ネへミア12章の帰還した祭司リストに彼の名が記載されている。ゼカリヤはハガイが召命を受けた二ヶ月後に預言者となった。"イドの孫でベレクヤの子" 16年前にエルサレムに帰還したイドの孫。つまり、ハガイは老人であったが、ゼカリアは若者であった。イドは「証言する」、ペレクは「祝福する+ヤー(主)」、ゼカリヤは「覚える」。つまり、「主の祝福を証言し覚える」が、本書のテーマである。
彼はハガイと共に、神殿再建とイスラエル復興の為に遣わされた。ところが、9章以降、神殿に関する記述は一切なくなり、内容は黙示文学的色彩へと一転する。ゼカリヤはダニエルと並ぶ終末に関する預言書であり、更に本書は、メシア初臨と再臨の両方について数多く預言されたメシア預言書でもある。その多岐にわたった内容から、神が証言され、覚えられた事は何だったのか?(メッセージより抜粋)
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彼はハガイと共に、神殿再建とイスラエル復興の為に遣わされた。ところが、9章以降、神殿に関する記述は一切なくなり、内容は黙示文学的色彩へと一転する。ゼカリヤはダニエルと並ぶ終末に関する預言書であり、更に本書は、メシア初臨と再臨の両方について数多く預言されたメシア預言書でもある。その多岐にわたった内容から、神が証言され、覚えられた事は何だったのか?(メッセージより抜粋)
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ゼカリヤの名前の意味は「覚える」。ゼカリヤの祖父、イドは「証言する」。ゼカリヤの父、ベレクヤは 「神の祝福」。今日のメッセージのテーマは、「神の祝福を証言し、覚える」です。
ゼカリヤ書の預言の内容は大きく分けて3つ。
①神殿再建とイスラエルの復興
②終末預言
③メシヤ預言(初臨、再臨の両方)
ゼカリヤ書の御言葉は、新約聖書の福音書にも多く引用されています。ゼカリヤ書の3章8-9節、6章12−13節の中で語られている「若枝」は、イエス様のことで、9章9-10節の「イスラエルの王がロバの子に乗ってやって来る」と言う預言は、マタイ21章1-9節、ヨハネ12章12−17節の成就です。
ゼカリヤ11章12−13節はマタイ27章3−5節に書かれている預言で、12章8−9節はイエス様の再臨、12章10-13章1節はイエス様の十字架を意味しています。
13章7節には、弟子がイエス様を裏切って逃げることまで預言し、そのことについて、マタイ26章31節とマルコ14章27節でイエス様が自ら弟子たちに語っておられます。
また、ゼカリヤ書の特徴である、8つの幻は、彼が召命を受けた3ヶ月後に一晩の内で見たものです。この幻は、後にヨハネが黙示録の啓示を受ける、600年前、そして、現代から2500年前に神様からゼカリヤに預言として与えられていたのです。それは何故か?
ゼカリヤの時代、捕囚後のイスラエルの復興、平和を期待して、イスラエルの人々は帰還したのですが、悲しいかな現実はほど遠いものでした。その後、イスラエルは、ギリシアやローマ帝国の支配に脅かされ続けたのです。
神様は、ゼカリヤにゼルバベル神殿に頼るのではなく、メシヤによる真の救い、真の希望を約束されました。そして、神様は、イエス様が、いらっしゃるまでの400年間、沈黙されたのです。
そして今、終末と呼ばれてもおかしくない出来事が次々と起こっています。終末とは、今の状況がなくなり、全て終わってしまうと考えがちですが、聖書で言う「終末」という意味は、「神の計画の成就・完成」を表しています。
イエス様を受け入れ、信じている私達クリスチャンにとって終末は、正しい神の裁きによってもたらされる、平等で、悲しみも苦しみもない、喜びと愛に満ちた神の国の到来を意味しています。この素晴らしい福音を今週も、誰か、神様を知らない方に伝えて行きましょう
今回のゼカリヤ書は、イドの孫でベレクヤの子であるゼカリヤが持つその名の通り、「主の祝福を証言して覚える」がテーマである。ゼカリヤは、“イスラエル”のアイデンティティの核であり、平和と繁栄の象徴である神殿再建と、イスラエルの復興のために遣わされた。ところが、喜ばしいはずの神殿再建は、人々が期待していたような平和的な状況には至らなかった。そんな状況の中で、ゼカリヤは来たり来るメシアと、真の新しい時代(神殿=御国)の到来とその栄光を幻で語る。だから、この書は実際的な神殿再建に向けての神様の励ましの言葉と共に、黙示文学的色彩を帯び、 救世主メシアの初臨と更に再臨への預言が渾然一体となっているのである。
イエス様の公生涯の出来事や、黙示録にもゼカリヤ書は数多くリンクしているが、 この書簡に見る壮大な「神の御心」は、その構成からも、またヴィジョン的にも 「聖書」全体を凝縮したかのような、美しい調和を感じた。 この感動は神様の祝福だ。神様の祝福を証言し、覚えること。 それがゼカリヤ書が最初から最後まで繰り返し私に教えてくれたことだ。 未確認情報ながら、「終末についての預言の学び」がこの後あるらしい。乞うご期待!
神殿再建が滞って大変だった時代に、実は真の希望は、目の前の建物にあるのではなく、その先にある神様の超偉大な計画(祝福)がある事を、ゼカリアは見せられたのだ。つまり、イエス様が人として生まれ、十字架で死なれて復活して全人類を救い、そして、最後にもう1度来て下さると言う事。そして、もう二度と敵に攻め込まれる事のない、永遠の神の神殿(新しいエルサレム)がやって来ること。ゼカリア書は、これらの事(祝福)を覚えて証言しているのだという事が、やっと自分の胸の中に落ちて行った。
私達はこの神様からの祝福である素晴らしい計画を、決して忘れることなく、語り続けて行かなくてはならない。今回のゼカリヤ書の学びで、改めてその事の重要さを考えさせられた。
3章は私達の希望ですね。主はヨシヤの様にきれいな白い衣を着せて下さいます。(7節を守れば)味わいたい書簡の一つです。まだ、表面だけです。拙くてすいません。
また、「一畳でも十畳の広さ」の「インドのねずみ」、「置かれた所で咲きなさい」の渡辺師のメッセージを聞きました。社会で正しく生きていく極意を教えて下さりをありがとうございます。禅しか知りませんが、この様な事は印象深く語ってくれています。
しかし、聖書をこの目で見ると、この全てをイエス様は事細かく語ってくれています。(余すところなく)この事を日本人に分かりやすく聖書のお言葉を講解される牧師が少ないですね。釘宮義人先生はいつも畳の上の教会だとおっしゃっていました。禅の拙い私が知りえる全てはイエス様にあります。そして、最も大切な命があります。
このイエス様があまねくあがめられますように。み名があがめられますように。御国が早く来ますように。