ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

旅行人ノート1・チベット

2010-05-26 10:37:36 | チベット関連本
河口慧海の「チベット旅行記」に始まり、「チャンタンの蒼い空」まで、長い間
とびとびに拾い読みしてきたチベット関連本ですが、このあたりでお終いにしたい
と思います。

「チベット」と聞くと誰しも思い浮かべるのは「ポタラ宮のあるラサ」、あるいは
「カイラス山」の光景でしょう。行政区域上は「中華人民共和国チベット自治区」。
しかしチベットは、かって広範な範囲に版図を広げ栄えていたので、その文化圏は
かなり遠くにまで及んでいます。



上のガイドブック「旅行人ノート チベット」は、副題に「全チベット文化圏完全
ガイド」とあるように、前回の「ドルボ」、前々回の「ラダック」地方はもちろん、
中国だけでなくインド、ネパール、ブータンまでを含めた詳細なガイドブックに
なっています。
 
各地方のガイドに先立つ総説にあたるチベットの自然、歴史、また「チベット世界
をもっと知るために」の副題の付いた「解説」は、何度も読み返しています。

「チベットの歴史」では、いわゆる吐蕃時代から現代まで、中国側から見た歴史と
チベット側から見た歴史を二段組で対比させているのがとても興味深いです。

例えば、ダライ・ラマの亡命のいきさつについて

中国側
しかし、チベットが平和のうちに解放され、祖国の懐に抱かれるのに我慢出来ない
者たちがいた。それは外国の反中国勢力と一部の元貴族・農奴主だった。彼らは
たびたび妨害・破壊工作を続け、ついに1959年に武力反乱を起こした。
 14世ダライ自らの希望でチベット軍区講堂での観劇が決まった際、反乱分子たち
は「漢人がダライを拉致しょうとしている」とか「毒殺しょうとしている」とかの
デマを飛ばして市民を扇動し、当日2000人余りの市民を脅迫してダライの住むノル
ブリンカに生かせた。彼らはダライを脅迫してラサから連れ出し、…


チベット側
1959年、ラサにいた中国軍の将軍がダライ・ラマ14世に、中国軍駐屯地に劇を見に
来るようにと命令した。チベット人たちは、法王が誘拐されるのを心配し、法王の
離宮ノルブリンカを取り囲んで法王を守ろうとした。これを抑えようとした中国軍
がチベット人たちと衝突し、数千のチベット人が殺された。これ以上の悲劇を避け
るため、ダライ・ラマ14世はひそかにインドに逃れ、北インドのダラムサラに亡命
政府を立てた。


現在、チベットの子供たちが学校で学んでいる歴史が「中国側」の主張する歴史で
あることは間違いありません。

図版や地図の詳しさは群を抜いていて(もちろん私の知る限りですが…)ネパール
への旅では随分重宝しました。



これはカトマンドゥ市内タメル地区の地図ですが、しばらく在住していた息子に
聞いた情報を書き加えています。チベット文化に関する地図などは更に詳細です。
(例えばスワヤンブナートやボダナート周辺のチベット寺院の地図など)
私の持っているのは1998年発行の改訂版ですが、現在絶版になっています。
最新の第4版の目次を見ると、ラサの項に「ついに鉄道がやって来た!~青蔵鉄道
が開通~」とあり、また改訂版では「ネパールのチベット圏」だったものが
「ネパールヒマラヤ」になり詳しい項目も増えています。

この新しい本を持って「カイラス周辺」は無理としても、せめて「ラサからカトマンドゥ」
への旅をしてみたいというのが、今の変愚院の夢となっています。
どうも長い間、「チベット関連本」にお付き合い頂きありがとうございました。

チャンタンの蒼い空

2010-05-23 11:46:38 | チベット関連本


この書籍は日本山岳会100周年、関西支部70周年記念事業の一環として、日本山岳会
関西支部が実施した「西チベット学術登山隊」の報告書です。
登山隊は、チベットとネパール国境に位置する未踏峰パチュムハム(6529m)を北稜
から初登頂、ギャゾンカン(6123m)南東壁から初登頂するなどめざましい登山活動
の成果を上げました。

しかし、この登山隊には隊の名称に「学術」とあるので明らかなように、更に一つの
大きな目的がありました。それは、かの「チベット旅行記」の河口慧海が、禁を犯し
てネパールからチベットに入山したときのルートを明らかにすることでした。

慧海は案内者など関係者に迷惑が及ぶのを避けるため、「旅行記」では意識的に
自分が辿った道筋を曖昧にしている部分があります。
「学術登山隊」は慧海の通ったと思われる道を入念に辿り、周辺の村やゴンパでの
聞き取り調査を中心に、衛星画像まで活用して入念に調査を行い、ほぼその足跡を
確定しています。

報告書には多くの貴重な資料が含まれているので、軽々にその内容を紹介するのが
憚られますが、「転生活仏(リインカーネーション)に関する聞き取り調査」
…慧海がヒマラヤを越えてチベットに入った直後に潜んだ「白巖窟」で出会った高僧
から転生した「現在の活仏」が現存していることなど…や、その「白巖窟同定のため
の各ゴンパ聞き取り調査」などを、特に興味深く読ませて貰いました。

この「報告書」は美しい写真や地図、挿絵が多く、見て楽しいだけでなく、
西チベットの探検史、参考図書などに関する資料も実に豊富で、学術的にも価値の
高いものと思います。

ついでですが、登山隊の活動は逐次、衛星通信によって知らされ、事務局を通じて
支部HPに掲載されました。当時、広報委員として在籍していた変愚院にとっては、
本当に僅かではありましたが隊のお手伝いが出来たことが、自分の人生に残した貴重
な足跡になっています。

編集後記に大西保登山隊長が「西チベットの現況」について触れておられます。
この一部を紹介させて頂いてこの項を終わります。

西チベットは(西ネパールに比べて…変愚院註)もっとひどい状況になってきた。ラサの官僚、経済を牛耳る成金チベット人が何でもお金の世界という市場経済に浸透されてしまって、西へ延びる道路の街には、必ずガソリンスタンド、スーパーマーケット、電気機器店、中華料理店、理容店、シャワー室、プールバー、貸しビデオ、CD、DVD、それにバス・トイレなし24時間TV付き近代的ホテル、ディスコといかがわしい本、ビデオに店など、北京や上海に続けと公称13億人、本当は16億?人の中国人と呼ばれる雑多な人種の中で特に漢人達は、どんな片田舎の村にも背広と皮靴姿でサングラスとニューョークジャイアンツの野球帽姿で活きている。
中央政府の命令で公共施設をどんどん建てている。女性は茶髪で細身のGパンに、ハイヒール姿で何故か急ぎ脚で片田舎の町を歩いている。ナクチューシャンのような放牧人のチベッタン村にガラス張りの政府、地方自治体の象徴的、異様なデザインのビルディングを建てている。こんな所にどうして要るのだろう。


それから6年、西チベットは更に大きな変貌を見せていることでしょう。

シルクロードの風

2010-05-18 09:52:59 | チベット関連本
わが家の書棚にあるチベット本の紹介を続けます。



内田嘉弘さんは京都府・城陽市生まれの日本山岳会会員です。奥駈道など何度か
ご一緒に歩いたことがありますが、本当に笑顔の優しい、そしてお話しの楽しい
方です。
 1972年の韓国・韓新渓谷の冬季初遡行、75年のパキスタン、プリアン・サール
峰(6293m)初登頂をはじめ、様々な登山経験をお持ちです。
65歳を過ぎてからは公認ガイドを引退されて、「登山から旅へ」へ変わったと
おっしゃっています。

この本には氏の若い日の多彩な海外登山活動のうち中央アジアの山々の記録を始め、
最近のシルクロードを楽しむ旅…タクラマカン砂漠一周、カイラス一周巡礼の旅、
蘭州から敦煌へ河西回廊の旅など…また最終章の「中央アジア探検について」では、
19世紀、20世紀にこの地域に入った人々の業績が簡潔にまとめられています。

そのなかで、チベット関連は2005年の「もう一つのシルクロード」青海への道。
これまでに知られた天山北路、天山南路、西域南道のメインルートに最近、知られ
るようになった西寧から青海湖、米蘭を経て西域南道に繋がるルートです。

西寧手前の街・平安でダライラマ一四世の生誕地を探し、土地の人に尋ねると
「つっけんどんに方向をさすだけ」、畑仕事の人に聞くと「砂をかけられた。何か
様子がおかしい。中国ではダライ・ラマということが憚られていると聞く。」
そして西寧では昭和19年日本外務省の密偵として入った西川一三氏の見聞なども
紹介されています。

青海湖の手前の日月峠(3374m)では
「着飾ったヤクを連れてきて『写真を撮らないかー』というチベット人、飾り物の
土産を手に一杯持ってきて『買ってくれー』と言い寄るチベットの婦人たち…」
という箇所があり、私たちが2006年、ヤムドク湖手前のカンバラ峠(公称4990m)で 
出会った光景とまったく同じで、笑えました。

もう一つのチベット関連はこの次の章の「青山巡礼ーカイラス一周から新彊の天池へ」
で、「五体投地」の状況なども詳しく紹介されています。

写真、地図などの図版も多く、副題の「山と遺跡とオアシス」の情景がいきいきと
眼前に展開するように紹介されている、楽しい本です。

この本では紹介されていませんが、内田さんは2006年、東チベットのラサからチャムド
への旅で見た珍しい「樹葬」の模様を、2007年JAC夏季懇談会でお話されています。
この様子は当時このBLOGでお伝えしましたが、再掲します。





樹葬の地はぐるりを5000mを越す氷河を持つ高峰に囲まれた、標高2200~2300mの
静かな森の中にあります。村の外れから林道をジープで走ると、車止めがありチョルテン
が6つ、近くの木には白い布を張り巡らせてあり、敬虔な気持ちになったそうです。
ちょうど二人の若い尼さんが来て案内してくれ、15分ほど歩いたところが樹葬の地です。



これはスケッチの得意な内田さんが白板にすらすらと書かれた樹葬の図です。
薄赤色の毛布で遺体をくるみ、1は木の枝の間にカゴをおいて入れたある。2は樹幹に
くくりつけてある。3はこのような肩掛け鞄に入れて木にかけてある。4は容器に入れ
て地面に置いてある。このように様々な形態があるようです。
5は平らな岩の上に並べられた頭蓋骨。全て小さいもので幼児のもののようだったそう
です。あとで良く調べると、樹葬の対象になるのは8歳以下の子供だということです。

それにしても火葬、土葬の他に「鳥葬」「水葬」までは知っていましたが「樹葬」と
いう風習があるのははじめて知りました。内田さんも、民俗学に興味があるので
チベットについて更に勉強したいとおっしゃっていました。



内田さんの奥さんは1974年、日本女子登山隊員の一人でマナスルに登頂されました。
これは女性による世界初の8000m峰登頂でした。
上の写真は登山隊の公式報告書で、「手元にまだ残っているから」と内田夫人から
ご恵贈くださったもので、変愚院にとって忘れられぬ貴重な書籍です。
この報告書の「調査・研究」の中でも、白水ミツ子さんが「サマのラマ教」について
ゴンパなどの建造物、僧侶の生活、葬制や祭りなどをレポートされていることを、
付け加えておきます。


もう一つのチベット行

2010-05-11 20:43:53 | チベット関連本
著者・後藤ふたばの名は「チベットはお好き?」で始めて知りました。
この本は今、手元にありませんが、「もう一つの…」の表紙カバー裏に前暑の紹介
として
「ある時は非合法のラサへ、ある時は国境侵犯してカイラスへ…」とありますので、
おぼろげに内容を思い出しました。「若い女性がよくまあ」と思ったものです。



この「もう一つの」チベットの舞台は、インド北西部、パキスタンとの国境地帯
のラダックと、ダライ・ラマのチベット亡命政府のあるダラムサラです。
です。



上の地図は「旅行人ノート・チベット」からの引用ですが、この本ではこの
ラダックとザンスカールを「インドのチベット文化圏」として紹介しています。



下の地図は、「もう一つの…」から引用したものです。
この辺りは大きな山脈が4本、北西から南東へ並列して走っています。
(山好きの方にはお馴染みの世界第二の高峰・K2や人喰い山・ナンガパルバット
の名前も見えますね)
ラダック山脈の下にレーという町がありますが、これが本書第一部の旅の出発点です。

最初、著者はザンスカールへのトレッキングを計画していたようですが、時期的な
問題もあって断念。レーから二つの峠越えでマルカ谷を巡る一週間の旅に変更します。
本の副題に「ダライ・ラマとケルサンに会ったよ」とありますが、ケルサンとは??

実はこの旅での馬方。もとは西チベットでウシを追っていた亡命者です。
ケルサンの英語は実に傑作です。

 「リバ ノークロス オンリー デイス。ユー スロスロ フアイブコロ。マイ スリーハーフ。
ランチ オケ」(川は渡らず、ずっとこちら側だよ。お前たちはゆっくりで五時間。
オレは三時間半。ランチもわかってる)
 ケルサン英語には、ずいぶんと間違っておぼえた単語がまじっている。
たとえばこの「フアイブコロ」など、ケルサンは「五時間」のつもりで使ってい
るのだが、これでは「五時」である。「~時」という意味の「~オクロツク」で
記憶してしまい、それが縮まって「~コロ」となったのだ。


しかし、お互いの心が通じ合い、いよいよ別れる前になると

そんな話を続けた彼は、最後にもう一度、「また来てくれよなあ」と言った。
 その夜、私たちのテントの中で、ロバがつぶやいた。
「ケルサンは、男だなあ」
「うん、ケルサンは、男だねえ」
 私もそううなずき返した。ケルサンは”男の中の男〃だ。潔く、媚びず、
拗ねず、威張らず、投げず、泣き言を言わず、自分の境遇を訴えず。
彼は黙って、馬の手綱を引いて歩くのだ。
 私たちはそんなケルサンの姿に、すっかり惚れてしまった。


(ロバというのは渾名で日本から彼女に同行してきた年下の男性です。)
このケルサンに案内されてのマルカ谷トレッキングが、PART1 KALSAN です。
PART2 DALAI LAMA では、ダラムサラで待望のダライ・ラマに謁見するのですが、
集団謁見ではなく個人的なインタビューです。(後に集団謁見も…)
謁見最後のシーンだけを引用します。

猊下が静かに口を開き、こう言われた。
「チベットの置かれている状況は、たしかに悲しい……。悲しいのです。
けれど私は、あなたにお礼を言いましょう。チベットについて心をくだいてくれて、
私たちのことを悲しんでくれて、ありがとう、と」
 マリアさんが日本語に訳してくれている間、税下は私をじっと見つめ、
「サンキューー、サンキュー」と何度も繰り返した。


後書きで彼女はこう書いています。

二人との出会いが、今回の旅のほぼすべてだった。
西チベットで家畜を追っていたケルサンと、ポタラ宮殿の主であった法王。
あまりにもかけ離れた立場の二人だが、私の心の中では、どちらも同じ「一人の入間」
として存在している。心からの感謝を捧げたい。

ヒマラヤ・チベット縦横無尽

2010-05-08 11:49:59 | チベット関連本


2002年の年頭、カナダ在住の登山家・加藤幸彦さんからメールを頂きました。
加藤さんは1964年、ヒマラヤの未踏峰ギャチュンカン(7952m)に登頂した名クライマーで、日本山岳会の大先輩、カナダ山岳会会員でもあります。
たまたま変愚院の「ペンギン夫婦お山歩日記」のうちの「カナディアン・ロッキーの花」がお目にとまり、メールを頂いたのがきっかけで、加藤さんのHP「ドン加藤の世界」にもリンクして頂いていました。
メールは「友人のカメラマン・東野君が本をだした。俺のことも出ているので良かったら読んでみてくれ」という内容でした。

著者・東野良(ひがしのりょう)さんは、宮城県生まれでNHKの山岳カメラマン。20年にわたる数多くのNHK山岳番組撮影を通じての山と人との出会いが綴られています。

ドンさん(若い頃はドンドン先に登っていくのでこの渾名がついたとか…)が登場するのは、1996年のチョモラリ(7326m)。当時63歳で、7000m峰に登った日本人登山者の最高齢記録となりました。この模様は「白き天女の峰・チョモラリに挑む」というタイトルで放映されています。

チベット関連ではこの本の初めの章、1991~2年のナムチャ・バルワ(7782m)で、そのご変愚院夫婦が大変お世話になる方が登場します。91年は隊員の遭難死に加え、上部での大流雪で断念。翌年の再挑戦で日本中国両国隊員11名を登頂に導いた、重廣恒夫さん(現・日本山岳会関西支部長)です。


2006「マナスル三山展望トレッキング」バグルンパニのテント場で。重廣隊長と♀ペン

このトレッキングの時には、毎夕食後、大テントの中でナムチャバルワを始め、1973年のエベレスト南西壁、1977年のK2(第二登)、1980年の北壁からチョモランマ(エベレスト)登頂、1988年チョモランマ交差縦走など、数々の体験談をお聞きすることが出来ました。私たち夫婦にとって、本当に貴重な想い出となりました。

さて、本に帰ります。チベット関連ではカイラス、チャンタンなど数々の撮影行。またネパールとの国境の町プランでは「消えた菩薩の微笑み」と題して、ここでも文革の際の破壊の跡が伝えられています。

この本の凄いところは、何十キロも及ぶ重い機材を登山者と同じ高度まで運び上げ、時には風雪の中でカメラを回す苦労はあまり語られず、「カメラマンは映像を撮ってなんぼの世界と思っていた」と淡々と記されていることです。

最後に「涙に映ったエベレスト-女優たちのヒマラヤ」の章について触れておきます。
「ヒマラヤトレッキング・シリーズ」の最終話は若村麻由美さんが、世界最高峰・エベレストを間近にみるカラパタール(5545m)に登る映像でした(1998年)。

このシリーズはずっと熱心に見てきましたが、最後に山頂に立った若村さんの顔がアップになり涙が流れるのを見て、「あれ、ヤラセかな」と思ったものです。
東野さんも、その後彼女の芝居を見て…

「もしかしたら」、あのロブチエの食欲がないといったときの悲しげな表情、途中の登りでの苦しげな姿、そして頂上での感動の涙…。あれらすべてが芝居ではなかったのか。
 私は、初めてお会いした時「報道カメラマンですから演技は撮れません。自然体でいきましょう」とお願いしたのだが、これは何度も言うようだが、やはり演技を本職とする女優さんにはたいへん失礼なもの言いだったのではないか。…


しかし、二年あまりたって若村さんから次のような手紙が届きます。
「〈花だより〉
果てしない紺碧の空  ヒマラヤの純白の氷河
熟い太陽 冷たい風
エベレストを望むカラパタール5545mの頂点に達した瞬間
涙が溢れ 生きているしあわせに 震えた
『シンプルに 払らしく 自分の役目を果たす』と心に決めた
                     若村麻由美。


これを読んだ東野さんは
ヒマラヤには、女優としてだけてなく、一人の人間としての心を真実動かさずにはおかない光と風があったのだ。あの涙は芝居ではなくほんものだった。疑った自分にまたまた赤面である。


カラパタールからのエベレスト(中央)1999.11.

この番組を見た翌年11月、私たち夫婦はカラパタールに向かいました。心のどこかに「山にはシロウトに近い女優さんでも登れたんやから…」という気持ちがあったことは否めません。なんという、思い上がった不遜な考えだったのかと、それこそ赤面の至りです。

雲表の国-チベット踏査行

2010-05-06 20:01:52 | チベット関連本
前の項「チベット・聖山・巡礼者」に続いて、この本も日中合同登山隊(ニェンチェンタンラ 7160m)に学術隊員として参加した著者による、文革後(1986年)のチベットレポートです。



その探査ルートは列車で北京から西寧へ。ここから車で、高山病に悩まされながら悪路を西へ。この道は昔、唐の都・長安と古代チベット王国(吐蕃)の都・ラサを結ぶ重要な道で入吐蕃道と呼ばれました。 そしてコンロン山脈を越えて青蔵高原を走りラサへ入ります。

ラサでは変愚院たちも泊まったラサ飯店を拠点にポタラ宮、デポン寺、セラ寺などを調査しています。


「デポン寺」(2006.05 変愚院撮影・以下すべて同じ)


「セラ寺」

拉薩飯店の食事はよほどひどかったのか、何度かここの食事が貧弱だったと書かれています。もっとも、変愚院たちが泊まった20年後になっても飯のまずさは変わらないようで、変愚院も日記にそのことを、次のように書き残しています。

…ラサ滞在中の宿「ラサ・ホテル」は市内一の高級ホテルで、ホテル内にプールまであったのには驚いた。ホテルの周囲には露天の土産物屋がずらりと並んでいる。ライさんとヤンさんから、今日は「高度順化」のため、どこへも出歩かないようにと忠告され、おとなしく部屋に籠もることにした。高度の影響か少しふらつく。夕食、ホテルでバイキング。やや弱な内容だったので、部屋に帰って機内食で補充する。…

「拉薩飯店」

セラ寺では寺の裏山にある鳥葬場を訪ね、その凄惨な状況を詳しく伝えています。
ここで、チベットの葬儀について本書を参考にして簡単にまとめておきます。

チベットで行われる葬儀には、菩薩の化身であるダライ・ラマとパンチェンラマをミイラとして保存する霊塔葬は別として、火葬、水葬、土葬、鳥葬があります。
 火葬は高僧や貴族などに対してだけのものです。多くの僧の読経のうちに遺体が焼かれ、骨と灰は風にまき散らされるか、川に流されます。
 水葬は貧しい人、よりのない人、乞食などが対象で、川縁で細かく切り刻んだ遺体を魚に贈り物っとして与えます。魚は川の神々とてチベットでは食べることを忌避し、漁師は賎民として最下級の身分に落とされてきました。
 土葬は人の恐れる伝染病患者や殺人者、犯罪者だけのものとされ、最も嫌われています。彼らを鳥葬にすることは方で禁じられておます。悪の本性を絶滅させ、再生してくることを許さないために地中に埋めるのです。
 鳥葬は一般のチベット人が一番望む葬儀です。死者が出ると遺体は白布に包まれて部屋に安置し、僧侶による読経で魂を身体から解き放って貰います。これには3~5日かかるといいます。その後、遺体は鳥葬請負人に渡され高い岩の台上に俯せにされます。そしてチベット刀でバラバラに解体されます。切り刻まれた肉は横に積み上げ、骨も砕いてツァンパ(麦こがし)といっしょにこねて団子にまるめます。これをたき火に入れると煙の匂いをかいだハゲワシが舞い降りて来ます。

まず骨の団子をやり、ついで肉を投げ与える。さらに残った骨は石でつき砕いて粉にしたり、焼いて灰にして一面にまきちらす。魂が肉体から完全に自由に離れて天に昇ってゆくことができるように、死体の一切れでもことごとく他の生物に施与し、処理しつくすというのがチベット式鳥葬の本質である

とありますが、いやはや凄まじいもので、河口慧海が「なるほど羅苦叉鬼の子孫に恥じざる人種であると思って実に驚いたのである」と漏らしたのも無理ありません。

ラサでの調査を終えた筆者は、苦闘した登山隊と合流した後、ヒマラヤを越えてネパールのカトマンドゥに向かいます。次はヤムドク湖の印象です。



カンパ峠は断崖絶壁の道を登りつめたところにあった。途中、いくつもの小さな寺の廃墟を見かけた。それも徹底的な破壊であった。高度をあげるにつれて、霧が出てきたが、峠には白い風が吹いていて葬いの旗のようなタルチョがはためいていた。そして一山越えたとき、忽然と眼下に神秘的な湖を見たのである。まるで他界のような感じだった。霧が去来しているが、水の色は瑠璃色で、墨絵の山のような連山に囲まれていた。これが聖なる湖ヤムドク湖なのか。…

この僅かな文章の中にも、中国によるチベット文化の破壊が描かれています。本書では「文革の爪痕」という章をたてて詳しくその状況を伝えていますが、ここでは触れません。ただ、カトマンドゥから迎えのジープが来て中国隊と別れるときの感動的なシーン、結びの文章が胸を打ちました。

いよいよお別れだ。私と李さんが固い握手、そしてしっかりと抱き合う。次の瞬間、みんながそれぞれ抱き合い、肩をたたき、持ちあげあい、別れを惜しむ。みんなの目に涙が光っている。苦楽を共にしてきた人びとの、言葉には尽くせぬ感情が噴出する。まさに友情の架け橋の(変愚院註:中国ネパール国境の友誼橋)上で…。
 昨日までの激しいやりとりが嘘のよう。いや嘘ではない。対立は対立、主張すべきことは主張しあい、友情は友情のつきあいをして互いに理解してこそ真の友好がうまれるのだ。
 私たちの乗った車が友誼橋を渡ってネパール側に消えてゆくまで中国のスタッフは手を振ってくれていた。”さらば、チベットよ。さらば、友よ〃


私たちのガイド、上海からのスルーガイド・雷鳴(本名です!)君、ラサでのガイド・楊さんも私たちが山好きと知ると、こもごも「今度はカイラスに行きましょう」
「中尼公路(中国ネパール友好道路・ラサ~カトマンドゥ)の旅もいいですよ」などと誘ってくれました。そこには反日的といわれる中国の若者の貌は全く見受けられませんでした。4人という小グループだったからかも知れませんが、僅か数日の旅ですっかり仲良くなり、雷鳴君からは帰ってからも何度かメールを貰いました。

チベット・聖山・巡礼者

2010-05-04 21:34:21 | チベット関連本


さて前の三冊に比べて時代がぐっと下がります。チベットに大変革をもたらした文化大革命後のチベットを訪れた登山隊員のお話しです。
玉村氏は「日中友好ナムナニ峰合同登山隊」(1985.5.26 西チベットのナムナニ峰7694mに初登頂)の学術隊員。

この本は「第一部 巡礼の山」「第二部 通い婚の村」の二部で構成されています。



標題の聖山(巡礼の山)はナムナニ峰の北にあるカン・リンポチェ-ふつうカイラスとして知られる山です。

チベット語でカンは雪山、リソポチエは宝あるいは尊者の意を表すという。中央に一際高く聳える雪山を、幾重もの山が取り巻いているので、仏教徒であるチベット族は中央の雪山を釈迦牟尼、まわりの山を諸仏・諸菩薩と考えてきた。いわば自然の曼陀羅である。そこで彼らは、カン・リソポチエを右回りで巡礼(右逍)するのである。
 ヒンズー教徒は、カン・リソポチエを聖カイラス山と呼ぶ。カイラスはキラ(樹)とアサ(座)から或るサソスクリット語であるという。ヒンズー教の中でもシヴァ派は、シヴァ神の象徴をリンガ(サソスクリット語で男根)であると信じているので、釣鐘状のカイラス山を最大級のリンガとして崇拝してきたわけである。


隔絶の地・聖地カン・リンポチェへ、巡礼者たちは遠くは数千キロの道のりを何ヶ月もかかってやってきます。赤ん坊を抱いた人、野宿をしながらきた若い娘、駆け落ちした男女、文化大革命で13年間投獄されていた僧…ラサから、ネパールから…本書はその彼らの群像をインタビューを通じて、いきいきと描き出しています。

何故彼らは困難な道のりをものともせず聖山を目指すのでしょうか。それは

カン・リンポチェを巡れば、徳を積んだことになる。徳を積めば、来世は地獄に行かず、天界に行けることになる。仏教の世界観は、死んでも天界の人、人間、畜生、地獄の生きもののいずれかに再生する輪廻の世界観である。カン・リンポチェの巡礼路のように、そこには終りがない。しかしチベット族はその巡礼路を何回も何回も廻り、徳を積むことによって、あたかも天界の特等席が保証されるかのように、ひたすらカン・リンポチェを廻る。 のです。



しかも周囲52キロのカン・リンポチエを廻る(右回りに)のは五体投地をしながらで約二週間かかります。写真は同書の「ネパールからきた尼僧の五体投地礼」です。

チベット語でキャンチャ(キャンは体をのばす、チャは礼拝の意)と呼ばれるこの礼拝は、まず合掌した両手を頭の上に持ってゆき、「この身体のつくりしこれまでの罪を清めたまえ」と祈り、次にその両手を顔の前に下ろし、「この口がこれまでにつくりし罪を清めたまえ」と祈り、その両手を胸の前にさらに下ろして、「この心がこれまでにつくりし罪を清めたまえ」と祈ったあと、脆き、思いきり身体を前に投げうち、手をのばして両手を合わすのである。
 次は手の届いたところ(ときにはそこに線を引く)まで歩んで、また同じ動作をくり返す。
 一度につま先から手をのばした距離までしか進めないから、一日で進める距離はわずかである。一周五二キロのカン・リンポチェを五体投地礼で廻るには、二週間かかるという。




写真は変愚院たちがラサのパルコルで見た五体投地です。
両手に手袋、膝にボロ切れを巻き、人目もはばからず無心にジョカン寺を目指していました。

「通い婚」については、書く余裕が少なくなりました。
一般にあまり遠くない(通常1~1キロまで、極端な場合は隣家)距離の家から、男性が女性のところに通ってくるという婚姻の形式です。
どちらの家庭も農民であることが通例で、牧民同士や農民と牧民の間では見られないようです。ヒマラヤとチャンタンにはさまれたこの村の女性はとても働きものといいます。
また、この風習で母系家族が多くなりますが、決して母権家族ではなく家庭の主権は亭主が握っているとか。

秘密の国・西蔵遊記

2010-05-03 11:20:46 | チベット関連本


青木文教は明治19年(1886)滋賀県のお寺の子供に生まれ、佛教大学(現龍谷大)在学中に大谷光瑞に認められ、仏跡調査にインドなどに派遣されます。
本書は1912年から3年余、チベットに留学した際の見聞をまとめたもので、ヘディンより数年後になりますが、河口慧海と同じく首都ラサに至りポタラ宮に入っています。
当時はダライ・ラマ13世の冶世でしたが清国の干渉を受けて法王はインドで亡命していました。文教はインドで法王に謁見し、チベットの交換留学生を日本に連れ帰ることになります。しかし1912年、清国は辛亥革命で崩壊し(中華民国誕生)、チベットの留学生を帰国させるのに付き添って入国を許可されます。



へディンの書物では挿し絵でしたが、本書には多くの貴重な写真が挿入されています。写真は「拉薩の宮殿」と題されたポタラ宮の写真。



これは変愚院撮影のポタラ宮(2006年5月)の写真です。上と見比べてください。



「シガツェ城・サマルブフェ(シガツェにあり拉薩のポタラ宮を模して建造したと伝えられる)」という写真説明がついています。



これはヘディンの絵で「シガツェの市庁と地方自治庁舎」
上のシガツェ城と同じものです。ヘディンの正確な描写力に驚きます。

ここでラサとシガツェ、ダライ・ラマとタシ・ラマの関係を整理しておきます。

まずラサはご存知の通りチベット文化圏の中心で、ダライラマ冶政時代には政治の中心でもあったところです。
シガツェは「西蔵遊記」では次のように紹介されています。

西蔵第二の都会で、ツァン州即ち後蔵の首府として古来、宗教、軍事および商業の中心地となっている。

このシガツェの支配者がタシ・ルンポ(前項「チベット遠征」参照)に居住する
タシラマですが「西蔵遊記」によると

外人はタシ・ラマ(漢字ですが、このBLOGでは以下カタカナで表記します)と呼んでいるが、西蔵人はこれをキャムグン・パンチェン・リンポチェともまたは単にパンチェン・リンポチェとも称える。蓋し「キャムグン」とは救世主の意で、「パンチェン」とは大パンディト(大博学師)とて梵語と蔵語との合詞、「リンポチェ」とは「リンポチェ」とは大尊者の義で、通訳すれば大救世主パンチェン尊者となる。
 タシラマといえばダライラマとともに西蔵における二大活仏であることは世人の熟知せるところである。どちらもラマ教徒の崇信措かぬ大法王であるが、西蔵王権の主権はダライラマに在って、タシラマは一部の領土権を有するに過ぎない。
 西蔵教徒の信仰によればダライラマは観音菩薩の化身でタシラマは阿弥陀仏の権化である。観音は阿弥陀仏の分身(慈悲の化現)であるから、道理の上からすればタシラマはダライラマの上に位する訳であるが、西蔵は観音菩薩の教化すべき刹土であるがためか観音の化身が主人公となり、阿弥陀の権化が客分たるの観があって、昔その主人公が国の主権を握っていた風が今日まで伝わったものである。


本書の構造は入蔵記、西蔵事情、出蔵記の三部構成ですが、慧海と異なるのは堂々と?チベットに入国しているので、慧海の知り得なかったチベットの事情・情報も入手できたことです。ついでですが大正3年に二度目にチベット入りした慧海と出会っています。住居も「予とは隣同然の近いところから自然良く往来し」たそうです。

今ではタシラマは一般的にパンツェンラマと呼ばれていますが、現在のパンチェン・ラマ十一世は、ダライ・ラマ十四世認定と中国政府認定の二人が存在するという、奇妙な状況になっています。

チベット遠征

2010-05-01 17:13:36 | チベット関連本
スヴェン・ヘディンは20世紀最高の探検家と言われたスウェーデン人で、古都・楼蘭、「さまよえる湖」ロブ・ノール、トランス・ヒマラヤの発見なので名をはせました。



この本の原題(スゥエーデン語)は「チベット征服の旅」ですが、現代ではちょっと誤解を招きそうな題のために、中公文庫オリジナル版ではこのように改められたようです。
カバーのこの絵は「チベットの寺院の正面入口 1908年」で(新しく発見されたヘディンの水彩画)というカッコ書きの註がついています。
本書中の挿し絵(282枚!)はすべてヘディン自身の筆になるもので、その躍動感あふれる描写がこの本の大きな魅力となっています。



彼は三度の遠征をおこなっていますが、もちろんチベットは鎖国の時代で様々な困難に出会っています。これは最初の「潜行」の際のもので、変装してラサに向かう途中騎馬隊の襲撃を受ける場面。この後、地方知事の捕虜になり強制退去させられます。

しかし、これに懲りず再征を図りついに三度目(1906年)にトランス・ヒマラヤを越えて副都・シガツェに入り、当時の最高権力者タシ・ラマに謁見します。(ダライ・ラマは逃走中)



これはタシ・ルンボの内部で新年祭が行われているところです。
タシ・ルンボは山の斜面に建てられた大寺院で、当時、6000人の僧が居住していたといわれています。

本の内容についてはとても語り切れませんので、「鳥葬」に関する項目の一部分を引用します。

死んだタルティングの住職のような、化身の聖僧だけが、火葬に付されるのである。
 その他の者の遺体は、手足をばらばらにし、肉はシガツエの場合と同じく、聖なる寺院の犬かハゲタカに与えられる。この恐ろしい仕事に従事する人たちは、「ラグバ」と呼ばれ、低く、卑しい階級に落された人たちである。輪廻という果しない鎖の中では、彼らラグバの霊魂は、やがて動物か厭わしい人間の体に宿ることになるので、彼らの将来は暗いのである。
 僧院で、兄弟僧が死ぬと、その仲間の僧が遺体を死体所へ運び、衣類をすっかり剥ぎとって、彼らの間で分配してしまう。それからラグバが身の毛もよだつような仕事に着手する。遺体の首に巻きつけた縄を、しっかり杭に縛って固定したあと、両足を掴んで引っぱるので死体は真直ぐに伸びる。肉は鋭い小刀で切られ、寺院の犬かハゲタカに投げ与えられる。骨は石臼の中で砕き、粉末になった骨は脳とこねて団子に作り、これもやぱり犬の餌にするのである。


この頃のチベットの政治事情、ダライラマとタシラマの関係、上で一部引用した葬儀の種類などは、次の項「青木文教の西蔵遊記」に譲ります。

チベット旅行記

2010-04-29 22:23:55 | チベット関連本


河口慧海は1866年和泉国(大阪)堺に生まれました。家業は桶樽の製造だったといいます。苦学しながら仏教学を学び、生涯「禁酒・禁肉食・不犯」の三つの戒めを貫いた実践者でもありました。彼の仏教活動は多岐にわたっていますが、やはり有名なのは我が国にまだ伝わっていなかった教典を求めて、日本人として始めてチベットに潜入したことでしょう。

  2005.08.05撮影

その生涯は高野山奥の院、一ノ橋近くにある彼の供養塔の碑銘に簡潔に記されています。(以下、拙HP「ペンギン夫婦お山歩日記」より)

慧海師の供養塔は一の橋近く、参道に建つ「雪山道人慧海師供養塔」という石標から三区画奥にある。下部に「慧海」という大きな文字を刻んだ五輪塔で、横に由来を記した銅板を埋め込んだ大きな石標がある。
曰く
「この塔は、我国最初のヒマラヤ踏破者、日本チベット学の始祖 在家仏教の首唱者である 雪山道人、河口慧海師の供養塔である。
 師は慶応二年堺市に生まる。宇治黄檗山にて一切蔵経を読誦し、仏典の正解は原典のチベット訳に依るべきを悟り、明治三三年、印度よりネパールに入り、単身ヒマラヤの険を越え、鎖国の秘境チベットに潜入す。セラ大学に学び、法王の知遇を受け、帰国する際多くのチベット蔵経を将来す。後再びチベットに入り、チベット蔵経、梵語蔵経、並びに仏像、仏具、博物標本等を得て帰国す。これらは東京大学などに所蔵されている。
 師は持戒堅固、肉食妻帯を退く。諸大学にチベット学を講じ、仏教宣揚会を設立、在家仏教により正真の仏教を説く。梵蔵仏典の和讃、西蔵文典、在家仏教、正真仏教、西蔵旅行記等の著あり。戦禍国中に及ぶも、蔵和辞典の編纂に努む。昭和弐拾年二月、東京都にて円寂す。                昭和五五年
 

さて、その「チベット旅行記」ですが、最初、東京日日新聞、大阪毎日新聞に口述筆記として連載されたもので、講談調でとても面白く読めます。
例えば…



…それから勇を鼓してテントのある処へ指して二里ばかり進んで行った。そこへ着く半里ほど前から余ほど苦しくなったけれども、何分向うに目的がチャンとぎまっているから、そこまでドウやら着きますと、最初にお迎いにあずかったのは恐ろしい例のチべット北原の猛犬五、六疋。ワイワイと吠え立ててお迎い下すった。そこで例の杖の先で犬の鼻を扱らっておりますと、その一番大きなテントの中から、チべットには稀なる美人が顔を出してヽ私の様子を暫く見ておりました
 第二一回 美人の本体
それから、その美人が門口の紐で括ってあるテントの扉を開けて、こっちへ進んで来てその犬を一声叱りつけますと、今まで非常に吠えておったところの犬は、その主人に叱られたので、俄にポカンとぼけたような顔をして、皆チリヂリに逃げてしまったです。そのさまが実に滑稽で面白かったです。デ私は笑いながらその婦人に、ドウか今夜一晩泊めてもらえまいかといって頼みますと、一応私のラーマに尋ねてお答えをいたしますといって家に入り、ソレからまた出て来て、よろしゅうございますからお入りなさいといいますので、マアその中に入ったです。


さまざまな苦難を克服しながらチベット人になり済ましてラサに入り、セラ寺で学僧として修行します。



以下、変愚院の2006年5月のBLOGから

河口慧海師は、インド仏典の原典に近いチベット大蔵経を 入手するため、1901年、鎖国中のチベットに潜入して多数の仏典、民俗資 料などを持ち帰ったことで知られています。
 かって師の「チベット旅行記」を耽読し、JAC関西支部70周年事業で04年の「西チベット学術登山隊」、05年の高野山における記念登山などで、ほんの少しながらご縁のできた私にとっては、今回の旅行でぜひとも訪れたい場所の一つでした。広い敷地の中にはセラ・メ、ンガバ、セラ・チェの三つのタツァン(学堂)とツォクツェンという大集会堂があります。セラツェ学堂では河口慧海師の学んだ部屋にある記念碑にカタを捧げました。



午後3時、中庭で有名な「問答」が始まりました。修行中の若いお坊さんたちが、二人一組で教典を題材にして一人が問いを出し、一人が答えます。立っている方が大声で問いかけ、数珠をかけた手を打ち鳴らします。


その後、慧海師はダライ・ラマに拝謁しますが、やがて日本人であることが露見し、チベットを脱出するに至ります。この間に見聞した当時のチベットの国情や風俗などが、この「旅行記」に詳細、克明に記されています。

ただ残念なのはチベットを甚だしい後進国として痛烈にこき下ろしていることです。
序文では次のような文章が見られます。

…チベットは仏教国なり、チベットより仏教を除去せば、ただ荒廃せる国土と、蒙昧なる蛮人とあるのみ。…

明治も30年代に入り、「海外雄飛」と云う言葉で代表される高揚した近代日本人としての意識が、師にもあったのかも知れません。それでも、この本が第一級の記録文学であることは間違いないと思います。