ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

一本ただら

2014-08-28 13:14:53 | 四方山話

これはかなり以前、郷土玩具を集めていた頃に大台ケ原で求めたものです。

その説明文に「…昔から『ハテ(年の暮れのこと)の二十日は伯母峰峠を越すな」「一本足の鬼に生血を吸われるぞ」の言い伝えがあります。これは昔、この峠に怪物がおり街道に出て人を襲い多くの犠牲者が出たからです。この怪物は身の丈三米に目が一つで、頭から背にかけて笹が生えた年古りた猪の化け物で、これを猪笹王別名一本ただらと称しました。」怪物は山麓北山郷天が瀬の鉄砲の名人・射場兵庫が愛犬ブチの協力で射止めます。しかし、怪物は死後も世を人を呪うので、村人は宝泉寺に猪笹王の霊を祀り、彼の死んだ12月20日に供養している…とあります。


大台ヶ原駐車場から西大台周回路に入るところに大台教会がありました。何度かここに泊まって今は亡き田垣内政一さんの話を聞いたのも懐かしい思い出です。永らく大台の自然を守ってこられた翁の話は実に豊富でしたが、なかでも「一本ただら」の話は印象的でした。

 
 
ハガキは私が持っている大正11年発行の「山の伝説と情話」に、この話が収録されていると話したことを覚えておられて、昭和49年頂いた年賀状に「ついでの時にコピーを送って欲しい」と丁重に書かれたもので、挟んである本とともに私の大事な思い出の品になっています。
 
 
「山の伝説と情話」は大正11年夏に朝日新聞社が全国から募集した2000通を越す応募原稿の中から、紙上に掲載された16編に未発表の25編を加えて一冊の本にまとめたものです。「支那、朝鮮」から応募した話も含まれていて、口絵も朝ドラで放映中の「花子とアン」に似た雰囲気で時代を感じます。
 
 さて、この本での「一本ただら」は「伯母峰峠の一本足」と題して戌亥實五郎という方が寄せられたものです。怪物は「山腹の小平原にある伯母谷村に出て農作物を荒らし家畜を取り坊喰ふた。」村は荒れ果てて全員離村も考えたとき、某猟夫(かりうど・名前不明)が「九死一生の大難が降ってきた時の外(ほか)使うてはならぬと先祖から云ひ伝へられる」家宝の火縄銃を持って一日半、ついに「牛の六倍もある大きな者が寝ている」のを見つけます。
 「轟然一発、煙は四方(あたり)をこめた…煙が散った時には其処に何者も居なかった。」血の跡が残っていたが、猟師は急に悪寒を感じて里に下り、村人の看病もむなしく息絶えてしまいます。村人は手厚く葬り、これで災難は終わったと一安心(この話では忠犬はでてきません)。
 「舞台は一転して」有馬の温泉宿。右足の膝から下がない客が訪れる。山遊びに行って崖から転んで外科手術をしたが経過がよくなく湯治に来たというが、私の入る間は他の客を入れないようにという。二月ほどたって「何か秘密があるに違ひない」と宿の主人がひそかに「見ると湯槽一ぱいの大きな獣…牛に似た姿で全身に笹のような毛の生えた怪物が…後足の一本で立って、膝までしかない一本の足の傷口を洗うて居るのであった」。
 居間に帰って震えている主人に客はだれにもいうなと正体をあかし「今に全治して帰ったならあの伯母谷村全土を黒焦げにしてやる。」ただ、あの火縄銃が恐ろしい、あれをまず盗まねば私の神通力も及ばぬ…「と語り終わって恐ろしい顔で大和の方を睨んだ
 主人は仕返しを恐れながらも、このことを伯母谷村に手紙で知らせます。怪物が生きていると知った村人は鎮守神の御本体として火縄銃を祀ります。傷のいえた生笹は貴い銃のお加護で村に禍ができず、「伯母峰峠の通路に出て通行人を取り喰ふた。」北山村へ通う唯一の要路が通れなくなった村人は困惑して生笹と妥協…
 ところで本の漢字は旧体ですべてに旧かな遣いでルビがふってあります。「だけふのけつくわは ねんにいちにち しはすのはつかにとほるひとだけは いくささにやらふ」ということになったそうです。
 
 
現在、大台ケ原スカイラインの起点になっている峠は、伯母峰岳への登り口になっています。

8月に読んだ本から

2014-08-27 06:00:00 | 読書日記

1.吾輩ハ猫ニナル(横山悠太・講談社)群像新人文学賞受賞・芥川賞候補作
題名を見て単なる漱石の「猫である」のパロディかと思うと大違い。ユニークなルビ付き文章で浮かび上がるのは、微妙な表現のズレによる日本と中国の文化の違いです。
 ほんの一例ですが、「超市がスーパー、便利店がコンビニで、熊猫はパンダ、猪肉はブタ肉…」程度のことは、何度か中国に行って私も知っていました。しかし…以下の中国語は日本ではどんな意味でしょう。「鍋貼、芝士、烏冬、馬刺をかける、毛病」。答えは「ギョーザ、チーズ、ウドン、拍車をかける、くせ」…全く逆の意味の場合もあります。例えば「黒車=白タク」の意味で使われています。ずっとこの調子で、しかも「日本語は字が三種類もある」のでカタカナは主人公の目の敵にされます。そうそう主人公は父親が日本人の中国青年(ハーフは差別語なのでダブル)、彼がビザの更新のために日本に来て、友人や母親に頼まれた買物のため秋葉原に来るお話です。「猫」がどう絡んでくるのか…面白いです。

 
2.ソマリアの海賊(望月諒子・幻冬舎)
男っぽい冒険小説です。凄く魅力的な女性が登場しますが、濡れ場は一切なし。ひょんなことから平凡なサラリーマンの青年が、武装勢力同士の争い、政府高官の人民搾取、周辺の大国の思惑で揺れ動くソマリアで、最初は戸惑いながら最後は大活躍する物語です。冒頭に紹介したマリアの連れの「サー」の称号を持つ007を彷彿とさせるイギリス人、CIA、ソマリアの長老、その孫の(本物の)海賊、その幼馴染の海賊…他でチョイ役で登場する人物も含めて、いきいきと一人一人の個性が描かれています。そしてクライマックスは海賊が世界を相手にミサイルをぶっ放す…荒唐無稽なようですが、文献によって技術的なディテールがきちんと描かれていて、はらはらしながら読みました。上質のエンターティンメントでした。

42年前の今日~穂高と乗鞍~

2014-08-25 11:30:23 | 山日記

二人の子供の子育ても一段落した1972年8月、結婚後はじめて二人で長い山行をしました。例によって当時の山日記からの抜粋です。

23日。子供を実家にあずけてアタックザックに妻は食料、僕は装備をそれぞれ一杯に詰め込んで家を出る。アルプス特急という名のバスでうとうとしているうちに上高地着。吊尾根にガスがかかっていたが、まあまあの天気。

 24 日。寝ばけ眼で登山者カードに記入し、上高地発。半分居眠りしながら明神池を過ぎ、徳沢まで来てやっと目が覚めた。シーズンも終わりに近く、人気の少ない静かな山道を味わうようにゆっくり歩く。横尾手前の黒沢出合で朝食。本谷出合で早めの昼食。涸沢ヒュッテはがら空きで非常に寒く、ありたけのものを着て震える。夕方からはストープが焚かれる。
 
 
25日。前に義弟と登ったときに比べると 6kg も痩せたのでずっと楽だ。北穂へ南稜をのんびり登る。
 
 
北穂頂上はガスに包まれて、槍の穂もすぐ見えなくなった。コーヒーを沸かし昼食。ここから奥穂への岩稜の最低コル付近で 3 羽の雷鳥を見る。滝谷側からガスが吹き上げてきて、肌寒い。涸沢岳でしばらく休み、山荘に着きハニーレモンを沸かす。
 
 穂高岳山荘から奥穂
 
 
夕方、外で食事して後片付けしているとき、ジャンが見えた。山荘の前は広くなり、大きな石のテーブルまでおいてある。
 
26日。目を覚ますとかなりの雨。奥穂~岳沢をあきらめて、風雨のザイテングラードを下山。横尾で缶ビールを立ち飲みして元気をつけて、また歩く。明神で熱いウドンを喰い、びしょ濡れで上高地へ下り、バスで平湯へ。雨、止まず。温泉で汗を流す。
 
27日。夜明けまで雨の音がしていたが、 7 時頃、急に青空が広がり、笠ヶ岳が宿の窓から見えた。9 時発のバスで乗鞍へ。ガイドの兄ちゃんは、本年最後のバスが年に一度の快晴だと、一人で感激していた。なるほどバスが登るにつれて、槍、穂高、笠、中ア、白山と視界が拡がり、雲海も見え、絶好の展望。
 
 
畳平より剣ヶ峰へ向かう。
 
 
頂上では御岳や富士は見えなかったが、青空の下、太陽を浴びて久しぶりにすかっとした。
 
 
帰路平湯峠でバスを降りました。峠の茶屋の前にはクマの仔が鎖で繋がれていました。平湯峠で山菜ソバを食べて、ヒッチハイクで平湯へ帰りました。

私の関西百山(78)槇尾山

2014-08-25 05:18:17 | 私の関西百山

 78 槇尾山(601m)
<まきおさん>大阪府和泉市。中腹(標高500m付近)にある天台宗の寺院・施福寺の山号と同じである。

空海や行基も修行したという修験道の聖地で、山中には多くの滝がかかる。西国三十三ヶ所第四番札所である寺の背後の山頂は捨身ヶ岳というが、やや道が不明瞭である。途中の蔵岩からの展望は素晴らしい。関西の岳人には屯鶴坊を起点とするダイアモンドトレイルの終点として知られている。

 清水滝

最初にこの山を訪れたのは1959年4月10日、皇太子(現天皇)ご成婚の日だった。友人と3人で9時40分に春木駅をスタートし、側川谷を遡行して清水滝などで遊び、山頂には15時に着いている。

府中まで歩いて大阪へ帰って、居酒屋で一杯やっていると、TVでご成婚パレードに投石事件があったことが伝えられていた。翌年5月にもこの山の周辺を歩いているが、記録を残していない。

15年後の1974年5月、府中からのバスで逆コースから入山した。約20kgの荷だったが快調に尾根を越して清水の滝へ。15年前に比べると道は良くなって人も増えたか、ゴミも増え、水量はぐっと少なくなったようだった。林間でテントを張り、翌日、側川口に下った。
 
1995年3月5日、町内の山の会の下見に二人で登った。マイカーで側川林道の荒れた路面を走り終点の広場から指導標に難路とされている渓沿いの道を登る。

 清水滝

人智開明の滝から清水滝までは、大きな朴の葉を踏んでいく。和泉最大という清水滝の右岸の岩場を、ザイルにすがって登り、水平道を五ツ辻へ。ここには古い木の鳥居と各方面を示す道標がある。

鋭角に右へ折れ、整備された松林の中の道を緩く登る。少し急坂を頑張ると右へ尾根を捲くようになり、木の間越しに大阪湾や和泉の町がちらほら望まれる。三ツ辻からは再び傾斜が強まる。

尾根上の小さな突起に登ると十五丁地蔵が鎮座し、「まきのおみち」を指す古い石標がある。ここから引き返し、三ツ辻からは尾根の上を槙尾山へ向かう。右手になだらかな岩湧山が見える。顕著なピークを一つ越し、再び緩く登った檜原越で昼食。急坂を下ると滝畑ダムヘの分岐があり、すぐ施福寺の境内に入った。広場から一徳坊山と岩湧を眺めて、蔵岩に向かう。急坂を登って岩の上に立つ。

素晴らしい展望所で、東に岩湧、その向こうに金剛、葛城が、西には大阪湾と泉南の町が拡がる。早々に正面見えるビークヘ向かう。小さな松の点在する岩稜を通り、雑木林の中を登って601ピークに立つ。

三角点も見当たらず、展望も皆無で面白味のない頂上だった。(写真は1週間後の例会時、清水滝の写真も)

<参考コースタイム> 側川林道終点(30分)清水滝(10分)五ツ辻(40分)三ツ辻(10分)十五丁地蔵(10分)三ツ辻(15分)檜原越え(15分)施福寺(20分)蔵岩(15分)601M ピーク (30分)山門前バス停14:05(40分)側川林道終点


53年前の今日

2014-08-23 17:03:08 | 山日記

1961年8月23日は、当時高校三年生で私の母校の山岳部に所属していた9歳違いの弟と、烏帽子から槍、常念、大滝へ縦走中でした。以下は山日記からの抜粋です。

20日。夜、おなじみの「ちくま」で大阪発。21日。七倉でバスを降り、軌道上の道を歩き、濁小屋で朝食。ブナ立尾根の登りはキビシイ。「ゴン太落し」などというところがあり、「これより 4時間」の道標に音をあげる。何度か休憩を重ねて、ついに三角点のある地点に出て昼食。
 
 
稜線に出る頃、夕立となり、頂上はあきらめて小屋に入る。
 
22日 快調に三ツ岳へ登り、野口五郎への気持ちよい縦走路を飛ばす。
 
 
ガスで何も見えないのが残念。槍も見えない。野口五郎から赤岳が近くなると、小うるさいピークが続く。鷲羽への登りはガラガラの石の上をわずかだがキツイ。
 
(↑鷲羽岳の下り・三俣小屋を見下ろす)
予定の時間より大分早く着いたので、捲き道もあったが頂上へ登る。この登りで雨となる。せっかくの頂上もさっぱり。懐かしい双六小屋はやっぱりサービスが良かった。腹一杯喰って、満員の二階で寝る。
 
 
23日。双六の小屋の前から、燕から餓鬼へ続く稜線が見渡せる。樅沢岳に登り、穂高から槍への大パノラマを楽しみ、西鎌尾根をよい調子で歩く。
(千丈沢乗越より剣岳)
 
槍への登りも、千丈沢乗越から2ピッチで軽く山荘に着く。荷物を小屋の前に置き頂上へ。
 


穂高の稜線からガスが湧いてきたが、昨日歩いてきた裏銀座、薬師、遠く立山、剣まで一望の下に見渡せる。いつまでも見飽きぬ展望に別れを告げ、宿泊予定地の西岳小屋に向かう。西岳への登りは下から見上げると相当なものだが、取りついてみるとそうでもない。ようやく小屋へ着いて今夜の宿を頼むと、出てきた眼光鈍いオッサンは「まだ日が高いからオテンショまで行け」という。仕方なく歩き出す牛首の麓の大天井ヒュッテに転がり込む。夕食のチキンライスは肉と卵が入っていて、珍しいことで感激する。
 
24日 大天井岳頂上へ往復するがガスで何も見えず、仕方なく小屋を発つ。横通岳までは全く申し分のよいハイウェイ。調子よく飛ばす。

(東天井岳より常念岳)
 
いったん尾根を絡んで、すぐ横通岳を捲き、ちょっと登ると常念乗越へぐんぐん下る。乗越からかなり激しい登りを終えて、頂上かと思うと、次々に小さいピークが出てくる。穂高から見ると大きいだけで女性的な感じがしたが、なかなかどうして岩石の積み重なった堂々とした山容である。ガスで展望の効かぬのは残念。岩の上をぐんぐん心配なほど下る。小さいピークを一つ越すと、また下り、じめじめした森林帯の中を過ぎて、もう一つピークらしい所を越す。小さいコルのような所で休む。ここから蝶槍への登りは案外に簡単だった。槍を左に見て、すぐ蝶のだだっ広い頂上。ガスで何も見えないので、運が悪いとあきらめて小屋へ下る。



小屋は新築で、時間が早いのでだれもいない。ゆっくり寝転んで手紙など書き、久しぶりにゆっくりする。
夕食後、ガスが晴れたのですぐ近くの展望台に出かける。穂高の稜線に夕日が沈む。槍の穂先に次第に黄昏がせまる。すばらしかった。

(蝶槍と常念岳)
 
25日 晴。朝食前に展望台に登る。安曇野の雲海の上に登る荘厳なご来光。モルゲンロートに輝く穂高の峰々。この夏の最後を飾るにふさわしい夜明けだ!
 
 
大滝山の稜線では折からのガスにはっきりとブロッケンまで見た。小屋の側の池にはサンショウウォがウジョウジョ。頂上で槍を背に記念写真を撮り、徳沢に下る。

 明神池

 河童橋 

私の関西百山(77) 岩湧山

2014-08-22 19:00:53 | 私の関西百山

77 岩湧山(897m)
<いわきやま>大阪府河内長野市にあるダイアモンドトレイルの西の主峰である。山頂一帯はキトラと呼ばれるカヤの生育地で、手厚く保護されている。898M 三角点のある山頂からは、北に金剛、葛城、東に高見、国見の鋭峰、東南に大峰の山々、南に高野の山々が紫色に浮かんでいる。西峰の広場からは眼下の大阪平野、堺臨海地帯が箱庭のようで、関西空港の向こうには淡路の島影が見える。西には槙尾山から和泉葛城につづく緑の稜線に三国山の純白のレーダードームがくっきり浮かぶ。

はじめて、この山に登ったのは1960年5月で滝畑ダムのキャンプ場で幕営して、翌日、山頂から西へ延びる尾根に登り、三角点のある西峰を経て東峰から岩湧寺に下り、長い林道を歩いてダム湖へ帰った。残念ながら、このときの記録も写真も残っていない。
 その後も同じコースを歩いているが、1995年8月29日と12月17日は岩湧寺の駐車場まで車で入った。ここから参道になる「やすらぎの道」を行き、行者の滝、千手の滝、不動滝をみて岩湧寺に参拝。

8月は淀君寄進の多宝塔が見えてくる辺りから、境内のシュウカイドウの花が満開だった。

岩湧寺は大宝年間(8世紀始め)文武天皇の勅願で円小角開基と伝えられる。本堂は豊臣秀頼の再建である。12月には境内の落ち葉をと掃いていた住職から、いろいろとこの寺にまつわる話を聞くことができた。寺(山) 名の由来となった「山肌から湧き出したように見える大岩」が谷の向こうに聳えているのも初めて知った。



から「きゅうざかの道」(もとの兼松新道)に入る。丸太で土止めした階段状の道がずっと続き、遊歩道のような趣だが名の通り勾配はきつい。



最後はロープにすがって稜線に出ると、ダイアモンドトレイルの通る東峰である。ブナ林の中の坦々とした道から、いったん下って暗い林を抜けると、明るい緑の草原が広がる。





898M三角点のある西峰山頂である。帰りはダイアモンドトレイルを少し紀見峠の方に歩き、勾配のなだらかな「やすらぎの道」を辿った。例の大岩を真横から見上げ見下ろす(道が岩全体の高さの中間にある)所に立派な木の橋があり、間もなく往路の「きゅうざかの道」との分岐に帰り着いた。


私の関西百山(76)大和葛城山

2014-08-20 08:13:27 | 私の関西百山

76 大和葛城山(960m

(やまとかつらぎざん)御所市の西に大きくそびえる、古くから役行者の伝説で知られる信仰の山である。元来、葛城山(葛木山)は、二上山から葛城山、金剛山にかけての山域全体の総称であり、現在の葛城山は古くは戒那山と呼ばれていた。      今、東山麓のロープウエー登山口駅前にある不動寺は、空海が不動尊を刻んで堂を建て戒那山安位寺と称した所で、室町後期の不動石仏で名高い。
 
付近には戒那千坊という地名が残っている。葛城の地名(元の読みはカズラキ)については、『日本書記』に「高尾張邑(たかをはりのむら)に土蜘蛛あり。その為人(ひととなり)、身短くして手足長し。(中略)皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号(なづ)けて葛城という」という神武東征説話がある。

(金剛山より5月中旬の大和葛城山。山頂右手のツツジ園がほの赤く染まっている)

この山は私達夫婦にとってはホームグラウンドともいえる山で、これまで100回以上登っている。いくつもの登山路があるが、代表的な3コースを記す。

ジョウモンノ谷(深谷)道


ロープウエー登山口駅横を直進して山道に入り、櫛羅(くじら)の滝(↑)、行者の滝を経てヒノキや杉の植林の中を登る。尾根道から谷の源流部になると、涸れ谷の左岸を行く。ツツジ園に登る道を分け、少し先で右に分岐する道を登れば天神ノ森。ここから北斜面を約一時間で一周する自然観察路がある。

ここにはカタクリの群生地があり、春には美しい花が迎えてくれる。左に広い道を行くと白樺食堂前に出る。

右へ数分でなだらかな草原の山頂。大和・河内平野を見下ろし、すぐ近くの金剛山から右に紀泉高原の山々、左に台高、大峰などの大展望が得られる(1時間45分)。

青崩(あおげ)道<天狗谷道>



青崩の集落を抜け谷沿いの林道を行く。細くなった流れを離れ、やや上ると小さな鎖場がある。

急坂のジグザグを繰り返して、尾根上のベンチのある所にでる。右に折れて少し登ると勾配が弱まり、雑木林の山腹を捲くほぼ水平な道を行く。

この辺り、冬は美しい霧氷の林である。弘川寺からの道と合し、直角に右に登る。

この辺りは現在、砂防工事が進んでいるが緑に苔むした杉林の木の根道で、春にはショウジョウバカマの大群落中を行く。間もなく頂上すぐ下のキャンプ場に着く(1時間45分)。

水越峠からの道
 水越峠は葛城山と金剛山の間にあり、大阪と奈良の府県境でもある。江戸時代に大和側の山麓の名柄の少年、上田角之進が、河内側の谷水を土嚢を積んで大和側に落とすようにして以来、近年まで文字通り水が峠を越えていたのである。元禄時代にはこの水を巡り、大和と河内で激しい水争いがあったという。峠からは短い急坂を登り、樹林帯に入り石畳道を登る。二度ほど急な木の階段道があり、笹原から杉林の中に入る。左右に河内、大和平野を見下ろす開けた所から雑木林に入り、それを抜けるとツツジ園の下に出る。

「一目100万本」というツツジは元は笹原だったが、私たちが奈良に居を定めた1970年頃(頃)にササの花が咲いて枯れた後に自然に増えたものである。5月中旬から下旬には大勢の観光客で賑わう。左へ捲き道で国民宿舎前。右はツツジの中の直登で、時間的に大差なく山頂に通じている(1時間15分)。


私の関西百山(75) 二上山

2014-08-18 17:52:52 | 私の関西百山

 75 二上山(雄岳・517m)

 

 (にじょうざん)大阪府南河内郡太子町と奈良県葛城市の境にあり、雄岳と雌岳(474m)の二峰から成るトロイデ式火山である。二上山の方角は、河内からは「日出(いず)る山」、大和からは「日没する山」にあたる。特に大和国中(くんなか)の古代人からは、神聖な「ふたかみやま」として崇敬された。

飛鳥の飛鳥の奥津城と考えられた西南麓には、古墳群と呼ばれる多くの墳墓が築かれている。 雄岳山頂には、葛城二上神社(岳の権現)に並んで、政争の末に謀反人として葬られた大津皇子(おおつのみこ)墓がある。皇子を悼んで姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌は、あまりにも有名である。

うつそみの 人なる我や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と我(あ)が見む。

二上山の三角点は雌岳にあり、周辺は自然公園「万葉の森」として整備されて展望も良く、河内平野の彼方に大阪湾が光り、大和側には大和三山、正面には金剛・葛城の峰々が見える。(写真の背後の山は雄岳)

ダイアモンドトレイルの北起点である屯鶴坊から登る道は、木の階段の連続で雄岳と雌岳のコルにあたる馬ノ背(↑)に通じている。二上山駅からは国道165号線を渡って山に向かい、新池から267mピークを経て急な尾根道の登りで雄岳を目指す。

二上神社口駅からも国道を渡って町の中を行き、二上神社横から山道を登るとひとしきり登った地点にベンチがあり、二上山駅からのコースに合流する。頂上は杉など樹木が多く、展望は期待できない。

当麻寺駅からは参道を行き當麻寺北門から山に向かう。山口神社、傘堂(↑珍しい一本足の建築物)、山麓公園を過ぎ、祐泉寺山門に着く。

道は二分し、左は岩屋峠に通じる。直進するとジグザグの急坂を登って、ベンチのある馬ノ背のコルに出る(駅から1時間15分)。右はガラガラの岩屑道を雄岳へ、左は遊歩道で雌岳へ通じる。いずれも15分ほどで達する。

近頃はマイカーを山麓において登ることが多い。道の駅「ふたかみパーク当麻」において周遊したり、當麻寺奥の院近くの「ふれあい広場」駐車場から登る。また山口神社横にもおける。

竹ノ内峠の下にある大阪側登山口からの道は、日本最古の石造十三重塔で有名な鹿谷寺跡を通り、眼下に河内平野を見下ろすミニロックガーデン的な岩尾根もあって楽しい。大阪側からは30分ほどで岩屋峠にでる。

二上山には他にも様々な登山コースがある。

道の駅から「ふるさと公園」の460段の石段を登り展望台に出て、三等三角点のある444mピークからアップダウンを繰り返して雄岳に出るコース。

裕泉寺下から尾根を登り「二上覗き」という岩場から上述のコースに合流する道。

大池上の烏谷口古墳(↑)横から、やはり「道の駅」からの道に合流するコース。ふるさと公園南側から鳶塚を経て登る道など、いずれもちょっとした変化があって面白い。


私の関西百山(74)金剛山<続>

2014-08-16 08:18:10 | 私の関西百山

北尾根(2時間30分)
 奈良側の一般的なルートで下山路として使われることも多い。上の石ブテ尾根のときと同じ場所に駐車して、トイレの横を上がるとすぐ右に分岐する道を登る。植林帯の中、掘り割り状の急坂を20分ほど登ると、左に金網が張ってあるところで、やや平坦な道になる。石ブテ東谷への分岐を過ぎ、ヒノキ林の中を登る。尾根の右側を捲くように進み、少し下って小さなコル状のセトに着く。

ここにはベンチがあり、右に黒栂谷への道が分岐する。再び掘り割り状の急坂を登ると、電柱が現れて道は右に曲がっていく。頭上に人声が聞こえてくると国見城趾が近い。

パノラマ道(2時間30分)
 
水越峠からの一般的な登路だが、以前に比べて樹木が茂りかなり展望が悪くなって、名前には少しそぐわない気もする。水越峠にある車止めの大きな金網扉の横から林道に入る。なだらかな緩い登りで道脇にあふれる「金剛の水」を過ぎ、やがてカヤンボに着く。ここで太尾への道が分かれる。橋を渡り、左手の山道に入っていくとすぐ休憩所がある。

ジグザグの急坂を上りきって尾根に出た所が旧パノラマ台で、ここまで峠から約2キロ、ここから頂上まで3キロの地点である。気持ちの良い尾根道を行くと、冬には道の両側には樹氷の花が見られるようになる。30分ほどで、右側が開けて葛城山が見える場所に出る。ここから頂上までは1キロ。しかし、急坂続きでシンドイ所だ。90度左に折れ、少しジグザグの後、深く道の抉れた所を直登する。急坂は500メートルほどで終わり、高天からの道を合わせると山頂の一角「一の鳥居」に出る。

水越峠~太尾塞~頂上(2時間30分)
 カヤンボ手前の橋でダイトレ道と分かれて地道になった林道を右(西)に折れる。右手が開けて大和葛城山を仰ぐ。T字路になったところで左に行くと、狼谷を見下ろすところからヒノキ植林の中の広く歩き易い道になる。

大きく二三度、カーブすると少し開けた草地で、ベンチが置いてある。歩き始めて約1時間半。ここから傾斜のきつい山道になるが、僅か10分足らずで太尾塞に着く。太尾道と合流して尾根道を行くが、ここから六道の辻までがこのコース唯一の登りらしい登りである。

太尾(2時間10分)
 
水越トンネルから旧道を水越峠の方にとり石筆橋を渡り、林道を少し登って左手の尾根への道に入る。この分岐は少し分かり難いので見過ごさないようにしたい。

尾根に取り付き檜林の中をぐんぐん登る。右手の木の間に石ブテ尾根が見える。東谷を見下ろすようになると735m標高点の下で、ここで水越峠からの道が合流する。しばらく平坦な道が、やがてかなり急勾配の登りになる。二、三箇所、ロープが固定してある所もある胸突く急坂である。太尾塞跡でカヤンボからのコースと合流してすぐに六道の辻(石ブテ尾根との合流点)に出る。

春には花を求めて谷筋を歩くことも多い。長くなるので写真だけを掲げておく。
1,3=ワサビ谷、2=妙見谷、4=カトラ谷


私の関西百山(74)金剛山

2014-08-14 11:28:26 | 私の関西百山

74 金剛山(1125m) 

(こんごうさん)大阪・奈良府県境の金剛山地主峰。古くは葛木山と呼ばれ役行者開基といわれる修験道の聖地であった。山頂に葛木神社、転法輪寺、国見城址などが残る。

最高地点は葛木岳で葛木神社の本殿裏にあるが、神域のため立ち入ることはできない。そのため北側に少し降りた国見城址が山頂とされている。

三角点は湧出岳1,112mにある。(正面鉄塔の見えるところ)他に大日岳1,094mのピークがあるが、所在は奈良県御所市。大阪府の最高地点 (1,053m) は、千早園地の一角にある。

大阪側の千早には、南北朝時代に後醍醐天皇の皇位継承に伴い足利氏と戦った楠正成の拠点とした千早城址がある。大阪側にロープウェイもかかり、大勢の登山者で賑わう。特に冬季・霧氷の時期には学校などの集団登山も盛んである。北の屯鶴峰(どんずるぼう)から南の槇尾山までの全長45km、金剛葛城山系の稜線を縦走する長距離自然歩道、ダイアモンドトレイル(ダイトレ)の中心部であり、山頂社務所前の登山回数表示板で知られる回数印を楽しみに毎日登る人も多い。1万回も山頂に立った人がいるのに、私たちは過去60回を越したに過ぎない。

登山路は西の大阪側、東の奈良側から合わせて30以上のコースがある。私が初めて金剛山を歩いたのは1959年1月である。紀見峠から南尾根(今のダイトレ)を縦走して頂上に着いたのは12時50分、16時40分御所に降りた。その後、大阪側からも何度か登ったが、以下、よく歩く奈良側のコースの一部を記す。

郵便道(登り3時間)
昭和10年に山頂の葛城神社が今の建物になってから終戦直後まで、郵便屋さんが奈良側から社務所に郵便物を運んだルートである(今は大阪側千早局管轄)。短いがかなり急な箇所もあり、配達した人の苦労が偲ばれる。

登山口の高天には葛城古道が通り、古跡・鶯宿梅が近く、立派な駐車場ができている。この辺りは金剛山中腹で標高400~の台地になっていて、いかにも神話の高天原伝承地にふさわしい趣がある。近くは今年(2014)5月に登ったが、高天神社から高天滝への道が前年の大雨で崩壊し、迂回するようになっていた。

7mほどの高天滝の上で、古くからの道と合流して山腹に取り付く。

鬱蒼としたヒノキ林の中の急な道を標高800m付近まで登ると、勾配が弱まり快適な尾根道となる。この付近からは一帯の斜面を彩るイカリソウの大群落である。ここを過ぎると一部崩壊した場所もあるが、ロープなどが張られてよく整備されている。

水場「天剛水」から最後の急坂になり、500段の階段道を登り切ると、水越峠へ続くパノラマ道上部に出る。

すぐ「史跡・金剛山」の標識がある一の鳥居である。
 下山は、一の鳥居からパノラマ道に入り水越峠に向かってどんどん下ると、最初は溝状に掘れた道で、やがて杉林の尾根道となる。白雲岳の左山腹を捲き終わり、右の支尾根に入る。ここは春にはショウジョウバカマの大群落。正面に美しい三角形の高見の鋭鋒を見ながら下ると里が近いことを思わせる林道に出会い、右折して高天の村の上を通って神社に帰る。

石ブテ尾根(3時間)
金剛山北面のバリエーションルートの一つ、豪快な登りで一気に高度を上げて大日岳に達する。
 
水越トンネルで大阪側へ抜けた旧国道との出合は格好の駐車場所になっている。トイレの横から石ブテ林道に入ると、すぐ北尾根への分岐があるが、見送って谷を左に見ながら直進する。

林道を上っていくと大きな砂防ダムがあり、堰堤のコンクリートに楠正成のタイル画が埋め込まれている。尾根の取り付きには、うっかりすると見落としそうな赤テープが細い木の枝に巻き付けてある。細い踏み跡は尾根末端より少し上部に出るが、初めからかなりの勾配である。30分ほど登って河内平野の眺めのよい小台地にでて、さらに急坂が続く。小さなピークを超すと左側は自然林、右手は植林のなだらかな尾根になる。道は細いながらはっきりして、ところどころ赤ビニールの目印もある。
  
右に北尾根を見ながらのんびり歩くうちに、急に背丈を遙かに超す熊笹の中に突入する。やっと抜け出して雑木林の中をさらにもう一つピークを越す。左に太尾と呼ばれる尾根が見える。しばらく進んだ「六道の辻」はこの太尾からの合流点である。ここから右折すると道はグンとよくなり、やがて大日岳頂上に着く。



ここには昔は電波塔があって格好の目印だったが、現在は撤去されてススキ原になっている。この先の十字路を直進して山頂広場のざわめきが聞こえくると、少し下って社務所と売店の間の広場に出る。

目の前には牛王像を前にした行者堂が立ち、春はニリンソウの白い花で覆われる。左は転法輪寺、右は国見城址へ続いている。

 国見城址の金剛桜