ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(70)~(75)

2015-08-31 16:18:38 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

 (71) 薊 岳(あざみたけ) 「山腹のアザミが山名の由来」



台高山脈北部の国見山から西に派生した尾根上にあり、昔は山腹にアザミが密生していたのでこの名があるといいます。頂上は小さな双耳峰になっていて、最高点の雄岳と西側のやや低い雌岳の間は、痩せた岩尾根で結ばれています。山頂付近ではシャクナゲがたくさん見られます。 



岩稜とシャクナゲの間に登山路が通る狭い山頂(1406m)は素晴らしい展望所です。南に木ノ実ヤ塚の円頂に続く二階岳。北に伊勢辻山、その右の赤ゾレ山との間に高見山、その奥に曽爾の山々。伊勢辻山から国見山、水無山に続く稜線、明神岳からの尾根が池木屋山を過ぎて低くなると、その上に七ツ釜高から日出ヶ岳、経ヶ岳へと続く大台ヶ原が浮かんでいます。経ヶ岳の下に見える二階岳がちょうど南になります。



南西には釈迦ヶ岳、仏生ヶ岳、特異な山容の大普賢岳から山上ヶ岳、大天井岳と大峰の山々。さらに右、西から北西にかけては岩湧山、金剛山、葛城山、生駒山まで望むことができます。

大又からの途中にある大鏡池(だいきょういけ)は、今は水量が少なく湿地のようになっていますが、竜神を祭る祠がある雨乞いの池で、夕日長者(金扇で沈む夕日を呼び戻そうとする)や美しい天女、天狗までが登場する賑やかな伝説が残っています。

1997年に明神平から(1時間15分)、2004年には大又から(3時間)、2005年に木ノ実ヤ塚経由(麦谷林道登山口から1時間30分)で登りました。 


72)雲ヶ瀬山 「鳥の渡りの見られる山」

 
(大峠から雲ヶ瀬山:左端に頭だけ見える)

伊勢辻山から高見山に続く稜線を緩く下り気味に行く途中で、高見山が近くなる頃に出会う小高いピークです。伊勢辻山経由の道は大又から叉迫谷を遡り、和佐羅滝を見送って急坂を登って稜線に出ます。伊勢辻から伊勢辻山までは僅かの距離で往復できます。伊勢辻を北へハンシ山を越えて、南タワから登り返すと雲ヶ瀬山
(1075m)です。

私たちは2004年の秋、高見山へ登る前に大峠から往復しました。トイレや四阿のある大峠の広場の南端からは紅梅矢塚が正面に見え、雲ヶ瀬山はちょっぴり頭だけを見せています。ヒノキとスギ林の山腹の捲き道は、途中で急斜面のトラバースになり一箇所では虎ロープが張ってありました。
 



広い尾根にでた処で陣ヶ平の標識があり、伐採跡の苔むした切り株にスギヒラタケがびっしり付いていました。源流部らしい谷を挟んで左右に道が分かれ、左は通行止になっていました。



谷と分かれ、広い尾根を緩く登った
1021mピークには周囲を石で囲んだ立派な標高点がありました。
いったん下った雑木林の広い鞍部から暗いスギ林の登りとなり、やがて雑木林に変わって次第に明るくなる中を少し登ると雲ヶ瀬山(1075m)でした。



山頂は樹木に囲まれて展望はまったくありませんでした。
少し南に行くと左手が開け、三峰山とその右肩に局ヶ岳の鋭峰、右には迷岳などが見える開けた処に出ました。



ここはサシバなどの「渡り」が見られる展望所らしく、やや古びた説明板が三枚ありました。梢越しにちらちら高見山を見ながら、もとの道を大峠に帰りました。往復
1時間あまりの適度な足慣らしでした。


 73)木ノ実ヤ塚(きのみやつか)「円頂形の穏やかな山容」



東吉野村にある薊岳から南に延びる尾根上のピークです。由来は知りませんが、珍しい、印象的な山名です。「塚」がつく山は、この近辺で他にも「檜塚」「コウベエ矢塚(紅梅塚)」がありますが、いずれも円頂型の穏やかな山容を見せています。この山も、山腹はブナやミズナラなどの自然林に覆われ、秋には美しい黄葉がみられます。



2004
年秋、麦谷川沿いに伸びる林道麦谷線を車を利して登りました。林道が稜線にでたところが登山口で、すでに標高は1100m。二階岳(1242m)を経て1時間ほどで頂上に着きました。



 1374m
三等三角点のある山頂は樹林に囲まれ展望はありませんが、広くて明るい感じです。時間があるので薊岳へピストン(80分)して展望を楽しみました。山頂から薊岳へは、急坂を水溜まりのような池がある鞍部に降り、しばらく岩混じりの暗い痩せ尾根を登ります。尾根が広くなると、ブナ、ヒメシャラ、オオイタヤメイゲツなどの林の中、気持ちの良い稜線歩きとなります。



右手の梢越しに明神岳から笹ヶ峰、千石山と続く稜線が見えます。薊岳のピークを見上げながら、傾斜が強まった道を岩角や木の根を掴んで登るようになると、間もなく薊岳雄岳山頂の東端にでました。


 
(74)
 池木屋山(いけこややま) 「深山幽谷の趣」



奈良県吉野郡川上村と三重県松阪市にまたがり、台高山脈のほぼ中央に位置します。ブナの原生林を初め豊かな自然が残り、深山の趣が深いところです。シャクナゲやサラサドウダンも多い山です。奈良側からは、明神平から千石山、赤クラ山を経て6時間を要します。
『大和青垣の山々(1973奈良山岳会編)』には「とにかく大和の山で最も登りにくいのがこの池小屋山なのである」と記されています。(この本で「池小屋山」と表記されています)私たちは、三重県側の奥香肌峡宮ノ谷から入山しました。それでも標高差580m、休憩を含めて4時間の登高を強いられました。



山頂は笹原とブナの疎林に囲まれていますが、大熊谷の頭、迷岳、白倉山、古ヶ丸山などが展望されました。近くの木立の中に小さな木屋池がある。山の名はこの池から来ているとも、池の畔に小屋があったからとも聞きましたが定かではありません。



宮ノ谷は奇岩や飛瀑の連なる美しい渓谷です。高滝までは遊歩道が設けられ、犬跳び、鷲岩、六曲屏風岩などの奇岩や蛇滝を見ながら行きます。



高滝は落差50mの堂々たる大滝で、ここから猫滝を過ぎるまで、岩角や灌木などを手掛かりに登る危険地帯です(ロープが付けられていました)。



河原を何度か渡り返して「奥の出合」で谷を離れ、ようやく中尾根の本格的な登りになって山頂(1396m)に立ちます。
奈良側からは川上村入之波(しおのは)から北股川を遡行するルートがあると聞いています。


75)白鬚岳(しらひげたけ)「今西錦司先生1500山目の山」

別称を朝倉山といい、吉野郡川上村のほぼ中央、池木屋山北西の赤倉山から南西に延びる稜線上にあります。山頂に白髭大明神の祠があったことで山の名がつきました。



西側の神之谷から峠を越した東谷出合(
530m)まで車で入りました。谷沿いに三度ほど沢を渡り返し、谷を離れるとジグザグの登りから植林帯の急登となって稜線に出ます。



ここは神の谷コースの分岐点になっています。尾根通しに登っていくとコル状になって右手が開け、真下に不動窟の赤い屋根と幟が見えました。その先の檜林の中で、突然、激しい物音がして大型の鳥が羽ばたきの音高く飛び立って斜面沿いに滑空して行きました。



露岩混じりの痩せ尾根を行くと、植林の切り開きから薊岳から明神岳、桧塚、迷岳へと続く稜線が一望されるようになり、行く手には鋭い頂を天に突き上げた白髭岳が見えました。緩く登って低い笹原の中の明るい小台地、小白髭に着きました。北側の集落ではここを白髭岳とか粉尾(そぎお)峠と呼び、白髭岳(
1378m峰)はアサクラ山と呼ぶそうです。



白髭岳までは小うるさいほど痩せ尾根のアップダウンがあり、目立つピークだけでも4つを越していきます。最後の急登で山頂に立ちました。山名の由来になった白髭大明神の祠は今はなく、三角点の前に「今西錦司先生
1500山目の山」の小さい石柱が立っています。側面には「一山一峯に偏らず。一覚一私に偏らず。錦司」と記されていました。



展望は南側が日出ヶ岳から三津河落山と続く大台ヶ原、その右(南西)に孔雀岳から弥山、大普賢、山上ヶ岳へと続く大峰の山々。その右に丸い小白髭のピークが低く見えます。山頂から東へ少し下ると、露岩が散在し、迷岳、赤クラ山、池木屋山など東から南にかけての展望が大きく開けました。登りはじめてから休憩を含め
3時間半近くかかりました。

この日、帰りに白屋岳の登山口を探しにいきました。白屋地区の小母さんに、どこの帰りかと聞かれて白鬚岳と答えると「その山には白い鷹がいる」と聞きました。私たちが山頂近くで見た大きな鳥は茶色でしたが、これもタカだったかも知れません。

奈良の山あれこれ (66)~(70)

2015-08-26 20:39:14 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

 66)三峰山 (みうねやま)「霧氷の山」 



畝が三つ並んだように見えるので、三畝山(みうねやま、さんせやま)とも呼ばれました。高見山地の中央にあって、奈良県御杖村、三重県津市、松阪市にまたがる大きな山容を誇ります。



「霧氷の山」として人気が高く、冬は大勢のハイカーで賑わいます。一等三角点の埋まる山頂は樹木の成長でかっての大展望が失われ、僅かに北側に室生火山群が望めるだけとなりました。



南西に少し下った八丁平は、ススキやヒメザサに覆われた広々とした高原で、花期にはシロヤシオの花が咲き誇ります。迷岳、池木屋岳、国見山など台高の山々の展望が良いところです。

山麓の御杖村には伊勢本街道が通り、垂仁天皇の皇女倭姫命が、天照大御神の御杖代(神意を受ける依代)」となって巡行した時、この地に行宮を造り休憩したところという伝承があります。村名は倭姫命の玉杖を祀ったことから生まれたといわれています。「みつえ青少年旅行村」が山行の起点で、シーズンの休日には、ここまで「霧氷バス」が運行されます。



少し引き返して神末川に架かる橋を渡り、大タイ川沿いに行くと尾根道の「登り尾コース」と、落差15mの不動滝を見る「不動谷コース」に分岐します。



どちらをとっても1時間半ほどで避難小屋がある地点で合流します。小屋から三畝峠を経て約30分で山頂に着きます。別コースとして、新道峠(ワサビ峠)を経るコースがあります。(2時間40分・林道歩きが長く下山に使われることが多いようです)。


(
67)高見山  「関西のマッターホルン?槍ヶ岳?



西側、とくに国道166号線の木津(こつ)峠付近から見た姿は、まさに「天を衝く」感じです。吉野郡東吉野村と三重県松阪市の境にあり、台高山脈北端の山として南端の大台ケ原山と山脈を代表しています。



三峰山と同じく霧氷で有名な山です。



この山は古くは高角山(たかつのやま)といい、山頂の高角神社は神武天皇東征のとき道案内を勤めた八咫烏建角見命(ヤタカラスタケツノミノミコト)を祀っています。



杉平からの表登山道には、神武天皇が国見をした国見岩がある他、天狗岩、揺岩、笛吹岩など伝説の残る巨岩がいくつもあります。
高見山は『万葉集』 我妹子を いざ見の山も高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも の「いざ見の山」に比定されています。「去来見山(いざみやま)」の別名はこの歌が元になっています。



1
248mの山頂からの展望は名の通り雄大で、間近の三峰山をはじめ曽爾、大峰、台高の山々などが一望できます。



山頂南側の大峠は、伊勢街道が通る高見峠として交通や通商の要衝でした。今は峠のさらに南の山腹を国道166号線高見トンネルが通っています。また登山口の杉谷近くには「古市」跡が残り、往時をしのばせます。
一番簡単に登るには、車で166号線から大峠に登り広場に駐車すると、1時間足らずで山頂に立ちます。平野からは樹齢700年の高見杉を見て2時間半。



杉谷からは伊勢南街道を通り小峠へ。ここから急登で平野からの道と合わさるとなだらかな尾根道になり、先述の説話の説明がある岩を見ながら山頂に向かいます。冬には美しい樹氷が見られる人気の高いコースです。杉谷の登山口から2時間15分。


(68)国見山  「これで幾つめの国見?」

 
台高山脈北部にあります。北の高見山から伊勢辻山を経て縦走路がこの山の頂上を通り、さらに南の明神岳へと続いています。全国に数多い「国見山」はすべて展望がよいことで名付けられたと思いますが、この山もかっては近江から伊勢、紀州まで見渡せたということです。



近年は灌木が次第に視界を狭めていると聞きますが、2001年に伊勢辻山へ縦走した時は、越えてきた水無山の向こうに薊岳から明神岳、檜塚に続く稜線、遠くに大台ヶ原が霞んで見えました。山頂から南に縦走路を行くと、すぐウシロ嵒という絶壁上の展望台があり、明神谷を隔てて薊岳がよく見えました。

 
明神平から明神岳、水無山を経て登るのが一般的です。私たちが初めて登ったときは、最短で山頂に立てる「天高ルート」をとりました。この道は大又林道終点から明神平に登る途中、旧あしび山荘を過ぎたところでキハダサコの涸沢に入ります。右岸を行き尾根に出て急登。右にキハダサコの源流を見る痩せた岩尾根から、プナ、ヒメシャラ、コナラ、リョウプなどの雑木林に変わり、出会いから僅か1時間で頂上(1419m)に着きました。


 
(69) 伊勢辻山  「大和と伊勢との辻」

 
奈良県東吉野村と三重県松阪市の境界、国見山から高見山に続く台高主脈上にあります。伊勢辻の名は、山の北側に大和と伊勢を結ぶ道が通る峠があったことに由来します。



山頂(1290m)からは北に高見山、遠くに倶留尊、大洞など室生の山々、その右に局ヶ岳、修験業山、栗ノ木岳。東から南にかけては国見山、水無山の稜線。南方、薊岳の右に大普賢、山上ヶ岳など大峰の山々…と見飽きぬ大展望が繰り広げられます。



国見山と伊勢辻山との間には「馬駆場ノ辻」という芝のような草地があり、源義経が愛馬と別れた場所という伝説が残っています。山頂から大又に下る途中には、落差30mと聞く和佐羅滝が山肌に白布をかけています。

高見峠からは雲ヶ瀬山、ハンセ山を経て3時間。私たちは明神平から明神岳に登り、水無山、国見山と北上して伊勢辻山から大又に下りました。明神平からは約1時間45分でした。


(70)明神岳
   
「祠はなくても名前は残る」



この山の名は昔、山頂に穂高明神を祀る祠があったことによると言われています。現在も国土地理院地形図には1432mのピークに「穂高明神」と表示されていますが、祠は見当りません。



東吉野村大又から、大又川に沿った林道は魚止滝や石ヶ平谷、三度小屋谷、アベ山谷などいくつかの支谷を見送り、かなり奥まで通じています。



終点から、冬には美しい氷瀑と化す明神滝をみて、樹林帯を登ると約1時間半で明神平に着きます。



「あしび山荘」の西側から台高山脈主稜線にかけての笹原は、かっては雪質のよいスキー場として知られたところです。頭上に見える稜線に登りきったところは三ツ塚と呼ばれ、北は水無山、国見山へ、南は千石山を経て池木屋山、西は薊岳への三叉路となっています。



三ツ塚から南へ10分ほどで檜塚への支稜が分かれますが、明神岳はここ(国土地理院地形図には山名の表記はなく、前述の穂高明神と記されたところ)に位置しています。周辺は美しいブナ林で、展望は主稜線を少し南に下った笹ヶ峰(1367m)の方が優れています。
大又バス停から林道終点までは歩くと1時間15分ほどかかります。薊岳から明神岳へは1時間強。

奈良の山あれこれ(61)~(65)

2015-08-19 20:03:27 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

 61)亀 山 「お亀伝説の山」



亀山峠(倶留尊山の項参照)の南にある草原状の山です。形状がカメに似ているので名付けられたと聞いたことがありますが、定かではありません。





山頂
(849m)からは眼下に「お亀池」を抱いた曽爾高原が広がり、正面に屏風岩の岩峰や、住塚、国見、鎧、兜と続く山々の素晴らしい展望が拡がります。南には後古光山から古光山への稜線、遠く高見山の鋭鋒も望むことができます。



亀山峠はかって太郎越とも呼ばれ、太良路(太郎生への道が通る意)から三重県津市美杉町太郎生(タロウ)に通じています。



峠を南に木の階段道を下ると三重県側への車道が通る長尾峠で、さらに古光山へ稜線を縦走することができます。

瓢箪形をした「お亀池」の『お亀という美人妻の正体が池の主の大蛇だった』という伝説は有名ですが、他にも、こんな人魚伝説が残されています。『昔、馬に乗った一人の武士が池の傍を通りかかると、美しい女が「水浴びをする間、子供を預かってくれ」と頼みます。あまり長いので池を見ると、女の下半身は魚で、水中深く姿を隠してしまいました。ふと見ると抱いていた子供は石の地蔵さんでした。」

池の周囲は800mほどありますが水深は約1mと浅く、低層湿原特有の植性が見られます。池の中にこれらの植物が枯れて推積してできた浮島があります。



登路は「倶留尊山」の項をご参照ください。曽爾高原入口ある有料駐車場からは約30分です。


62)古光山 (こごやま) 「天狗の住む山」



倶留尊山、亀山から南に続く稜線に石英岩質の五つの峰が、奈良県宇陀郡曽爾村と御杖村にまたがって、鋸の歯を連ねたようなアルペン的な風貌を見せています。

ここには天狗が住んでいたという伝説が残っています。昔、この山へ草刈りに行った人が、天狗の太鼓を叩く音を聞いて怖くて逃げ帰ったといいます。その場所には「天狗の踊り場」という名が付いています。

古光山は「ぬるべ山」とも呼ばれました。「ぬるべ」は「漆部」で、古代「漆部造(ぬりべのみやつこ)」が置かれたことから、曽爾は「漆部の郷」といいます。山麓の塩井には『漆部の造磨の妾は仙女であった(日本霊異記)』という伝説が残っています。



曽爾高原駐車場から杉植林の中を緩やかに登って、古光山登山口の長尾峠にでます。



林の中に延々と続く木の階段道を登ると、なだらかな尾根道となり展望が開け、行く手には後古光山(左)と古光山の頂きが並んで見えます。



再び林の中の急坂を登り切ると後古光山(
892m)の狭い山頂に立ちます。



背後に亀山から二本ボソに続く稜線、尼ヶ岳、大洞山、三峰山、局ヶ岳と遮るものない大展望です。



岩や木の間に太いロープが張ってある急斜面をフカタワと呼ばれる後古光山と古光山の鞍部に下ります。



左の後古光山(
892m)と古光山に挟まれているので、昔は「はさみ岳峠」と呼ばれたそうです。曽爾と御杖を結ぶ道の通る明るい峠です。峠から更にロープを頼りに急坂を登ると古光山山頂。



樹木に囲まれた狭い広場に三角点(
953m)が埋まり、わずかに木の間から倶留尊山が見えます。展望は、さらに南に厳しいアップダウンを繰り返した南峰の方が優れています。



四峰と南峰(五峰)の間は短いが鋭い岩尾根を通過します。



五峰からの展望は南東に三峰山のどっしりした山容、高見山。その右手遠くに大峰の山々が青く霞んでいます。東に住塚、国見山。その右の鎧、兜は、ここからだとあの怪異な姿に見えず平凡な形です。滑り落ちそうな急坂を下り、しばらく笹原の尾根道で傾斜は緩みますが、再び足首が痛くなるような急下り。



ようやく「ふきあげ斎場」の納骨堂裏に出て、やがて大峠の登山口に降り立ちました。


63)学納堂山 (がくのどうやま) 「大和最東端の山」



 三峰山(みうねやま)から北に延びる支稜上にあり、楽能堂とも岳の洞とも書かれる二等三角点(1022m)の山です。



ドーム型の山頂部はススキや笹で覆われて樹木が少なく、胸のすくような素晴らしい展望が開けます。



北に倶留尊山と大洞山、尼ヶ岳、古光山。南には伊勢の局ヶ岳と高見山を東西に従えた三峰山が大きく見えます。

学能堂の名は、かって山頂に文殊菩薩を祭る祠があったことからといい、学芸上達を祈願する人たちの思いを偲ばせます。「御杖村史」には、昔、能楽が催された山と記されています。三重県側の津市美杉町で「岳の洞」と呼ぶのは「大の洞」(大洞山)と同様でです。 昭和48年刊の「大和青垣の山々」では、「大和最東端の山」として、「山頂に至る道らしい道が開かれていない」と記されていますが、今は奈良県、三重県の両側からいくつかの登山道があります。



私たちは杉平から水谷林道を経て県境尾根を登る道や、神末から小須磨峠、白土山を経て登る道を、また
200612月には神末から小須磨山(850m)、小須磨峠を経る道を登りました。



最後はカヤトの原の中、かなりの急登でした(いずれも1時間半~
2時間)。他にも払戸、笹峠からも登る道があると聞いいています。


64)黒石山(くろいしやま) 

高見山で大きな高まりを見せた台高山脈は、さらに北へ延びて高見山北東1キロの地点で東と北に分かれます。北へ続く稜線は、天狗山(993m)、船峯山(938m)、黒石山(916m)、高山(893m)と次第に高度を下げながら差杉峠(西杉峠)に至ります。黒石山は、この高見山北方稜線上の三角点峰のひとつです。



頂上には915m三等三角点がありますが、灌木に囲まれて無展望です。わずかに木の間から高見山が望見されました。桃俣から西杉自然遊園を経て登る道があります(自然遊園から1時間半)が、踏み跡に近く藪漕ぎが必要かも知れません。私たちは天狗山経由で登りました。

65)天狗山 「天狗様の好きな山」 



黒石山と並ぶ高見山北方稜線上のピーク。登山口にあたる高角神社から南へ進み、急登で「小烏の尾」という尾根道に出ると、



屏風岩から鎧・兜、倶留尊山、尼ヶ岳、大洞山と曽爾火山群の展望が開けます。尾根の左側は切れ落ちた絶壁になっています。



山腹を直登して山頂(
993m)にでますが、ここも木立に囲まれ展望は期待できません。V字に折り返す形で北に向かうと、大天狗岩の下に出ます。岩屑が崩れやすい急斜面を岩稜と灌木の根や枝の間をよじ登ると、中間のテラスがあります。



足元はオーバーハング気味の絶壁で、三峰山から高見山に続く稜線がすぐ前に見えます。ここから見る高見山の北面は、見慣れた鋭鋒の姿と異なり、ゆったりした山容です。大天狗岩の頂(
933m)は灌木が茂り無展望です。

天狗山は、この岩の名前に由来すると思われますが、いかにも天狗が好みそうな岩峰です。北へ稜線をたどると約1時間で黒石山に達します。

奈良の山あれこれ(58)~(60)

2015-08-13 13:54:17 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

(58)兜岳(かぶとたけ)「室生火山爆発時のマグマの跡」



兜岳、鎧岳の名前は、その形を武具に見立てたものです。奈良県宇陀郡曽爾村に隣り合ってあり、青蓮寺川に面した南側に大岩壁を露わにして偉容を誇っています。鎧・兜に屏風岩を加えて「曽爾三山」と呼び、1934年、国の天然記念物に指定されています。



曽爾村横輪から赤目掛線を北へ45分で、目無し地蔵が佇んでいます。ここが登山口で深い樹林帯の中、露岩混じりの急坂を登ります。 途中に大岩が二つあり右側の展望が開けますが、頂上は雑木林の中で無展望です。頂上(920m)まで目無し地蔵から45分でした。 



兜岳、鎧岳とも、急峻な東側に反して西側は比較的緩やかで雑木に覆われています。青蓮寺川沿いには柱状節理の岩が多いのですが、これは1000万年前の室生火山の爆発によるマグマの痕跡といわれています。兜岳の西側を県道784号が走っています。かつての今井林道、更に古くは椿井越えといわれ、昔から曽爾と名張を結ぶ重要な道でした。 今井から北に登ると、何段にも分かれて兜岳の岩裾を洗う「長走りの滝」があります。名張、曽爾の市村境が赤目出合茶屋で滝川が流れています。



川沿いに西へ下ると名勝・赤目四十八滝で、大小の滝が約4㎞にわたって続き、オオサンショウウオの棲息地として知られています。また、出合茶屋を東へ進むと小笹峠を越えて青蓮寺川沿いの落合に出ます。青蓮寺川の両岸には、この辺りから北へ6㎞にわたって、柱状節理の大岩壁や奇岩が続き、香落渓と呼ばれる名勝になっています。

(59)鎧岳(よろいたけ)「戦国武将を思わせる山」



隣り合う兜岳より標高は低い(894m)のですが、やや背を傾げて屹立する姿はよく目立ち、兜岳の雌岳に対し雄岳と呼ばれました。



『大和名所図会』に「雄嶽。葛(かつら)村にあり。一名鎧嶽という」と記されています。露出した柱状節理の岩肌を鎧のくさずりに見立てた名称です。岩壁は南に面して三段からなり、この辺りに多い柱状節理の中でも屈指の大岩壁で、特に青蓮寺川沿いの岳見橋から仰ぐと、鎧をまとった偉丈夫を思わせる堂々たる姿です。兜岳と鎧岳を結ぶ道は始めての1962年(昭和37)にはヤブ漕ぎとルート探しにかなり苦労して、なんとか尾根通しに歩くことができました。



今は痩せ尾根の上にはっきりとした道が続き、右手の倶留尊山方面の展望が素晴らしく、稜線歩きを楽しめます。しかし、足元は切り立った断崖絶壁で足がすくみそうです。 



急坂を下ると峰坂峠で、この峠を北に越すと布引谷に出合います。谷を左に遡ると落差30mに近い布引滝があります。また右(北東)に下ると、県道81号の通る落合にでます。ここから1㎞弱南にある小太郎岩は、幅約700m、高さ約200mの垂直の岩壁。「小太郎落とし」の伝説が残り、かつては岩登りのゲレンデとしても有名でした。峠から再び、雑木林の中の急登になりますが、登山道の随所に立派な道標が設置されています。鎧岳の頂上は雑木が切り開かれて、曽爾高原方面の格好の展望地になっています。

 (60)倶留尊山(くろそやま)「室生火山群の主峰」



奈良三重県境に連なる室生火山群の主峰で、山の西側は奈良県宇陀郡曽爾村、東側は三重県津市になります。奈良側はなだらかな地形ですが、三重側からは荒々しい岩壁の様相を見せています。



名張駅からバスで太良路(たろうじ)または「少年自然の家」下車。1時間で曽爾高原入口に着きます。お亀池を横に見て、ススキの中に付けられた道を亀山峠に登ります。



左に折れて、開けた急坂の尾根道を二本ボソ山に登ります。





樹林帯に入ると、二本ボソから先の頂上部が私有地のため、環境整備のための協力金として入山料500円を徴収する小屋が立っています。



二本ボソ(996m)頂上東側の鰯ノ口展望台に下ると、三重県側の地形の一端を窺うことができます。



また正面に尼ヶ岳、大洞山、さらに局ヶ岳、学能堂山と見飽きることがない眺望が拡がっています。
いったん岩稜を標高差80mほど下り、鞍部から樹林帯の中を登り返します。上り下りともロープの張ってある急坂です。



高原入口から1時間15分で倶留尊山山頂(1038m)に着きます。広く開けた台地ですが、展望は二本ボソに劣ります。



倶留尊山の名は、自然信仰の名残と思われる倶留尊石仏から来ています。荒井魏 『日本三百名山』によれば『柱状節理の大障壁、すなわち賢却千仏の「拘留孫」に由来する』とあります。ちなみに拘留孫(倶留孫仏)は過去七仏と言われる、釈迦牟尼仏以前に現れた仏様の一人です。石仏は山の北西、伊賀見にある15mの大岩に彫られています。

奈良の山あれこれ(55)~ (57)

2015-08-09 08:55:42 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。* 

「奈良の山あれこれ」シリーズも、前回で大和平野、生駒・金剛、宇陀高原エリアの山を巡り終えて65回を数えました。これまで一つの山で複数回をUPしたものもありましたが、この際、一山を一つのナンバーとして整理しました。今回の「室生火山群エリア」から新しいナンバーで(55)に帰ります。ご参考までにこれまでの山名とナンバーを記します。

<大和平野エリア> (01)春日山、御蓋山 (02)若草山 (03)春日山 (04)芳山 (05)高円山 (06)一体山 (07)矢田山
(08)松尾山 (09)神野山 (10)城山 (11)高峰山 (12)国見山 (13)大国見 (14)竜王山 (15)白山 (16)巻向山 
(17)初瀬山 (18)三輪山 (19)天神山 (20)外鎌山 <大和三山 (21)耳成山 (22)畝傍山 (23)天香具山> (24)高取山
(25)高取山 <音羽三山 (26)音羽山 (27)経ヶ塚山 (28)熊ヶ岳> (29)竜門ヶ岳
生駒金剛エリア (30)生駒山 (31)大原山 (32)高安山 (33)信貴山 (34)明神山 (35)屯鶴峰 (36)二上山 (37)岩橋山
(38)葛城山 (39)金剛山
宇陀高原エリア (40)烏塒屋山 (41)野々神山 (42)都介野岳 (43)貝ヶ平山 (44)鳥見山 (45)額井岳 (46)戒場山 
(47)城山 (48)伊奈佐山 (49)日張山 (50)大平山 (51)三郎ヶ岳 (52)高城山 (53)袴ヶ岳 (54)室生山
 
 
室生火山群エリア  (55) 屏風岩 「柱状節理の大岩壁」
 

香落渓で知られる曽爾村は奈良県の東北端にあり、西に住塚山、国見山、北に鎧・兜岳、北東に倶留尊山、東に古光山と周囲を山に囲まれ、古くは「塗部(ぬるべ)の里」と呼ばれた処です。屏風岩は住塚山から東に続く稜線の一部で、断層活動で南側が石英安山岩の柱状節理を示し、約200mの高さの断崖となって約1.5キロにわたって続いています。1934 年に国の天然記念物に指定されました。周辺は屏風岩公苑として整備され、桜の名所でもあり花の時期は賑わいます。その後はミツバツツジが岩肌を彩り、秋の紅葉も素晴らしいところです。



 
1990年頃には公苑まで車で入れるようになりましたが、屏風岩の稜線はブッシュがひどく、とても歩けませんでした。2005年秋、屏風岩公苑に車を置いて住塚山、国見山、松ノ山、クマタワ、林道川根線をへて若宮峠へ。クマザサの中をひと登りで屏風岩の上を通る道に出ました。地図には出ていませんが、笹が切り開かれていて歩き易くなっています。しかし、美しく紅葉した樹木が途切れて剥き出しの絶壁の上に出ると、目が眩むような高度感でした。

 
小さなアップダウンのあと「屏風岩一ノ峰92656m」の小さな標識がついたピークをすぎると、三角点はその少し先で尾根が右に折れる見晴らしがよい場所にありました。
 
(56) 住塚山  「昔の名は屏風嶽」
 


奈良県宇陀市室生区と宇陀郡曽爾村の境界にあり、室生火山帯に属しています。『大和名所図会』では屏風嶽として、「今井村にあり。山形峭壁し林木叢茂す。屏風の如し。因って名とす」と記されています。



曽爾村長野から徒歩約1時間で屏風岩公苑。山頂へは公苑を横切るように屏風岩の裾を西に辿り、ヒノキ林の中を急登して尾根に出て、「一ノ峰」コルから頂上に至ります。公苑から山頂まで約45分です。



山頂からは国見山、鎧岳、兜岳、
 


倶留尊山、古光山などの曽爾の山々を初め、高見山、三峰山などが遠望できます。住塚山は、ゼニヤタワと呼ばれる鞍部を挟んで北にある国見山とあわせて登られることが多く、私たちも殆どの場合、それに倣っています。住塚山山頂から北へ向かう稜線は、ゼニヤタワと呼ぶ鞍部に下ります。登り返せば露岩もある痩せた尾根になり、国見山へ。ゼニヤタワから左の谷を下れば、室生と曽爾を結ぶ東海自然歩道に出ます(山頂から45分)。ここから室生寺へは約1時間30分です。

(57)国見山 「時の権力者が国見した山」



奈良県宇陀市室生区と宇陀郡曽爾村の境にある標高1419mの山。全国に散在するこの名前の山は、為政者がその山に登って、自分の支配する範囲を見渡したことから付いたものと思われます。



『日本書紀』神武記に「天皇、彼の莵田の高倉山の巓(いただき)に登りて、域(くに)の中を瞻望(おせ)りたまふ。ときに国見岳の上に則ち八十梟師(やそたける)有り。……」とあることから、『大和志料』では国見岳をこの山に比定しています。しかし現在では前後の記述から無理があり、別の山と考えられています。



『大和名所図会』では「国見嶽。伊賀見村にあり。勢・伊の二州に跨(またが)る。山勢高く聳えて巉々(ざんざん)(高く嶮しい)たり」と記されています。住塚山からゼニヤタワへ下り、登り返すと45分で国見山頂です。



確かに国見の名にふさわしく頂上からの展望は雄大で、倶留尊山、古光山など曽爾の山々を初め、台高、大峰、吉野の山々なども遠望することが出来ます。山頂から稜線を北へ進むと、松ノ山のピークを越えて東海自然歩道の通るクマタワに下ります。左を取れば室生、右は曽爾へ通じています。曽爾への途中にある済浄坊渓谷は、隠れた名勝地です。

大雪山に登りました (2.黒岳)

2015-08-05 08:45:35 | 山日記

 7月29日。黒岳に登る。ただし旭岳からの縦走ではなく、リフト終点からの往復楽チン登山である。昨夜泊まった層雲峡温泉の宿にもエアコンがなく、おまけに虫が入るので網戸がなく蒸し風呂のようだった。しかし、少し疲れていたのか、短時間ながらぐっすり眠れた。

今日はガスが去来するものの、まずまず好天気で、黒岳ロープウェイの窓からは行く手の山頂がくっきりと望めた。

黒岳駅は五合目1300m地点にあり、駅舎屋上の展望台に登ると黒岳、桂月岳、凌雲岳、上川岳がずらりと並んで見えた。

ここが黒岳への登山口になるが、私たちは今日中に帰宅するので、キタキツネやエゾシカの足跡の残る舗装路をリフト乗り場へ急ぐ。道の傍らには

タカネトウチソウや

モミジカラマツなどの花が咲いていた。

冬はスキー用となるペアリフトは、足元の草原に咲く高山の花を見ながら、僅か15分で七合目降り場まで運び上げてくれる。ロッジの前から歩き出して5分ほどで七合目の標識が立っている。昨日の旭岳に比べて距離は短いが頂上まで465mの標高差がある。

ごろごろの岩塊の急勾配の道を何度も折り返してジグザグに登って行く。東斜面で朝日を背に受けて登ることになるが、曇り空で日差しがないので助かる。それでも昨日に増して噴き出してくる汗を、絶えず拭いながら高度を上げて行く。

ダイセツトリカブト、

ハイオトギリソウ、ウメバチソウ

エゾヒメクワガタと枚挙に暇のないほどの花の楽園である。八合目からはさらに多くの高山植物と出会う。

 

中でもチシマノキンバイソウとミヤマキンポウゲは斜面一面を黄色に染め上げていた。

急なジグザグ道の連続だが、まねき岩を過ぎると頂上部が望め、降りてくる人が「上は晴れていますよ」と励ましてくれる。



最後の急坂を
ゆっくりと登り切って10時、1984mの山頂に立った。右手に三角点のあるピークが見えるが、登山路が崩壊していて立ち入り禁止になっていた。

霧が晴れて昨日登った旭岳が右手遠くに、

その左に北鎮岳、北海岳が並んでいたが、雲が流れてすぐに姿をかくしてしまった。

山頂でも

コマクサや

トカチフウロ、

イワツツジ、

エゾヒメツメクサ

イワキキョウなど数多くの高山植物を見ることができ、「花の百名山」の名に恥じぬ美しさだった。

この日も滞在20分で慌ただしく頂上を後にする。

同じ道をピストン、五合目でエゾシマリスに見送って貰い、始めての北海道の山とお別れした。


 


大雪山に登りました(1.旭岳)

2015-08-03 18:09:36 | 山日記

 アイヌ語でヌタプカムウシュペ(川が巡る上の山)と呼ばれた大雪山塊。50kmにわたって2000m級の山々が連なる、広大な北の山地である。一帯はまたカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)という名にふさわしく、夏は色とりどりの高山植物の咲き乱れる雲上の楽園でもある。今まで機会のなかったこの山に、ようやく登る機会を得て、2015年7月27日午後、旭岳山麓の天人峡温泉に着いた。

柱状節理の岩壁がそそれ立つ渓谷沿いの温泉街は、かっては旭川市の奥座敷として知られた面影も薄れ、廃業した施設のあとが目立つ。

ホテルの前が涙岩という名勝の一つだが、渓谷沿いに落差270mの羽衣の滝、さらに上流の敷島の滝への散策路は土砂崩れで閉鎖されていた  夜、激しい降雨があり明日の天候が危ぶまれる。

7月28日。北海道最高峰の旭岳に登る。北海道でも今年の暑さは異常なようで、気温が関西と変わらないのに例年不要のエアコンがなく、寝苦しい夜を過ごした。朝は窓から眩しい陽が射しこんだが、旭岳ロープウエイ山麓駅に着く頃から濃いガスが出始める。

姿見駅でロープウェイを降りると、すでに標高1600m。旭平と呼ばれるなだらかな高原である。

チングルマや

ホソバノキソチドリ、

エゾノツガザクラ、

エゾコザクラなどのお花畑の中を15分ほどで

残雪の残る「姿見の池」に来る。常時観測火山に指定されている山だけに背後にはたくさんの噴煙が上がっている。

池の周辺はチングルマの大群落で白く染められ、

イワブクロや

ミヤマリンドウ、



コマクサも火山礫の中に咲いていた。

ここからは次第に傾斜が増す黒い砂礫地の中を、地獄谷の噴煙を見ながら登る。振り返ると、流れるガスの中に姿見の池の碧い湖面と白い残雪のコントラストが美しい。

七合目の上で、高山病か熱射病か急に倒れて救助を待つ人が横たわっていた。

登るにつれて霧がだんだん濃くなり、その中に偽金庫岩の黒々とした岩塊が浮かび上がる。ここから道は左(北)へ折れ、最後の登りとなる。気温が高くダラダラ流れる汗を拭いながら登る。

岩塊の中に咲くヒメイワタデ、

メアカンキンバイ、

エゾヒメツメクサなどに慰められながら、

金庫岩を左に見て最後の急登で2291mの旭岳頂上に着く。

ちょうど正午だった。広い山頂台地に一等三角点「瓊多窟」、右手斜面やや下には小さな祠があり、

砂礫のなかにチシマクモマグサの白い花が風に揺れていた。残念ながら濃い雲霧の中で、晴れていれば利尻山まで見えるという大展望は望むべくもなかった。

天候が怪しいので雨が降らないうちにと、20分ほどの滞在で軽食を済ませて元の道を下った。