ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(26)~ (30)

2015-05-31 16:35:39 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(26)御破裂山(ごはれつざん)

国に大難あるときは神山鳴動す」 

藤原鎌足を祀る多武峰談山神社(とうのみねたんざんじんじゃ)の背後にある、名前に似合わぬ緑濃い静かなたたずまいの山です。



談山神社の境内から石段を登っていくとT字路になり、右は談山の名の起こりとなった、中大兄皇子と鎌足が大化改新の策を相談した「かたらいやま」(566m)で、「御相談所」の石碑があります。
 

左へ行くと御破裂山(618m)ですが、三角点は鎌足の墓所の中で入れません。国家に大事があるときはこの山が鳴り響いて動き、神社の神殿にある鎌足像の首の部分が破裂するという社伝が、山名の由来です。元は御廟山といい、神社も当初、鎌足の子・定恵が十三重塔を立てて文殊菩薩を祀った妙楽寺というお寺でした。

(27) 音羽三山<1.音羽山>

「観音さんからクマの山へ」 

奈良盆地の南東、桜井市と宇陀市大宇陀区の境を、談山神社から見ると谷を隔てて南北に走る850~900m級の三つの山です。

音羽山中腹にある音羽山観音寺(善法寺、音羽観音)は新西国17番札所。ご本尊は木造千手千眼十一面観音菩薩立像。天平寛宝元年(749)心融法師、清水寺の開祖・延鎮僧都(以上・観音寺HP)、定慧が妙楽寺建立の際、同寺の鬼門よけとして建てた(桜井市HP)など創建については諸説ありますが、奈良時代には音羽百坊と言われるほどに栄えたと言われます。南音羽からの約1キロの参道は舗装ながらつづら折りの急坂で寺に着きます。

本堂横の天然記念物オハツキイチョウ(お葉付き銀杏)の前から山に向かうと、本来の道が左に別れ、桜など植樹中の直登の道で万葉展望台に出ます。

正面に金剛・葛城から二上山を見晴らし「大阪まで眺望できる」として奈良県景観資産に指定されています。ここでも道が左に分かれますが、直登はかなりの急登で稜線に出て、先ほどの道に合流します。

急に良くなった植林帯の道を右(南)へ登っていくと音羽山(851.7m)山頂ですが、山頂は樹林の中で全く無展望です。

(28)音羽三山<2.経ヶ塚山>

「倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出でくる月の 光乏(とも)しき」

音羽山は万葉集で倉橋の山と呼ばれていますが、更に広く南に続く経ヶ塚山を含めた山塊を指すとも考えられます。音羽山山頂からは急坂を下ります。いったん東に向かった道が鞍部から折り返して南へ明るい植林帯を登っていく尾根筋は、荒井清氏の「万葉の山を行く」で昭和54年4月6日のこととして素晴らしい展望を眺めながらの山行記が残されていますが、36年後の今(2015年)は、ごくまれに樹林の間から下の景色が覗われるだけに過ぎません。

やがてクマザサと疎林に囲まれた経ヶ塚山889mの頂上です。古事記には神武天皇がヤソタケル軍を破った国見岳として出てくる山です。名前の通り、昔は展望の良いことで知られ「大和青垣の山々」でも『奈良盆地一帯の眺めはいうに及ばず、東方を振り返ると高見山を中心として台高山脈、奥宇陀の倶留尊、古光の火山群がみごとにながめられた』と記されています。残念ながら現在はここも無展望です。いまの山名の由来になった、笠石を乗せた経塚も破損が進んでいるようでした。ここは多武峰の鬼門に当たる方角なので、経文を埋めたという謂れが残されています。

(29)音羽三山<3.熊ヶ岳>

経ヶ岳からの下りは、ところどころ岩が露出した急坂です。途中で正面に見上げる熊ヶ岳は美しい鋭三角形で、登り返しの厳しさが思いやられます。大きな岩の横や、滑りやすい急な道、笹原の間の道と次第に高度を上げて、三山では一番高い熊ヶ岳904mに来ます。

ここも林に囲まれて無展望です。この山の名はクマが多いわけではなくて、「隅」の字を当てたもので、恐らく奈良盆地から見て東の果て、太陽が登る山とう意味だと考えられます。ここから稜線の道は緩やかになり、小さなピークを越えて行きます。近鉄の電波反射板の横を過ぎると、右に折れてさらに急坂で大峠に降り立ちます。ここから稜線は三津峠を経て竜門ヶ岳に続きます。

大峠は神武東征の時、女軍を配備してヤソタケルと戦ったと、日本書記に記された「女坂」伝承地で、その石碑が立っています.

 (30) 竜門が岳

「一つとや 竜門騒動は大騒動二十まで作りた手まり唄歌おうかいな」

文政元年(1818)、旱魃に苦しんだ竜門郷14ヶ村の百姓が年貢減免強訴のため龍門騒動と言われる一揆を起こしました。「二つとや 札のいかがを無理として お江戸へ捕られた又兵衛さん愛おしわいな」から「六つとや 無理な取り立てなさるから このよになるのももっともや」と二十番までの手毬歌に歌われた土地に、1951年、灌漑用のダム・津風呂湖が作られて観光資源ともなっています。

山頂には嶽神社があり、南山麓の旧竜門荘集落には旧暦3月に当番の家は餅をついて登る「タケノボリ」の風習が今も残っています。

天然記念物のマンリョウ自生地がある吉野山口神社から登っていくと、平安から室町にかけて栄え、宇多上皇や藤原道長も参詣した竜門寺のあとがあり、

近くの竜門ヶ滝には元禄元年(1688)、芭蕉が「竜門の 花や上戸の 土産(つと)にせん」の句を残しています。 


奈良の山あれこれ (21)~(25)

2015-05-26 21:07:26 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(21)大和三山 「三山のどれが男神?、女神?」

橿原市にある藤原宮跡を囲む畝傍、耳梨、香久山の三山は、古くから大和の人々に親しまれ、数々の歌にも詠まれてきました。中大兄皇子の万葉歌(『万葉集』巻一)『香具山は畝火を愛(お)しと 耳梨と相争ひき 神代よりかくにあるらし いにしえも然にあれこそ うつそみも つまをあらそふらしき』は、外鎌山でも紹介しました額田王を巡っての弟・大海人との恋争いを、「三山も男女の三角関係」と見なして作ったものとされています。しかし原文の「雲根火雄男志等」で「畝火雄々し(おおし)」と読むと、香具山と耳梨山は女神、畝傍は男神の山となります。確かに畝傍山を頂点にした配置は、天香久山と耳成山を底辺とする見事な二等辺三角形になります。また耳梨、畝傍は火山ですが、香久山は単独峰ではなく、多武峰から続く竜門山地の山裾が周囲からの浸食に残った丘の一部とされています。そんなことから「大和三山ピラミッド説」まで出現し…いやはや謎の多い三山であります。ほぼ3㎞ずつの間隔で位置する大和三山の三角形の中に、持統8年(694)から平城京へ遷都する和銅3年(710)年までの間、藤原京が営まれました。華やかな白鳳文化が花開いた地に、今は大極殿の土壇が残り、周辺は史跡公園になっています。

(22)耳成山  「どこから見ても耳がない山」

 大和三山の一。火山の残丘と考えられる標高140mの低い山ですが、平坦地に孤立しているので、意外に高く美しい円錐状の山容を見せています。耳梨とも書きますが、橿原市のHPによると、この一風変わった名前は「どこから見ても耳…余分なところが一切ない美しい円錐形の形の山容」から来ています。

 
耳成池畔万葉碑

 『みみなしの山のくちなし得てし哉おもひの色のしたぞめにせむ』 という歌が『古今集』にあり、かつては梔(くちなし) の木が多かったので「梔子(くちなし)山」とも呼ばれたという記述が、『大和名所図会』にあります。『万葉集』で青菅山というのもこの山で、頂上近くに耳成山口神社があるので俗に天神山といわれています。この社は明治まで天神社と呼ばれ、雨乞いの神事が行われたことが記録されています。

現在、山裾まで住宅地が迫っていますが、一歩、山へ入ると古代そのままの神さびた静けさが漂います。三角点のある山頂は樹木が生い茂って、北方の一部を除いて展望は得られません。耳成山公園周辺から山腹を捲いて緩く登る道がいくつかありますが、どれをとっても20分ほどで山頂に立つことが出来ます。

(23)畝傍山(うねびやま) 「和三山最高峰」

『万葉集』では、他に畝火・雲根火・雲飛とも表記されています。大和三山の中で最も高いといっても僅か199mで、神武天皇橿原宮跡と想定された橿原神宮の北西にあります。中腹までがなだらかで、上部が急な形のトロイデ式火山で、下部は花崗岩、中腹から上は斜長流紋岩(火山岩)で形成されています。

明治以降、御料地(現在は国有林)として保護され、樹木の伐採が禁止されてきました。山腹はアラカシ、シロカシ、サカキなどの緑に覆われ、林床の草本類の種類も豊富です。



頂上小広場には畝火山口神社社殿跡と三角点があり、ここに立つと眼下に広がる街並の中に耳成山と香久山が浮かんで見えます。周辺には古墳が多く、曽我、忌部などの地名が残っていることから古代豪族の居住地であったことがうかがわれます。



2014年1月、橿原神宮参拝後、久しぶりに登りました。北神門を出て畝傍山登山口への道標を折れると東大谷日女命神社の前に出ます。祭神はヒメタタライスズヒメノミコト、神武天皇のお后です。



その先から登山道になり、緩やかな登りは西側の畝火山口神社からの道を合わせて、大きく山腹を捲くように登っていきます。20分で山頂に着きました。ゆっくり展望を楽しんで、帰りは山頂すぐ下の分岐を左(北)へ下りました。



登りの単調な道とは違ってやや急で、途中には岩の露出しているところもあって楽しく歩けました。大きな錨など置かれた慰霊公園を通り抜けたところに「イトクの森古墳」があり、すぐ前が神武天皇稜、下街道(国道24号)に続く県道です。下りは15分で短い行程でしたが、清々しい気持ちで歩けました。


(24)天香久山 「赤い土と白い土」

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり あめのかぐ山 (万葉集・持統天皇) 

藤原京址の東に位置する小丘陵で、大和三山他の二山が火山であるのと違って、花崗岩と斑糲岩などから出来た丘陵の一部が風化浸食から残ったものです。『伊予国風土記逸文』に「天山(あまやま)と名づくる由(ゆえ)は、倭(やまと)に天加具山あり。天より天降(あも)りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降(あまくだ)り、 片端はこの土(くに・伊予国伊予郡)に天降りき。…」とあるように、天から降った山といわれ、記紀や万葉に数多く登場します。

この山の土には霊力があるとされ、神武東征伝説には埴土(はにつち)で巌甕(いっぺ )を作り戦勝を祈願したことが残っています。かつて土地の老人から「白埴山の土で作った土器は白く、赤埴山の物は赤い」という話を聞きましたが、天香山神社の前に赤埴聖地址の碑が立っています。 この神社は『日本書紀』の「香具山の牡鹿の肩骨を朱桜(ははか)の木の皮で焼き、吉凶を占った」故地とされています。 300mほど南、万葉碑横には白埴聖地の碑があります。頂上には国常立(くにとこたち)神社が建っています。

ここは樹林に囲まれ展望はありませんが、西側中腹の「天皇登香具山望国之時御製歌」碑(前述万葉碑)からは、耳成、畝傍、藤原京址、さらに二上山から金剛・葛城が遠望され、まさに国見の壮大さを味わうことができました。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ 海原は かまめ立ち立つうまし国そ あきづ島 大和の国は (舒明天皇) 

北側山麓に前述の天香山神社、南の山裾に天岩戸神社があります。 

(25) 高取山 「妻は夫をいたわりつ夫は妻に慕いつつ…」

お里沢市が主人公の浪曲・壺阪霊験記で知られる壺阪寺の東にあります。この山には南北朝時代に土地の豪族・越智氏が山頂部の砦に依り、天正年間に豊臣秀長が現在の山城の形を整えました。豊臣家没落後は徳川家の支配となり、寛永年間に植村家政が城主となって、明治維新の廃藩置県まで高取藩二万五千石の居城でした。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が立並ぶ姿は、城下から仰ぐ人々に「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われました。

今も残る植村氏屋敷跡から大手道が城址に向かっています。七曲りの急坂を登っていくと、一升坂という場所があります。城の石垣にする石を運んできた人夫たちがあまりの急坂に音を上げたとき、普請奉行が「米一升ずつ増やすぞ」と励ましたところだそうです。

さらに登ると飛鳥から運ばれたという「猿石」があり、やがて日本三大山城に数えられる城址に入り、春は桜が、秋は紅葉が迎えてくれ、大きく展望が拡がります。

584m三角点はもとの天守台にあります。なお壺阪門からは五百羅漢石仏群を経て壺阪寺に下る道が通じています。


開創1200年の高野山へ(2015.05.19)

2015-05-21 15:24:45 | 私の関西百山

昨夜からの雨がまだ残っている朝。奈良西大寺発のツァーバスで高野山へ向かいました。
高野山へは子供が小さいときから、近くはJACの記念行事をはじめ高野三山巡りなどで何度も訪れています。昨2014年も同じ時期(しかも一日違い!)に丸さん夫妻と高野三山巡りで歩いたばかりです。
しかし、今回は
「開創1200年を迎える高野山で末広がり八つの体験」という惹句で、初めてツァーで行くことになりました。



さて車窓から大門を見て山上に着くと、さすがは記念の年だけに雨模様なのに大勢の信者や観光客の姿で賑わっていました。
金剛峯寺前の駐車場でバスを降り、まずレインコートを着て傘を差して持明院へ歩きます。由緒のある古いお寺ですが、ここでは四国霊場八十八ヶ所のお砂踏み体験。
   各寺の本尊の前に置かれたお砂を踏むことで、お遍路をするのと同じ功徳を得られると言われています。バス二台の90人の人がずらりと並んでお砂を踏みました。

境内すぐ横の西国三十三ヶ所観音を拝観する頃から小降りになり、レインコートを脱いで門を出ました。
 大門の方に引き返す格好で、金剛三昧院へ歩きます。境内の自由参観で本堂にお参りし、経蔵や四所明神などを見学しました。ここはシャクナゲでも有名なお寺ですが、残念なことに花は既に終わっていて、代わりに本堂の前の黄色のボタンが目を引きました。
 写真は国宝の多宝塔です。お寺のホームページによると高さ約15メートル、屋根の一辺はおよそ9メートル。貞応2(1223)年の建立で、高野山で現在残っている最も古い建立物です。

金剛峯寺へ帰り、平成の大修理法会以来16年ぶりに御開帳の「秘仏ご本尊・弘法大師座像」を拝みました。

広い寺院内を狩野派の襖絵を鑑賞しながら巡っていくと、新別殿の広間(写真)でお菓子のお接待がありました。



さらに巡路を進むと蟠龍庭を眺める回廊に入り、我が国で最大級の石庭を見学しました。白砂の雲海の中で 140個の蒼黒い花崗岩の竜が奥殿を守っているように配置されています。

壇上伽藍へ歩き、金堂で創建1200年で初の御開帳の「伽藍金堂」を拝観しました。次に根本大塔の内陣で、16本の柱に描かれた堂本印象の16大菩薩と本尊・大日如来を拝みます。この頃には青空も出て来て暑くなりました。



バスで一の橋に移動して、宝善院で金剛山最古の庭園を鑑賞しました。



クマガイソウが咲いていました。



道を隔てた赤松院で住職のユーモアあふれる法話を聞き、秘仏・羊年守り本尊を見学したあと、精進料理の昼食を頂いたときは14時になっていまし
た。

食後、重文の掛け軸や寺宝・左甚五郎の木彫りの虎を見て、中の橋駐車場から奥ノ院へ。

ベテランの女性現地ガイドの説明で、数百年を越える杉の大樹とともに古くは歴史に名の残る諸大名、新しくは良く知る企業まで20万基といわれる墓碑や供養塔が並ぶ参道を歩き、新しく教えられることも多々ありました。

御廟橋を渡ると人間世界を離れた霊域に入ります。燈籠堂に登って回廊を巡って御廟にお詣りしたあと、空海・弘法大師が入定している窟屋のある地下へ初めて下りました。間近でお大師さんに手を合わせお願いをし、「南無大師遍照金剛」と三度唱えました。お大師さんは今もここで瞑想を続けられているので、毎日二回、維那という職名の二人の僧が御供所から食事を届けています。

その御供所(台所)と味見をする「嘗試(あみ)地蔵」の前を初めて通りました。

最後に中の橋からバスで女人堂へ。もともと女人禁制の高野山には七つの入山口のそれぞれに女人堂があり、ここから先に入れない女性が真言を唱えながら籠ったのですが、現在は弁天岳への登り口にある、このお堂だけが残っています。

これで、巡拝を終えて再びバスに揺られて家路に着きました。万歩計の数字は1万2千を越え、ツァーとはいうものの単なる観光気分では済まされない、有意義な一日でした。


京都大原・寂光院(2015.05.14)

2015-05-16 18:41:39 | 旅日記



天ヶ岳の帰り、寂光院の前に出たので何十年ぶりかで拝観しました。ご存じのように大原では三千院とともに有名な古寺です。



このお寺は天台宗の尼寺で、推古二年(594)、御父・用明天皇の菩提を弔うために聖徳太子によって創建、初代の玉照姫(太子の乳母)、大原女のモデルとなった二代目の阿波内侍、平家物語で知られる三代目の建礼門院・徳子以来、代々高貴な女性が寺を守ってきました。

15年前の2000年(平成12年)、心無い人の放火によって本堂が焼けました。伝聖徳太子作の本尊・六万体地蔵尊は損傷しましたが現在は宝物殿に保存されていて、本堂には新らしい地蔵尊が安置されています。太子が作られた当時の彩色を彷彿とされる極彩色の美しいご本尊に手を合わせ、上品な女性に説明をして頂きました。

本堂北側の四方正面の池
正面奥に三段の滝「玉だれの泉」がかかり、右端の塔の奥に宮内省管轄の建礼門院大原西陵が鎮まっています。

本堂前の雪見灯篭。豊臣秀吉の寄進したものです。

本堂西側の庭園は汀の池。平家物語の時代のままに残されています。



ただ、後白河法皇の「大原行幸」に出てくる樹齢千年の「姫小松」は火災の影響で枯死して、こんな姿に変わり果てました。

いったん西門からでて、建礼門院庵室址に行きました。

近くには「大原菊」と呼ばれる薄青色のミヤマヨメナが咲いていました。
諸行無常の鐘や宝物殿を拝観して、美しい古寺を後にしました。


天ヶ岳に登りました(2015.05.14)

2015-05-16 10:14:13 | 山日記

【天 ヶ 岳】京都市北部、大原の里十名山に数えられる山で、シャクナゲ尾根の名を持つ花の道もあるが、今回は鞍馬から山頂を経て大原の里に下る自然林のコースを歩いた。

【メンバー】丸屋博義、丸屋三輪子、芳村嘉一郎、芳村和子

【コースタイム】叡電鞍馬駅 08:30 … 薬王坂入口 08:35 … 静原分岐 09:00~09:05 … 戸谷峰(525.2m) 10:05~10:10 … 静原水谷分岐 10:25 … 三又峰(622m) 10:50~11:00 … 天ヶ岳 12:20~12:30 … 展望所(昼食)12:45~13:15 … シャクナゲ尾根分岐 13:45 …翠黛山・焼杉山分岐 14:20~14:25 … 寂光院 15:00



出町柳からのワンマンカーで終点の鞍馬駅に着く。鞍馬の火祭りで使われる松明(子供用)や天狗の面などが飾ってある無人の駅舎を出ると、大きな天狗の面に迎えられる。中年男性が独り、大鉢巻を締めて気合を入れていた。



写真を撮り歩き出すとすぐ鞍馬寺の山門を左に見て大きく右に曲がる。先ほどの鉢巻姿は颯爽と山門への石段を登っていった。町並みの中の電柱に、ちょっと分かり難い標識があり、民家の横で川を渡る。ここに東海自然歩道の大きな説明図があった。京都一周トレイルの一部でもあるらしい。

地蔵堂横から薄暗い林の中、まず石段の道、そして木の段の急坂を登る。

大きな落石の横を通り抜けて峠状のところに来る。

静原への分岐で「薬王坂」の説明板がある。一息入れて左の山道に入る。

少し行くと経塚があり、元禄年間の文字が見えた。
 自然林の中の道は傾斜を強めたり弱めたりしながら次第に高度を上げて行く。



ようやく地図上の525.2m三角点に着く。真新しい「戸谷峰」の標識がある。

しばらくは平坦な尾根道が続き、静原水谷への分岐で左に折れる。この辺り「山を美しく」「ゴミは持ち帰ろう」などと呼びかける静原小学校の生徒たちのポスターが随所にあり、地元の山を守ろうとする子供たちの心がうかがわれて微笑ましい。道は木の根道になり、勾配が強まると左手に鞍馬の尾根が木の間隠れにちらちら見える。622mのピークは暗い森の中で、道標に三又山の文字が見えた。

更に登ると目指す天ヶ峰が右手やや高くに見えるようになるが、かなり遠く思える。やや開けたところで写真を撮り、更に小さいピークを二つ超える。大きな尾をしたリスやびっしり木に付いたキノコを見たりするうち、思ったより早く天ヶ岳に着いた。

思ったより小広く気持ちのよい山頂だが、回りは樹木に囲まれ展望は全くない。

ヤマツツジの赤い色だけ緑の中で鮮やかだ。せっかくなので、しばらく休んだのち大原への標識に従って下る。小さいコル状のところを登り返すと、目の下に道標が見えたが鉄塔からの展望を楽しみに皆でそれぞれに道を探す。

左の踏み跡へ入った和と丸さんが「鉄塔が見える」と言う方へ行くと抜け出して、今日初めて広々とした展望場所に飛び出した。

東には竹生島の浮かぶ琵琶湖が霞み、その左には武奈ヶ岳がくっきりと望めた。反対側の貴船、鞍馬の山並みを見ながら腰を下ろして昼食を取るうちに、カンカン照りだった頭上に雲が拡がってくる。

元の分岐に戻る途中で踏み跡を下ると、百井峠への道に出た。先ほどの山頂からの尾根がすぐ頭上に見える。ここからヤマツツジが美しい緩やかな道を行くと、シャクナゲの木が現れ出したが、やはり花期には遅すぎて茶色に変わった花弁が残っているだけだった。シャクナゲ尾根の分岐まで時々、岩が露出してロープの張ってある処もある。

手の谷側に獣除けの網が張ってある処をしばらく通ると焼杉山と翠黛山の分岐にくる。ここから谷道になり、かなりの急坂をぐんぐん下る。清流が音を立て小さい滝がかかっている美しい谷を下り、林道にでた。先ほどから鳴き声の聞こえていたカジカの姿をみて川沿いに下ると、大原側の登山口に出た。

「大原の里十名山」標識は焼杉山、翠黛山の登山口であることも記されている。建礼門院侍女たちの墓所を過ぎると急に里の景色になり、寂光院の前に出た。大原バス停まであと800mだが、久しぶりに寂光院に参詣することにして今日の山行を終える。シャクナゲには出会えなかったが、不安だった足や腰も痛くならず、ツツジが彩りを添える新緑の中、山歩きの楽しさを満喫できた。


奈良の山あれこれ(15~20)

2015-05-13 15:42:46 | 私の関西百山

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(15)白 山
「奈良にも白山があります」
ただし加賀の白山と違って「しろやま」と読みます。三輪山の北山麓を走る県道を東へ、近頃は笠蕎麦で知られる笠荒神への途中から右の細い道へ入ります。



標高差250m、最後はちょっとした急坂を上ると奥不動寺に着きます。



お寺の前から既に見えている白山へは僅かの登りです。奇妙な形の岩塔が聳えたつ風化した花崗岩の台地で、二上山の屯鶴坊(どんずるぼう)に似ていますが、より小規模です。



しかし、こんなに近くで、アルペン的な風貌が見られるのは意外でもあります。



標高450mのここからは、龍門、三輪、遠く二上山が見渡せ、大和平野の一部も見下ろせました。なお、この山の南、黒崎には白山比神社、初瀬に白山権現がありますが、どちらも加賀白山からの勧請と伝えられています。

(16)巻向山
「いっぺん貧乏してみたい」



三輪山の北東、初瀬山との間にある、ほぼ同じ高さの二つの峰で、南側の山に三角点(567m)があります。



柿本人麻呂が「あし引の 山河の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳(ゆづきがたけ)に雲立ち渡る」と歌ったのは、この巻向山といわれています。西山麓に「山辺の道」が通り、近くに三輪の神・大物主神と孝元天皇の妹・ヤマトトトモモソヒメ(かの箸でホト<陰部>を突いて死んだ姫)の神婚伝説で知られる箸墓があります。

箸墓には別に「箸中の長者説」があります。「長者の家には金の成る木があり、毎日金を生んで減らないにの飽き飽きする。一度貧乏してみたいと天罰を蒙るために三度の食事ごとに箸を捨てた。その箸の山が今の箸墓」というのですが…はてさてどちらが本当でしょうか。(箸墓の写真は、熊木健二氏より拝借しました)

(17)初瀬山
「こもりくの山」

長谷寺の裏にある548mの低山で、万葉集で「こもりくの」の枕詞で詠われる泊瀬山は、この辺り一帯の山をさすようです。「和州旧跡幽考」に「泊瀬山(はつせやま) 八雲御抄曰 海士小舟(あまおふね)泊瀬山といへり。とませ山ともいへり。泊瀬又は長谷…此処は山之口より入りて奥深き故に籠口(こもりく)の初瀬といふ」とあります。



登り口近くの見廻不動尊の説明板に「弘法大師豊山に参籠を終わって笠山の方に向かわれた時此処で回顧され、…秘宝荘厳の霊場故、この山に入る者は心を定め浄めるようにと、…須彌山王の上に不動明王の御形をほられたものだと傳えられる。…」とありましたが、



不信心ものの私は気軽く入山したために藪漕ぎで散々な目に会いました。

(18)三輪山
「神さんも好きねえ」



この山の名前の由来については、日本書記の「容姿端麗のイクタマヨリヒメに夜ごと通って妊娠させた男の正体を見るため、糸の着いた針を衣の裾に刺させると…三勾(みわ)だけ残り…美和山の神であると分かった」と記されているのが有名です。一説にはその正体は白蛇だったとか。



今も大神神社拝殿の前の大きな杉には白蛇が住んでいるといわれます。古事記にも、三輪山の大物主が美女セヤダタラヒメを見染め「その美しい乙女が厠で大便(くそ)まれるときに、赤く塗った矢に姿を変え…乙女の秀処(ほと)をぐさりと突き刺した…」(三浦佑之訳注釈・口語訳古事記)という話があります。



大物主はこの娘を娶り、生まれた子は神武天皇の后となります。他所からヤマトに入ってきた天皇家が、土着民の信仰対象だった山の神性を利用して支配力を強めたと考えられます。登拝するには大神神社摂社の狭井神社社務所で初穂料300円を収め白い襷をお借りします。



登拝口の御幣で自ら御祓いをして、注連縄の下を潜り登山道に入ると、山内は撮影禁止だけでなく、その情景も一切口外できないことになっています。で、ここでも割愛します。467mの山頂まで往復1時間半~2時間。裸足で登拝される方や途中の滝で禊をされる方などに出会うと、こちらまで真摯な気持ちで登らなければと思わせられます。

(19)天神山
「菅原道真がほめた山」



ボタンで知られる長谷寺の東にこんもりと茂った山があります。
長谷寺から初瀬川を挟んで対岸にある標高455mの低山です。この山(別名・与喜山)は昔から長谷寺の寺領として伐採が禁じられてきたので、原生林が鬱蒼と茂り、「与喜山暖帯林」として天然記念物に指定されています。「与喜山」の名は菅原道真が「良き山」と言ったことから付いたと伝えられています。



山麓の与喜天満宮は菅原道真を祀る鎌倉初期以来の古い社で、秋の祭礼は長谷寺の年中行事に入るなど長谷寺との関係が深いお宮です。

ここから落葉に埋もれた道を登ると、夫婦岩と呼ばれる磐座(いわくら)があります。古代、天の神を祀った自然信仰の場所で、中世からの天神(道真)信仰と何か関係があるのかも知れません。ここから更に急登になり、時には木の根や岩角を掴んで登ります。木の間から巻向山、初瀬山を望みながら標石のあるピークに立ち、天神山へは更に小さなピークを二度越していきます。



最後の急坂を登って天神山山頂に着くと三等三角点と山名板が幾つかあるが、展望はまったくありませんでした。



北に向かう道を「まほろば湖」(ダム湖)に下りました。

(20)外鎌山
「恋する万葉歌人の墓が…」



万葉集に「忍坂(おっさか)のやま」と歌われ、朝倉富士とも磯城富士とも呼ばれる形の美しい山です。山頂には南朝最後の忠臣・玉井西阿の砦があったと伝えられています。北側の桜井市朝倉台周辺は開発が進み、住宅地の中に4基の古墳群からなる史跡公園があります。



南山麓が「忍坂」の地で、ここに鏡女王(かがみのおおきみ)の墓があります。もと天智天皇の后でしたが、天皇が妹の額田王(天皇の弟・のちの天武の恋人)に心を移して藤原鎌足の正妻となったというあの女性です。もっとも、鎌足と鏡女王はもともと相思相愛だったということで、談山神社の東殿は彼女を祀る恋神社という名の縁結びの神様です。北側の朝倉台から登るのが一般的で登山口から約20分。私たちは南側の「忍坂道伝承地」石碑から登りました。石位寺の前を北へ舒明天皇陵を過ぎたところから踏み跡をたどりました。背丈を越す密生したスズタケを30分以上にわたって強引に漕いで小さなピークに立ちました。

さらに潅木の生い茂る尾根を30分近く登ると狭い頂上に着きました。頂上からは、木の間隠れですが大和三山、 桜井市街、三輪山、音羽三山とまずまずの展望が得られました。帰りは細いがはっきりした道で、舒明陵の少し先の大伴皇女墓の横に出ました。


ホームページ更新しました

2015-05-10 15:59:47 | 山日記

ホームページ「ペンギン夫婦お山歩日記」 http://www.kcn.ne.jp/~kaichiro/を更新しました。

更新分は昨(2014)年までの足跡 http://www.kcn.ne.jp/~kaichiro/list/list-d.htm と
今(2015)年の山行 http://www.kcn.ne.jp/~kaichiro/yama2015/sankou2015.html  です。 

皆様のおかげで通算のご閲覧数が230,000を越しました。これからもよろしくお願いします。


初夏の平等院(2015.05.01)

2015-05-02 16:46:51 | 旅日記

 爽やかな新緑の季節。何年振りかで宇治の平等院を訪れました。JR宇治駅を降りると「源氏物語の里」の標識や、

駅前の広場には茶摘み娘の動く人形や茶壺の形の郵便ポストがあり、商店街入口の柱にも茶摘み娘の人形が立っていて「さすがお茶の町」と思わせます。(右上の写真は平等院の塔頭・最勝院玄関の欄間のフジ)大勢の人に交じって、宇治橋のたもとから商店街を抜けて表門から境内に入ります。

観音堂横の藤棚には白いフジは終わったようですが、満開の紫色のフジが紅白のツツジとともに、美しく新緑を彩っています。



その前の受付には長蛇の列が伸びています。暑い陽射しを浴びて歩いてきた後だけに、しばらくは並びながら忙しなく汗を拭いました。

阿字池に影を落とす朱色の鳳凰堂は、極楽浄土の宮殿をイメージしたと言われるだけに、優美で荘重な感じがします。

内部に入るには「2時間30分待ち」と聞いて恐れをなして、今回は池の反対側から本尊の阿弥陀様のお顔を拝んだだけで諦めました。鐘楼下から鳳翔館に入り、人波にもまれるように国宝の鳳凰や雲中供養菩薩像などを観ました。(もちろん撮影禁止ですが、先日、ルーブルで間近かに世界的な宝物を見てきただけに、ちょっと残念でもありました。)

参観して南門の方に出ると、大楠の向こうに鳳凰堂の屋根の鳳凰が金色に輝いていました。そのあと源頼政の墓や、最勝院の建物や庭園の石灯籠などをみて帰りました。贅沢をいうと罰が当たるかも知れませんが、お天気が良過ぎて暑くてたまらず、二人とも一刻も早くビールで喉を…という誘惑には勝てませんでした。