塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

山間の生徒の朝から学級問題を考える。

2013年05月09日 | 社会考

 GWも終わってしまいましたが、みなさまいかがお過ごしでしたでしょうか。小生は3年ほど間が開いてしまった中山道歩きを再開させ、「すべて山の中」といわれる木曽路を旅してきました。旅行記については、私なんぞが書かなくとも人生の大先輩方(笑)が大勢書いておられるので、そちらにお任せすることにします。

 歩き旅は当然ながら車や電車の旅と違って移動距離には限度がありますし(私の足で1日30㎞くらい)、暗くなってしまうと迂闊に動けなくなってしまうので、日が昇っている間が勝負となります。自然と朝が早くなり、私の場合は6時30分~7時の間に出発します。

 すると、ようやくタイトル通りの話題に近づきますが、だいたい7時半くらいから地元の小中高生の登校ラッシュが始まります。ラッシュといっても、失礼ながら山間の小さな町や村のことですから、見ていて忙しないということはありません。そして、山間の子供たちは挨拶がとてもしっかりしています。路側帯を一列にやってくる小学生はもちろんのこと、家では反抗期そうな中学生も、一見イマドキの自転車2人乗りの高校生も、見知らぬ怪しい旅人にほぼ全員がきちんと挨拶をしていきます。

 もちろん、都会と違って行き交う人が少ないからこそできることではあるのでしょうが、家や学校や地域でルールとして浸透させていなければ、やはりできることではありません。私の小中学生のころを思い出すと、「今月の目標はきちんとあいさつ」みたいな形式上のスローガンなどはありましたが、実践編となると、受けた覚えがありません。

 この差はどこから来るのだろうかと考えると、生徒数というのが1つ大きな理由としてあるんじゃないかな、と思うのです。とくに、クラス単位の生徒数が重要なのではないかと(見てきたわけではないので推測ですが)。そこでふと思ったのが、1クラスの人数を減らすとか減らさないとかいう議論がかつてあったのは、どうなってしまったのだろうということです。私の小中学生のときは、1クラス30人から40人の間だったと思いますが、当時から一緒に1年間過ごしていてもほとんど印象の残らない同窓生というが必ずいたものです。接する時間の短い先生方であればなおのこと、全体の把握は困難なのではないかと思います。

 私の公立小中9年間の記憶を総合すると、どう考えても3~40人の生徒をきちんと管理できる能力をもった先生というのはほとんどいなかったように思います。先生の質がどうこうということではなくて、3~40人もの生徒のプライベートな問題までしっかり掬って処理するなどというのは、人間1人の能力を軽く超えているように思うのです。

 個人的には、それこそ「二十四の瞳」くらいがちょうど理想的なように感じます。今後、少子化により学校の教室などは余る傾向になるでしょうし、クラスが増えることで先生の間に競争意識や情報交換が生まれれば、教育の質の向上にもつながるように思います。さらに、多クラス化によって教師の需要が増えれば雇用対策にもなり、結構利点は多いのではないでしょうか。

 ソースは忘れてしまったのですが、以前一貫校の人気が高まっているという話題で、一貫校のメリットとして、生徒に継続して手厚い指導を行うことができ、いじめの発見や解決につながりやすいという意見があったのを記憶しています。ですが、私はこれはまったく逆だと考えています。むしろ起こり得るのは、手厚い生徒はさらに手厚く、手薄い生徒はさらに手薄く、という事態であり、メレオロンの言うところの「団体でファミレスとか行っていつもウエイトレスに水もらえないようなヤツ」は、それこそ一貫して隅に置かれ続けてしまう可能性があるといえます。

 そのような把握漏れを防ぐためには、職員会議やアンケート調査を増やすというよりも、単純に1クラスの生徒数を把握可能な人数にまで減らすというのが、直截的で効果の出やすい方法なんじゃないかな、と思います。そんなことを考えながら、見渡す限り山と川の木曽路を歩く連休でした。