも「音に名高い千光寺の鐘は一里聞こえて二里響く」と歌われています。

鐘楼裏手からの大展望。尾道水道にかかる新旧二本の尾道大橋(手前が新尾道大橋)の左の山は、浄土寺山(178.8m)。その右山裾に浄土寺があります。

玉の岩(または烏帽子岩) 高さ、幅ともに約15m。
昔、この岩の上に如意宝珠があって「夜ごと海上を照らしていたが、異国人に刳り抜かれ奪い取られた」という言い伝えがあります。
しかし大師堂売店の小父さんによると、今も夜には三色に光り輝くそうです。

この角度から見ると、小父さんの言葉がウソではないことが分かります。

朱塗り、舞台作りの本堂。本尊千手観音菩薩が須弥壇に安置されています。
本堂裏には「くさり山」があり、「石鎚山」の標識もありました。千光寺の鎮守は熊野権現と石鎚山蔵王権現なのです。ここにも本地垂迹思想がうかがえます。岩の下まで行ってみると大きな鎖が下がっていました。石鎚山を思い出して登りたくはありましたが、今回は他の人の手前自重しました。

これで千光寺の参拝を終わり、次は浄土寺に向かいます。


変愚院の山日記(1.初めての富士)

2011-10-27 07:07:00 | 山日記

富士山 1968.7.28~30  (義父、♀ペンと)

晴れて候又曇り候ふじ日記 (其角)

7. 28
 山に登って二十数年、若い頃は夏に登る山ではないと決め付けていた富士に50才を過ぎて初めて挑む。つい一週間まえの足の痛み<註.雨の中、北アルプス蝶ヶ岳へ登った>が、まだどこかに残っているようで、ちょっと不安な気もする。7時前に愛車力ローラⅡで家を出て、東名浜名湖SAでウナギの昼食。由比でも、富士川でも晴天なのに富士は姿を見せない。とうとうスカイラインに入る頃からガスが湧いてきて、伊吹のときの感じに似てきた。駐車場で身仕度を整える。前回に懲りて出来るだけ軽装にするため、足もとも山靴に変わるタラスプルバのガントレである。3時10分、新五合目出発。
 ときどきガスが流れて冷気が身にしみる。この辺りは植生限界というのに、ハイマツもなく、ひねこびたコメツガとオンタデの白い花が目につくだけ。15分で新6合。義父はここの小屋で杖を買い、以後、各合目ごとに焼き印を押して貰う。標高2600Mの6合(3:25)で草木帯も終わり、あとはガラガラの砂礫のジグザグ道の連続。予想していたとはいえ実に単調で、目を楽しませる何ものもない。このあたりから、新7合にかけてが一番苦しかった。義父と妻は元気そのもの。それでも次第に高度は上がり、いつのまにか宝永山を眼下に見下すようになる。夕日が射し、ぼんやりしていたがプロッケンが出現。新7合(2780m)4時20分、元7合(3010m)5時7分。

遠く見れば秀麗の山攀ぢつつはただ焼石の殺風景の山 (花田比露思)
踏みしめて一歩一歩のわが足のはかどらねどもややに高まる (同上)

 7合を過ぎると岩場混じりの道となり勾配も強まってくる。やっとペースをつかんで金髪のトレッカーに声をかけたりする余裕が出てきた。交替するように義父がしんどそうで、何歩かごとに立止まつて息を入れる。それでも、頑張って当初宿泊予定の8合日(3250m,5:55)はパス、9合を目指す。



八合目までを遠しと思いしか疲れし足もやや馴れて来ぬ (花田比露思

 天候も高山病もまつたく心配なく、高度を増すほどかえって高揚した気分になる。淡いブルーの夕闇が迫るころ、3460mの万年雪山荘に到着(6:50)
 小屋は月曜日のためか思ったほどの混雑も無く、カイコ棚にのんびり足を延ばす。素泊まり3000円也。夕食は好きなメニューを選ぶ。卵丼1200円(味噌汁付)、紙コップ入りの熱潤酒600円。あまり食欲なし。
 食後、戸外に出ると降るような星空。南の火星も北斗にも手が届きそうで、とくに西空の金星が印象的だ。さきほどの金髪のかわいこちゃんのパーティーに教えてやったが、寒さにたまりかねて、そうそうに引込んでしまった。眼下には案外近く、小田原、御殿場、三島の町の灯が見える。ただし、裾野が広くて町が疎らなためか六甲の夜景の方が美しいと思う。
 夜、眠れぬままに下へおりて缶ビールを求め、いろりばたに誘われて主人の話を聞く。山小屋の悪評を払拭するため、懸命に努力している姿勢がうかがわれて、好ましい。従業員も親切なことをお世辞でなくほめたら、只でもうひと缶、ビールを飲ましてくれて、ますます気に入った。深夜になっても、入ってくる人があり、ざわついて、なかなか熟睡できず。

声高に物は語らじほどちかき星の宮人ねむりさむべし (佐々木信網)

7.29
2時頃より、起き出す人があって浅い眠りを覚まされる。3時15分発。すでにライトが行列を作ってゆっくりと山頂を目指して動いている。山肌に電飾が並んだようで夢のように美しい。頭上には、オリオンが傾き、半月も淡く光っている。ときとぎ、眠るように座り込んでいる人を追越すが、夜通し登つてきた人達だろうか。父も今日は元気をとり戻し、ゆっくりしたペースながら着実に登って行く。星ばしが光を失い、黎明の気配か忍び寄ってくるころ9合5勺に着く。ここにも小屋があり、商売熱心だが人のよさそうなおばさんがいた(3590m,3:45)。頂上は直ぐ頭の上、手の届くような近さに見えるのだが、最後の胸付八丁の急登となり、結構時間がかかる。鳥居のすぐ下では、いい若い衆がへたり込んでいた。4時35分、遂に富士宮浅間神社奥宮に達する。大鳥居をくぐり、まず参詣。義父は70才以上の高齢登山者として記名し、記念品を授かる。



頂の浅間神社に額づきてほつと息づく攀ぢたりなわれも (花田比露思)

社殿の前の頂でご来光を待つ。紫紺の空に金粉を散りばめその中心に真紅の大円が静かに姿を現してくる。

いま、ここにある幸せを何者かに感謝したくなる荘厳な一瞬。(4時48分) しかし、人々は案外冷めていて別に万歳の声があがる訳でもない。富士館で記念の土産を買い、お鉢巡りに出発。(5:05)


 まず、すぐ前にそびえる剣ケ峰へ向かう。快晴の青空に純自のレーダードームがくっきりと浮きあがっている。左手、大沢のほうに見事な影富士が見下ろせた。急勾配を休みながら登り切り、5時20分に念願の3776M、日本最高峰の剣ケ峰に立つ。vサィンの写真を撮り、10分ほど休んで発つ。

あらたまの年の緒ながく恋ひ恋ひしこれの頂にわが立ちにけり(佐々木信網)

 雷岩のあたりで朝飯。ガスコンロの水がすぐ沸騰したのは気圧のせいか、機能のせいか。最高所でのコーヒーを味わって白山岳へ。稜線通しに忠実に辿つたので、ちょっとした岩登りまで義父にさせてしまった。殆どの人は内輪巡りのルートをとったようで、こちらのコースはがら空きだった。

白山岳(6:50)では、外人さんと写真をとる。ここからは北方の南アなどが見える筈だが、快晴の割に展望はもうひとつ。わずかに近くの美坂山地らしい山々を望むのみ。
 久須志岳、7時5分。ブルトーザーが雪の塊を運んでいた。山中湖らしい湖が鈍く光っている。雲が湧いてきたので先を急ぐ。浅間神社、帰着7時40分。義父に銀命水(300円)を買って貰う。
 7時50分、山頂を後にして、ひたすら下る。時折、ドーンと腹に響くような音が下でする。祭りの花火だろうと、義父は言つていたが、どうも雷のようだ。和子もかっての雲の平の雷を思出す。<註.実は裾野にある自衛隊演習場での大砲射撃訓練の音。今でもよく聞こえる>

9合の小屋に預けていた残りの荷物をザックにつめ、さらに下る。下にくるほど曇ってきたが、自衛隊や高校生の団体、家族づれなど今日も沢山の人が登ってくる。かわいい金髪の女の子が何度も滑りながら、降りているので、歩きかたをコーチしてあげる。教えたとおリヒールから恐る恐る踏みおろしていたが、ちょっと大袈裟にして見せすぎたか。

 新6合に着いて生ぬるいラムネを飲む。さすがに下りは速く11時に新5合に帰り着く。駐車場から見上げるとすでに頂上はおろか、少し上の方まで雲に覆われていた。午後、白糸の滝を見て、富士五湖一周のドライプ。御殿場から東名に入り、清水に泊まる。

7.30
次郎長の生家、梅陰寺、三保の松原、日本平、久能山東照宮、登呂遺跡を巡る。走行距離1000キロを超す。しかし、3日間ともついに富士の全容を見ることはできなかった。

<註.義父は百歳を迎えた今でも元気で、この時の富士登山のことをよく覚えている。焼印を押した金剛杖と白扇は床の間に飾るほど大事にしている>


変愚院の山日記 (予告編)

2011-10-25 09:14:00 | 山日記

1995年の正月、思い立ってそれまでの山の記録を整理して「想い出の山々」というノートを作りました。その前の1982年から、B5用紙に山行記録をワープロで打ったものに同じ題名をつけて簡易製本していましたが、PC購入を機にそれ以前の記録も整理したのです。

『ノート、手帳、山日記、アルバム。さまざまな形で残してきた想い出の断片は何度か整理したものの、結局はまた別の雑多なスタイルのままで残っている。還暦を機に、もう一度だけ試みよう。最高の生き甲斐を与えてくれた山々の想い出を辿る旅を。今回はできるだけ過去に忠実に再現してみる。』

ここにある「山日記」というのは、今は絶版となった日本山岳会編・茗渓堂刊の文庫本よりやや小さい判型の、赤い表紙の日記です。ノートはコクヨの大学ノートで、最初にこんな詩を書き写しています。

『 山の歓喜         河丼 酔名

 あらゆる山が悦んでいる    あらゆる山が語っている
 あらゆる山が足ぶみして舞う 踊る   
 あちらむく山と        こちらむく山と
 合ったり           離れたり
 出てくる山と         かくれる山と
 低くなり           高くなり
 家族のように親しい山と    他人のように疎い山と
 遠くなり           近くなり
 あらゆる山が         山の日に歓喜し
 山の愛にうなづき
 いまや            山のかがやきは
 空いっぱいに ひろがっている 』

それからまた17年が過ぎました。その後も矢田丘陵は別にして山行記録を書き続けていますが、古い記録には交通、装備、食糧などに当時の世相をうかがわせる興味深いものもあります。すでにホームページでいくつかご覧頂いていますが、今回は写真も見て頂きながら老骨の想い出話をお聞きください。

 

この絵馬は1986年、初めて富士山に登った時に授かったものです。まずは、その時の山日記から…。