ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

今日の大和民俗公園(2011.09.29)

2011-09-29 11:43:23 | 矢田だより

今日は9時を過ぎて公園に入ったので、2周目にいつもは閉まっている民家群の中を歩きました。
旧松井家裏のヒガンバナはまだ瑞々しく朝の陽を浴びて輝いています。

こちらは旧木村家前のヒガンバナ。
こちらも、あまり日当たりがよくないので咲きだしたのが遅かったようです。

白いリンドウの花。

美しく開き始めました。(4枚ともケイタイで撮影)


高円山の帰りに…(2011.09.27)

2011-09-28 10:07:47 | 山日記

春日大社に参拝しました。

奈良と言えばシカ。街角の電柱にも…

足元のマンホールにも…

裏参道の入り口にいた可愛い小鹿たちです。しかし…

参道に入るとこんな看板も…。

私たちが通る高畑からの道は「上の禰宜道(かみのねぎみち)」と呼ばれます。かって高畑の社家町から春日の禰宜(ねぎ=神官)たちが春日大社へ通った道で、高畑丹坂町から摂社若宮神社へ通じています。


若宮神社から本宮への道は御間道(おあいみち)と言います。御間道沿いには古い石灯籠が立ち並び、古くは室町時代から江戸初期にかけてのものもあります。

表参道からの多くの参拝者と合流する南門。春日大社最大の門で高さ12メートルの楼門です。

修学旅行生で賑わう本宮に参拝して、西回廊まで行って引き返しました。清々しい心地で今日の山歩きを終えることができました。


高円山から滝坂の道(2011.09.27)

2011-09-27 19:37:26 | 山日記

<コースタイム>高畑(丸山駐車場)09:17…登山口(紅葉橋)09:50…大文字火床10:17~10:35…高円山(二等三角点432.2m)…高円山(最高所461m)…新池11:45…首切地蔵11:52~11:57…紅葉橋(コーヒータイム)12:35~12:52…春日大社13:20…高畑13:40

素晴らしい秋晴れの朝、駐車場は9時にならないと開かないと思い込んでいつもより家を遅く出た。(実際は公営駐車場は9時だが、民間の丸山駐車場は7時半から開いていた)。まだ、殆ど車の影のない駐車場から、春日大社の南側の車道を東に向かって登っていくと、陽射しを正面から受けてすぐに汗が吹きだしてきた。飛鳥中学校の前から御嶽教を過ぎた辺りで白毫寺に向かい、墓地の横から登るのが普通だが、前回(2008年11月)同様、直進して住宅街を抜ける。

柳生街道滝坂道の入口にあたる紅葉橋のすぐ手前に「巨樹に親しむ会」の立てた「滝坂の森演習林」の立派な標識があり、その横に火床への道を記す道標があった。ここから右の疎林の中に入ると踏み跡が入り乱れて少し分かり難い。前回は右に寄り過ぎて藪漕ぎをする羽目になったので、その時の下りの記憶を頼りに左の踏み跡に入る。涸れた小沢を左に見下ろしながら登るが、今度は少し左に寄り過ぎたらしい。しばらくで、ややしっかりした踏み跡に出たが、急坂の登りが連続して汗びっしょりになる。分岐から12,3分で勾配は緩まり、白毫寺から北寄りに来る道と出会う。更に10分ほど登ると、同じ白毫寺からだが南寄りにきた道に合い、すぐ上に明るい陽射しの草地が見える。

カンカン照りの台地に飛び出すと大文字の火床の最下部で、眼下に大仏殿の屋根や奈良市街、その背後に生駒山や矢田丘陵、左手遠くには台高の山々も見える。影を求めて「大」の字の「ノ」の端っこ、残った薪などを置いてある近くの木陰で腰をおろす。涼しい風が心地よく吹き抜けていく。軽装の人が登ってきて、少し立ち止まって汗を拭ってそのまま登って行った。

10分ほど休んで、大文字焼きの炭が残る火床に沿って草地を登る。展望はさらに広がり、振り返ると右手の若草山が見える。「慰霊奈良大文字送り火由来」碑(写真左下)の横を通る。大文字焼きは明治以来の戦争で犠牲になった方々の鎮魂のため、昭和35年に始まったことが記されている。108個あるという火床の一番上方に腰を下ろしていた先ほどの男性は、近くの人で毎日のようにここまで登ってくるとのこと。挨拶を交わして木陰の道に入る。

林間の急坂となり、しばらく長い石段が続く。三年前にはなかったと思うので、想像だが大文字焼きの薪を運ぶために整備されたのだろうか。登りきると道は右にカーブして山腹を捲いていく。分岐に上の高みにある三角点を示す道標がある。

クモの巣に悩まされながら緩く登ると二等三角点が埋まっていた。元の分岐に帰り、平坦になった道を行くとススキの穂がなびく、じめついた草地に出る。抜けると無舗装の林道になり、しばらく行くとドライブウエイに飛び出した。右手に展望台、その奥に自動販売機がある。向かい側のホテル敷地内の車道は、今日は車止めの鎖もないので始めて上へ登ってみる。

高円山ホテル裏手のこの高台に、地図では高円山最高所(461m)の標点があるはずだが、現在工事中でブルーシートなども見える。辺りを探し回ったが見つからないので、一応この白い土嚢で囲まれた小さな赤い杭ということにしておく。

ドライブウエイは歩行者通行禁止なのだが、前(2002年)にはすぐ横に途切れ途切れながら道が続いていた。今日はそれらしいものが見当たらず、一度踏み跡に入ってみたが途中で行き詰まり、道迷いもバカらしいので引き返して結局は地獄谷石窟仏の分岐まで通らせて貰った。

大きな標識に導かれて左に下ると、新池の畔に出た。昔々、子供と一緒に来て池の土手で弁当を食べた懐かしい思い出がある。

ここからはすぐに首切り地蔵の前にでる。20名ほどの大グループが前の休憩所付近に群がっていた。ちょうど出発する様子だったので、静かになれば昼にしようと、しばらく待ったが一向にその気配がない。新しくなったトイレの前の水道でクモの巣でべとついた顔を洗って、下ることにした。

この柳生街道・滝坂の道は、何度も通った道だが古い石畳の道はいつ来ても風情がある。岩から滴り落ちる水、谷間を流れる水がそこはかとない冷気を運んでくる。 大文字山火床から首切り地蔵までは誰にも会わず、気味悪いくらいだったが、ここは何人か登ってくる人があり挨拶を交わす。

朝日観音。今日は光線の具合が良い。

夕日観音は♀ペンが傍まで行って写真を撮ってきた。

この辺り、ヤマナシの実がたくさん落ちている。寝仏を過ぎると、間もなく紅葉橋に着く。朝の登山口を見送って、舗装路が始まる手前で腰を下ろしてコーヒータイム。後は駐車場まで舗装路を歩くだけ。♀ペンの発案で春日大社にお参りして帰ることにした。


山岳霊場巡礼 (5)熊野三山

2011-09-27 08:11:47 | 読書日記

**2011年9月3日、西日本を襲った台風12号により被害を受けられた皆様へ、心からお見舞いを申し上げますと共に、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。また熊野三山はじめ世界遺産である「紀伊半島の参詣道」が、元の美しい姿に帰りますよう心から祈っております**

奥駆道最後の行程は、この玉置神社から始まる。そして、大森山、五大尊山を上下して次第に高度を下げて七越峰から熊野川の河原に下りる。

『吉野から熊野への、奥駈け修行の最後の行は、本宮の旧社地に近い音無川の川畔で営まれる勤行で終る。』
私の奥駆道の終点もこの河原だった。国土地理院地図に「奥駆道備崎」と記されている地点の向い側は熊野本宮である。修験者たちは熊野川を渡渉して本宮に向かうが、私たちは堰堤の上を少し歩いて140kmに及ぶ全行程を終えた。

写真は別の年に中辺路を歩いた時、小辺路と交わる辺りから見下ろした景色で、深い谷間の向こうに大雲取、小雲取の山並みが何重にも連なり、見下ろす熊野川の河原に大齊原(本宮大社旧社地)の大鳥居が見える。

『興味深いのは、この本宮の旧社地が、かつて熊野川と音無川の合流点にあったことである。川の合流点に聖地をおくのは、インドのヒンドゥー教の聖地をはじめ、さまざまな宗教にその例は多い』 

吉野と熊野は、もともと一体として考えられていたものではない。それぞれ別の宗教的世界が、連続する山岳地帯を移動して修行の場とした修験道信者・山伏によって結びつけられたのである。

現在、熊野本宮の祭神はスサノオ大神が祀られているが、明治の神仏分離令の前までは信仰の中心は證誠殿に祀られた阿弥陀如来だった。

また、速玉大神はイザナギノミコトがイザナミノミコトの死体に触れた穢れを払うために吐いた唾から生まれたとされ、新宮の速玉神社の祭神となっている。しかし、ここには明治まで薬師如来が安置されていた。

そしてイザナミノミコトを祀る熊野那智大社に隣接して、

 

観音菩薩を巡拝する西国三十三観音霊場の第一番札所、青岸渡寺がある。三十三ヵ所巡拝は花山法王の頃から盛んになったと思われるが、法王は出家して那智に千日の籠山行を果たしている。

青岸渡寺から那智の滝が見える。

落差120m。那智ではイザナミノミコトを祀る本社よりも、ここ飛滝権現への奉仕が重んじられてきたという。この滝は千日籠もりには「山籠もり」の他に「滝籠もり」があり、明治に入っても42歳でこの滝で捨身入定を果たした行者があった。 また、近くには観音菩薩の住むといわれる聖地「ポータラカ」へ小さな箱に入って渡海入定した、多くの僧たち所縁の補陀落寺がある。

『蔵王権現から郡智の観音信仰へ。この一大山岳霊場には、いまも地つづきの信仰が生きている。大自然の息吹きと、その尽きないエネルギーが、神仏習合という、日本のもっとも自然で力強い宗教世界をつくってきたのである。』


山岳霊場巡礼(4) 大峰山

2011-09-25 08:53:59 | 読書日記

**吉野山から山上ヶ岳を経て、遥か南に続く峰々に散在する七五の靡(なびき)を巡拝しながら、熊野にいたる厳しい修行の道を「奥駆け道」といいます。『奥駈けの道は、懐の深い吉野金峯山から大峯の山中へとつづき、下っては登り、山中に六泊、およそ百八十キロ余の道を駈けることになる。そしてこの三分の二の行程は、男性のみが参加できる山駈けの行となる。』変愚院は数度に分けてこの道を縦走しました。また、山上ヶ岳には別の機会にも二度、登っています。詳細は拙HP「紀伊山地の参詣道」をご覧ください。以下は紹介中の書物では、5.大峰山と熊野三山のうち「山岳霊場の行と蘇り」の章にあたります。**

奥駆道は古くは吉野山から先が女人禁制の聖地だった。今も吉野山に、このような石標が残っている。

今でも山上ヶ岳周辺だけは女性が立ち入ることができない。奥駆け道の縦走路では、この五番関から竜ヶ岳を過ぎた柏木道との分岐点・阿弥陀ヶ森(靡六十五番)の間が女人禁制区間になっている。

『山岳宗教においては、とくに結界による聖域の規定が厳しく、また、奈良時代以前ごろまでは、どの山も、山頂近くはタブー視され、登ることが許されていなかったと思われる。その名残りが女人禁制となって、いまも金峯山上<変愚院註・山上ヶ岳>を支配しているのである。 』


                                <蛇腹>

金峯山は一つの龍体であると言われている。山上蔵王堂(大峰山寺)の内々陣須弥壇の下には「龍の口」と呼ばれる神秘の大岩があり、大天井岳の東には「蛇腹」がある。そして吉野山は「龍の尾」とされる。『龍体である吉野山を山上ヶ岳までたどり、その間に登拝者は、自身の罪を消滅させることができるのだった。』




                                    <山上蔵王堂(大峰山寺)>

 金峯山は、山の神・金山彦命を祀る金峯神社、水神信仰の水分神社、農耕の山神・大山祗神を祀る勝手神社をかかえている。『山の神と、農耕を司る神とが、あたかも水の流れを暗示するように、龍体という名で呼ばれているのだ。奥駈け修行は、この出を駈け、熊野三山にいたる七十五靡と呼ばれる山上山下の行場を踏みしめて進む懺悔の行にほかならない。』

この「懺悔の行」の中でもっとも有名なのが「西の覗」での「逆さ吊り」である。写真はこれから行に入る変愚院(2003年7月)。両手を合わせて絶壁から膝のあたりまで身を乗り出し、「親孝行するか」などと問いかけられる。山伏姿の人も含め3人が支えているが身が竦む。最後には少し綱を緩めてぐいとさらに押し出される。 これには誰でも、ただただ「ハイ、ハイ」と答えるしかない。肩にかけた命綱に身を任せるこの行は「捨身の行」といい、日本三大荒行の一と言われる。

同書は山上ヶ岳から奥駆道での筆者の行の体験を、雨に打たれ、霧に巻かれ、時には非日常的な世界に引き込まれそうになる人を見るという神秘的な現象も含めて、綴っている。様々に変化する山の表情…『古木や巨木に手を合わせ、巨岩を拝む。それはそこに山神が降臨するからだった。ここでも神は、自在に移動する。もともと日本の神は、遊行し放浪した。そして新しい神の力を帯びてやってくるのが山伏だった。山伏も巫女も神の御杖代だった。自然の不思議、驚異のたたずまいに、神は宿るのだった。山岳霊場での行は、そのことを信じる以外にない。そのことを信じ得るからこそ、苦界を抜け出て、再び現世に蘇ることができるのだった。』

そして、『奥駈け修行は、七日目に玉置山に入り、いよいよ熊野の三山を目前にする。熊野の海が見える。
芝地のようなまるい玉置山の頂から、それまで六日をかけて辿ってきた大峯の山なみに向かって「拝み返し」という勤行を営む。ここまで歩かせてもらった山々へのお礼の思いをこめて、振りかえって拝むのである。』


大和民俗公園の花(2011.09.24)

2011-09-24 17:35:56 | 矢田之花暦(やたのはなごよみ)

今日も快晴の矢田山麓です。昨日と同じく公園で日の出を迎えました。
一周目はロケハンのつもりで歩いて、光線の具合がよくなった二周目で写真を撮ります。

西側はまだ日陰です。ヒガンバナは色褪せ始めています。
『曼珠沙華雲は静かに徘徊す』 山口誓子

スイフヨウ。昨夜、飲み過ぎた花は二日酔い?
『哀歓の常に酒あり酔芙蓉』 福田蓼汀

この花は夕方に見るのが一番きれいです。これは昨年9月13日午後4時15分撮影のもの。

一周目には日陰だった花菖蒲園にほぼ真横から陽が射しました。シオンの花が満開です。
『紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし 水原秋桜子』

鈴なりのカリン。大きな実が落ちていました。
『花梨うまくなるすべ知らずでこぼこと』加藤秋邨

カラタチの実も色づき始めました。

キササゲ。本当にササゲ豆のようです。

白いリンドウの蕾。もうすぐ開きそうです。

 


山岳霊場巡礼(3) 金峯山

2011-09-22 11:07:58 | 矢田だより

*しばらくお休みしていた久保田展弘著「山岳霊場巡礼」の読書感想文?「大峰山と熊野三山━山と海の他界信仰」の章を3回に分けて見て頂きます。『』の部分は同書よりの引用です**

金峯山は役行者による開山とされている。
「日本霊異記」には40余歳まで山中で修行を積み、不思議な験術を身に付けた「役の優婆塞(えんのうばそく)」として登場する。神々を使役して金峯山と葛城の峰の間に橋を渡そうとしたところ、土地の神・一言主は己の姿が醜悪なために昼は姿を見せず、夜だけしか働かなかった。

 
<これがその岩橋の橋台(橋桁を支える部分)だ!?>

そのため役行者に折檻される(!神様なのに…!)。恨んだ一言主が役行者が謀叛を企んでいると讒訴したために、母親を人質にされて捕縛され、伊豆大島へと流された。しかし、流刑中も夜になると富士山へ飛行して遊んだという。この流罪は「続日本記」(正史)に文武3年(699)5月24日のことと明記されている。韓国連広足に「呪術で人を惑わしている」と讒言されたとされる。



<伊豆・浄蓮の滝近くで見た役行者石像。「大瀬海岸には飛行の蓑を懸けた蓑掛岩がある」など、伊豆に残した足跡が説明板に記されていた。>



<吉野桜本坊所蔵の役行者像>
役小角(行者)が元興寺で孔雀明王呪法を学んだのは17歳と言われるが、その後、葛城山中で修行、さらに大峰山系で修行を重ねた。

金峯『山上で一千日の苦行をし、祈りを込めた満行の日に「金剛蔵王権現」を感得したと伝えている』。『役の行者は、みずから修錬のすえに感得した蔵王権現の姿を、桜の本で刻み、蔵王堂に祀ったというのが伝承である。以来、吉野では、桜は権現の神木として、たとえそれが枯木であっても、 薪などにはしなかった。』

吉野山のサクラはその後の寄進などにより、現在の上千本、奥千本で知られるように日本を代表する名所になった。

金峯山という名前は青根ヶ峰の金峯神社祭神が金山彦(金属精錬の神)であるように、もともと金属との関連を匂わせている。それが仏教と習合した後は黄金浄土の信仰となって「かねのみたけ」と呼ばれ、『現世の富貴と長生を願う庶民信仰として』広まっていく。
 こうして吉野山の最隆盛期には山下百数十坊、山上にも三六坊があったという。これらの坊にいた山伏の集団が巨大な兵力集団として勢力を持つ。古くは壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が隠棲し、兄・頼朝に追われた義経はここに隠れ、足利尊氏に幽閉されていた花山院を脱出した御醍醐天皇は、一山の大衆を頼って南朝(吉野朝)を置いた。吉野山は「軍書に悲し…」と言われるようにさまざまな歴史の舞台となった山でもある

<勝手神社:文治元年(1185)、雪の吉野山で義経と別れた後、追手に捕らわれた静御前は、この社殿の前で舞をまった。居並ぶ荒法師たちも涙したという>

<吉野朝宮跡:蔵王堂の裏手にある南朝の皇居跡。この付近の大小20に及ぶ寺院のうち、最大の実城寺が行宮(後醍醐天皇の御座所)となった>

ところで地図上に名前のない金峯山、また大峰山は、どの山を指すのだろう。本書によると『吉野山の、山下蔵王堂あたりから、山上の蔵王堂あたりまでをふくむ一帯が、金峯山 ということになる。』
 ここでいう「山上の蔵王堂」とは、山上ヶ岳(1719m)の蔵王堂のことである。そして大普賢岳、弥山、さらに八
経ヶ岳(1915m)を経て、『釈迦ヶ岳、大日岳、地蔵岳、さらに玉置山から熊野川にいたる一大山脈を大峯山と呼んでいいのだろうと思う』と記されている。


わが家の花(2011.09.20)

2011-09-20 11:28:24 | 花日記

台風接近による大雨で、和歌山田辺市熊野では土砂崩れダムが満水で、一部で水が溢れている。奈良・十津川でも同様の水害が懸念されている。さきほど、静岡・富士宮市にも土砂災害警戒情報が出された。これ以上、大きな被害が出ないように祈るばかり…。

今、雨は小康状態になったので庭に出てみました。

ワラベノカンザシは盛りを過ぎました。

雨に濡れたシュウカイドウ。まだまだ庭のあちこちで次々咲き続けてくれそうです。

白のムクゲ。この花も一日花ですが、まだまだ咲き続けそうです。


11回目の富士(4.さらば富士、また来年)

2011-09-19 16:17:46 | 山日記

宝永火口縁からは数分で宝永山荘に着く。17時前、小屋横でちょうど富士宮口登山口を降りてきた実川さんにバッタリ出会い、一緒に山荘に入る。

今日は、たまたま実川さんの「富士山1111回登頂」の日だった。宿泊客の明石のMさん、宝永山荘の渡井正弘さんと一緒に記念撮影。それにしても、凄い記録だ。

昨夜と違って今夜の宿泊客は私たち以外にはMさん夫妻だけ。百名山挑戦中で、富士山は92座目。ネットで調べて開いている二軒のうち宝永山荘にしたそうだ。M夫人は渡井弘子さんから実川さんの話を聞き、「凄い」と目を丸くした。さっそく、ここにも置いてある著書「富士山に千回登りました」にサインを貰っている。

「本をもってきたらよかった」と言っていると、正弘さんが「これに書いてもらいな」と日の丸の旗を渡してくれた。
夕食を終えた後も、実川さんとビールを飲みながらお互いの近況や、この宝永山荘で知り合った共通の知人の話で盛り上がる。

18時15分、十六夜の月が宝永山の肩に登った。19時過ぎ、実川さんが小屋を出る。今夜は五合目の車の中で寝て(連続登頂はこのスタイルが多い)、明日朝、また登ってくるそうだ。

9月14日(水)
山を下りる日がきた。Mさん夫妻は5時過ぎに出発していった。
私たちはゆっくり朝食を頂いて、グズグズしている。浅間大社本宮に参拝してから帰る予定だが、社務所が開くまで時間を潰しているのだ。実は、富士山頂奥宮では70歳以上の登拝者は白扇とお神酒を授かることができる。ただし、山頂の社務所は8月末で閉まる。毎年のように奥宮にお参りしているが、混雑を避けて9月から10月中頃に登っているので、まだ頂いていない。

昨夜、渡井さんに今日の予定を話すと、「登頂証明書があれば里宮でも頂けるようになったようだ」と証明書を貰っている。

8時前、実川さんが3人の仲間と登ってきた。今日は「主杖流し」を登るそうでヘルメット姿である。「主杖流し」は旧六合目の上から「お中道」へ出て、沢をいくつか越えたあと溶岩の岩盤や涸れた沢筋を直登して測候所の直下にでるルートだそうだ。4人のうち3人が表富士の山岳ガイドという最強メンバーだ。登山口まで見送り、私たちも山荘に別れを告げる。

渡井夫妻に見送られて宝永山荘をあとにする。砂礫帯のオンタデや

ミヤマオトコヨモギの花とも1年間のお別れだ。

青空を背にくっきりと稜線を見せる山頂部を見返りながら駐車場に帰る。今日も朝から多くの車で賑わっていた。

裾野の道を下って富士宮市街に入り、浅間大社の駐車場に車を入れる。紅白のハギが満開だった。

ここは、日本国内に約1300社ある浅間神社の総本宮である。創建は垂仁天皇の3年(BC.27 !!)。807年、坂上田村麻呂により現在の土地に移されたと伝えられる。神体山はもちろん富士山。
朱塗りの楼門へ登る階段の途中に鉾立岩が見える。山宮御神幸の際、神鉾(富士山頂の神霊を納めた鉾)をこの岩に立てて休めた場所で、この行事は明治まで続いたという。

手前が拝殿、奥が本殿。楼門とともに1604年(慶長9年)徳川家康の造営。本殿は二重の楼閣造りで、「浅間造り」といわれる美しい建築形式である。



参拝を済ませ、社務所で神饌料を供えて事情を話したが、かなりの時間待たされた挙句に「今年の分は無くなりました」とのことで、代わりに杓文字とお箸を授かった。扇子が欲しかったのに残念だ。

 

本殿左手にある「三ノ宮」、右手には同じように七ノ宮がある。

特別天然記念物・湧玉池(わくたまいけ)
本殿右にある泉水池で、富士の雪解け水が溶岩を潜り抜けて、ここから毎分6,300リットルも湧き出している。かって富士登山をする人は、この水で身を清めてお山に向かったという。左の赤い建物は水屋神社。手前に水を汲む蛇口が並んでいるが、「煮沸して使うように」注意書きがあった。

次第に日差しが強まって下界の暑さにたまらず車に帰り、今年の富士登山を終えた。