塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

書評:『博士の愛した数式』(小川洋子著)

2010年05月22日 | 書評
 
 何年か前に流行った小説なので、今頃?という感もありますが、小川洋子さんの『博士の愛した数式』を読みました。ハードカバーは大きくて高くてかさばるので、小説は基本的にどんなに流行っても文庫になるまで買わないのです。たしか映画化されていたと思うのですが、何でそんなに売れたんだろうと思って調べたら、「全国書店員が選んだいちばん! 売りたい本」のキャッチフレーズで有名な本屋大賞の第一回受賞作品だったんですね。

 あらすじは割と知られていると思いますのでごく簡単に。事故により記憶が80分しかもたなくなってしまった「博士」と、彼の世話を依頼された家政婦の「私」、そして「博士」に「ルート」と名付けられた「私」の息子。80分前以前の記憶が自動的に消去される博士にとって、「私」やルートは毎日初対面ということになるが、「私」やルートの独自のルールや気遣いのなかで、3人の関係は豊かで温かいものになっていく。それまで数々の家政婦を困らせてきた博士だが、「私」やルートとの関係はその後博士が亡くなるまで続くことになる。

 この小説の見どころとしてまとめるならば、毎回初対面であるはずの博士との間に、少しずつ確実に紡がれていく愛情と優しさの関係とでも言いましょうか。博士は、子供は母親のもとにあるべきという信条をもっていて、「私」からすれば職場である博士の自室に学校帰りのルートを招かせます。「私」とルートも、博士の優しさに応えるべく、手さぐりながらも博士との時間を大切に過ごそうと試みる。3者の、お互いに真心に満ちた物語は、読者の心を暖め、感動を与えるものだと思います。

 これが、もし小説ではなくテレビドラマなどであれば、以上の賛辞でめでたく終えることができます。ただ、当作品が一般的には純文学に分類されているようなので、そうするといくらか批判すべき点が出てきてしまうように思います。以下、それらを4つの点にまとめて挙げていきます。

 第一に、あまりに綺麗に話が完結しているために、一言でいえば「良かった」という感想に尽きてしまう点です。純文学とは、人間の本質に対する示唆や問いかけを提起するものであると私は考えています。夏目漱石にしろ、太宰治にしろ、芥川龍之介にしろ、文学の巨人たちは皆、愛や死や貧困など人間の不条理な面が露わとなるテーマを通じて、人間の本質に深く切り込もうとしてきました。しかるに、せっかく「記憶が80分しかもたない数学者」という非日常の題材をもってきたにもかかわらず、さして大きな問題もターニングポイントもなく、割とすんなりと話が最後まで進んでしまいます。「おっ、何か起こりそうだぞ」という箇所がいくつかあったのですが、結局何も起こらないで終わるため、純文学といわれるとなんだか消化不良のような感触を覚えてしまいました。

 第二に、設定にかなり凝っている割には、本筋に余り関係していないという点です。たとえば、タイトルにもなっているとおり博士は数学者ですが、別に博士が数学者である必要性は特段感じられません。結局、「記憶が80分しかもたない」ことが博士に求められる要素の99%ぐらいを占めているので、それさえ押さえられていれば、法学者でも経済学者でも、もっといってしまえば職業不詳だとしても、物語の本筋にはそれほど影響がないように思われます。また、「私」がシングルマザーであるということも、話の中で時折触れられる重要な要素です。しかし、これも実際に3人の関係にどのように影響しているかというと、さほど突っ込まれてはいないように感じました。読み物ではなく純文学というのであれば、追求すべき問題に対してサブなものはなるべく排するべきではないかと思います。たとえば漱石の『門』の終盤で、主人公が突然鎌倉の禅寺に修養に出かけてしまったことについて、話の本筋上必要だったのかという批判があります。鎌倉での話はそれなりに面白いのですが、小説のテーマからすれば寄り道であり欠点であるとされるのです。

 第三に、二点目と矛盾するように聞こえるかもしれませんが、情報不足な部分がいくつか見られました。たとえば、障害を抱えた博士は義姉(未亡人)の家の一角に寄寓しているのですが、この未亡人と博士が深い関係にあったであろうことが作中でほのめかされています。私を含め、読者はおそらく2人の関係が今後の物語に影響を及ぼすのだろうと直感したと思いますが、結局最後まで匂わせるだけのままで終わります。二点目で、余り必要のない情報をこってり用意していると指摘したのに対して、こちらでは本筋に大きく影響するであろう情報を読者に与えていないということになります。

 第四に、結局材料にこだわりすぎて作品形成がおろそかになっている点です。この点は、別にこの小説に限ったことではなく、世間全体に最近蔓延している問題のように思います。すなわち、誰もまだ手を付けていない題材や手法を自分が使ったという事実で満足してしまい、できあがってみればありきたり、という現象です。私はこれを勝手に「材料主義」と名付けているのですが、とりわけマンガやドラマなどでよく見受けられます。マイナーなスポーツや職業をテーマとしたり、そこまで有名でないクラシックやジャズの名曲を作中で挙げて話のネタにしたり。「とにかく誰もまだ手を付けてないからやる」という動機からスタートする材料主義は、当座は面白いかもしれませんが、落ち着いて考えてみると大して中身がないという場合が多いです。この小説も、「記憶が数十分しかもたない」「数学者」という材料がはじめにありきで作られたような気がしてなりません。またこの小説では、数学と並行して阪神タイガースが重要なファクターとしてはたらいています。両者はある数字を介して関連付けられているのですが、小川さんはその関連性を見つけたことで小躍りし、そして踊らされてしまっているように思えてなりません。数学もタイガースも、小説の根幹からは離れたところで面白さと華やかさを添えているに過ぎません。

 以上4点、タイトルから否定するような勝手な批判を連ねさせていただきましたが、これらはすべて、あくまで純文学として分類したときに生じる問題をまとめたものです。一般の小説としてみるならば、以上に挙げた批判はこの小説の面白さを少しも減じるものではありません。素直に読めば、本当にいい小説、面白い作品だと思います。

 むしろ中高生ぐらいのころに読むと、すんなりと自分の文脈に置き換えられ、重要な示唆が得られるのではないかな、と読み終えて感じました。

  



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