モーセ五書を終え「ヨシュア記」に入りました。この「ヨシュア記」はヘブル語でも同じタイトルで「イエ・ホシュア」、意味は「主は救い」。イエス様のお名前と同じ(イエスはギリシャ読み)です。タイトルは同じすが、私たちは歴史書として分類していますが、ユダヤ人はこの書を預言書としています。
ヨシュア記は、ヨシュアが指導者となってヨルダン川を渡り、エリコ攻略や先住民と戦いを経て、カナンの地に入り、12部族に相続地分配を完了して、彼が死ぬまでの約30年間の出来事が語られています。かつてモーセに率いられてエジプトを脱した第一世代は全て死に絶えました。その後、ヨシュアと次世代の民が約束の地をどうやって自分たちのものにしていったのか、が記されています。旧約では、しばしばその時の長さ故、「第一世代は全員死んだのね」「それで、次は?」と他人事のように安易に読み飛ばしがちですが、いつも聖書は「私」に語られている御言葉であることを忘れてはなりません。このヨシュア記で、イエス様が今の私たちに伝えたいメッセージは何なのか?いつでもこの思いを抱いて、御言葉を聞き入ります。
まず、なぜ約束の地に入るリーダーがモーセではなく、ヨシュアだったのでしょうか?モーセは聖書では「こんな謙遜な人はいない」と言わしめ、ユダヤ人には民族を代表する第一人者と考えられている人です。しかし、そのモーセは約束の地に入ることはできませんでした。その直接的な理由は「メリバの岩事件」。モーセは岩に命じる代わりに、岩を杖で2回叩いてしまいました。岩とは「救いの岩」の象徴であり、イエス・キリストの雛形です。つまり、モーセは神の無償の愛を表すことに失敗してしまったのです。
しかし、より深い意味があります。それこそが、モーセが約束の地に入れなかった真の理由です。聖書ではモーセは「律法の代表者」とされています。つまり、律法によっては救いは完成できないことが、この時点ではっきりと告げられているのです。律法=モーセからヨシュア=イエス様に、神の救いは引き継がれました。ヨシュアは、民を約束の地へ導いたイエス様の原型です。
内容的には大きく3つに分けられます。
1-12章: ヨルダン川わたって土地を占領する
13-21章: その土地を12部族に分け与える
22-27章: 約束の地に置ける生活
次に、ヨシュアの人となりを考えてみましょう。モーセと比べて、ヨシュアは専ら若いイメージを持たれますが、実はモーセと同じく80歳代のおじいちゃんです。彼が召命を受けたのもモーセの召命と同じ頃、80歳くらいでした。モーセは王宮生活から羊飼いに落とされ、40年間かけてコツコツと自我を削られ、神様に用いられるようになりましたが、ヨシュアはずっとモーセの下にいて、実地現場でリーダー資質を学びました。一番近くでモーセに従い、40年間見続け、リーダーであったモーセが約束の地に入れない理由も十分にわかっていたのです。ヨシュアは、自分が置かれた立場と自分の持ち場に忠実な人でした。だからこそ、モーセの後継役を任されたのです。
ヨシュアのリーダー性が最も顕著な部分があります。5章、彼が諸刃の剣を持つ天使に出会うシーン。そこでヨシュアは一切質問をすることなく、すぐ素直にひれ伏して履物をぬいで従います。履物を脱ぐということは全面降参の意味です。かつてモーセも同じことを神様から言われました。持っている拙い道具を捨て去り、裸足になって戦うことを止め、忠実に従うこと。これが彼の優れたリーダーとしての資質です。わかっていても言うは易く行うは難しで、なかなかできることではありません。(牧師然り…)
またヨシュアの信仰で着目すべき二点があります。まず最初はヨルダン川。ヨルダン川を渡ることは、神様の約束の地に入る第一関門です。イエス様も洗礼を受けた川だから、とサラサラ流れる小川を想像するのは大きな間違い。この時のこの場所のヨルダン川は、水が溢れるように流れ、渡れるとは思えないような大河でした。モーセもまた、かつて大水を前に奇跡を体験しましたが、モーセの場合は海に手を差し出すと水がさっと分かれ、乾いた地を渡ることができたのです。しかし、ヨシュアの場合はそれとは異なっていました。ヨシュアは、轟々と流れる川に一歩を踏み出すと水が分かれたのです。
この差をきちんとわかっておかなければなりません。これは、救われる時と救われた後の話だからです。救われるのは何の努力も功績も必要ありません。民が偉かったわけでなく、民が祈ることもなく、モーセは海を渡ることができました。これが神様の恵みです。しかしヨシュアの場合は違いました。
聖書は過去の話ではありません。今、私がヨルダン川の前で「渡れ」と言われたらどうするのか?、を考えなければなりません。悲しい哉、多くの普通の教会は、川岸で『リバイバル祈祷会』を始めるでしょう。それでは決して渡れません。何年経っても川岸に居続けるだけです。何の保証もありませんが、ヨシュアは一歩を踏み出して、だからこそ渡ることができたのです。これが信仰の法則です。人は確証を求め、計画を立て、備えを待って進もうとします。しかし、神様の計画はそうではありません。神様の意図を聞き、神様の計画を進んで行くこと。それがヨシュアの信仰から学ぶ第一点です。
第二点はエリコ占領です。有名なエリコの戦いですが、この戦い方は非常に奇妙なものです。毎日町の周りを一周するだけを繰り返し、七日目に七人の祭司が七周して七つの角笛を吹いた時、城壁が崩れました。「おぉ!神の奇跡!」と今でこそメッセージされますが、私がそれを命じられた兵士だったら?と考えてください。聖書は過去の物語譚ではないのです。回っている間に攻撃されるかもしれない、七週回ってどうなるのかわからない、城壁が崩れるなんて考えもできない。そんな状況下であっても、ヨシュアは実行しました。兵士にその理解不能な状態で命じ、為し遂げさせたのです。この二点が、ヨシュアがリーダーでなければならなかった理由です。彼は徹底的に従順だったのです。
さて、もう一人、知っておくと楽しい重要人物がいます。新約聖書にも3回登場する特筆すべき人物、それはラハブ。ある意味ヨシュアよりも語られる彼女は、イエス様の系図に記されている五人の女性の一人です。映像作家でもあるえんぢぇる師は、いつか彼女を主役とした映画ができてほしいと昔から言い続けており、今回も熱く彼女と二人の斥候の話で盛り上がってくれました。
信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。(ヘブル11:31)
同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。(ヤコブ2:25)
ラハブの話は2章に綿密に記され、そこからは彼女の素晴らしい器量が読み取れます。正確な情報収集力、的確な判断力、迅速な行動力と力強い交渉力。いずれも第一線のリーダー顔負けの優れた器です。二人のスパイは、超重要任務を任された一流の軍人だったはずです。その彼らに「あなた方のために命をかける」と言わせるほどの才腕は、現代であればまさしく大成功した女性起業家に違いありません。
しばしば私たちは「娼婦ラハブ」と、どこか彼女を憐れむような蔑むようなイメージを抱くことがあります。確かに彼女は娼婦でした。しかし問題は彼女ではないのです。これほどの才を持ちながらも、家族の生活を守るために身を売らなければならなかったカナンの地にこそ、問題があったのです。神なき地で、歪みに歪んだ当時の社会事情。それをイエス様がプラスに転じて用いられた!そのことがイエス様の系図の「ラハブ」の一語から感動をもたらしてくれます。更に更に、えんぢぇる師は今後のラハブ主役映画の構想をとくとくと繰り広げてくれました。
ラハブもヨシュアも御声を忠実に受け取り、困難な状況にあったにも関わらず実行しました。神様に語られたことを実現する事実として受けとめて、具体的な行動によって自分のものとしたのです。これがヘブライ人への手紙11:1でも語られている、ヘブル的な「信仰」という意味です。神様の御言葉は実現したと信じ、自らの行動をそこに従って具体化していくこと。「信仰」というと時に形のない曖昧なイメージで捉えられることがあり、間違いとは言えませんが、真の意味では体現が伴うことなのです。信じているけど行動は別、ではありません。聖書の世界はいつでも、信じるか信じないか。従うか従わないか、祝福か呪いか、光か闇か、生か死か、の選びにかかっているのです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
最後に聖絶について確認しておきましょう。信仰によって城壁が崩れた後「ことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」皆殺しが神様の御心なの?愛である神様のなさることなの?と、しばしば理解に苦しむ箇所です。世のメディアでは、イスラム原理主義のジハード(聖戦)などと同意に扱い、宗教の独自性として同一視して、混乱させています。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という律法の黄金律と、「滅ぼし尽くせ」はなぜ一緒に存在するのか、という問いに私はどう答えることができるでしょう。非常に深い内容なので、今回はその際に考慮すべき点のみ、教えていただきました。(私たちはそれぞれここから考えて答えを出していきましょう。)
最初に、「聖絶」で使われている言葉は、ヘブル語で「ハーラム」と言い、「分ける」という意味です。何から分けるかといえば、神様の価値観と異質なものから聖別するのです。例えば、あのユダヤ人の信仰の父、アブラハムがいただいた祝福の基となる約束には一つだけ条件がありました。「あなたの国を出て、わたしが示す地に行きなさい。」です。神様が条件を付けたその理由は、「ハーラム」故です。彼を偶像礼拝が蔓延る環境から守るためでした。人間の弱さをご存知の神様は、悪環境から離れることを求められたのです。
また聖絶については、聖書の一部、申命記とヨシュア記だけを持ちだすのはまちがっていることに気付かなければなりません。聖書を読めば、
ノアの時代に洪水によって人類を滅ぼされた、
ソドムとゴモラの町を火と硫黄によって滅ぼされた、
エリコの町をユダヤの民によって滅ぼされた、
そして来る終末にはこの世の地上悪をキリストの天の軍勢によって滅ぼされる(将来形)、
これらはすべて同じことなのです。エリコの人々が滅ぼされたことが受け入れられないとしたら、終末にイエス様が地上悪を滅ぼされることも理解できないと言っているのも同じです。
クリスチャンとは、聖霊の内在があり、十字架の救いと復活、そして裁きと再臨を信じている人のことです。終末の裁きを信じられないのであれば、その人はまだクリスチャンではないのです。だから、クリスチャンはエリコのメッセージを真摯に受け止めなければなりません。エリコは過去のことではなく、これからすぐにでも起こることなのです。私の親しい友、愛する家族も同じことになるという神様のメッセージなのですから。「信仰」をもって対応しなければなりません。
そして最後のポイント。神様は裁きの前に必ず機会を与えてくださいます。決して突然のことではないのです。神様が人類に語られた最初の言葉は、「あなたはどこにいるのか?」です。罪を犯したアダムに、また弟を殺してしまったカインに、そして私たちにも語られています。全能の神様が御存知ないはずはありません。これは悔い改めの機会をくださっているのです。しかし、人はごまかしてその機会を逸してしまうのです。
天国から閉め出される人は誰もいません。「天国の門は狭い」と勘違いしている人がいますが、狭くて入れないのではなく、いろいろあるので見出すのが難しい、というのが正しい意味です。人は生きている間に「選び」を与えられます。神様は自分と関係ないことを選ぶのであれば、死後その希望通りになるだけです。神様との関係が途絶えている場所、地獄へは選んだ人が行くのです。神様は決して入国拒否をされません。
人は誰であろうが、どんな罪を犯そうが、イエス様の十字架によって免れることができるようになりました。最低最悪の聖絶が十字架です。私(あなた)が聖絶される代わりに、イエス様が代わってくださったのです。それを選ばないのであれば、自ら聖絶されて滅ぶ選択をしていることになるのです。そしてヨシュアもモーセも最後に万感の思いを込めて伝えました。「あなた方は神を選べ。」「みんな好きにしなさい、私は主に仕える。」と。これは人間が主に仕えることができないことの預言です。その通り、「アーメン、主に仕えます」と宣言した民は、この後反逆の歴史を延々と34巻繰り返してしまいます。10日余で約束の地に入れるはずが、40年間を彷徨った荒野の生活のように。
カナンの地はクリスチャンにとって天国の雛形です。同時に救われた後のこの世に置ける祝福されたクリスチャン生活の雛形でもあります。その地は与えられる神様との約束が最初にありました。祝福の所有権は恵みによって与えられるのですが、地上での生活の祝福は、個人の信仰的選択が問われます。所有している祝福の使用権は、日々の戦いによって得続ける必要があるということです。誰でも仕えたいものに仕えることができます。その選択が、いつでもイエス様に従って行くことであるよう、祈り続けましょう。
この後、反逆の歴史の始まりです。そして士師記へ。。。期待も続きます (Report by Mu)
学びの場にて(少し暗くてスミマセン..)
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ヨシュア記は、ヨシュアが指導者となってヨルダン川を渡り、エリコ攻略や先住民と戦いを経て、カナンの地に入り、12部族に相続地分配を完了して、彼が死ぬまでの約30年間の出来事が語られています。かつてモーセに率いられてエジプトを脱した第一世代は全て死に絶えました。その後、ヨシュアと次世代の民が約束の地をどうやって自分たちのものにしていったのか、が記されています。旧約では、しばしばその時の長さ故、「第一世代は全員死んだのね」「それで、次は?」と他人事のように安易に読み飛ばしがちですが、いつも聖書は「私」に語られている御言葉であることを忘れてはなりません。このヨシュア記で、イエス様が今の私たちに伝えたいメッセージは何なのか?いつでもこの思いを抱いて、御言葉を聞き入ります。
まず、なぜ約束の地に入るリーダーがモーセではなく、ヨシュアだったのでしょうか?モーセは聖書では「こんな謙遜な人はいない」と言わしめ、ユダヤ人には民族を代表する第一人者と考えられている人です。しかし、そのモーセは約束の地に入ることはできませんでした。その直接的な理由は「メリバの岩事件」。モーセは岩に命じる代わりに、岩を杖で2回叩いてしまいました。岩とは「救いの岩」の象徴であり、イエス・キリストの雛形です。つまり、モーセは神の無償の愛を表すことに失敗してしまったのです。
しかし、より深い意味があります。それこそが、モーセが約束の地に入れなかった真の理由です。聖書ではモーセは「律法の代表者」とされています。つまり、律法によっては救いは完成できないことが、この時点ではっきりと告げられているのです。律法=モーセからヨシュア=イエス様に、神の救いは引き継がれました。ヨシュアは、民を約束の地へ導いたイエス様の原型です。
内容的には大きく3つに分けられます。
1-12章: ヨルダン川わたって土地を占領する
13-21章: その土地を12部族に分け与える
22-27章: 約束の地に置ける生活
次に、ヨシュアの人となりを考えてみましょう。モーセと比べて、ヨシュアは専ら若いイメージを持たれますが、実はモーセと同じく80歳代のおじいちゃんです。彼が召命を受けたのもモーセの召命と同じ頃、80歳くらいでした。モーセは王宮生活から羊飼いに落とされ、40年間かけてコツコツと自我を削られ、神様に用いられるようになりましたが、ヨシュアはずっとモーセの下にいて、実地現場でリーダー資質を学びました。一番近くでモーセに従い、40年間見続け、リーダーであったモーセが約束の地に入れない理由も十分にわかっていたのです。ヨシュアは、自分が置かれた立場と自分の持ち場に忠実な人でした。だからこそ、モーセの後継役を任されたのです。
ヨシュアのリーダー性が最も顕著な部分があります。5章、彼が諸刃の剣を持つ天使に出会うシーン。そこでヨシュアは一切質問をすることなく、すぐ素直にひれ伏して履物をぬいで従います。履物を脱ぐということは全面降参の意味です。かつてモーセも同じことを神様から言われました。持っている拙い道具を捨て去り、裸足になって戦うことを止め、忠実に従うこと。これが彼の優れたリーダーとしての資質です。わかっていても言うは易く行うは難しで、なかなかできることではありません。(牧師然り…)
またヨシュアの信仰で着目すべき二点があります。まず最初はヨルダン川。ヨルダン川を渡ることは、神様の約束の地に入る第一関門です。イエス様も洗礼を受けた川だから、とサラサラ流れる小川を想像するのは大きな間違い。この時のこの場所のヨルダン川は、水が溢れるように流れ、渡れるとは思えないような大河でした。モーセもまた、かつて大水を前に奇跡を体験しましたが、モーセの場合は海に手を差し出すと水がさっと分かれ、乾いた地を渡ることができたのです。しかし、ヨシュアの場合はそれとは異なっていました。ヨシュアは、轟々と流れる川に一歩を踏み出すと水が分かれたのです。
この差をきちんとわかっておかなければなりません。これは、救われる時と救われた後の話だからです。救われるのは何の努力も功績も必要ありません。民が偉かったわけでなく、民が祈ることもなく、モーセは海を渡ることができました。これが神様の恵みです。しかしヨシュアの場合は違いました。
聖書は過去の話ではありません。今、私がヨルダン川の前で「渡れ」と言われたらどうするのか?、を考えなければなりません。悲しい哉、多くの普通の教会は、川岸で『リバイバル祈祷会』を始めるでしょう。それでは決して渡れません。何年経っても川岸に居続けるだけです。何の保証もありませんが、ヨシュアは一歩を踏み出して、だからこそ渡ることができたのです。これが信仰の法則です。人は確証を求め、計画を立て、備えを待って進もうとします。しかし、神様の計画はそうではありません。神様の意図を聞き、神様の計画を進んで行くこと。それがヨシュアの信仰から学ぶ第一点です。
第二点はエリコ占領です。有名なエリコの戦いですが、この戦い方は非常に奇妙なものです。毎日町の周りを一周するだけを繰り返し、七日目に七人の祭司が七周して七つの角笛を吹いた時、城壁が崩れました。「おぉ!神の奇跡!」と今でこそメッセージされますが、私がそれを命じられた兵士だったら?と考えてください。聖書は過去の物語譚ではないのです。回っている間に攻撃されるかもしれない、七週回ってどうなるのかわからない、城壁が崩れるなんて考えもできない。そんな状況下であっても、ヨシュアは実行しました。兵士にその理解不能な状態で命じ、為し遂げさせたのです。この二点が、ヨシュアがリーダーでなければならなかった理由です。彼は徹底的に従順だったのです。
さて、もう一人、知っておくと楽しい重要人物がいます。新約聖書にも3回登場する特筆すべき人物、それはラハブ。ある意味ヨシュアよりも語られる彼女は、イエス様の系図に記されている五人の女性の一人です。映像作家でもあるえんぢぇる師は、いつか彼女を主役とした映画ができてほしいと昔から言い続けており、今回も熱く彼女と二人の斥候の話で盛り上がってくれました。
信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。(ヘブル11:31)
同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。(ヤコブ2:25)
ラハブの話は2章に綿密に記され、そこからは彼女の素晴らしい器量が読み取れます。正確な情報収集力、的確な判断力、迅速な行動力と力強い交渉力。いずれも第一線のリーダー顔負けの優れた器です。二人のスパイは、超重要任務を任された一流の軍人だったはずです。その彼らに「あなた方のために命をかける」と言わせるほどの才腕は、現代であればまさしく大成功した女性起業家に違いありません。
しばしば私たちは「娼婦ラハブ」と、どこか彼女を憐れむような蔑むようなイメージを抱くことがあります。確かに彼女は娼婦でした。しかし問題は彼女ではないのです。これほどの才を持ちながらも、家族の生活を守るために身を売らなければならなかったカナンの地にこそ、問題があったのです。神なき地で、歪みに歪んだ当時の社会事情。それをイエス様がプラスに転じて用いられた!そのことがイエス様の系図の「ラハブ」の一語から感動をもたらしてくれます。更に更に、えんぢぇる師は今後のラハブ主役映画の構想をとくとくと繰り広げてくれました。
ラハブもヨシュアも御声を忠実に受け取り、困難な状況にあったにも関わらず実行しました。神様に語られたことを実現する事実として受けとめて、具体的な行動によって自分のものとしたのです。これがヘブライ人への手紙11:1でも語られている、ヘブル的な「信仰」という意味です。神様の御言葉は実現したと信じ、自らの行動をそこに従って具体化していくこと。「信仰」というと時に形のない曖昧なイメージで捉えられることがあり、間違いとは言えませんが、真の意味では体現が伴うことなのです。信じているけど行動は別、ではありません。聖書の世界はいつでも、信じるか信じないか。従うか従わないか、祝福か呪いか、光か闇か、生か死か、の選びにかかっているのです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
最後に聖絶について確認しておきましょう。信仰によって城壁が崩れた後「ことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」皆殺しが神様の御心なの?愛である神様のなさることなの?と、しばしば理解に苦しむ箇所です。世のメディアでは、イスラム原理主義のジハード(聖戦)などと同意に扱い、宗教の独自性として同一視して、混乱させています。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という律法の黄金律と、「滅ぼし尽くせ」はなぜ一緒に存在するのか、という問いに私はどう答えることができるでしょう。非常に深い内容なので、今回はその際に考慮すべき点のみ、教えていただきました。(私たちはそれぞれここから考えて答えを出していきましょう。)
最初に、「聖絶」で使われている言葉は、ヘブル語で「ハーラム」と言い、「分ける」という意味です。何から分けるかといえば、神様の価値観と異質なものから聖別するのです。例えば、あのユダヤ人の信仰の父、アブラハムがいただいた祝福の基となる約束には一つだけ条件がありました。「あなたの国を出て、わたしが示す地に行きなさい。」です。神様が条件を付けたその理由は、「ハーラム」故です。彼を偶像礼拝が蔓延る環境から守るためでした。人間の弱さをご存知の神様は、悪環境から離れることを求められたのです。
また聖絶については、聖書の一部、申命記とヨシュア記だけを持ちだすのはまちがっていることに気付かなければなりません。聖書を読めば、
ノアの時代に洪水によって人類を滅ぼされた、
ソドムとゴモラの町を火と硫黄によって滅ぼされた、
エリコの町をユダヤの民によって滅ぼされた、
そして来る終末にはこの世の地上悪をキリストの天の軍勢によって滅ぼされる(将来形)、
これらはすべて同じことなのです。エリコの人々が滅ぼされたことが受け入れられないとしたら、終末にイエス様が地上悪を滅ぼされることも理解できないと言っているのも同じです。
クリスチャンとは、聖霊の内在があり、十字架の救いと復活、そして裁きと再臨を信じている人のことです。終末の裁きを信じられないのであれば、その人はまだクリスチャンではないのです。だから、クリスチャンはエリコのメッセージを真摯に受け止めなければなりません。エリコは過去のことではなく、これからすぐにでも起こることなのです。私の親しい友、愛する家族も同じことになるという神様のメッセージなのですから。「信仰」をもって対応しなければなりません。
そして最後のポイント。神様は裁きの前に必ず機会を与えてくださいます。決して突然のことではないのです。神様が人類に語られた最初の言葉は、「あなたはどこにいるのか?」です。罪を犯したアダムに、また弟を殺してしまったカインに、そして私たちにも語られています。全能の神様が御存知ないはずはありません。これは悔い改めの機会をくださっているのです。しかし、人はごまかしてその機会を逸してしまうのです。
天国から閉め出される人は誰もいません。「天国の門は狭い」と勘違いしている人がいますが、狭くて入れないのではなく、いろいろあるので見出すのが難しい、というのが正しい意味です。人は生きている間に「選び」を与えられます。神様は自分と関係ないことを選ぶのであれば、死後その希望通りになるだけです。神様との関係が途絶えている場所、地獄へは選んだ人が行くのです。神様は決して入国拒否をされません。
人は誰であろうが、どんな罪を犯そうが、イエス様の十字架によって免れることができるようになりました。最低最悪の聖絶が十字架です。私(あなた)が聖絶される代わりに、イエス様が代わってくださったのです。それを選ばないのであれば、自ら聖絶されて滅ぶ選択をしていることになるのです。そしてヨシュアもモーセも最後に万感の思いを込めて伝えました。「あなた方は神を選べ。」「みんな好きにしなさい、私は主に仕える。」と。これは人間が主に仕えることができないことの預言です。その通り、「アーメン、主に仕えます」と宣言した民は、この後反逆の歴史を延々と34巻繰り返してしまいます。10日余で約束の地に入れるはずが、40年間を彷徨った荒野の生活のように。
カナンの地はクリスチャンにとって天国の雛形です。同時に救われた後のこの世に置ける祝福されたクリスチャン生活の雛形でもあります。その地は与えられる神様との約束が最初にありました。祝福の所有権は恵みによって与えられるのですが、地上での生活の祝福は、個人の信仰的選択が問われます。所有している祝福の使用権は、日々の戦いによって得続ける必要があるということです。誰でも仕えたいものに仕えることができます。その選択が、いつでもイエス様に従って行くことであるよう、祈り続けましょう。
この後、反逆の歴史の始まりです。そして士師記へ。。。期待も続きます (Report by Mu)
学びの場にて(少し暗くてスミマセン..)
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