ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

花は夜開く(2011.07.30~31)

2011-07-31 09:35:06 | 花日記


30日、蕾が大きく膨らんできたので玄関に入れておいた二鉢の月下美人。





22時、就寝前に見に行くと見事に開花してキツイほどの香りを放っています。



31日、早朝4時。早く目が覚めたのでトイレに起きると、もう花を閉じかけています。



5時。外が明るくなりました。
美人薄命、一夜限りのはかない命を終わろうとしています。

今朝の大和民俗公園(2011.07.30)

2011-07-30 09:30:17 | 矢田だより


ヒマワリ
向日葵は盛夏の花の筈なのに、そろそろ枯れた花も見え始めました。
こんな句を知りました。「向日葵がすきで狂ひて死にし画家」高浜虚子



ヒョウタン
こんなに大きくなりました。瓢箪(ひさご)は秋の季語です。
「形よき瓢もとめて仰ぎ寄る」軽部烏頭子



オミナエシ
ご存じ秋の七草の一つが、もう満開です。
「ひょろひょろと猶露けしや女郎花」松尾芭蕉

金剛山・郵便道(2011.07.27)

2011-07-28 19:26:27 | 矢田だより
曇り空の下を走って高天(たかま)の天高彦神社の駐車場に着いたのは7時15分。
 すでに道路まで駐車の列が並んでいるのに驚いたが、駐車場の中は余裕があった。後で気が付いたが、毎日登山の人の車が多くて出入りが激しいのだ。身支度をしている間にも、早や身軽な男性が下りてきて車に乗り込んですぐ駐車場を出て行った。



高天は天孫降臨の伝説地、いわゆる高天原で、この神社の祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ・葛城氏の祖神)だが、もともとは天彦神という葛城山(昔は金剛と葛城は区別しない同じ山)の地主神を祀ったという。参道は杉の古木が生い茂った神々しい感じである。
 パラパラと雨が降り出したが、かえって涼しく登れるだろうといい方に考えて出発(07:30)。

高天寺の跡らしい草地に咲くキツリフネを眺めながら、10分ほどで高天滝に着く。雨が多かったので水量が多い。前からの橋と並んでかけられた新しい橋を渡ると、山腹の杉の植林帯に入る。ここは何年か前の大雨による崩落のあと昔の道が通れず、急らしく付けられた急な道を登るようになってトラロープが張ってある。途中で元の道に合流するが、時間稼ぎにそのまま新しい踏み跡を直登する。林の中で雨はかからないが、湿気が高くみるみる全身から汗が噴き出してくる。
 正規の登山道に合流してすぐ標高600m地点にベンチがあり、遭難救助のための連絡ポイント「い-2」の標識がある。ここから歩きにくいごろ石の道や、木の階段道を織り交ぜて登ると750m地点で「い-3」のベンチ。腰を下ろして水分を補給した(08:10~08:15)。
 ここから両側の旧道が崩壊した個所があり、しばらく中央の尾根を登る。旧道に合すると木の階段道や水平な植林帯の道が交互に現れて、最後の崩壊地をトラバースするとゴロゴロ石の登りになる。「ようお詣り」と声をかけてくれる男性や、「行ってらっしゃい」と励ましてくれる女性など、ここまででも何人か下山してくる人に出会った。雨はいつの間にか止んでいた。
 木の間から見える白雲岳が次第に大きくなってくる。この山は天高彦神社のご神体とされてきた山である。ショウジョウバカマの大群落を見た昔を語り合いながら行く。標高900m地点で休んで、また水分補給。(08:55~09:00)



 いよいよ500段の急な階段登り。このルート最大の苦しい個所だが、今日は途中で二度も休んでいるので難なくこなせた。20分足らずで登り切って、御所からのダイアモンドトレールと合流して一の鳥居を潜る(09:25)



 山頂部は葛木神社と転法輪寺の寺社林であり、現在は国有林として保護されている。古い大木も多い。
この樹齢500年の仁王杉を過ぎると舗装の急坂になり、右手石段を登ると最高点を背後に控える葛木神社である。今日は山頂部でゆっくりするつもりなので帰りに参拝することにする。



参道左手に前にはなかった立派な広い道が付いているので、「雄略天皇御狩場跡」を見に行った。
「雄略天皇が猪狩に御登山された時、葛木一言主神とご会見せられ、また猪を蹴り殺されたという、記紀ともに残る名高いお話の場所で、葛木神社摂社矢刺神社として雄略天皇を奉祀されています」



下り坂になる左手の夫婦杉。一本の根本から二本の杉が仲良く生えている。
社務所近くに来ると大阪側からの登山者でぐんと賑やかになった。それでもいつもの金剛山に比べると静かな日だった。登山回数掲示板に義弟の名前を見つける。横の電光温度計は19℃を示していた。涼しいはずだ。



いつも賑わう国見城跡広場でも、わずか数人の人影しか見えない。西北隅の階段を大日岳の方に登ってみる。
展望台からは、晴れていれば見えるはずの淡路島も関空も霞んで見えなかった。
無人の展望台でベンチに座り、景色を眺めながら早めの昼食をとる。(09:50~10:10)
やっと腰を上げて転法輪寺にお参りし、福石前から山頂葛木神社へ参拝。



葛木神社の祭神は一言主神社、副祭神は楠正成である。



金剛山と楠一族との縁は深く、この末社の列の中にも「南木(なぎ)神社」の名があった。



雨上がりで空気が澄んできたのか、ブナ林からは葛城山がくっきりと眺められた。(10:25)
ゆっくりと元の道を下り、天高滝の下で汗を拭って駐車場に帰った(12:03)。
 膝にサポーターを捲いてかばいながらの山行だったが、いつもに比べて休みを多く取ったので疲れも全く感じず、膝の痛みもほとんどなく歩けた。
 曇り空で時々雨にあったが、ザックカバーを付けてすぐしまうほどの降りで、かえって涼しく登り降りできて快適だった。

矢田丘陵・霧の朝(2011.07.26)

2011-07-26 15:50:49 | 矢田だより
今日は少し急な道から尾根道を歩こうと、車で家を出て南矢田公民館横に置かせて貰いました。
矢田寺までのアプローチは20分ほど短縮できますが、すぐに坂道を歩き出すので、お寺の石段を登るのが少し辛かったです。
 6時、まだ扉の閉まっている本堂前で参詣をすませて、いったん緩く下って南僧坊谷へ。
そこから急坂を国見台へ登ります。以前、「この道が矢田山系で一番きつい」といった人がおられましたが、確かにいいトレーニングになります。



6時30分、国見台着。この頃はまだ雲が高く、東の山並みが見えています。



稜線は虫も少なくホトトギスやウグイス、それにムシクイの声を聞きながら快調に歩けます。



矢田峠近くのお化けのようなウラジロの群落です。この辺りから日が射すと急に霧が湧いてきました。
また峠からはいつものように蚊やブヨなどの虫が出てきました。



7時10分、まほろば展望所。霧が濃くなり東の山は見えなくなりました。



下りになるとセミが鳴きだしました。ミンミンゼミとヒグラシ。二種類の声で賑やかです。
足元にこんな珍しい形の小さいキノコ。♀ペンが目ざとく見つけました。



7時50分、矢田寺。霧は晴れ陽が射してきました。
昨日激しい雨が降ったので、まさかまだいるとは思わなかった一昨日朝のカブトムシ。
殆ど同じところにじっとしていました。病気かと思いましたが、♀ペンが大きな木の根本に置いてやると、凄い勢いで元気に幹を登っていきます。
これなら大丈夫と、もとの場所の近くに返してあげました。

境内各所のお地蔵さんに手を合わせながら下り、駐車場所に帰りました。
休憩を含めて2時間半、12,600歩のウォーキングでした。

矢田山・夏の朝(2011.07.29)

2011-07-24 10:54:52 | 矢田だより


今朝も矢田山まで歩きました。家から矢田寺山門まで25分、さらに10分足らず石段を登って本堂前へ。
アジサイはもう花後の剪定が終わっています。



ウグイスやホトトギスの鳴き声を聞きながら30分で山頂・まほろば展望所。
今日もどんより霞んで東の山は見えません。気温21度。空気が乾燥しているのでさわやかです。
腰を下ろして10分ほど休み、お茶と軽食。



展望台にも登ってみましたが、生駒山も雲に覆われていました。わずかに松尾山のアンテナが見えるだけ。



帰り道に見た野の花。ホタルブクロ



ヒルガオ



コマツナギ



ヤブミョウガ



弘法の井戸で冷たい水で顔を洗い、ペットボトルにお水を頂きました。
昨日に比べると湿気が少なく、林の中は汗で濡れた身体が冷たく感じるほどです。



矢田寺本堂の裏で♀ペンがカブトムシを見つけました。
最近では自然に生きている個体を見るのは珍しくなりました。孫が近くにいたら喜ぶのに…そっとそのままにしておきました。

わずか340m、朝飯前の低山歩きですが、緑の中を山の空気を吸って爽快な気分で帰りました。

出羽三山・旅の想い出

2011-07-23 17:08:41 | 旅の想い出
*お土産のうち、初めて買ったちょっと珍しいものをご紹介します。



「からからせんべい」
山形県(鶴岡)のお菓子。小さな三角形のせんべいを割ると、中から和紙に包まれた昔の玩具が出てきます。
いろんなオモチャがでてくるのが楽しみです。煎餅そのものも、なかなか美味しかった。



「古鏡」
出羽三山・羽黒山の鏡池からでた銅鏡を象ったお菓子。キンツバに似ていますが中にお餅が入っています。
あっさりした甘さでお茶にあった味でした。



「月山中之宮で授かった手拭」
変愚院の大好きな鳥羽僧正の鳥獣戯画風のウサギが描かれています。

*新潟ふるさと村
帰りの飛行機まで少し時間があったためか「新潟ふるさと村」という大きな道の駅に寄りました。
ここには新潟の文化・歴史の紹介をする「アピール館」と新潟各地域の物産を展示販売する「バザール館」の他に、グリーンハウスや花壇などの施設があって、30分ではとても見て回れない所でした。



とりあえず「アピール館」だけを駆け足で見てきました。エレベーターで3階に上がり順次降りてくるようになっています。3階の新潟の四季を紹介している「ふるさとシアター」はパス。

2階では明治から大正にかけての民家や生活の様子を再現しています。
これは「降雪体験コーナー」、年中、人工雪を降らせています。



明治時代の農家の様子。
隣の部屋では、おばあさんロボットが民話を語り、佐渡おけさを歌ってくれます。



カマクラの模型。他にも大正モダニズムの町並みや昭和初期、昭和20年、昭和45年の暮らしの変遷をジオラマで見せるなど、なかなか見ごたえのある施設でした。

湯殿山

2011-07-23 07:00:00 | 旅日記
鳥海山・獅子ヶ鼻湿原と出羽三山の旅(7)
獅子ヶ鼻湿原の散策を終えて象潟へ下りました。



昼食場所の「道の駅・ねむの丘」の展望台から見た名勝・象潟。
田圃の中に点々とかって島だった緑の丘が浮かんでいます。芭蕉が訪ねたのは元禄二年(1689)、その光景は…
 『江の縦横、一里ばかり、おもかげ松島にかよひて、また異なり。松島は、わらふがごとく、象潟はうらむがごとし。さびしさに、かなしびをくわえて、地勢、魂をなやますに似たり。(奥の細道)』

「八十八潟、九十九島」と言われる入江に島々を浮かべた美しい風景だったのですが、文化元年(1804)の大地震で海底が隆起して干潟の水が失われて現在の姿に変り果てました。
 『象潟や雨に西施がねぶの花』この句の所縁からか、この辺りに多い合歓の木が今、花盛りでした。



昼食を済ませて鳥海山の五合目まで登ります。昨日の月山への道に比べると段違いに走りやすそうな「鳥海スカイライン」を五合目鉾立展望台へ。
 あいにく今日も濃霧で山頂部は見えません。展望台裏から深い谷を見下ろすと、紫のクガイソウの向こうに僅かに白い雪が残っていました。



登山口で写真を撮って鳥海山を後にしました。



この日の泊まりは、山形県鶴岡市の「湯の浜温泉」。昨日の酒田より南、庄内空港に近い海岸にあります。
 日本でのサイーフィン発祥の地だそうで、夕陽が海を染めるまでサーファーが波を楽しんでいました。



7月16日。最後の目的地、湯殿山へ向かいます。
 皮肉にも最終日になって朝から青空が拡がり、バスの後方に鳥海山が初めて全容を見せました。



湯殿山の駐車場に着きました。
 赤い鳥居の右に見える、なだらかな山容の湯殿山は標高1500m。神域の山頂には登ることができません。
三山を徒歩で登拝するには月山頂上の月山神社本宮から南西山腹の月光坂の急坂を下り、湯殿山と品倉山との間の渓谷にある湯殿山神社に詣でた後、鉄梯子などの難所を下って羽黒山へということになります。
 私たちはここで参拝(シャトル)バスに乗り換えます。



朱の大鳥居。平成になってからのもので高さ18m。
 参拝バスはこの横を通り、参籠所を左手に見て山道を5分ほど登っていきます。



ここが終点。この石段から上は写真、ビデオ撮影禁止です。
 なぜここに牛の像があるのでしょう?それは月山のウサギのように、湯殿山は丑歳が御縁年だからです。
丑歳丑月丑日開山の説の他に、出羽三山の形が牛のうずくまった姿に似ている(臥牛山=頭が湯殿山、背中が月山、臀部が羽黒山)などの説もあります。



少し先で石段を梵字川の谷間に下ったところが出羽三山の奥ノ院、湯殿山神社です。
 昔からこの神域の様子は「語るなかれ」「聞くなかれ」と言われ、芭蕉も
『語られぬ湯殿に濡らす袂かな』
と詠んでいます。しかし現在では様々な形で様子が伝えられています。(変愚院の手元にある、久保田展弘著「山岳霊場巡礼」には、ご神体の写真まででています)

ここでは「出羽三山神社公式ホームページ」の内容を引用します。
「湯殿は、湯殿山神社のご神体である出湯と、その湯ばなのおおわれた巨岩を示している」「現在でも参拝に際しては履物をぬぎ、裸足になり、お祓いを受けてからでなければお詣りは許されない…」
 これで大体の様子がお分かりになると思いますので、伝統に従って多くは語らぬことにします。

 参拝を終わると大きな足湯があり、そこで神様のお使いという青白い長いものを拝むことができました。
この点も神殿のないことと合わせて三輪山によく似ています。



帰り道で大鳥居の横にある仙人沢行人塚を拝みました。中央の大きな石碑には「即身仏修行之地 湯殿山仙人澤」とあります。
 「行人」とは湯殿山で一期千日の修行を終えた人のことで、行人碑の中には三千日、五千日の苦行をした人もあるとか。さらに木食の行に入り、生きながらにして土中に入定して「即身仏」(ミイラ化)となった人も多いのです。お堂の中には即身仏のレプリカが祀られていました。

これで三日間の旅を無事終えて、帰途につきました。