ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

春日大社新発見と若宮十五社巡拝(3)

2015-06-30 13:19:15 | 奈良散歩

いよいよご本殿へ。今回は金田さんのご縁で特別に今井禰宜さんにご案内頂いて、赤い回廊で囲まれたご本殿の南門を潜ります。
特別参拝受付で記念品を頂いた後、正面にある拝殿と思いがちな建物の前で、「天皇陛下のお供え物をいったん収める幣殿と宮中に伝わる神楽が行われる舞殿」との説明を受けました。

今井禰宜さんのお話しはユーモアを交えて、われわれ素人にも興味深く、すんなり頭に入る分かり易いものでした。この後も、私たちの今後の予定時間を気使いながらも「どうしても長くなる」と笑いながら、それぞれの見どころを詳しく説明してくださいました。

砂摺りの藤の前から直会殿角を北へ曲がり、御手洗川から導かれた水で穢れを落として林檎の庭へ入りました。

ここで今回の式年造替について、「伊勢神宮の遷宮との違い」や「国宝ご本殿特別公開は20年後にまた行われるかも知れないが」「ご本殿の磐座が公開されるのは史上初であり、宮司の大英断とはいえ実に驚いた」などとお話を聞いていると、居合わせた観光客たちも興味深く拝聴していました。

東南隅にリンゴの木がある林檎の庭は、式典の時に舞楽などが行われる処です。(余談ですが息子の結婚式で記念写真を撮った想い出があります)。対角の北西隅には樹齢千年の大杉が聳え、根本から生えたイブキが直会殿の屋根を突き破っています。

その横の石段を登ると御本殿正面の中門を右に見て、左の移殿(内侍殿)に入ります。移殿と本殿の御廊を結ぶ捻廊(ねじろう)は左甚五郎作と言われる斜めの階段です。

移殿(内侍殿)は御造替の時、本社と若宮から神様をお迎えするところで、また神前に仕える内侍が控えていた建物です。ここで神前に参拝して西側に出ます。

境内にいくつもある磐座の前で本殿の屋根を仰ぎ、勾配が優美なことや「軒を貸して母屋を取られる」の軒は庇(ひさし)ではなくて屋根の下で外壁から出ている部分なので、内部はかなり広い場所になることをお聞きしました。

明治維新以来140年ぶりに開門された後殿御門を入ると写真撮影は禁止。後殿(うしろどの)北側には様々な災難を防いで下さる神社が四社(佐軍、杉本、海本、栗柄神社)並んでおられます。

更に東の八雷神社を拝んで、四殿並んだ本殿の背面になる南側に回ると、第一殿下に初公開された磐座が鎮まっておられます。その姿は後ほど水谷神社で見て頂きます。

御門を出てご本殿正面に回り、「二位橋」を渡って中門を潜り、その奥の赤い鳥居(御内鳥居・おんうちとりい)の下にある「一位橋」(雲井橋)を渡って御本殿の四柱の神々の鎮まるお社(春日四社明神)に参拝しました。お社の間の白壁に描かれた神鹿や唐獅子などの美しい絵も、二度と見ることはできないと、しっかり心に留めました。

林檎の庭上部に帰り影向門を出ると、正面が御蓋山浮雲峰です。
鹿島のタケミカヅチノミコトが白い鹿の背に乗って天下られた神聖な山…「既にこの場所の標高がかなりあるので低い山に見えるが…」と禰宜さんが仰いました。ここは禁足地で普段は入れないのですが、今回は遥拝所で参拝することが出来ました。

遥拝所のある回廊の北東隅は回廊のうちで唯一、板葺の築地塀になっています。詳しくは写真の説明板に譲ります。

東から南側へ回廊を巡り、いったん桜門を潜り、南門を出たところで禰宜さんにお礼を言ってお別れしました。
これから若宮十五社巡りに向かいます。


春日大社新発見と若宮十五社巡拝(2)

2015-06-29 13:01:54 | Weblog

茅ヶ原で昼食を終えて、午後は春日大社(写真は南門)への参道を歩きます。何度も歩いた道ですが、ここでも新しい発見がありました。

大仏殿の方から市内循環バスの来る広い道を渡り、右手に飛火野を見みながら行くと左に荷(にない)茶屋があります。右が水谷川が飛火野へ分水される処に架かる馬止橋(七位橋)です。昔の馬場の終点で、ここで参道右に曲がります。

万葉植物園との間に、まっすぐな細い道が見えます。春日のお祭りに宮中から派遣される女性(内侍)がご本殿へ行くのに通る道で、勅使などの男性は表参道を通りました。

表参道を進むと右手は鹿園で、今月30日まで今年生まれた子鹿が公開されていて賑わっていました。六位橋のある壺神神社を過ぎると二の鳥居が見えてきました。右に見える建物は車舎(クルマヤドリ)。今まで奉納された酒樽を積んである場所と思って横目で通り過ぎていましたが、説明板に「天皇の行幸や勅使、藤原氏の高官の参詣の折に牛車を入れた車庫である」とありました。覗いてみると、一台の牛車が見えました。五位橋はこの西側にあります。

向かい側は現代の車舎…駐車場ですが、その近くにケヤキの大木が立っています。樹高16m、地上1.3mでの幹回が4.8m。根元では更に太く、奈良公園で最も大きいそうです。この樹も裏に回ると中が空洞になっていて、長い年月を過ごしてきたことが分かります。

二の鳥居の手前両側に興味深い燈籠がありました。鳥居の右側が龍、左側が豚(イノシシ?)と聞きましたが…。

二の鳥居を潜って、いよいよ神域に入ります。すぐ左手にある社が祓戸神社。その前で敷石の道が斜めに分かれています。先端の要の石が剣の形をして、踏んではならないと伝えられています。

道の入口の燈籠は土台が「寝鹿」の珍しい形をしています。

剣先道にはフジの木が多く、春日祭には藤原姓の人が通る本殿への近道だったそうです。
今では大声で話しながら外国からの観光客が降りてきます。

祓戸神社に参拝して、横にある伏鹿手水所でシカが口に咥えた巻物から落ちる水で手と口を浄め、参道を進みます。

参道右下の白藤の滝(左)を見に下り、引き返して左側の榎本神社の下から流れ落ちる青龍の滝を見上げました。

石段を登り、榎本神社にお参りします。祭神は元春日の地主神で耳が遠い方だそうです。そのため、社の柱を拳固で何回も叩いて「榎本の神さんは耳が遠いので、春日さんにお参りしました」という習わしがあったと、熊木さんからお聞きしました。耳が遠いので願い事を聞いて頂けないと困るからでしょう。

朱塗りの社殿で桟の隙間から祠を見ると、下に美しい唐獅子牡丹が描かれていました。ここで三位の橋を渡り、南門へ向かいます。 


春日大社新発見と若宮十五社巡拝(2015.06.27)

2015-06-28 15:04:28 | モブログ

奈良を愛する仲間たちと、式年御造替中の春日大社に参拝しました。
4月18日にも参拝しているのですが、今日は地元にお住まいで周辺を知りつくした熊木、増田、金田氏のお世話で30人近いメンバーが、まず表参道の御手洗川に架かる「八つの位橋」を辿って春日大社へ向かいます。

興福寺五重塔で集合、出発してすぐ塔の南側境内を三条通りに降りるところに御手洗川の最終出口があります。

一の鳥居の柱に付けられた榊は行事のある徴、最初の鳥居は現在より西の169号線手前、この辺り?にあった…など初めて聞くお話のうちに参道に入ります。

右に御神木「影向(ようごう)の松」を見て、間もなく馬出橋を渡ります。この辺りは昔の馬場で参道は直線に続きます。現在も若宮御祭の競馬出走地点であり、最初の位橋(八位)でもあります。

参道左側に中が空洞でタケが根を下ろしているムクロジの大樹があります。果皮にサポニンが含まれるため昔は石鹸として使われ、種子は羽根つきの玉や数珠に使われたそうです。

若宮御祭御旅所の前を通ります。左の芝生の小高い所は能が演じられたところで、芝居の語源となりました。
御旅所は御祭の準備をして行列が出発をするところで、熊木氏の話ではここで行列を見るのが一番ということでした。

参道を隔てて勝敗榊という御神木が立っています。現在の若宮御祭競馬のゴール地点です。

あき出してまだ40分ですが、後の行程の都合で早目のお昼になりました。片岡梅林を見下ろし、円窓亭や浮見堂など春のイタ友会でもお馴染みの浅茅ヶ原のベンチでお弁当を食べました。

写真は建物の中を流れが通り抜ける休憩舎・川俣亭です。(午後の記事に続きます)


奈良の山あれこれ(51)~(55)

2015-06-25 16:41:26 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(51)都介野岳(つげのたけ)<1>
「ツゲの富士」

大和高原にある低山ながら美しい円錐形の山容で、都介野富士とも呼ばれています。都祁は「闘鶏、竹谿」とも表記されましたが、語源は櫛の材料で知られる「黄楊(つげ)」というのが通説になっています。都祁の辺りは大和朝廷以前に「都祁国」が栄えたところで、都介野岳はその神山として信仰の対象でした。小川光三氏の「大和路散歩ベスト8」では『呉音でツゲと読む都祁は漢音ではトキで、トキとは古代朝鮮語で日の出を意味する言葉である。したがって都祁国は日の出の国のことであり、都介野岳は都祁野(ときの)の岳山、つまり天を祀る神山であった。』と記されています。

 柏森

ずいぶん昔のことになりますが、1989(平成元)年5月3日の山日記に「車で南之庄まで移動して電報局の前にパークする。すぐ裏に都祁の国造の墓と伝えられる三陵墓古墳がある。金剛廃寺の跡、観楽寺を通り抜けて柏峰に緩い登り。林の中に古代信仰の名残の磐座と三角点がある。都介野岳が天を祭る、中国でいう圜丘とすると此処は方丘にあたり地の神を祭ったところであろう(小川光三氏説による)」と書きました。

南之庄から南へ行くと分岐があり、どちらからも山頂に登れますが、私たちは柏峰(上の写真)へ立ち寄るために右側から登りました。

頂上(631m)まで約30分でした。


 

(52)都介野岳(つげのたけ)<2>
「雨乞いの山」

都介野岳は頂上に竜王を祀ることで分かるとおり、水を司る龍神信仰の山で、田植えの水を願ったり、そのお礼や雨乞いのために、古くから近隣集落の人々が登ってきました。西南山麓に都祁山口神社があります。この辺りが都祁国の中心であったところで、各所にツゲが自生しています。社の裏山にも「都祁直(つげのあたい)霊石」という磐座が祀られています。また、南之庄に三陵墓があります。直径40mの円墳で、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)の墓という伝承が残っています。

北西一㎞ほどの友田には都祁水分(つげみくまり)神社があります。大鳥居から広い参道が重文の拝殿に続く立派な式内社で、境内外れの杉の根元に「山辺の御井」があります。

昔は「山辺の三井」といって閼伽井、日賀井、藤井の三つがあり、そのうちの閼伽井に当たると言われています。横の石燈籠には「山辺の三井を見ても神風や伊勢の乙女に相みつるかな」と刻まれているそうですが、私には勿論読めませんでした。

近くに朝命で都介野を開拓した小治田安万呂(おはりだのやすまろ)の墓があります。


 

(53)貝ヶ平山(かいがひらやま)
「鐘ヒラ山の謎」



(鳥見山との鞍部より)

奈良県櫻井市、奈良市都祁吐山町、宇陀市榛原区の三市境にまたがる、額井(ぬかい)火山群の最高峰(822m)。南側からは鋭い山容を見せますが、西側から見ると横に長いゆったりした姿をしています。



私の住む大和郡山市や矢田丘陵からも、大和平野の東に並ぶ山々の奥にくっきり見えています。

南山麓に二枚貝の化石が採取された跡があり、この辺りが太古(約二千万年前)には海底であったことが分かります。山名はそれから来ています。

昔はカネヒラ山ともいいました。昔、吐山の男が芝刈りにこの山に入ったところ、山鳴りのような音がするので山腹を見ると大きな鐘が岩から頭を出しています。驚いて村役を呼びに行って帰ってみると、岩に大きな穴が開き、鐘は大阪湾から堺まで抜けて行きました。桃の節句には頭を海の上に出していた鐘は再びカネヒラ山に帰り、月の輪と呼ばれる黄色い場所の地中に埋もれて、年とともに移動しているといいます。



吐山より左は香酔山、右・貝ヶ平山

吐山はスズランの自生地で、貝ヶ平山から東へ稜線続きに香酔山(795m)という美しい名の山もあります。山の名はスズランの花の香りから来ています。また香酔(水)峠には神武天皇東征の時に清らかな水の流れるこの峠で人馬を休ませたとか、後醍醐天皇が笠置から吉野に向われる時にこの峠で芳香がしたため休まれたという伝説が残されています。


 

(54)鳥見山(とみやま)
「神武天皇の祭祀跡」



左から鳥見山、貝ヶ平山、香酔山(玉立から)

貝ヶ平山から南西に伸びる稜線上にあります。国道165号線が桜井から榛原に近づく頃、西峠を通ります。その北の弓の形をしていると言われる大きな山で、ボタンで名高い長谷寺も遠くありません。

山頂へ向かう途中の鳥見山公園はツツジがきれいな処ですが、ここに「鳥見山中霊畤址」(とみやまなかまつりのみやあと)という碑があります。日本書記に『己立霊畤於鳥見山山中。其地号日上小野榛原』とあり、神武天皇が大和を平定したのは神霊の加護のお蔭と、この地に祖神を祀ったと記されています。

『和州旧跡幽考』に「神武天皇長随彦(ながすねひこ)と闘ひ給ひしとき、金色の霊鵄(れいし)(トビ)飛来たり皇弓の弭(ゆはず)にとどまれり。其鵄光かがやくこと流電の如し。かかりければ長随彦軍破
れたり。鵄の瑞を得給ひしより鵄邑と名づけり。今、鳥見というは訛り」の記述があります。なお奈良県には他にも5カ所の鳥見山霊畤址があり、一時はどこが本当の場所か論争があったそうです。

貝ヶ平山からは何度か登りましたが、2005年1月、この年の干支の山には人口のダム湖・まほろば湖畔から歩き出しました。馬乗り石、城址の残る高塚山を通り、5.6km・1時間40分ほどで鳥見山公園(ここまで車でも来ることができます)。

5月にはツツジで賑わうところですが、勾玉池の水面には薄い氷が張っていました。赤い鳥居の横から「2000年の森」を抜けて展望台に登ると、眼下に榛原の町、正面に竜門岳、音羽三山が見えました。



吹き曝しの稜線を頂上に向い、公園から30分足らずで三角点に着きました。

(55)額井岳(ぬかいたけ)<1>

「大和富士」

奈良市都祁吐山町と宇陀市榛原区の境。大和高原の南端に位置するこの山を中心に、西にある貝ヶ平山、香酔山、東の戒場山(かいばやま)などを額井火山群と呼び、その主峰です。「大和富士」の別称通り富士山型の秀麗な山容で、南の榛原や室生ダムからは、左右に支峰を従えた「山」の字形に見えます。

この山も大和に多い雨乞いの山で、頂上に水神を祀る小さな祠があります。旱魃の年には火を焚き降雨を祈る「岳参り」が行われました。

頂上台地の南側が切り開かれた展望台からは龍門山系を初め、遠く大峰、大台の山々が望まれ、眼下には榛原や大宇陀の町並みが拡がります。頂上北側からは西方に鳥見山、貝ヶ平山と見事な展望が開けます。


この花を見たさに観音峯へ(2015.06.17)

2015-06-19 21:01:10 | 山日記

【メンバー】丸屋博義、丸屋三輪子、芳村嘉一郎、芳村和子

【コースタイム】虻峠トンネル出口駐車場07:45…観音平08:55~09:10…展望台09:35~10:05…観音峰10:50~11:00…展望台11:43…観音岩屋12:05~12:20…駐車場13:50

ベニバナヤマシャクヤクの花を見に行こうと丸さん夫妻を誘うが、今年は色々な花の咲く季節が例年に比べて早いようだ。先週、FBで知った情報ではこの週末が恐らく最後のチャンスらしい。4人の予定と天候の関係も勘案してようやく日を決める。前夜も雨が降り、まだ雲が葛城の姿を隠している朝6時、迎えに来てくれた丸さんの車で家を出る。京奈和道が御所まで通じるようになったので、1時間半で虻峠トンネルを抜けて駐車場に着く。

薄い靄のかかる吊橋を渡って「みたらい遊歩道」を横切る辺りからは、例年通りコアジサイの花が満開だった。

足元は昨夜の雨で少しぬかるんで滑りやすいので、ゆっくり歩く。観音の水の冷たい水で喉を潤して、右に谷を見下ろしながら登る。濃いピンクのササユリが一輪、緑の中に鮮やかな色を見せていた。木の間からちらちら見える大日岳辺りの山腹の雲が次第に上がっていくのを見ると、天気は良い方に向かっているようだ。しかし第一展望台では、まだ山頂部を見るのは無理だろうと見送って先に進む。緑に苔むした岩が現れて、その上にウツギの白い花が点々と散り落ちて美しい紋様のようだ。

 

 大きな銅鳥居を潜って休憩舎のある観音平に着く。頭上に青空が開け、日が射しこんできた。広場の中央に円形に配置された御影石に腰を下ろして、パンとコーヒーで小腹を満たして出発。

御歌石を過ぎて観音岩屋分岐からしばらく山腹を捲き、ジグザグの階段道を登って展望台へ登る。

上の平に着く手前から道の左側に太いロープが張られ、「絶滅危惧種の植物自生地であるので撮影のためにロープを越えないこと」の旨の表示板が設けられていた。ここへは4年ぶり8回目になるが初めてのことである。高曇りの空には青空も覗き、しばらく天気は持ちそうだ。

待望のベニバナヤマシャクヤクをロープ越しにカメラに収めて後、展望台にザックを置いて、ロープの張られていない東側のカヤトの斜面に下る。

陽当りがいいためかベニシャクの花は既におちていたが、刈り残ったジキタリスの群落越しに稲村から大日、バリゴヤの頭に続く稜線が美しく望めた。展望台に帰り、先着していた男性に記念写真を撮って貰って観音峰(観音峯山)に向かう。

緩く1285mピークへの鞍部に下る辺りにも濃い色の花があちこちで見られた。深い林の中の急坂は苔むした倒木や、ブナやカエデの大木の立ち並ぶ滑りやすい急坂を登る。ピークからは緩く下って登り返し、最後はフタリシズカの花やトリカブトの葉の大群落の中を三等三角点の埋まる観音峰に着く。

無展望の上に霧の粒が大きくなり、肌寒さを感じるほどになったので早々に山頂を後にする。下りは滑りやすいことさえ気を付ければ楽で最後の急坂で視界が開けると、展望台に数人の人影が見えた。皆さん、ベニシャクの写真が目的らしく登る気配はない。タイムを残すための写真だけ撮って下る。昼前になって登ってくる人に出会うようなる。女性の多い10人パーティもあった。

観音岩屋へ寄り道して、腰をかがめて中へ入り観音様を拝む。周辺には記憶通り、白シャクヤクの葉がたくさん見えた。

観音平で昼食をとり、後はどんどん下って観音水を汲んで駐車場に帰る。待っていたように、パラパラと大粒の雨が落ちてきた。梅雨の晴れ間の僅かなタイミングで旧知の美しい花に出会えて、本当に幸運だった。


奈良の山あれこれ(46)~(50)

2015-06-12 17:21:03 | 四方山話

 *「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(46)金剛山<3>

「一言さんは男神?女神?」

一言主を祀る神社は森脇にあります。この神様は願い事を一言だけ叶えて下さると信仰を集めています。

雄略天皇が葛城山(現・金剛山)で狩りをしたとき、向かいの尾根を天皇一行と同じ装束をした行列があり、怒った天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えたので、驚いて自らの弓矢・刀剣、供の者の衣服を献上して拝み奉った…と古事記にでています。

 しかし日本書記では「天皇と供に狩りを楽しんだ」「最後は一言主が天皇を来目水まで送ってきた」という記述になります。雄略天皇狩場は葛木神社と道を隔てた南側尾根にあり、このとき天皇は東雄略谷から登ってきたそうです。

さらに後の日本霊異記では、一言主神は岩橋山で役行者に使役されるようになります。時代が下がるにつれ、天皇の権力が強まるのと反対に一言主を祀る古代豪族・賀茂氏の力が弱まっていく過程を表しているように思えます。

この一言主神は世阿弥の謡曲「葛城」では女神として登場します。雪の葛木山中に行き惑う羽黒山伏たちを庵に招き、昔、岩橋を架けることができなかったので(岩橋山の項参照)、『役の行者の法力により蔦葛で縛られ、苦しんでいると明かし、消え去ります。山伏たちが、葛城の神を慰めようと祈っていると、女体の葛城の神が、蔦葛に縛られた姿を見せました。葛城の神は、山伏たちにしっかり祈祷するよう頼み、大和舞を舞うと、夜明けの光で醜い顔があらわになる前にと、磐戸のなかへ入っていきました。(the能.com)』

芭蕉は「笈の小文」の吟行で葛木山麓を通ったときに、『猶みたし花に明行く神の顔』を残していますが、この神はもちろん「一言主神」です。

 

(47)金剛山<4>

「郵便屋さんの通った道」

高天は高天原に比定される静かな農村地帯の集落ですが、ここの高天彦(たかまひこ)神社の境内にも「蜘蛛伝説」があります。
ここにいた大蜘蛛と猿伐(さるち・集落名)の大猿は仲が悪く、大猿が投げた竹の矢で知んだクモを境内に埋めて塚を立てたというお話です。なおこのクモは天皇の勅使が矢を放って征伐したともいわれ、こうなると前述の葛城山の土蜘蛛を連想します。

この高天彦神社の前から金剛山に通じる道は、御所の郵便局員が昭和10年から終戦まで徒歩で、山頂へ郵便物を配達したことで「郵便道」と呼ばれ、奈良側では最短の登山コースとして私たちも良く利用します。(日露戦争の戦勝を知らせたという話もありますが、御所市のホームページの記事では上のようになっています。)

2013年の台風による被害で一部、迂回路になっていますが、高天の滝から約2時間で山頂に達します。

春にはヤチマタイカリソウ(↑)やルイヨウボタンの花に出会えるのが楽しみで、急坂の多い道も苦になりません。

 

(48)金剛山<5>

「行者さんの修験道」

湧出岳三角点のすぐ傍に「妙法蓮華経如来神力品第二十一経塚」があります。「役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚(Wikipedia)」の一つです。法華経は釈迦晩年の最高の教えと言われ、28という数字は釈迦が56億7千万年後に弥勒菩薩となってわれわれ衆生を救済する様々な方法を示します。

役行者はそのお経を友ヶ島(序品)から大和川の亀ノ瀬岩(普賢菩薩勧発品)に至る葛城山系二十八ヶ所に埋め、その上に経塚を置いたと言われています。

金剛山中では他に石寺址に「第二十常不軽菩薩品経塚」が残っています。江戸時代末期、この二十八ヶ所の経塚、行場を巡る山伏修験道が盛んとなり、金剛山頂の転法輪寺がその大本山でした。

 二上山雄岳

2003年刊ヤマケイ関西「金剛山」所載の葛木神社禰宜・葛城裕氏による「金剛山史」からの孫引きですが、貝原益軒の「南遊紀行」に『絶頂に葛城の神社あり、大社なり、一言主神という。役行者堂あり。(中略)山上より二丁西に下れば河内国金剛山転法輪寺あり、役行者開祖なり。これ山伏の峰入りして修行するところなり(後略)』と書かれています。金剛山については、まだまだ書きたいことが山ほどあるのですが、次の山が待っていますのでこれで止(とど)めます。

 

<宇陀高原エリア>

(49)烏塒屋山(からすのとややま)

「ヤタガラス伝説の山」

榛原から南へ吉野に向かうと、正面に鋭い円錐形の美しい山が見えてきます。山頂は宇陀市大宇陀区と吉野町の境になります。

宇陀は神武東征にちなんだ伝説の多い地で、榛原区に八咫烏神社があります。八咫烏(ヤタガラス)は神武天皇が熊野から大和に入るときに、アマテラスオオミカミから使わされ道案内をした神様で、烏塒屋山にも八咫烏伝説が残されています。

山名の「烏」は「八咫烏」のことで、「塒屋」はねぐらの意味です。この山の北にある大蔵寺は、寺伝によると聖徳太子の創建。空海が真言宗最初の道場と定めたことから「元高野」とも呼ばれました。

2000年秋、下栗野の「老人憩いの家」に車を置き、土地の人に聞いた道を登りました。里山の例にもれず道が錯綜して分かり難かったです。見通しの悪いヒノキ林の中を登り、尾根に出て左に折れ、頂上直下にくると伐採中で、倒木を迂回しながら急坂を登ると山頂の三角点にでました。小さい石碑と幾つかの山名板がありました。北側だけが少し開けて伊那佐山の方が見え、南側は木の間から龍門ヶ岳や津風呂湖がチラホラ見える程度でした。あれからもう15年、今は伐採が終わり、かなり状況も変わっていると思われます。

(50)野々神山

「この山登れません」

名阪国道・針ICから南下すると白石に来ます。この辺りは古代、ツゲ国があったとされる都祁の中心地。国津神社から雄神神社に向かって、ヤスンバという叢林が並んでいます。

雄神神社の背後の二つの山が雄神山(550.6m)、雌神山(531.5m)からなる野々神山。土地の人は「ののさん」と親しみをこめて呼んでいます。三輪山と同じく御神体山で、雄神神社は大神神社の奥ノ院とも言われています。大神神社と同じく本殿はなく、拝殿の後に山に向かって鳥居があります。

しかし三輪山と違って禁足山で登ることはできません。山頂には岩窟があって白い大蛇が住んでいて、この蛇を見たものは死ぬと言われています。昔、雄雅(神)山で悪事を働いた者が二つの神社の間にある伏人橋まで帰ってくると、先廻りして待ち伏せていたナガモノ様に食い殺された伝説があります。

「岳参り」ができない代わりに、この山は神様が豊作をもたらすために自ら下りてこられます。ヤスンバはその時にお休みになる「休み場」なのです。


奈良の山あれこれ(41)~ (45)

2015-06-10 17:37:21 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。* 

<生駒・金剛エリア>(41)葛城山<2>

「土蜘蛛退治」

葛城の地名(元の読みはカズラキ)については、『日本書記』に「高尾張邑(たかをはりのむら)に土蜘蛛あり。その為人(ひととなり)、身短くして手足長し。(中略)皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号(なづ)けて葛城という」という神武東征説話があります。



岩橋山の項でご紹介した「一言主」を祀る一言主神社については金剛山の項で改めて書きますが、この神社の境内に神武に退治された「土蜘蛛塚」があり、葛の網で捕らえ頭と胴体と脚を三ヵ所に分けて埋めたという伝説では大きいクモ(節足動物の…)のようですが、上の日本書記の記述『その人となり』から、この辺りに古くから居住していた人たちのように思えます。

また古代神道で葛の蔓を結んで神籬(ひもろぎ)としたことが、謡曲『葛城』に「標(しめし)を結いたる葛なるを、この葛城山の名に寄せたり」と謡われています。『大和名所図会』には「金剛山土産(こんごうせんどさん)」として、「防巳藤(ふじかづら)。物を束(つか)ねて結(ゆ)ふに縄に代る。かつらぎの名義ここに起こる」の記述があります。今も奈良側の名柄から水越峠に登る車道(旧309号線)周辺を始め、藤や葛の植生が多く見られます。



なお、この旧309号線沿いにある「祈りの滝」はもと「祈(い)の滝」と言われ、役行者が衆生済度の願をかけるために身を浄めたところと伝えられています。

 

奈良の山あれこれ(42)葛城山<3>

「婿を池で洗って雨乞い」

天神山の南を深谷道の方に下ると竜王池、傍らに竜王社がありますが名前で分かる通り雨乞いの神様です。この池は「婿洗い池」という名で通っています。なぜこんな名前がついたのか?池の畔にあった御所市観光協会の説明板の画像を、お読みください。

現在のジョウモンノ谷(深谷)道はロープウエー登山口駅横を直進すると山道に入り、竜王池から流れてきた櫛羅(くじら)の滝に出会います。弘法大師が天竺のクジラの滝に似ているので名付けたという伝説があります。

さらに登ると行者の滝があります。(新しい登山道からは200mほど右手になりました)。
 ヒノキや杉の植林の中を登ると尾根道から谷の源流部になり、涸れ谷の左岸を行きます。ツツジ園に登る道を直進すると竜王池、少し先で右に分岐する道を登れば天神ノ森でロープ山頂駅が近くにあります。

ここから北斜面を約一時間で一周する自然観察路があり、春にはカタクリの大群落やイカリソウ、カワチスズシロソウなどの可愛い花々が咲き誇ります。

 

奈良の山あれこれ(43)葛城山<4>

「水争いの峠」

水越峠は葛城山と金剛山の間にあり、大阪と奈良の府県境でもあります。江戸時代に大和側の山麓の名柄の少年、上田角之進が、河内側の谷水を土嚢を積んで大和側に落とすようにして以来、近年まで文字通り水が峠を越えていたのです。元禄時代にはこの水を巡り、大和と河内で激しい水争いがあったといいます。

水越峠からは短い急坂を登り、樹林帯に入り石畳道を登ります。二度ほど急な木の階段道があり、笹原から杉林の中に入ります。

右手に河内、大和平野を見下ろす開けた所があり、雑木林を抜けるとツツジ園の下に出ます。左へ捲き道で国民宿舎前。右はツツジの中の直登で、時間的に大差なく山頂に通じています。峠から約1時間15分。

私たち夫婦が良く使う青崩(あおげ)(天狗谷)道は、水越トンネルの大阪側、青崩の集落を抜けて谷沿いの道を行きます。細くなった流れを離れ、急坂のジグザグを繰り返して、尾根上のベンチのある所にでます。

ここがほぼ中間点で、右に折れて少し登ると勾配が弱まり、雑木林の山腹を捲くほぼ水平な道になります。冬は美しい霧氷の林が迎えてくれます。

弘川寺からの林道と合して直角に右に曲がると緑に苔むした杉林の木の根道で、春はショウジョウバカマの大群落が見られます。右に砂防堤防を見て間もなく、頂上すぐ下のキャンプ場に着きます(1時間45分)。ロープウェイ山頂駅からの道と合流すると白樺食堂前に出て、右へ数分でなだらかな草原の山頂です。標高952,9mの山頂からは大和・河内平野を見下ろし、すぐ近くの金剛山から右に紀泉高原の山々、左に台高、大峰などの大展望が得られます。

 

奈良の山あれこれ(44)金剛山<1>

「床下の土にもご利益が…」



水越峠を挟んで葛城山に対する金剛山は、山頂に葛木神社が鎮座することでも分かるように古くは葛城山と一体の山と考えられていました。役小角(えんのおずぬ・役行者)も賀茂氏の一族で、この山中で松葉を食べ葛の衣を着て修行を重ねて、遂には修験道の祖となる神通力を得たと伝えられています。

金剛山の名は平安時代に金剛山寺(転法輪寺)が出来てからと考えられています。創建は665年、役行者が五眼六臂の法起菩薩を祈り出して、本尊として安置したという伝説があります。

もともと神仏習合の霊山として修験道七高山に数えられ、本堂は現在の葛木神社境内にあったのですが、明治の神仏分離・廃仏棄釈によって廃寺となりました。現在の本堂は1950年(昭和25)役行者1250年忌を契機に発願され1961年(昭和31)に落慶し再建されました。床下の土を少し持ち帰り「我が田地に入れれば稲よく実りて虫喰わずとて、参詣の人夥し」と記されています。南北朝の動乱で、楠正成は河内側山麓に千早・赤坂城を築き、この寺の僧兵の力を借りて大いに奮闘しました。

境内には行者堂があり、前の牛王の背には金剛山の名前の由来が記されています。

 

奈良の山あれこれ(45)金剛山<2>

「金剛山は大阪の山?」

金剛山は大阪と奈良の府県境に位置し、大阪の人にとって馴染みの深い山です。近くの校区の人はもちろん、堺市や大阪市南部にお住まいで、小・中・高校生時代に遠足や耐寒登山で登った想い出をお持ちの人も多いでしょう。

西山麓(大阪側)からは金剛山ロープウェイが架かっていて、山頂近くまで楽に運んでくれます。なお、このロープウェイは千早赤坂村営で日本では唯一の村営です。 

また、楠正成に関する史跡の多くが大阪側にあり、「千早本道」と名付けられたコースは千早城すぐ下の登山口から国見城址に通じています。

城址に山頂と書かれた大きな標識があり、ここが最高点と思っている人も多いようです。

しかし金剛山の最高地点は葛木岳で、葛木神社の本殿裏にあります。神域のため立ち入ることができないので、少し降りた国見城址が山頂とされているのです。

また一等三角点は湧出岳1,112mにあります。他に大日岳1,094mのピークがありますが、ここも所在は奈良県御所市。

大阪府の最高地点 (1,053m) は千早園地の一角にあります。このシリーズ「奈良の山あれこれ」では、山頂周辺や東側山麓(奈良側)からの話題を綴っていきます。


奈良の山あれこれ(36)~(40)

2015-06-06 15:50:41 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

<生駒・金剛エリア>(36)屯鶴峰

「白い鶴の群れ」

 

二上山の北側、穴虫峠の東から約1kmの間、松林の緑の中に灰白色の岩山がうねるように続いています。香芝市に属し最高所でも150m、山と言うには気が引ける低山中の低山です。白い鶴が屯(たむろ)しているように見えるのでこの名が付きました。

約1500~2000万年前の第三紀末に、二上山の火山活動で噴出した火砕流や火山灰が、当時あった湖の底に積もって凝灰岩となり、隆起したあとに風化、侵食されて現在のような珍しい景観となったものです。柔らかく加工しやすいので、大和の古墳に石棺や石郭の材料として使われています。法隆寺の敷石にも使われたと言われます。また、第二次世界大戦末期に本土決戦に備えて戦闘指令所にするために陸軍が掘った、大規模な防空壕が残されています。現在、その一部は京大の地震観測所として災害予知の役割を果たしています。

ダイアモンドトレールは(正式には金剛葛城自然歩道)は屯鶴峰入口(穴虫峠近く)を起点として、二上山、金剛山、葛城山、岩湧山を経て槙尾山まで、延長45キロに及ぶ縦走路です。二上山駅より165号を西へ分岐で線路沿いの通称大坂道に入ると、穴虫峠手前に登山口があります。穴虫峠も河内、大和の交通の要衝でした。

昔、穴虫に木熊という男(女だったとも)がいて馬場の畑の大根を盗みました。見せしめに穴埋めにされた木熊は「俺が死んだら馬場の大根を喰い荒らしてやる」と言って息絶えました。それ以来、馬場の大根には「キクマ虫」が付き痛みやすいとか…。

 

(37)二上山 <1.雄岳>

「嶽の権現さん幟(のぼり)がお好き」

雄岳と雌岳から成るコニーデ式火山、二上山の方角は、河内からは「日出(いず) る山」、大和からは「日没する山」にあたります。特に大和国中(くんなか)の古代人からは、神聖な「二神山(ふたかみやま)」として崇敬されました。飛鳥の奥津城と考えられた西南麓には、古墳群と呼ばれる多くの墳墓が築かれています。

雄岳山頂すぐ手前には、政争に敗れ謀反人として葬られた大津皇子(天武天皇の皇子)の墓所があります。皇子を悼んで姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌は、あまりにも有名です。

うつそみの 人なる我や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と我(あ)が見む。

山頂(517m)には葛城二上神社が鎮座しています。山麓の農民には「嶽(たけ)の権現さん」として農作物に雨をもたらす水の神様として信仰を集めました。「嶽の権現さん幟がお好き 幟持ってこい雨降らす」と俗謡に歌われたように、幟を立て提灯を提げて雨乞いに登ったそうです。また4月23日には、山麓の「嶽の水でご飯を食べる」村々の人たちが、弁当を持って山に登り一日の行楽を楽しむ行事がありました。

二上神社の横には「葛城二十八宿」の二十六番目の経塚があります。葛城二十八宿は役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚で、南北朝時代に紀州の友ヶ島を序品(起点)として槇尾山、岩湧山、金剛山を経て二上山から亀の瀬に至る28の宿(行場)を巡る山岳修行の道となりました。今も金剛山転法輪寺によってこの28里(112km)を巡拝する伝統は守られています。

 

(38)二上山 <2.雌岳>

「太陽が通る道」

二上山の三角点(476m)は雌岳にあり、ここからは展望も良く河内平野の彼方に大阪湾が光り、大和側には大和三山、正面には金剛山が大きく見えます。周辺は自然公園「万葉の森」として整備され、中央に日時計が設置されています。

ここは北緯34度32分にあたりますが、真東にある三輪山と線で結んで伸ばすと箸墓、長谷寺、室生寺を通って元伊勢といわれる斎宮址に通じます。真西には大鳥神社を通って淡路島北淡町の「伊勢の森」があります。このように多くの寺社や遺跡がこの線上に並ぶので、「太陽の道」と呼ばれています。南側の山麓には岩屋峠と竹ノ内峠があり、古くから河内と大和を結ぶ大事な交通の要所でした。この峠を通る竹内街道は飛鳥京と難波津を結ぶ日本最古の官道で、7世紀には朝鮮の使節たちが盛んに往来しまた。

また岩屋峠を河内側に少し下ったところには岩屋があります。説明板によると『この遺蹟は、西向きに開口する大小2基の石窟で構成され、附近から出土する須恵器等から、8世紀奈良時代の築造といわれています。…(中略)当麻寺に所蔵される当麻蔓陀羅を中将姫が、この岩屋で織ったとする伝説が残されています。』

山麓には当麻寺をはじめ、石光寺、山口神社などの寺社や史跡が数多くありますが、ここでは一本足の珍しい建築・傘堂をご紹介するのにとどめます。延宝2年(1674)11月、大和郡山城主であった本多正勝の影堂として建立されたものです。

 

(39)岩橋山

「神さんを使った行者」

二上山と葛城山のほぼ中間に、やや尖った頭をもたげています。山中には巨きな石が多く、なかでも山名となった「久米の岩橋」は役行者の伝説で有名です。

江戸時代に刊行された「河内國名所會圖」によると『…岩橋の形を見るに巨巌???面に橋板の?ある事四つ。両端稍隆うして欄檻(欄干)に似たり。幅三尺余長さ八尺許(ばかり)。西南の方少し缺(か)けたり。形勢まさに南峰に?(およば)んと欲す。…傳云(でんにいわくむかし役優婆塞(えんのうばそく)葛城の峰より金御嶽へ通い給わんとて石橋をかけなんとす。ここに諸々の神に命じ??葛城一言主神容貌いと醜くければ晝(ひる)の役をはばかりて夜をまちゐしより橋???得ぬんば行者いかりて一言主神を呪縛して深谷に押籠?たまへり。…」

「日本名勝地誌」や「大和名所図会」にも同じような記述があります。日本の伝説(角川書店)13奈良の伝説には『この時、役行者が印を結ぶと自然に岩橋が南に向かって架かっていく。すると空から嵐の神が現れてそれを妨げようとする。行者は一人の天女を呼び出し、歌と舞とを奏させて嵐の神を制しようとしただが役行者の法力が弱って橋は成就しなかったともいう』という面白い話が載っています。土地の神様や天女を使うとは流石に役行者ですが「容貌いと醜く」の一言さんは、どんな顔の神様だったのでしょう。奈良側からこの山に登るには普通、竹内から兵家浄水場を目印に進み、急坂を登り岩橋峠を目指すと1時間30分程で頂上に着きます。私が登ったときの展望は木の間からチラチラと河内・大和両平野、葛城山などが見えるだけでした

岩橋の近くに鍋釜石、鉾立石という名の大石もありました。

 

(40)葛城山 <1>

「山が燃えてる」

御所市の西に大きくそびえる、古くから役行者の伝説で知られる信仰の山。同じ名の山が和泉山脈にもあるので(和泉葛城山と南葛城山)、区別するために大和葛城山と呼ばれることが多いのですが、まれに北葛城山ともいいます。

元来、葛城山(葛木山)は、二上山から葛城山、金剛山にかけての山域全体の総称で、現在の葛城山は古くは戒那(かいな)山と呼ばれていました。山麓は古代豪族・葛城氏や賀茂氏の支配地として栄えた処です。『大和名所図会』に「南遊紀行に曰く」として、「葛城の北にある大山(おおやま)をかいなが嶽といふ。河内にては此を篠峯(しのがみね)と号す。篠峯を葛城山といふはあやまりなり。葛城は金剛山の峯なり。」とあります。

今、東山麓のロープウエー登山口駅前にある不動寺は、空海が不動尊を刻んで堂を建て戒那山安位寺と称した所で、室町後期の不動石仏で有名です。付近には戒那千坊という地名が残っています。

『大和志料』には「戒那山・葛城山ノ支峰ニシテ一ニ天神山ト称ス、山中ニ瀑布アリ」と記されています。天神山の名は、現在のロープウエー山頂駅近くに天神ノ森、天神社があることが起源と思われます。山頂部はなだらかな斜面で、芝草とススキに覆われています。

また山頂の南には花の季節に山を紅に染めるツツジの大群落があります。「一目100万本」といわれる今のツツジ園は元は笹原でしたが、1970年頃(私たちが奈良に居を定めた頃です)にササの花が咲いて枯れた後に自然に増えたものです。当初は山火事と間違えて消防署に通報した人がいたとか?例年5月中旬から下旬にかけては大勢の観光客で賑わいます。


奈良の山あれこれ(31)~(35)

2015-06-03 11:31:08 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

<生駒・金剛エリア>

(31)生駒山

「山頂三角点は遊園地の中

山上に多くの放送施設の電波塔が林立する大阪奈良府県境の生駒山。

その三角点(一等)は奈良県側の山上遊園地内にあります。SL列車の敷地内「大阪←山頂→奈良」の駅名表示板から少し離れた所で、登山者は断って中に入れます。大阪と奈良を結ぶ道はいくつかありますが、中でも重要なのは暗(くらがり)峠越えの奈良街道(奈良からは大阪街道)。

峠に残る石畳は今も往時の面影を伝えています。神功皇后が三韓征伐のとき、峠の東、西畑に陣を敷き、暁を告げる鶏の鳴き声とともに出立する手筈でした。ところがニワトリが早く鳴きすぎて、いつまでたっても夜が明けず、軍が峠に来てもまだ暗がりだったのが地名の所縁だそうです。

生駒山は大阪平野と奈良盆地を区切って南北に走る生駒金剛山地の北半、生駒山地の主峰で、古くから河内・大和の人々に朝夕、親しまれてきました。戦中の小学5年生の時から1970年代初めまで、この山系の中腹(大阪側)に住んでいた私にとっては、実に思い出の深い山です。河内音頭や演歌「河内男ぶし」で「大阪の山」のイメージが強いのですが、高校野球の実況で大阪桐蔭高校(当時の住いの近く)の校歌で「大和平野にそびえ立つ 生駒の峯の松風が…」と聞くと、府県境の山であることが改めて思われます。

山腹や山麓には山腹や山麓には伊古麻都比古神社(生駒大宮)、鳴川千光寺(元山上)、宝山寺など有名な古社寺や旧跡が多くあります。とくに宝山寺は「生駒の聖天さん」として関西商人を中心に多くの参拝客で賑います。生駒は宝山寺の門前町として栄え、生駒山には日本最初のケーブルカーが設置されました。

 

(32)大原山

「暗峠の名の由来になった山」

暗峠の500m ほど南にある高まりが、古くは「小椋山」と呼ばれていたこの山です。河内名所図会に『世に暗峠という者非ならん…(中略)…生駒の山続きて小倉山という。故尓(に)椋ケ根の名あり。一説には此山乃松杉大ひ尓繁茂し、暗かりぬればかく名付くともいふ。」と記されています。

この山は赤茶色に山肌が露出していたので「赤はげ山」とも呼ばれました。現在の山頂は気持ちのいい草地で、眼下に河内平野が一望され、その向こうに大阪湾、六甲連山、北摂の山々を見る絶好の展望地です。

北東にドライブウェイ駐車場の道標に従って100mほど下った所に、新しい514mの4等三角点があり、周辺は三角点広場と呼ばれています。(2008年に行った時には、なぜか標高522mの標識がありました)西(大阪)側一帯は「大阪府民の森」の一部で「なるかわ園地」と名付けられ、ここからの展望も素晴らしいです。

暗峠を通る奈良街道(奈良側からは大阪街道と呼びます)は、郡山藩主の行列のために敷かれた石畳が峠付近に残っています。現在でも大阪への通勤者が非常災害時に奈良への帰宅ルートとして、その訓練に使われるなど重要な道であることに変わりありません。

 

(33)高安山

「昔は山城、今は台風の見張所」

生駒から南に走る信貴生駒スカイラインは、暗峠、十三峠を経てこの山の東側を通ります(信貴山山頂付近は通りません)。

信貴山からハイキングコースとなっている山道を行くと、途中で右に折れる分岐があり高安城倉庫跡に出ます。林の中に礎石が残る広場で、三号倉庫跡からは北東側が切り開かれて矢田丘陵や平群の町が望めます。

元の道に帰り、直進してスカイラインを越えて少し登ると、落ち葉に埋もれた小広場があり二等三角点(点名・峰山487.4m)が埋まっています。

前方に見える白いドームは高安山レーダー観測所で現在は無人、大阪管区気象台からリモートコントロールされています。

その北側に「高安城跡」の石碑があります。

663年、白村江の戦で唐・新羅の連合艦隊に敗れた大和朝廷が、防衛のために「烽火」を置いたと日本書紀にあります。これまで見張り所くらいの規模と考えられていましたが、1999年に城壁と思われる長大な石垣や櫓址も発見されて、強固な防御陣地の山城があったことが実証されました。

高安山の最高所(485.9m)はこの背後の台地上にありました。

 

(34)信貴山

生駒山脈の南端、高安山から東に派生した尾根上にある双耳形の小火山。(写真は明神山より、右は生駒山)

中腹にある朝護孫子寺は聖徳太子が物部守屋との戦いに敗れてこの山に逃げ込み、毘沙門天に祈願して勝利を得たので創建したと伝えられ、庶民信仰のお寺で毘沙門天が出現した「寅年寅月寅の日」は特に賑わいます。

信貴山はこの寺の山号で、太子が「信ずべき山、貴ぶべき山」と讃嘆したことが由来です。中興の祖・命蓮上人の奇瑞を描いた国宝・信貴山絵巻は鳥羽僧正筆と伝えられ、日本四大絵巻の一として有名です。

しかし、私たちトラ党にとっては境内至るところに様々なトラが鎮座して、阪神タイガースの選手たちも優勝祈願に訪れるこの寺は甲子園に次ぐ聖地といえるでしょう。

ここは河内と大和を結ぶ政治的・戦略的要地で、古代から何度も山城が造られました。戦国時代、松永秀久が大和攻略の拠点として、近世城郭の先駆的形態を備えた居城を構えました(永禄2年・1559)が、天正5年(1577)織田信長により落城しました。

三重塔の横から朱色の木の鳥居、石の鳥居が並ぶつづら折れの急坂を登って山頂に着きますが、三角点(437m)は空鉢堂の敷地内にあるようで未確認です。

空鉢堂前の舞台からは、南に二上、葛城、金剛、岩湧、和泉葛城に続く山並み、その左に吉野から大峰への連山。南東には大和平野に浮かぶ大和三山、その上に竜門山群。三輪山の右奥には高見山が青く霞みます。東には竜王山、国見、貝ヶ平山など素晴らしい展望が楽しめます。

(35)明神山
「米相場の旗振り山」

生駒山脈と金剛山脈の間のくびれた所を大和川が流れています。亀ノ瀬の辺りは古代から交通や戦略上の要衝となってきた所で、現在も国道25号線、JR大和路線が大和川に平行して走っています。その南側、つまり金剛山脈の最北端にあるのが、この明神山です。晴れれば明石大橋も見えるという見通しのよい所で、昔は大阪堂島の米相場を知らせる旗振り山でした。旗振山は須磨アルプスにある山が有名ですが、他にもたくさんあり、特に大和は源助という男がこのシステムを作り出したと言われる発祥の地でもあります。

王寺町明神7丁目の公園横「明神山参道・是より西壱八七〇米」の標識がある赤い大鳥居を潜り、住宅地の中の坂道を登ります。ハイキングというより散歩道といった感じです。笹原へ下る分岐があり、「頂上へ460m」の道標と「右大坂、さかい」の石標があります。すぐ下の国道を走る車の音が聞こえてくると、僅かの距離で広い山頂部に着きました。

水神社(明神山太神宮)は往時、伊勢参りに行く人が通過したので阿波からの参詣人も多かったそうです。山には二匹の白狐が棲んでいましたが、関谷の甚九郎という人が一匹を退治し、一匹は天理の山に逃れたとか、馬で通りかかった郡山藩主が「偽の皇大神宮」と言って破却させたという伝説が残っています。

神社の回り三箇所に大きな展望台があります。王寺町の人の憩いの場になっているらしく、顔馴染みの皆さんが談笑しています。

標高274.9m(三等三角点、点名・西山)の超低山ですが、頂上からの展望は意外にも大きく信貴、生駒、二上、金剛、葛城の山々、大阪側は大阪南港やあべのハルカスも見ることができます。

大鳥居の登山口から山頂まで、ちょうど30分でした。ここから大阪側に降りるコースも一度行って見たいと思っています。