ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

敦賀の山のガイド犬「ジョン」

2020-05-23 16:48:32 | 私の動物記

私の動物記(8)

海の見える山に登りたくなって体育の日に妻と、マイカーで敦賀半島に向かった。西方ヶ岳の登山口である常宮神社に車を置き、身支度をしていると、宮司さんの家の庭から白と茶の斑犬が現れて、トコトコ先に立って歩きだした。そこから山道になる、最後の民家で「その犬はTVにも出た犬で、山まで行ってくれるよ」と教えられた。


石灰岩質のつま先上がりの道は雨上がりで滑り易く、おまけに風邪気味で体調がすぐれず、いつもよりピッチが上がらない。犬は7、8m前を先導するようにゆっくり歩き、間隔が開くと立ち止まって待っていてくれる。

送電線のある尾根に出てなだらかな道になったのもつかの間、銀名水という湧水から再び勾配が強まる。

海抜0mからの登りは結構、厳しいが、登り続けて鸚鵡岩という大きな露岩で初めて休む。犬は岩の天辺に駆け登って「海風が爽やかで、景色がいいよ」とでもいいたげな顔。

ブナ林の中の道を登り切って、764mの西方ヶ岳の開けた頂上に着く。青い三角屋根の洒落た避難小屋があり、先着の登山者が4人。犬は小屋の入り口で弁当をもらっていたが、私達が広場でスープとパンの貧しい食事を始めると、跳んできてお相伴してくれた。

ここで初めて犬の名がジョンであることや、山の服装をした人を見るとガイドしてくれると、地元の若い女性登山者に聞いた。ただい一日にせいぜい二組で「あなた達は運がいいですよ」といわれた。遠くから来たので歓迎してくれたのか、中高年のペアが余程、頼りなく思えたのだろうか。


 

蝶螺ガ岳への縦走路は小屋の横から熊笹の下り道になる。雨雲に包まれて夕暮れのような暗さの中を出発する。降り口に座っているジョンに手を振って別れを告げ、ちょっぴり淋しい思い出歩いていると猛烈な勢いで駆け降りてきた。驚いて「もう、お帰り」といったが、知らん顔で再び先導を始める。縦走路から5分程離れたカモシカ台の大きな露岩も案内してくれた。

青いリンドウが美しい道を何度かアップダウンして登り下りして、展望の良い蝶螺ガ岳に立つ。コーヒータイムの間、ジョンは寝そべっていた。ここからは下り一方だが、登りに劣らず厳しい道だ。

しばらく姿を見せないと水場にいて「この水は飲めよ」というように二、三度舐めて見せてくれた。とうとう「注意!熊が出没します」という立札がある浦底側の登山口に来た。民宿の主人に頼んで、車で送ろうとしたが乗ろうとしない。海岸線を7キロ離れた神社へ行き、宮司さんの奥さんに詫びて、車で民宿に帰る途中、車道を急ぎ足で帰るジョンを見つけた。名を呼ぶと、振り返りながら顔を見る。妻の目に涙が溢れた。「ありがとうジョン、さようなら。」


 

翌朝、もう一度、神社によると尻尾を振りながら駆け寄って、腕の中に飛び込んできた。「ジョン本当にありがとう」
 (雑誌「岳人」1993年新年号に掲載された文章です)


海外で出会った犬

2020-05-17 18:10:41 | 私の動物記

私の動物記(7)

海外で出会った犬

スイスの山岳救助犬は雪山で遭難した旅人や登山者の救助に活躍し、何千人もの人が命を助けられたといいます。首に付けた樽の中には遭難者の気付け用のラム酒が入っています。この犬は「タラちゃん」という名のセントバーナードでゴルナーグラード展望台のスター、観光客と一緒に記念写真をとるモデルでもあります。

ユングフラウヨッホ駅の北極犬。ハスキーの仲間で犬橇を曳くのが仕事ですが、この日は猛吹雪で外に出られないのでゴロゴロしていました。

ネパールのナムチェ・バザールで出会った犬
ヒマラヤトレキッキング中の私たちのテントの前に番犬のように座り込んでいます。キャンプ地の犬はペットとして可愛がられる日本の犬と違って、不審者が入り込まないように見張りするという大事な仕事をしています。

これもトレッキング中、ダンプスのキャンプで私たちのテントへご機嫌伺いに来た親子。

カナダのアルバータ州ロッキーマウンティン・ハウス(地名)でホームステイ先のセントバーナード犬「ミツ」。すぐに仲良しになりました。

他にも海外でたくさんの犬と出会いましたが、まずはこの辺りで…

 


美鈴の思い出(3)

2020-05-13 09:50:00 | 私の動物記

私の動物記(6)  

   

2002(平成14)年11月25日、更に弱り哀れな声で泣きだした。座敷にあげて紙箱で囲いを作ってやると安心したように横になっている。その横で添え寝。美鈴は何度か夜中に起きたが、6時15分、和子の腕の中で永眠した。小さな鳴き声を上げて、ぐったりして逝ってしまった。

苦しまずに安らかな死に顔だったのが救いだ。昼前、車で竹ノ内峠近くの宝塚動物霊園奈良分院宝昌寺へ連れて行く。僧侶読経の中、二人で見送り別れる。するだけのことはしたが、やはり寂しさが募る。

 あれから20年近くなる。家にいた10年の2倍の歳月が過ぎたが、今でも身近にいるように話しかけている。始めは止めてくれと言っていた和子も諦めている。家中のあちこちに写真はあるが、夢にはめったに出てこない。美鈴がいなくなってから、もう他の犬は飼う気がしない。


美鈴の思い出(2)

2020-05-11 08:57:21 | 私の動物記

私の動物記(5) 

このようにして5年も経つと、美鈴は悪い癖がついて、自分が晩飯を喰い終わると勝手に上がってくるようになった。食卓の私の横に居座って、前足で私の足を叩いて催促してすき焼の肉や刺身をせしめたりした。

1998年夏、15日間のカナディアンロッキーの旅から帰る。土産のビーフ・ジャーキー5ドル分を夜の間に美鈴が全部、平らげてしまい、水をがぶ飲みしてお漏らしする。2001年晩秋、体調が悪くなる。鼻を鳴らして血を出し、食欲もなく眠りもできない。3日間、点滴を受けた。

 2002年1月、美鈴がまた出血したので病院へ連れて行く。診察台の上で大暴れして医師も壁も血だらけ。口の中がザクロの様に裂けている。悪性の腫瘍らしい。 口内縫合手術をする。三日間預けて歯も2本抜いて歯茎を縫い、歯石も取ったそうだが元気。

4月になって組織検査の結果、口腔内線癌の診断だった。入院して放射線治療に耐えられる体力もなさそうだし、薬で悪化を抑えることになる。

5月まで出血の度に3度手術を受ける。血の混じった鼻水をぽたぽた落とす。秋になると、すぐ様子が見られるように下の部屋にシュラフを持ち込んで、美鈴の横で寝た。


美鈴の思い出(1)

2020-05-10 09:30:20 | 私の動物記

私の動物記(4)

 

久し振りにわが家の一員に犬が加わったのは、1991(平成3)年12月。近所のY夫人の父君が病気で石川県から預かったが、すでにY家には犬がいたので無償で譲って貰うことになった。

血統書付きの柴犬の雌「美鈴(ミレー)」である。非常に利口ですぐに私たちになついた。



 美鈴は最初おとなしくしていたが、次第にお転婆ぶりを発揮しだした。夜の散歩は私とするのが好きで、和子(家内)が連れていってもすぐ帰ってしまう。車が嫌いな上に病院の雰囲気で興奮するので、動物病院に行くのに少し手こずった。

 次の年になると、夜の散歩で頭に蛍を留まらせてピカピカ光らせながら帰ったこともあった。7月10日は7歳の誕生日でローストビーフとフランスパンでお祝いをしてやる。もうすっかり家族の一員である。山に行くのに三日間、Y家へ里帰りさして帰ると、淋しかったのか興奮してなかなか眠らず夜、3回も散歩する。風呂場の石鹸や、首輪を齧って嘔吐したこともあった。しかし言葉をよく聞き分けて、叱られると首をすくめてシュンとなるのがいじらしい。

 1993年の冬は厳しかった。朝、散歩を兼ねてバス停まで見送りに来た美鈴は白犬に変身した。この頃はシャンプーをしてやるのも私の仕事。次の年の2月も全国的な大雪。家の近くでも約10cmの積雪があり、美鈴は大喜びで走り回った。

 


わが家の犬と猫

2020-05-08 09:34:26 | 私の動物記

私の動物記(3)

私の生まれ歳(1934年)の干支は戌である。子供の頃から犬が大好きだった。戦後の生活がやや楽になると、親父はさっそく犬の子を貰ってきた。毛色から「クリ」と名付けて、国民学校6年生になった私とよく近くの溜池で泳いだりした。しばらくして捨て犬の仔が弟分になり「ジョン」と呼んで弟と仲良しだった。

      

9歳違いの弟とジョン

 河内の家には猫もいて、多い時は親子三代、色んな色の10数匹が家の中を走り回っていた。弟はタンスの上に数匹を並べて、無理にジャンプさせて飛距離を競わせた。やがてプロ野球が復活して阪神ファンの私たち兄弟は、特にトラネコを可愛がり阪神が勝つように手を叩いて祈願したりした。

増えすぎた猫は貰い手もなくなり、ついに土砂を運ぶトラックに頼んで遠くへ捨てに行って貰った。ところが何か月もあとに痩せ衰えて泥まみれで帰ってきた雌猫がいて、また猫屋敷が復活してしまった。

 

  河内での住まい・庭だけは広かった

結婚してしばらくは池田に住んでいたが、長女が生まれるとすぐ親父が他界したので河内に帰った。猫が嫌いというよりは怖い家内の同居の条件は猫を処分することだったので、ついに動物は何もいなくなった。

 建築中の我が家(1969年10月)

周囲にまだ家が少ない

1969(昭和44)年、現在の大和郡山へ転居した。まだ新しい造成地では前の小川で金魚が泳ぎ、土手ではキジが抱卵していた。

新居の庭で遊ぶ娘と息子(1970年1月)


戦中から戦後へ

2020-05-06 14:46:08 | 私の動物記

私の動物記(2)

     

嘉一郎お宮参り(昭和9年12月21日)           嘉一郎8カ月(昭和10年)

 

      

嘉一郎4歳(昭和14年日支事変南京陥落記念)      嘉一郎7歳(昭和16年 田辺国民学校入学)

戦争が激しくなり家族で河内へ疎開することになりインコは誰かに譲ったらしいが、その止まり台と足を縛っていた鎖は残していた。戦争が終わると、どこからかカラスの子を拾ってきて「カー公」と名付けて育て、大きくなるとオウムの鎖を付けた。夕方になると運動のために放してやるが、仲間外れになるのか家の上を大きく旋回するだけで、親父が「カーコー」と呼ぶとすぐ止まり木に帰ってきた。

家族疎開で北河内郡四条村に転居した当時の写真

 烏は雑食で餌に困らなかったが、ウグイスやメジロはそうもいかず、生餌のミノムシを取るのが私の仕事になった。また兎、鶏など飼って食糧難を乗り切ったが、ひもじくても口にするのは辛かった。


親父の思い出

2020-05-04 09:57:21 | 私の動物記

私の動物記(1)

動物が好きだ。長いものや足の多いものなど昆虫の一部を除いては、どんな動物にも興味がある。相手も分かるのか、初めての動物もすぐ慣れるし仲良くしてくれる。これはたぶん親父の血を引いているためと思う。

下)昭和2年 右端が親父(25歳) 筑前琵琶を持っている  

 親父28歳(左から二人目、三味線を弾く)

 親父は遊び人(よく言えば趣味人)で色んな事に手を出したが、中でも小鳥を飼うことに熱中していた。第二次大戦中、軍属としてシンガポールへ行っていたが、もともと病弱気味だったのですぐ帰国できた。その時、連れて帰ってきたオウムにやる餌に苦労して、近所の種苗店からヒマワリの種を分けて貰っていた。このオウムは最初、英語でしゃべりまくるので喧しいだけだったが、ある日、初めて「コンニチワ」と言って親父を驚かせた。

 1942(昭和17)年 軍属姿の親父