ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

富士山に千回登りました

2011-09-04 08:42:09 | 人との出会い・本との出会い

タイトルの通り「富士山に1000回登った」という実川欣伸さん。
彼についてはこのBLOGで過去にもすでにご紹介していますが、とにかくすごい男です。
この本は日本経済新聞出版社から「日経プレミアシリーズ」(新書)の一冊として今年7月8日発行されました。
実は暑中見舞いを頂いて刊行を知り、すぐに読ませて貰ったのですが、ご紹介が遅くなりました。

「はじめに」にあるとおり凄い凝り性。ウィスキーは毎晩のようにボトル半分、焼き鳥は毎日2~30本、タバコ、は40代まで一日100本のヘビースモーカー。それぞれ拒絶反応がでて匂いが嫌になるまで続ける。ところが富士山だけは「春夏秋冬、飽きることがない」。15年、登り続けて1000回を越えている彼の赤裸々に自分をさらけ出したリポートです。

2008年10月4日。八合目付近でツララをかじる実川さんに出会いました。前年、7年8月にヨーロッパ最高峰のモンブランに登り、南極を含む七大陸最高峰のうち「あとはエヴェレストが残っています」と話されました。

彼の凄いのは富士山だけでなく、他の山へも目標を立てて登る視野の広さだと思います。しかも恐るべき体力の持ち主で、キリマンジャロ(アフリカ最高峰)登頂の時は彼の速さに付いていけないガイドがバテてしまい、ガイドの荷物を客の実川さんが持って登っています。(本人の自慢話でなく、同行者が書いています)。
 ご覧のように筋肉質の身体…というより全く脂肪のない肉体。静岡大学で測定したデータでは「体脂肪率0.00」と出たそうです。

2006年9月3日。富士宮六合目宝永山荘で。少し疲れた表情の実川さんと。
実は、このとき前日から一睡もせずに富士宮五合目から山頂まで連続登頂中だったのです。このとき六往復の下山中に立ち寄られたもの。この日、午後11時に五合目出発。幻覚を見ながらも登り続け、ついに足掛け三日、9月4日午後3時に五合目に下山。なんと55時間で8連続登頂という記録を遂げられた時の写真なのです。

初めてお目にかかった頃。2004年10月4日。定年前で暇を見つけては富士山に登っておられた頃です。この頃の登り方は、宝永山荘へちょっと顔を出して下山、五合目で仮眠をしてまた登り始める…といった調子で、一日二往復が普通だったと記憶しています。私たちもいつもこの宝永山荘をベースにしていますので、いつの間にか顔なじみになりました。

前にも書きましたが、「どうせ登るなら…」という彼は、ただ山頂を目指すだけでなく実に様々な「登り方」をされています。
 先に記した「8連続登頂」の他に、1993年9月の「四登山道連続一筆登山」 (30時間52分)、94年11月「東京駅から東海道を歩いて山頂へ」(43時間)、1995年7月~8月「日本横断3000m峰29座完歩」(29日間!)、2000年5月「伊豆半島一周」(54時間47分)、2002年下田和歌の浦~伊豆半島縦断~富士山頂(登頂200回記念、39年)…そして海外ではキリマンジャロ、エルブルース、コジウスコ…まさに超人的な記録です。

2005年に定年を迎えられて、いよいよ本格的に登頂記録に挑戦開始。08年7月・400回目、09年8月には「田子の浦から村山古道(修験者の道)を山頂へ」のルートで700回目。そして、ついに目標の富士山1000回登頂は、2010年10月10日この村山古道ルートから達成されました。

「夢は必ず実現できる」と信じ、「最高の人生を送っている」と言い切れる実川さん。
 世界最高峰もネパール、チベット両側からの連続登頂を狙っておられるとか…。サガルマタ、チョモランマ二つの名で呼ばれるエベレストに連続して両側から登った人は、まだ世界中に誰もいません。でも彼ならきっと、世界中の登山愛好家の夢を実現されると信じています。

今年も宝永山荘で、この素晴らしい笑顔に出会えることを楽しみにしています。 


まいにち富士山

2011-06-29 00:00:30 | 人との出会い・本との出会い
毎日、富士山に登り続けて829回(2011年6月14日現在)。
佐々木茂良さんについては、2008年のこのBLOGでご紹介したことがあります。

その佐々木さんから6月14日付けの「富士山レポートと刊行本のお知らせ」というお手紙
を頂きました。
「今年は富士山南麓を震源とする震度6の地震が発生…スカイライン道路に亀裂が生じ…
例年5月当初から開始するはずの私の富士登山は6月3日にずれ込み…今年はまだ10回
だけの登頂です。」

凄い!変愚院夫婦などは10年以上かけて、まだ10回の登頂です。

お手紙は、佐々木さんが初めての著書「まいにち富士山」を新潮社から刊行されること、
できれば「本をお持ちして、日ごろのご無沙汰を詫びるのが礼にかなう…」と思ったが、
「印税を東日本大震災義捐金に充てる手続き」をすでにとったので、本状だけの挨拶に
なったこと、またパソコン音痴なので、できればBLOGで紹介して欲しい…という内容で
した。



発売日を待って近所の書店で購入しました。
非常に読みやすい文章で、気取ったところや衒いもなく、また失敗談までが淡々と語ら
れています。飄々としたお人柄がうかがえるような、さわやかな読後感が残りました。

本書内容はオビの裏表紙にあたるところの「はじめに」と「おわりに」に挟まれた
五合目~剣ヶ峰の章建てになっています。
<以後、写真は変愚院撮影の各合目の様子で、本書の内容と直接関係ないものもあります>



「五合目 山頂はいつも見えている」
どちらかというと「八合目」でのエピソードにふさわしい写真です。五合目へ降りてきた
佐々木さんが「頂上まで何時間かかる」と聞かれ、「平均五、六時間」と答えて不審な顔
をされたという話。実は私たちにも同じようなことを聞かれた経験があります。すぐそこ
に見えているので「駐車場からちょっと登ってやろう」という輩は結構いるようです。



この章では六合目の宝永山荘の渡井さんご夫婦が登場します。ご主人の正弘さんの話は、
後の「山頂」でも出てきます。変愚院夫婦の富士登山はここがベースです。名物は後ろ
の幟にも見える「富士宮やきそば」。これを食べるだけに登ってくる人にも会いました。
登頂を終えて「焼そば」を肴に生ビールを飲むのが最高のご馳走です(ただし、もう
一泊するときです)。



「六合目」の章は、装備について。
これは2008年10月4日、富士山剣ヶ峰での佐々木さんとの記念写真。
同じような写真がこの本にも載っていますが、ヘルメット姿がトレードマークのようです。



「七合目」四つの登山ルート
佐々木さんが毎日登るのが「富士宮ルート」。標高差1376mと出発点の標高は高く、
所要時間も短いですが、一番急峻で厳しいコースです。私たちも、いつもこのルート
です。(下山に、途中から宝永山へ行くため御殿場ルートを二度通りました)



「八合目」高山病について
上手な歩き方のコツ、苦しいときのいろんな克服法など、山歩きにあまり慣れない人
に参考になる秘訣が記されています。
最近は小屋で酸素缶なども売っていますが、あくまで気休め。「治療は下山の他なし」
というのは、変愚院たちの経験でもよく分かります。
ちなみに変愚院夫婦の秘訣は六合目で宿泊して、できれば宝永山辺りで高度順化して
おくこと。おかげで、ご一緒した人も含め、悪天以外はこれまで登頂率100%です。



「九合目」
ご来光、大展望などの他、いろいろな「ご利益」楽しみ、見どころが紹介されています。
お鉢巡り、測候所の思い出、金明水、銀明水…。



変愚院の蛇足ですが、これは大沢崩れに現れた影富士です。もちろん、登った人に
しか見ることのできない珍しい光景です。



「山頂」富士山に登る資格のない人たち。
色んな人がいるものです。この富士宮口山頂にある浅間神社の前で寝そべっていた
若者との口論の様子が詳しく記されています。そして「山小屋主がいったこと」で
宝永山荘の渡井さんが再登場。静かに佐々木さんの怒りを自省へと変えていきます。



「剣ヶ峰」
最終章は「山頂の上の山頂」として、さまざまな恐怖体験…遭難一歩手前の状況が
赤裸々に記されています。変愚院にも同じような経験…雪山での滑落、幻覚、など
があり、共感するところが多いのです。

とくに最後は「祈り」。自分の力ではどうにもならないときに人は何者かに縋る他
ありません。神、仏、ご先祖…いや山そのものに祈るのかもしれません。山に登る
回数が増えて、つい失ってしまっている謙虚さを思い出させてくれる試練。
「登らせてもらう」という気持ちを忘れずに、私たち変愚院夫婦もまだまだ歩き続
けていきたいと思っています。

この本を読んだ人は、今年こそ、今年も、「富士山に登ろう」という思いを強くする
に違いありません。

「チベット二郎」先生

2010-04-30 16:18:31 | 人との出会い・本との出会い
河口慧海のチベット潜入については、そのルートが判然とせず、また内容も疑問視されることがありました。
しかし、その後の川喜田二郎などによる調査で、次第に彼の観察の正しさが証明されるようになります。
その著書「鳥葬の国」(光文社カッパブックス)は大ベストセラーとなり、もちろん変愚院も熟読したものですが、この本も手元から失ってしまいました。

川喜田二郎は「チベット二郎」(当時流行のシャンソン歌手イベット・ジローのもじり)の渾名があったほどのチベット好き、チベット文化の理解者です。
1958年、西北ネパール学術探検隊長としてネパールへ行かれた当時、大阪市立大学の文学部助教授(1950~60、60東京工業大助教授、61教授)でした。

変愚院は1回生(1955)の一般教養で「社会学」、4回生の「地誌学」で先生の講義に接しました。一回生の時はともかく、四回生では経済学部の私にとって必修単位の科目ではありませんでしたが、先生のお話を聞きたさにいつも一番前の席に陣取って目を輝かせていました。 
当時、山登りを始めたばかりの変愚院にとって、1953年(昭和28年)のマナスル登山隊員であった先生はまさに憧れの人だったのです。

今でも覚えているのは京大山岳部の仲間である今西錦司さんや梅棹忠夫さんらとの「大興安嶺探検」のお話です。太平洋戦争初期の1942(昭和17)年に、地図もない空白地帯に学生隊が足を踏み入れる。まさに「血沸き肉踊る」思いで熱心に聴講しました。

川喜田先生は有名な「KJ法」…データをカードに記述して、そのカードをグループごとにまとめ整理することで、問題点を発見したり、解決したりする発想法…の創始者です。
講義の時はリングで綴じたカードを教卓の上に置き、お話が進むにつれて一枚ずつめくっていかれます。そのカードが片側に全部移ると講義が終わるので、次第に減っていくカードの山を惜しみながら講義を聞いていました。

早く雀荘へ行きたいので、殆どの講義は上の空だったことが多い不良学生の変愚院が、これほど身を入れて聞いた講義は後にも先にもありません。
(もうお一人、後に大阪府知事になられた黒田了一先生の講義も面白くて熱心に受講しました。大雨の日、市電を待っていて先生のタクシーに同乗させて頂いた、ありがたい思い出もあります)

川喜田二郎先生は昨2009年夏、89歳でお亡くなりになりました。
改めて先生のお顔を思い浮かべながら、心からご冥福をお祈り致します。合掌

富士のスーパースター・2008年版

2008-10-07 20:35:41 | 人との出会い・本との出会い
今年も富士山に執り付かれた「スーパースター」たちに出会えました。

一人目は実川欣伸さん。何年か前にも紹介しましたが、ともかく考えられる
限りの登り方で富士山を「遊び尽くしている」人です。
例えば34時間50分で6連続登頂。30時間52分で四登山道連続登頂。
42時間で東京駅から登頂。下田から伊豆半島を縦断して39時間で山頂へ…。
富士山だけでなく、日本縦断で3000m峰29座を29日で踏破。海外ではキリマンジャロ、エルブルース、マッキンリーなど五大陸の最高峰に登っています。
すでに富士登山は555回を超え、近頃は一日二回の山頂往復を続けておられます。

2日の夕闇迫る頃、六合目宝永山荘で噂話をしていると笑顔で姿を現し、一緒に
生ビールを飲みながらいろいろと話を伺いました。


夕食を済ませると五合目駐車場に停めてある車で眠って朝を待つと、ライトを手に下って行きました。

翌3日朝は7合目で追いつかれ、「寒くて起きるのが辛く遅くなりました」といいながら道脇のツララをかじって、しばらく立ち話。


私たちが九合目近くまで登るともう下山してきて、「このしろ池に氷が張っていますが、雪は溶けてアイゼンは要りませんよ」と教えてくれました。下山時の八合目では二度目に登って来てと…結局この日は三度もお目にかかりました。

佐々木茂良さん。朝5時に車で秦野市の自宅を出て富士宮へ。五合目から登りだして山頂往復後、金時山へ登って帰るのが日課です。
 この人はもと教員で現在は市の選挙管理委員。
登山を始めた動機が変わっています。新田次郎の直木賞受賞作「強力伝」を読んで感動し、モデルとなった強力の娘さん、「金時山の金時娘」さんから直接話を聞いて、自分も富士山に登って見ようと興味をもったのが最初だそうです。
富士山登頂は400回を超え、金時山に至っては1,230回を超えるという猛者です。


 お目にかかるのは一昨年以来ですが、今年は剣ヶ峰への最後の急坂で逢い、頂上で久闊を叙しあいました。笑顔のとても優しい、口調も穏やかで物静かな人です。「私のことがTVで報道されるので良かったら見てください」と名刺の裏に放送日時を書いて渡されました。
 特集番組の放送日時は次の通りです。このBLOGをご覧の皆さんにもぜひ見て頂ければと思います。

10月23日(木)19時45分  NHKBS2
10月28日(火)22時    NHKハイビジョン
11月3日(月)12時

お二人とも「来年もまた逢いましょう」と名残りを惜しんでお別れしました。

エベレストから百名山へ(3.18)

2008-03-19 13:51:43 | 人との出会い・本との出会い
昨3月18日、東大阪市にある大阪府立中央図書館で、毎年恒例の日本山岳会関西支部主催「著者と語る会」が開かれました。



今年の講師は、表題の本の著者で関西支部長・重廣恒夫氏。
山登りを始めた動機となった子供の頃の昆虫採集の話から始まり、高校、大学そして社会人と登山を続けてこられた足跡…



とりわけ南西壁、北壁、交差縦走と三度にわたるエベレスト遠征と登頂の話は圧巻でした。
ヒマラヤ登山はじめ登山界の現況と、われわれ登山者が心すべき点を示唆されて話がおわったあと、隣接する東大阪市役所22階の展望レストランで著者を囲んでビールと軽食で話が弾みました。

なお中央図書館では23日(日)までの間、関西支部寄贈の山岳図書をはじめ、図書館所有の山岳書、また重廣支部長のヒマラヤの写真、支部会員の写真やスケッチなどを特別展示中です。

好日山荘往来

2007-02-17 11:26:49 | 人との出会い・本との出会い

大阪・梅田新道にあった「好日山荘」をご存じでしょうか?
同じ梅田にあった「白馬堂」同様、山の専門店とでしたが、いつも
見るからにベテラン風の山屋さんが品定めをしていて、私たちシロ
ウトにはちょっと敷居が高くて入り難い感じがしたものです。
9歳違いの弟は大阪岩嶺会という会に属するクライマーでしたが、
私よりも気軽に出入りして、当時店主の大賀壽二さんに可愛がって
頂き、時には夜帰られるときに家の前まで車に同乗させて頂いたり
していました。


その大賀さんが、好日山荘に来店した多くの著名な岳人たちとの
交流を中心に描いた「好日山荘往来」を出版され、昨(2月16日)
夜その記念パーティが梅田でありました。
大阪府山岳連盟、関西山岳会、日本山岳会関西支部の人達を
はじめ、大勢のゆかりの人々が集まってお祝いし、好日山荘と山に
まつわる様々なエピソードが披露されました。
大賀さんは現在リハビリ中で車椅子姿での登場でしたが、「こんな
嬉しい夜はない」と語られました。

この本には山仲間との交流だけでなく、ピッケルやアイゼンなどの
山道具の興味深い変遷も語られています。上巻はちょうど梅新
(老松町)にお店が移転したところまで…。私が山登りを始めた
のはその翌年のことでした。

畠堀操八さん-富士山

2006-09-20 06:22:06 | 人との出会い・本との出会い
9月始めの週末、宝永山荘は大勢の宿泊客で賑わっていました。
例年なら、9月に入ると富士宮表登山道も山小屋も、夏の喧噪が
嘘のように静かになるのですが、今年は2日が土曜ということで、
まだ夏休みが続いているかのような混雑でした。



そんな中で、一升瓶を横に静かに茶碗酒をあおる人がいて、同じ
部屋に私たちのパーティとその人が入ることになりました。
「もう登ってこられたんですか?」と聞くと「いや、先程ここへ
着きました」。「それじゃ、明日ご一緒ですね?」「ここから
下ります」と、ちょっと噛み合わない会話の後、「あ!」と気が
ついて「ひょっとすると…」とお訊ねすると、やはり「村山古道」
の畠堀さんでした。(写真は翌日朝、お別れする前のものです。)



富士山の登山道には精進口、吉田口、須走口、御殿場口、それに
いつも使う富士宮口などがあります。
また1999年に須山道が85年ぶりに復活したこともJAC同期入会の
裾野市愛峰山の会会長・勝又一歩さんから教えられていました。
しかし、実は「村山古道」については、宝永山荘でこの著書を手に
するまで耳にしたことがありませんでした。



この書物は、富士山最古の登山道でありながら明治初期の廃仏毀釈
以降次第に廃れて忘れられていた古道を復活させた、畠堀さんらの
道の整備に伴う苦闘の記録であり、また詳細なガイドブックでもあり
ます。
特に田子の浦から「村山」に至る道筋の説明は懇切丁寧で、ここを
歩く人のトイレ利用に役立つよう、沿道のコンビニが全て記載されて
いるほどの念の入れようです。
これは一人でも多くの人に、この道を歩いて欲しいという、著者の
熱い思いの現れでありましょう。

また、この土地と人との関わりが清水次郎長はじめ末代上人から
「いかりや長介」に至るまで豊富に描かれています。私には、
狂気にも似た廃仏毀釈の結果、辿らざるを得なかった「村山修験道」
の数奇な運命がことに興味深く、読み応えがありました。

またスズタケと倒木と闘いながら道を開かれた畑堀さんらのご苦労
が、「はじめて山登りが人様の役にたった体験」という、さりげない
表現に表れていることに感動しました。

いつも利用している富士スカイラインの西臼塚や高鉢駐車場などの
近くを通り、新六合目の歩道に達している、素晴らしい古道があること
を知り、ぜひ機会をつくってこの古道を歩いてみたいと願っています。

藤田健次郎さん

2006-09-18 08:51:47 | 人との出会い・本との出会い


2000年7月、別冊山と渓谷「たまには ふたりで山歩き」が発刊されました。
副題に「夫婦登山のすすめ」とあり、夫婦登山の計画の立て方、歩き方から
二人歩きのコースガイドなど豊富な内容の雑誌でした。
そのなかのレポート「それぞれの夫婦の山歩き」 の4組の中に、思いがけず
私たち夫婦が紹介されのです。有名な山岳雑誌の見開き2ページに写真入り
で登場したことは、気恥ずかしいことながら本当に嬉しいことで、一生の想い
出となる出来事でした。



 その記事を書いて下さったのが藤田健次郎(ふじたけんじろう)さん。
毎日新聞社記者から編集委員、支局長などを歴任して退社された方です。
インタビューで断片的にしゃべったことが、こんなに見事に整理されて
臨場感あふれるレポートになったことに驚き、流石ベテランのライター
と舌を巻いたことです。
 それまではメールなどでやりとりしていただけでしたが、この時の
インタビューや発刊後お礼と言われてご馳走になったりして、その後
親しくお付き合いするきっかけになりました。
 特にこれといった山歴のない私が日本山岳会に入会できたのも、手続き
を整えて下さった先輩会員・藤田さんのお陰です。



低山徘徊派が葛城山で鴨鍋オフをしたとき(上の写真)や、JAC関西支部
の一水会(勉強会)に講師としてお願いすると快く引き受けて、時間を
割いて下さいました。
もちろんすべてボランティアの友情出演で、かえって著書の提供を頂い
たりご負担をかけています。



 藤田さんの著書には、上の「中高年、山と出会う」の他、「ひとり歩き
の金剛山」「ふたりの夏山(いずれも山と渓谷社刊)などがありますが、
いずれも「より安全に楽しい山歩き」をすることで「山の持つ奥深さを
じっくり楽しむ」姿勢が貫かれています。



 「アジアの山紀行」は、そんな藤田さんが「国内から海外の名峰へと
エスカレート」した「登山とトレッキングのすすめ」ですが、ここでも
「安全に、しかも楽しみたい」という大衆登山の基本ともいえる考え方
が披瀝されています。
 ともすれば「しゃかりき」になりがちな貧乏性の私には、見習わなけ
ればならない「大人」の風格ある山歩きスタイルといえるでしょう。


  最近作「初めての四〇〇〇メートル-熟年登山者のキナバル山行記」
では、光栄にも表紙カバーと本文の一部に変愚院撮影の写真を採用して
頂きました。

先生…というと嫌がられるので、失礼ながら「健さん」、近いうちにまた
何処かで一杯やりませんか。

森澤義信さん・奈良の山

2006-09-14 08:57:42 | 人との出会い・本との出会い


「奈良80山」は奈良の山を歩くには欠かせない本として、今では
私の座右の書となりました。

 80という数は「県内で標高800m以上の山」を基準に選ばれて
います。

 この本では、登山口までの交通手段としてマイカーを使ったガイド
になっているので、バスの回数が少ないために入山が困難だった
地域も、京阪神からの日帰り圏に入っています。

 類書には未だにマイカーでの入山を罪悪視するためか、不親切
あるいは不明瞭な記述が目立ちますので、この本はマイカーを利用
することの多い私にとって、とてもありがたく思いました。
 また、登山口周辺の記述がしっかりしていることも、何度も登山口
を探して長い時間を浪費した経験をもつ私には嬉しいことです。



 著者の森澤義信(もりさわ よしのぶ)さんとは、この本がご縁で
お付き合いが始まりました。日本山岳会に入会されたあとは、何度と
なく山行をご一緒することになります。(写真・右端が森澤さん。
2005年12月、熊野古道・伊勢路にて)

とくに2年前からJAC関西支部設立70周年記念事業として「紀伊山地
の参詣道シリーズ」と銘打った山行を始めてからは、つねに先達として
詳しい説明とともに道案内役を務めて下さいました。



「先達」とは言葉のあやでなく、森澤さんは実際に吉野山の修験本宗
別格本山・桜本坊による奥駈修業を重ね、中先達の資格をお持ちなの
です。



 今年6月、3年間の執筆期間を経て「大峯奥駈道七五靡」が出版
されました。巻頭の本山修験宗宗務総長・宮城泰年師の「平成の大峯
山脈を後世に伝える好著である」という言葉が端的に示すように、
何回もの実地踏査で奥駈道の現況を詳細に記録されているだけでなく、
今日に至る奥駈道と周辺の歴史が豊富な図版、写真で描かれています。

桜本坊蔵の「大峯々中秘密絵巻」などの図を、この本で目にできたのも
嬉しいことでした。巻末記載の参考文献は170近く、ここにも彼の真面目
で几帳面な性格がうかがえます。

 長く厳しい奥駈の道のりではありましたが、美しくも気高い景色、花々、
そして仲間との楽しい想い出が本書を読み進むにつれてよみがえり、
出来ればもう一度訪れてみたいと思いました。

 森澤さんには例会山行の他、個人山行でもなにかとお世話になって
います。
また山での帰りには、お互い嫌いではない方ですので、必ずと言って
いいほど一杯?のお付き合いも欠かしません。
「紀伊山地の参詣道」には、まだまだ訪れたいコースがたくさんあり
ます。


いつも笑顔を絶やさない森澤さん。
これからも先達として「ペンギン夫婦」をよろしくお願いします。 

新居綱男さん・剣山

2006-09-13 09:01:13 | 人との出会い・本との出会い




剣山には4度登りました。そのうち3度、頂上ヒュッテでお世話に
なっています。4年前の8月に訪れたとき、売店に置いてあった
この本を求めました。奥付に「平成14年8月8日発行」とあるので
出来たてのホヤホヤです。(実際は少し前から置いてあったのかも
知れませんが…)

表紙の花は勿論、キレンゲショウマ。裏表紙はツルギハナウドです。
春の花、夏の花、秋の花の他、樹木の説明もあり約120種ほどの、
「目に付きやすい花」の写真中心のハンドブックです。剣山周辺に
は1200種もの植物が自生するそうで、その約10分の1に過ぎません
が四国や剣山にしか見られない花も多く紹介されています。

写真はすべてヒュッテの主人・新居綱男(にい つなお)さん撮影に
よるもので、尾野益大さん(文)との共著です。


夕食の席上、自慢の献立や窓から見える夜景、ツキノワクマ、キレンゲ
ショウマなどの剣山の自然について話す新居綱男さん。

新居綱男さんは頂上ヒュッテの二代目主人。初代は1955(昭和30)年、
物資の不自由な時代に65歳という高齢で、剣山の山頂近く(一等三角
点のあるところから250m)にヒュッテを建設した、綱男さんの父・
新居熊太さんです。(下の本「剣山物語」の裏表紙の写真で右下の人。
なお、写真上は綱男さん、左下は三代目の智次さん)



「剣山物語」はヒュッテ創立50周年を記念して作成されました。
貴重な写真を散りばめたヒュッテの歴史にとどまらず、剣山の歴史、
山名の由来、地形・地質、植生から頂上測候所の話、周辺の道路事情
まで、およそ剣山に関する博物誌的な要素を全て網羅した素晴らしい
書物です。(編集は尾野益大さん)