ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(88)~(90)

2015-10-24 10:51:20 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*  **吉野周辺エリアに入ります** 

88)白屋岳 「山麓の集落は廃村に」



吉野郡川上村と東吉野村のとの境。薊岳から南へ走る台高
山脈支稜が、木ノ実塚を過ぎて西に向きを変えた先端にあります。東側の足ノ郷越(峠)には旧熊野街道が通り、宇陀から川上、さらに北山へと続く重要な道でした。二等三角点(1,176m)がある山頂はシャクナゲ林の中の狭い台地で、台高、大峰の山々、白髭岳や大所山などの展望が得られます。

山麓の白屋はかって林業の村として栄えましたが、大滝ダムの建設によって大きく変貌します。ダム建設による地滑りの危険はかねてから危惧されていましたが、2003年試験湛水の結果、白屋地区に亀裂が生じ、離村が勧告されました。現在、白屋地区の全世帯が移転を終え、斜面の地滑り対策工事も完了しています。



2001年9 月、千日山歩渉会9名のメンバーで集落最奥の民家横の空地に車を置かせて貰い、簡易水道浄水場横の「登山口」標識から登りました。



不明瞭な道で尾根上の大平と呼ばれる地点まで1時間30分かかって尾根に出ました。小さいピークをいくつも越えて最後の急坂を登ると、シャクナゲ林の中に山名板の立つ小台地の頂上でした(大平から1時間35分)。



下りは大平から尾根を直進して白屋辻まで来ると(頂上から1時間)、トタン張りの小屋と「白屋岳へ2.8K、約1時間20分」の標識がありました。ここから林道の終点に下り、朝の「登山口」標識に帰りました(白屋辻から35分)。武木から林道に入り、足ノ郷越に車を置くとわずか40分ほどで頂上に達すると聞いています。

(89)仏ヶ峰 「近くに同じ名の山が二つ」
 
吉野から東へ吉野川沿いに熊野に向かう国道169号線は、宮滝を過ぎたとろでトンネルに入り、東南に向きを変えます。このトンネルは吉野山の最高峰・青根ヶ峰から東北に向かう尾根の末端付近を潜りますが、近くに同じ名前の「仏ヶ峰」が二つあります。地元では東側の標高610mの山を仏ヶ峰と呼んでいるようです。

2004年5月、くっきりと青空に浮かぶ白倉山を右に見ながら、大滝集落の坂道を蜻蛉ノ滝へ登りました。子供を含めた10人ほどの人が滝を見に来ていましたが、この後は終日、誰にも出会わない二人だけの山でした。滝の横の急な階段を登って聖天ノ窟を過ぎ、さらに支尾根を登って主稜線を通る旧吉野街道に出ました。



左は青根ヶ峰へ通じ、仏ヶ峰、白倉山へは右に行くT字路になっています。



道はすぐに下りになり、岩小屋になりそうな窪みをもつ巨岩を過ぎて西河の分岐にでました。



祠の中の石のお地蔵さんに「左よしの、右かみいち」の文字が見えました。しばらく登ると王峠のT字路で、直進すると樫尾に通じます。



右へ急坂を登ると林に囲まれた10mピーク「佛ヶ峰」でした。



1年後の4月、青根ヶ峰に行く途中、もう一つの仏ヶ峰を通過しました。旧吉野街道標識から前年の仏ヶ峰と反対に行った方向にある地図上の668.4m三角点です。標識から30ほど、少し登山道を外れたブッシュの中の小ピークで、やや分かり難い場所に境界標と三角点がありました。(写真は地図上の仏ヶ峰から青根ヶ峰に続く稜線)

(90)白倉山 「低山ながら展望抜群」



仏ヶ峰と同じく旧吉野街道の通る稜線上の山。山頂にNHK電波中継塔があり展望にすぐれています。前項の「仏ヶ峰・610m」からの様子を記します。

王峠からは道標が全くなくなり、赤や黄のテープに導かれて入り混じった踏み跡を辿ります。やっと送電線鉄塔の建つピークに出て、木の間越しに白倉山の電波中継塔が見えてほっとしました。関電巡視路を下ると鹿塩神社の石標と鳥居、社務所らしい建物の前にでました。ここが五社峠で正面の参道を登った、先程立っていた峠の真上に神社があります。

本居宣長の「菅笠日記」に次のような件りがあります。宣長が西行庵から青根ヶ峰、吉野街道を辿って西河に下る途中である茶店に休み、『鹿塩神社の御事をたづねたれば、そは樫尾西河大滝と、三村の神にて、 西河と樫尾とのあはひなる山中に、今は大蔵明神と申て、おはするよしかたる、この道よりは、ほど遠しときけば、えまうでず』と結局、遠いので参詣できなかったようです。



その神社の横から急な道が上に続き、尾根に出ると眼下に西河の集落が見えました。最後の急坂は短いが胸を突く勾配で、木の幹にすがりながら登り切ると587.6m.四等三角点と標識がありました。



細長い山頂部を100mほど南に行くと電波中継塔があり、その横の絶壁の上に鎖が張られ絶好の展望場所となっています。箱庭のような村々を見下ろし、近くは今日歩いてきた長い山並みや白屋岳、白髭岳、遠く大峰の山々、大台ヶ原、さらに高見山など、胸の空くような大展望に長い歩きも報われた想いでした。


奈良の山あれこれ(86)~(87)

2015-10-18 08:33:01 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
86)辻堂山   「オオカミが避けて通るお堂」
吉野町宮滝から吉野川沿いに南西に走る国道169号線は、白川渡で南に転じて大迫ダムを過ぎ新伯母峰トンネルに入ります。その手前で右に折れ、ワサビ谷を渡り曲折しながら東に向かう道路が小さいトンネルをくぐる処が伯母峰峠です。昔は東熊野街道と呼ばれた道が伯母谷村から伯母ヶ峰を越して、堂ノ森を下って北山の河合に下っていました。非常な難路で「和州吉野郡群山記」には『伯母峯打越し六里半なり。伯母谷より辻堂まで三里半の山中にて昼寝などすれば、もと来し道をわすれて先へ行かずして、跡へ戻り帰る事ありという。この峯通り、前後同じ道あり。ゆえにまよひ行く者なり。俗にそれを、魔にまどはさるるといふ。』とあります。
 


今は伯母峰峠からは大台ヶ原ドライブウェイが南東の日出ヶ岳へ向かっていますが、辻堂山はドライブウェイを少し走った南側にある円頂型の美しい山です。
この山は昔、「堂ノ森」と呼ばれていました。ここから西の天ヶ瀬村に下る道があり、そこに地蔵堂が立っていました。「群山記」には『この地蔵を狼地蔵という。狼この前を通る事あたはずといふ』と書かれています。(今は新トンネル南側の和佐又谷に移されました)
 
 
私たちは西大台周遊の前に、非常に安直にドライブウェイの辻堂林道入口から往復しました。林道を10分ほど行くと右手に取り付き点があり、木の枝に小さな赤いテープが捲いてありました。
 


疎らな笹原の中、微かな踏み跡らしきものを探りながら数分登ると、細いがしっかりした山道に合流。



右に折れて登り着いた辻堂山は三角点のある狭い山頂で、樹木に囲まれて展望はありません。往復1時間足らずの実に手軽なハイキングでした。

(87) 伯母ヶ峰 「山姥の住んでいた山」
 
吉野川と北山川の分水嶺の一つ伯母ヶ峰は、前項(辻堂山)でご紹介したように、昔は頂上近くを東熊野街道が通っていました。「和州吉野郡群山志」に『土俗の伝説に、昔伯母峯山中に白髪なる伯母の住みて、人の見る事もありしと云ふ。』とあります。西原へ下る大台辻(現在の大台辻ではなく、辻堂山からの支尾根と、西からの稜線がドライブウエイで出会うところ)は毎年12月20日は通行禁止でした。「郡山志」に『牛鬼の出て熊野海に潮踏みに行く。その時は辻堂に戸を閉じて、これを見る事を禁ず』とあります。 

ある年、熊野の人が禁を破って峠に来ると、髪を乱して色青ざめた女に出会いました。道端に下ろしていた乳飲み子を「わが肩に負ぶわせてくれ」と言われて、そうすると「このことを里に下りても人に言うな」といいます。正月になって人に話したところ、その夜のうちに死んでしまったそうです。『古へは大台姥峰に至る人、度々山姥に逢ふ事ありし‥』と書かれています。このことから山名は「伯母峯」=「姥峰」から来ていると思われます。

伯母峰峠の怪物としては、やはり末の20日に出る、一つ目一本足の「一本たたら」が有名です。今はなき大台教会の主、田垣内政一さんから、ランプの灯りの下で聞いた話は真に迫って怖く、今も忘れられません。
 
伯母峰峠の一本タタラ

他の地域では「だたら」と呼ぶことが多いのですが、大台周辺での村々では「たたら」と呼んできました。土地によって少しづつ違う話が伝わっていますが、ここでは「奈良県史」、「上北山村公式HP」、角川書店版「奈良の伝説」、大正11年大阪朝日新聞刊「山の情話と伝説」や大台教会の田垣内政一さんからお聞きした話などを、私なりにアレンジしてみました

 
昔、伯母峰の南山麓・天ヶ瀬に射場兵庫という武士がおりました。
毎日のように愛犬アカを連れて山に入り、溝筒の鉄砲で狩りをしていました。ある日、辻堂山手前の小豆横手というところで、アカがけたたましく吠え立てたと思うと、笹原が動き出して背中にクマザサが生えた大猪が襲いかかってきました。兵庫は何発も打った挙句、猪の足を打ってようやく倒しましたが、毒気にあてられたのか自分も気を失ってしまいました。耳元で鳴くアカの声で気が付くと大猪が倒れていましたが、とても運ぶことが出来ず、そのまま家に帰りました。翌日、見に行くと猪の姿はなく、傍らの木の幹に鉄砲の弾痕がいくつも残っていました。
 それから何日かして、紀州・湯の峰温泉に足の怪我のために湯治に来た野武士があります。宿の離れを借りて、主人に「ワシの寝ている間は誰も来てはならぬし、部屋も覗くなよ」と告げると大イビキをかいて寝てしまいました。主人が草鞋(わらじ)を揃えに行くと、藤蔓で編んだその長さは一尺八寸(68cm)、重さは二貫八百(10.5kg)ほどもありました。しかも動かぬように、緒を柱の下の礎石へ結び付けて抑えてあります。不審に思って部屋を覗いてみると、背中にササを生やした大猪が 八畳の間一杯に寝ていました。
 朝、目を覚ました客に呼ばれて、やむなく離れに行くと「何を隠そう。我は伯母峰に住む猪篠王(いざさおう)という。このほど天ヶ瀬に住む射場兵庫というものに討たれてこの怪我じゃ。兵庫は怖くないが、あの溝筒の鉄砲と犬には敵わない。お前は見るなというたに姿を見たからには、火筒と犬をわが手に入るように何とかせい。そうすれば命は助けてやろう」と怪物はいいました。震え上がった主人は天ヶ瀬に行って、兵庫と犬が本当にいると知り、鉄砲と犬を買い取ろうとしますが兵庫はもちろん、聞き入れません。
 その後、猪篠王は兵庫に因縁の辻堂山で一騎打ちを挑みます。今回は兵庫も弾を打ち尽くして危うくなりましたが、最後に残った「南無阿弥陀仏」の文字を刻んだ「お守り玉」でようやく怪物を倒しました。
 しかし、猪笹王の亡霊は一本足の化物となって、伯母峰峠を通る旅人を取り喰らうので、この辺りはすっかり寂びれてしまいました。ある時、丹誠上人がこの話を聞き「日限の地蔵さん」を辻堂に安置して、祈祷を行いました。「一年に一度、果ての二十日(12月20日)にだけは自由を許す」ことを条件として、猪篠王の霊を経堂塚に封じ込め、それ以来、他の日には旅人が安心して峠を通行できるようになりました。現在も、射場兵庫の鉄砲を祀る神社が天ヶ瀬にあるということです。

異説を並べておきます。1、犬の名は「ブチ」 2.兵庫と猪篠王の最初の邂逅は偶然でなく、以前より峠の通行人を襲っていた化け物退治を、村人が兵庫に依頼した。 3.湯治場は摂津の「有馬の湯」 4.二度目の一騎打ちはなく、湯治に来たのは猪篠王の亡霊だった。 5.妖怪もしくはその霊を封じ籠めたのは大台ヶ原の牛石… 等々。
 
2007年7月、釈迦ヶ岳から下山して和佐俣ヒュッテに泊まった翌朝、帰宅前に伯母峰園地に車を置いて伯母ヶ峰に登りました。



旧伯母峰トンネルから和佐又に通じる林道の100mほど先で、右手斜面にかかる長くて急な木の階段が登り口になります。



尾根を回りこんで大岩がある処で、北へはっきりした支尾根が延びていますが、伯母ヶ峰へは東へ進みます。なだらかな尾根道を行くと小さな台地状の所があり、ここから短いが急登で1262mピーク。背丈を超すスズタケを漕いで、コブの上にある農林省伯母峰中継所を過ぎ、伯母ヶ峰の三角点(1358m)に立ちました。



杉の木などに囲まれた薄暗く、無展望の山頂でした。

奈良の山あれこれ(84)~ (85)

2015-10-10 10:42:23 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
84)笙ノ峰 

 
笙の内ともいいます。大蛇を挟んで東ノ川の対岸、かっての河合道(今は小処温泉に下る道として知られています)が逆峠を過ぎて竜口(リュウゴ)尾根を分ける地点から、西へ約1㎞の尾根上にあるピーク。小処温泉からは笙ノ峰、逆(さかさま)峠、開拓を経て約6時間で山上駐車場へ登ります。しかし、この道は逆峠より環境省の「西大台利用調整地区」を通るので入山規制があり、近頃は安易には歩けなくなりました。入山には手数料1000円を支払って立入認定証の交付を受け、更にビジターセンターで講習を受ける必要があります。
 
2007年9月から始まる入山規制を前に、7月に慌てて未登だった笙ノ峰に登りました。大台ケ原ドライブウェイのワサビ谷降り口からは、釈迦ヶ岳から弥山、行者還岳、大普賢岳へと続くスカイラインが鮮やかに眺められ、和佐又山の手前に美しい円錐形の辻堂山が並んでいます。自然林の中を下ると次第に谷の瀬音が近づき、やがて清冽な流れのワサビ谷に降り立ちます.
 
ワサビ谷について「世界の名山・大台ヶ原山」にこんな面白い話が載っています。『山葵谷の渓流、天生の山葵青々たり、人の知る如く山葵は蟹の嗜むところ、故にこれを栽るもの皆蟹害を嘆ぜざるはなきに、奇しむべし大台の地、一の蟹類を見ず、これはた水質寒冽、其棲息繁殖を許さざるによるか…、』谷沿いにいくと西大台周遊路の七ツ池との分岐があります。地形図の点線路は尾根筋で逆峠(サカサマトウゲ/1411mピーク)に続いていますが、周遊路はここから尾根東側の平坦地を行きます。



開拓分岐を過ぎて小処温泉へ続く道に入り、木の階段を登ると西大台展望台にでます。



正面に大蛇クラが、中ノ滝はここからは左下方に見えます。引き返して、広い尾根のコブを越えたところに逆峠の標識がありました。地形図の逆峠の位置よりは、東へ約200m離れた尾根左下の地点になります。
 
ときどき東ノ川対岸に聳える大蛇の姿を見ながら山腹の谷沿いに捲き道を行くと、竜口(リュウゴウ)尾根への分岐で、ここまで南下してきた道はほぼ直角に曲がって西に向います。



クラガリ股谷の源流を過ぎ、稜線から60~70m下をほぼ等高線沿いに進み、疎らな笹原の急坂を登って笙ノ峰山頂(1317m)に立ちました。



三角点付近は美しい林の中ですが、南側へ10mほど下った切り立った崖の上から、南から西にかけて視界が開けます。南には、すぐ近く山腹に林道の通る又剣山、その右肩に荒谷山、更に右には遠く那智の山々が並んでいます。西には、笠捨山から地蔵岳、釈迦ヶ岳、八経ヶ岳、弥山とつづく大峰山脈が一望できました。
 
 
奈良の山あれこれ(85) 西大台周回 「苔むした岩と倒木の秘境」
 
*入山規制区域です。入山には環境省地方環境事務所のHPをご覧ください。* 
 
台高山脈の主峰・大台ヶ原山のうち、三津河落山と経ヶ峰間の尾根南側に拡がる台地をいいます。日本一の多雨地帯だけに、苔むした原生林などの美しい大自然が残っています。



駐車場の北端から大台教会「たたら亭」の前を下ります。林を抜けるとナゴヤ谷の明るい河原に降り立ち、沢を渡ると松浦武四郎の碑への分岐があります。



松浦武四郎は幕末から明治にかけての蝦夷地(北海道)探査で名高い人で、晩年は大台の開拓に尽力されました。碑は御霊丘と呼ばれる小高い丘の森に立っています。 



大正12年大台教会発行の「世界乃名山・大臺ヶ原山」に以下の記事がありました。少し長くなりますが、現在碑文は判読できないほど古くなっていますので、引用しておきます。

〇御霊岡  大台教堂を距る五町可り、渓流を隔てし彼方の丘岡を云う。松浦翁を始め、大台ケ原開拓に旧縁あり、功労ありし人々の神霊を齊き奉る、境域数十頃、幽邊閑寂にして山気膚を刺す、昇り盡せば直ちに伊勢国なる御料林に連接す、松浦翁の碑は通路より約半町の処にあり、文は明治初年の碩儒南摩羽峯先生の撰、書は一河三兼翁の筆にして松浦翁の閲歴と共に三美を以て称せらる、台原名跡の一なりしが、惜ひ哉前年烈風の為め倒され、上半部を砕き去られしこそ恨みなれ、其全文左の如し

大臺山、跨和紀勢三国、其巓夷漿、而有水利、拓之可穫三萬石、北海翁欲拓之
年過耳順、面登五次、大有所経書焉、既而羅病不果、遺言曰、我死則葬此山、
及歿嗣子一雄、将従遺言、而官不許、因建追悼碑、於山中名古屋谷、以表其繾錈之意、
謁余乞文、余乃併記翁平生曰、翁夙有志拓蝦夷、屢往相其地理、風土、人情、物産、
著職夷沿海圖二十餘員、三航蝦夷日誌三十六巻  
既而幕布、置箱舘奉行柘之、明治維新、置開拓使、櫂翁任判官、叙従五位、改蝦夷稱北海道、
定國郡地名、以致今日之盛、蓋翁之力居多焉、翁乃造大鏡五、背刻日本地圖、殊詳北海道、
納之西京北野社、東京東照宮、大阪天満宮、大宰府菅公廟、吉野大峰山、以傳不朽  
翁好遊、足跡遍四陲、其至深山窮谷、無人之境也、毎負三小鍋、自炊而起臥林中、
後座之近江、稱鍋塚、常遍訪菅公遺跡、皆建石表之、又献所蓄古錢数百文 於朝廷、朝廷賞賜千金
翁爲人、志大識遠、而氣鋭、克勤克儉、而勇於義、臨事不惜千金、宣其爲非常之事也、
鳴呼國家政教日新、開拓之業月進、意必不出敷十年、大臺山荊棘、變爲禾恭豊饒之地、其猶北海道、
於是乎、翁泉下之喜可知也、翁諱弘、稱多氣志郎、北海其號松浦氏、伊勢小野江村人、壽七十一  明治二十二年九月



ゴヤ谷左岸を少し遡って再び河原に降り、小さな尾根へ登ると山腹を捲く水平道になり、涸沢を幾つか渡ります。すぐ頭の上にドライブウェイが近づきますが、道はここから西に向かい、再び静まりかえった原生林の中に入ります。



窪地に雨水がたまっただけの湿地帯の七ツ池を過ぎ、苔むした岩がゴロゴロしている沢に沿っていきます。この辺り、しっとりと水分を含んだ苔もササも活きいきとして、西大台らしい雰囲気が横溢しています。



カツラ谷を渡ると山間の小平地「開拓」に来ます。



ブリキの説明板には『明治の頃この地、高野谷で開拓し、そば、ひえ、大根、馬鈴薯を播種したが、大根、馬鈴薯のみ生育し、他は結実せず廃す。そのため、現在地名として残って居る。又、高野谷は弘法大師が大台に寺院を草創せんとしたが、深山のため、現在の高野山に変更したと伝えられている』と地名のいわれが記されていました。(2001年の山日記。2007年にはブリキの説明板が半分に壊れていました)



「世界の名山・大台ヶ原」によると、この開拓事業を始めたのは京都興正寺で、明治3年のことといいます。高野谷を渡り、次のワサビ谷を越すとT字路の開拓分岐です。直進すると前項の西大台展望台への道で、広い河原を流れるのが「サカサマ川」です。『此わたり西北より来たりて東南に流るる一水あり、逆川と云ふ、凡そ大台全山の渓流、皆源を東に発して西に流る、独り此の川、西より来たりて東に流るるが如くなるを以て此名あり。(世界の名山・大台ヶ原山)』 



開拓分岐で左に折れ、吊橋を二つ渡ります。小岩がゴロゴロする急な登り道の傾斜が緩むと、大岩の下からこんこんと清水が湧き出ている「弁慶の力水」にきます。



(2000年には「たたら力水」の標識がありましたが、2007年にはこの名前に変わっています)木の橋を渡り、笹原の中の急登で大台教会の横に帰りました。